恋人 天木青嵐

 身体にへばりついた初夏の香りを洗い流す時、稲はいつも後悔する。

 できることなら、ずっとこの香りを纏っていたい。だけどシャワーを浴びずに外に出ることはどうしても難しい。

 青嵐なら、平気な顔をしてそのまま外に飛び出してもおかしくはないが――彼女は別に、稲の残り香を纏いたいなどとは思わないだろう。それ以上に、稲がそれを許しはしない。青嵐の生来の初夏の香りを、一番求めているのは稲なのだから。

 シャワーを終えて髪を拭きながらベッドへと向かう。激しく脱ぎ散らかした昨日稲が着ていたスーツ。それを丁寧に畳み、ベッドの隅に置いておく。

「先輩、それを返してください」

 ツインのベッドの片端に腰かけ、稲の携帯していた拳銃を素早く分解と組み立てを繰り返してもてあそぶ――天木青嵐。

「ほい」

 掌の上でぐりんと回転させ、グリップを稲のほうへと向ける。

「私の飛ばされた異世界、どうもこの日本と地続き――っちゅうか未来の可能性の一つ、みたいなとこやったんな。やから銃器の構造も基本的にはこっちと同じ。特テおったころに一通りは扱い教えてもらったけど、ここまでは教えてくれやんかったやろ? やからこういう使えそうなんは気合い入れて覚えてきたんやに。本人の知識として蓄積されたもんなら、毒者がおらんくっても関係ないはずやから」

 拳銃を受け取るのと同時に、稲は青嵐の唇を奪う。

 饒舌だったはずの青嵐も、稲に応えて無言で唇を貪る。

「なにぃ、だいぶ貴重な情報のはずやけど、もう聞かんでええん?」

 鼻同士がぶつかる距離で目を合わせ、青嵐は試すような笑顔を浮かべる。

「聞きたくありません。先輩の口から」

 目を瞑り、青嵐の口を塞ぐ。

 荒くなっていく稲の呼気をなだめるように、青嵐はするりと立ち上がると稲の額に口づけをした。

「もう出やなあかんやろ? キミもいつまでも休暇取れるわけちゃうんやし、あんま私とばっかおったらいらん不信買うに」

「先輩、私は――」

「やから」

 青嵐は昨夜から何度も繰り返している言葉を放つ。

「それはできやん」

 どうして――稲は喉元まで出かかった言葉を呑み込む。これで何度目だ。

 稲はすぐにでも、青嵐と行動を共にしてもいいと言っているのに。青嵐はそれは駄目だと言う。

 なにも青嵐に特テに戻ってきてほしいと言っているわけではない。稲は青嵐のためならば、即座に特テから離れてしまえると言っているのだ。

 絶対に許されない背信。だが青嵐の隣にいることができるのなら、稲は簡単にそれを行えてしまう。

 青嵐が稲の覚悟を見抜けないはずがない。稲を自らの思想に染め上げた張本人の青嵐が。

 その上で、青嵐は本心を明かさないでいる。加えて自身の身辺情報もまるで開示しない。稲ごときが青嵐と腹の探り合いをするだけ無駄だということは理解しているし、稲にはそんなことよりももっと話したいことが山のようにあったから、探りを入れる暇など一瞬たりともなかったが。

 Tシャツにスキニーデニムという簡素な出で立ち。スーツの時とは違って髪は纏めず、流れるままに任せている。昨日喫茶店にいた時と同じ恰好に戻ると、着替えに手間取っている稲を見ながらトートバッグの中に手を突っ込んでなにかを取り出す。

「んじゃあ私もう行くわ。これ、置いてくから。心配しやんくっても、ただのテキストファイルしか入っとらんに」

「待っ――」

 スーツのパンツに片足を突っ込んだ状態でそう呼ぶが、顔を上げた時にはもう青嵐の姿は部屋の中になかった。

 ナイトテーブルの上には、黒いUSBメモリが置かれていた。

 東京に向かう新幹線の車内で、稲はじっと手の中のUSBメモリを睨み続けていた。

 昨日からのことは、特テに報告すべきだろうか。

 報告する義務があることはわかっている。稲は毒者でありながら独断でナローシュと接触した。厳罰が科せられて当然の行動であり、場合によっては稲は特務捜査官の任を解かれてしかるべきだろう。

 だが――相手はあの天木青嵐である。青嵐の性質は特テの誰もが理解している。彼女が決して無差別な殺戮を行わないと全員信じ切っているはずだ。

 だけど、稲だけは知っている。青嵐はそんな生温い相手ではない。彼女が目指すのは、大量殺戮などよりももっとおぞましい世界の現出なのだと。

 東京駅に着き皇居の方角にしばらく歩くと、待ち構えていたように黒いセダンが道路に停車する。後部座席のドアが開いて、五代衛が顔を覗かせた。

 特テの施設は都内とはいえ交通の便の悪い山の中である。そのためこの場所で特テの手配した車で輸送してもらう手筈となっていた。出迎えが五代なのは意外だったが、稲は無言で車内に乗り込む。

 急発進した車内の面子を見て、稲は眉を顰めた。知った顔が五代しかいない。車内の男たちはみな、特有の匂いを放っていた。海山や安村も纏う、警察官の匂い。

 内閣情報調査室――五代のもともとの立場を忘れたことはない。彼が特テに完全に信を置いていないことも。ではやはりこの男たちは――身の危険はないだろうが、剣呑であることに変わりはない。

「五代さん。なんのつもりですか」

 稲は動揺を気取られないように隣に無表情で座る五代を横目で見る。

「お隣の県の方言は、多少は知っているほうでして。三重県では三日後を『ささって』――四日後を『しあさって』と言うそうですね。天木青嵐はあなたに『しあさって』にまた現れると言った。その後の厳戒態勢は大変でしたね。そしてあなたが休暇を取った日は、あなたが天木青嵐と接触した四日後でした」

「そうですね」

「あなたは天木さんと再び接触した。違いますか」

「それで――」

 稲は車内の男たちに視線を投げる。無関心を装いながら圧迫感を与える殺気のようなものを放ち続けているが、今の稲が怯むような手合いではない。

「特テに報告せず内調が出張ってきているのは、どういうことでしょうか」

 五代が寸時周章する。極限の緊張状態にまで追い込まれた稲だからこそ気付けたほんのわずかな反応だった。おそらく五代は内心の動揺を一切察知されていないと自負している。

「質問をしているのはこちらですよ」

「妙ですね。私はこの車で特テ本部に送り届けていただくだけだと思っていたのですが。質問をするのなら、正式な手順を踏んでいただかないと問題になります」

 この車が特テのものではなく内調のものだと自分で指摘しておきながら、あくまで自分は特定大規模テロ等特別対策室の特務捜査官であると主張する。青嵐の傲岸さが伝染したかと稲は自分でも驚いていたが、この土壇場では大いに助かる。

「――氷川さん。あまり口にしたくはないのですが、私はあなたと天木さんの極めてプライベートな関係を知っています」

「隠していたものではありません」

「それゆえ、あなたに天木さんが接触することの危険性は理解できています」

 稲は鉄面皮を全く崩さない。まるで観覧車から地上の豆粒ほどの大きさになった人影を見下ろしているかのように落ち着いていた。好きなだけ語るがいい。どれだけ言葉を尽くそうと、私と先輩のことなど、誰にも理解できはしないのだから――。

「あなたに天木さんが接触した仔細を今ここで語っていただけるのなら、私はこのことを特テに一切口外しません」

「残念です。五代さん」

 稲が突いたのは、五代の特テへの背信。自分はまだ特テ側の人間だと相手に知らしめ、立場を瞬時に逆転させる一手。

 だが当然、稲に迫られるのは、特定大規模テロ等特別対策室の人間としての行動。

 互いに無言のまま、車は山中にある施設へと吸い込まれていく。

「今の話は聞かなかったことにしておきます。少なくとも、特テの中では」

 車を降りる前、稲は五代にそう告げた。五代もとっくに稲がこれから特テでなにを報告するのかくらいはわかっている。

「なぜです」

 稲に続いて車を降りた五代は、短く呟く。

「最初から、質問の意味がわかりかねただけです」

 これから稲は大きな背信を行う。

 ただ一人、全てを捧げてもいいと思えたひとに対して。

 だけどきっと、彼女の掌の上なのだろうな、ということだけは信じられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ナローシュ・アンサモン 久佐馬野景 @nokagekusaba

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ