第10話 ホット・レッド・ベット・イット②

 地下に潜ってしばらく時間が経ち、到はようやくホワイト・ヘリアンタスの体から離れても大丈夫な程度には体調が安定を取り戻しつつあった。ただ、幻肢痛だけは未だ健在で、あたかもそこに左腕と両足があるかのように錯覚させる。時間を選ばず突然に襲い掛かるねじ切るような痛み。イヴを訪れてからは不思議と忘れていた感覚だった。『死の教示者』アジトの空き部屋に用意された簡素なベッドに横たわり、到は空虚になった体の左側にありもしない実体を求めて右手を伸ばす。痛みを和らげる術を探すかのように……失った事実を拒むように。


 空回りを続ける彼の手を握ったのは、色素の薄い小さな二つの手だった。到は仰向けになり、顔だけをその手の主に向けた。アマビエが丁度到の頭の横に腰かけ、悲し気な目でその手をじっと見つめていた。


「……エビちゃん?」


「こんなことになって、本当にごめんなさい」


「……うん」


 “キミのせいじゃない”と頭で思い浮かべながら到は口にすることができなかった。余計なことを口走れば、運命が自分に押し付けた理不尽に対する怒りを彼女に向けてしまいそうだったからだ。それ以上にアマビエの愛の告白がこの少年にはあまりにも重たかった。彼の短い人生の中で、異性を意識した経験は極端に少なかった。欲は当然あったが、恋人が欲しいなどと思ったことはほとんどないし、読書や映画が好きとは言っても、ラブストーリーだけは守備範囲外。アマビエの恋心のバックグラウンドを聞かされても、嬉しい気持ちより困惑ばかりが押し寄せる始末だ。


「たるたる……その……あたしってば……突然あんなこと言っちゃったけど……全く、時と場合を考えろよって感じだよね! あはは」


 自虐的に、それも無理やりだとすぐにわかる笑い方をしてアマビエが言った。到はぎこちない愛想笑いさえ返すことができなかった。静かすぎる時間に耐えきれず、アマビエはなんとしてでも話を続けようとする。


「いやーあたしってば三百年生きてる妖怪のくせにせっかちな性格だからさぁ。すーぐ先走ってものを言っちゃうのよね~。それで何回損したんだよってねぇ。ってどうでもいいか!」


「でも……エビちゃんがぼくのことを嫌いじゃなくてよかった」


「ならないよッ!!」


 当たり障りのないようフォローしようとしたその時、突発的にアマビエが声を荒げた。体が跳ねるほど到は驚き、それ以上何も言えなくなった。


「ずっとずっと……あたしは……キミが好きだよ」


 顔を到の胸に伏せ、震える声で愛を訴える。到は単に照れているわけではなく、しかし彼女の体温が伝わった以外の要因で、胸の辺りが熱くなるのを感じた。


「……エビちゃん」


「おい、二人とも」


 その声はドアを開けると同時に飛び出したものだった。ホワイト・ヘリアンタスだ。結社の元女エージェントは目の当たりにした光景に一瞬だけ申し訳なさそうな顔をしたように見えたが、結局は冷徹に振舞った。


「ああ、邪魔したな。だが、今しなきゃいけない大事な話がある。ここでそのまましよう」


「……空気読めないひと」


 むすっとした顔つきであまびえが言った。


「職業柄ぶち壊すことばかりしてたからな。モノも空気も。で、だ。あとちょっとしたら私たちはアイアンズグラウンドに向かうことになるが、さしあたって私たち三人で考えておかなければならないことがある」


「それってつまり、ヘリ子ちゃんはひじりんを信じ切ってないってことでしょ」


「もとより利用し合う関係だってことは、あちらも重々承知しているだろう。奴は当面私たちを闘わせて、カインと直接やり合うときの切り札を温存するつもりなのさ。だが、状況がひたすら悪い方向へと転がり込んで、聖が私たちを切り捨てる選択をしたとき、或いは私たちが聖を切り捨てる選択をしたとき、その後どうするのかは考えておくべきだ」


 到はヘリアンタスの言葉の裏が読めた気がした。聖を切り捨てる選択肢のほかには、到を切り捨てる選択、アマビエを切り捨てる選択もまた存在するに違いないと、ほぼ確信していた。この女は諜報のプロであり、死線を潜るための訓練を積んだプロだ。愚かしくもレッド・クローバーを信じようとして自分から罠にかかった直後とあっては、迂闊にヘリアンタスに言われるがままにするのはマズいと思えたのだ。だから到は、この時は意識して積極的に発言した。


「簡単な話です。ぼくらはアイアンズグラウンドで飛行機を見つけて、ゴールドランドへ行く。がぼくたちを見捨てたって関係ない。どうせできることは少ないんですから。ヘリ子さんがぼくらを捨てたって同じことです」


 吐き捨てるように胸の内の覚悟――――もとい、僻みを口にすると、ヘリアンタスは到の予想と違って、実に悲し気な顔をした。


「心外だなぁ……私はいたるとちっこいのを見捨てたりしないぞ」


 どうだかと、内心では言ってやりたかったが、到はなんだか申し訳なくて声に出せなかった。


「どうしてそんなにあたしたちに構ってくれるの?」


「どうしてもこうしても……っていうかさっき話したろう? 興味があるんだ。ダムネーション・イヴでお前たちとやり合ったとき、私は到から“何か”を感じた。具体的に何なのか分からないが、この気持ちの正体を私は知りたい。だから私は到を捨てない。あと私はバイなんだ。ちっこいのに惚れた」


「いまひとつ合点がいかないけれど、たるたるの言う通り他にどうすることもできないしね。ここはヘリ子ちゃんの助けを……ん? なんて?」


「だから私はバイだ。両性愛者でロリコンでショタコンだ」


「待て待て待て待てぃ盛るな盛るな盛るな!! 何しれっと性癖暴露しとるか!!」


 アマビエが激しくツッコむも、ヘリアンタスは悪気もなさそうに無邪気な困惑顔を見せつける。そうしたいのが到とアマビエの方だとも思ってすらいない様子だ。


「つまりその……ヘリ子ちゃんってたるたるとあたしを性的な目で……」


「そうだな。いたるみたいな生意気なガキを手籠めにしたいし、ちっこいののおっぱいスゴイ揉みたい」


「コイツやばい!! 逃げようたるたる!!」


 本気で狼狽するアマビエを他所に、到はあくまで毅然とした態度で


「冗談は終わりにしましょう……一人にしてくれませんか? 疲れました」


「そうか。ちっこいの、ちょっと私に付き合え」


 ヘリアンタスもまた態度を変えるようなことはせず、アマビエの手を引いてそそくさと部屋をあとにするのだった。アマビエだけが名残惜しそうに横になった到の背中を見つめていたが、“毅然”というよりは“素っ気ない”態度でものを言われたと思えてしまい「それじゃあね」と声をかけることさえできずにいた。





「実際のところ、どうなのよ」


 到の部屋を出て女二人に用意された部屋に戻った途端、アマビエはヘリアンタスに鋭い視線を向けて言った。何に対する質問なのか、聞かれた側はなんとなくアタリをつけ、間を置かずに答えた。


「好きだぞ、エビフライ」


「張り倒すわよ」


 ヘリアンタスは小さく笑ったが、冗談なのか本気なのかアマビエには全く判別できなかった。


「違ったか。建前上、私の目的はカインの命令に従い、リコリスを殺すことだ。レースの時は深く考えもせず……いや、になって闘った。だがどういうわけか、私は今間違いなく自分の意志で行動し、自分の意志でお前たちと共に行こうとしている。この間までの私が嘘だったみたいだ」


 そう言ってヘリアンタスはアマビエの前に跪き、目線を合わせた。さすがに狼狽して小柄な自称人魚は仰け反るが、女エージェントの切れ長の目と見つめ合ったその瞬間から、彼女は倒れ込むことができない程度に強い奇妙な引力によって姿勢を保っていた。


「誓おう。ちっこいの、決して見捨てたりしない」


 口先だけならなんとでも――――と、アマビエは思ったが、どうしてもヘリアンタスが嘘をついているようには見えなかった。きっと到は信じないだろうとも確信していたが、彼を救った恩人に自らの命も預けては良いのではないだろうか? 恐る恐る伸ばした手でヘリアンタスの頬に触れ、アマビエは臆することなく言った。


「信じるわ。少なくともあたしは……」





 レッド・クローバーは焦燥感のあまり全身に虫が這うような錯覚を覚え、血まみれになる程に肌を何度も掻きむしっていた。私室の窓から空っぽのレース会場を眺める度、あの少年の顔を思い出す。すると幻影の虫たちが一斉に動きはじめ、肌を刺して回るのだ。発作を起こしたようにのた打ち回り、守衛たちが落ち着かせようと近寄ると、ダーツを投げ飛ばしてその脳天を貫く。ここまでやってようやく彼女は落ち着きを取り戻す。これを何度か繰り返した結果、部屋の隅は死体が山積みになっていた。


 敗北というレースの結果だけでも十二分に彼女の神経をすり減らしたが、それ以上に何の能力も持たない子供を仕留めそこなったことが彼女をここまで追い詰めた。


「奴は……なんだ?」


 彼女は自分で自分を『頭が良いタイプ』だと思っている。実際極端に馬鹿ではないし、緻密に計略を張り巡らすタイプだ。だからこそレースという自分の土俵にリコリスを呼び込み、ホワイト・ヘリアンタスという駒を用意し、リコリスか結社かどちら側にでもつけるようにギリギリまで選択の余地が発生するようにした。しかも、必中必殺の能力『クローバー・フィールド』を発現させたのだ。結社側につく選択をとった状況ではこれ以上にない有利な状況を作り上げてなお、誰一人仕留められなかった。当然結社は彼女を叱責した。それも最強のエージェントであるカラーレス・チカが直々に“告知”に現れたのだ。


 彼女は終始無言だった。カラーレスが姿を現すということは、カインによる命令があったということ。裏切り者の始末か、余程重要な抹殺対象がいるという時しかあり得ない。故に、クローバーは自分が消されるか、今後消される可能性が高いと、言葉を用いず本能的に理解できてしまった。


「次は無い……」


 ここに来て彼女は迷いが生じていた。今からリコリスの側につくべきか、それともこのまま結社のエージェントとして闘うべきか。どちらにしても彼女は不利な状況だとしか考えられなかった。単純な戦闘技術でリコリスに敵わないからこそのギャンブルだったのに、かつてリコリスの部下だったホワイト・ヘリアンタスに加えて結城到というイレギュラーまで発生している。正体の掴めない相手と闘うなど、クローバーにとってはあり得ない選択だった。かといってリコリスが今から彼女を受け入れるとは考えづらい。


立ち上がったクローバーは床に散らばったダーツを丁寧に拾い上げ、決意も固まらぬ内からリコリスたちを追う準備を始めた。どこかたどたどしい足取りで部屋をあとにし、ラピードマシンのあるガレージへと向かう。ほんの二~三分で正解を見つけ出せるハズがなかったが、それでも“賭ける”という行為である以上、彼女の本分であるのが唯一の救いであり、それだけで彼女は躊躇わずアクセルを踏めた。スティールタウンまでは大した距離ではない――――。

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異世界転生、失敗しました。 ピンクは狂乱 @room3985

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