後編

 確か。いや、『確か』なんてまるで忘れかけているような表現ではない。鮮明に動画のように覚えている。二年前、『世界の終わり』の今日と同じ季節、夏休みを直前に控えたあの日。


 その日は偶然職員会議か何かでどの部活も活動が無く、一斉下校という形をとっていた。漏れなく俺も例外ではなく、部活が潰れたと喜んで帰宅した。しかしすぐに気づいた。かばんの中に入れたはずの課題ノートが入っていないことに。


 不思議に思ったが、生憎あいにく心当たりはあった。


 実際はかばんにノートを入れる直前、机の上に置いたままだったのだ。今日は雨が降るから傘を持って行こうと玄関に置いてそのまま持たずに家を出てしまう事と似ている。


 俺は何かと毒づきながらも、冷房の効いた部屋から出て学校へと向かった。


 炎天下と呼ぶにふさわしい気温と日差しが降り注ぎ、軽い目眩を覚えた。けれども気を張って進んだ。太陽から逃げるように校内に入ると、しん、と静まり返っていた。夜の校内と大差ないのではと思う程に。


 お化け屋敷か何かを探索するような怯えた足取りで、目的の教室へ続く廊下を歩いた。上履き特有のゴムが擦れる音と俺の呼吸音だけが廊下の壁に反射して反響した。その音に何となく怯えたのを覚えている。


 階段を登って三階へ。階段を登りきった時、初めて自分が出したもの以外の音が聞こえた。ほんの僅かな、本来なら耳を澄まさなければ聞き取れないような音。本来なら聞こえたとしてもどうでもいいと流す音。


 つまり......話し声だ。恐らく二人、男女のものと思われる声がした。


 誰かがまだ残っていたのか、と思った。けれど、ただそれだけ。それ以上何も思わなかったし、興味も持たなかった。本当ならそこで終わりなのだが......。


『俺のクラスから聞こえる......?』


 明らかに声の音源は俺の教室から聞こえていた。気まずい、率直にそう思った。教室に二人いるとすれば、机の上にあるであろうノートが取りづらくなる。しかし一刻も早く冷房の効いた部屋に戻りたい気持ちもある。


 しばしの葛藤の後、やはり帰宅したい思いが勝り、俺は慎重に、物音を立てないように教室の扉へと近づいていった。近づくにつれ、大きく鮮明になっていく声。自然に冴える聴覚に耳を澄ませる。


『......めてよっ。ちょっと』


 何かおかしい。その一瞬で感じ取った。他愛のない世間話をしているのかと思えば、声色が険しい。拒絶するような、そんな感情を含んでいた。


『やめてッ............いたッ......い』


『いいだろ? 抵抗すんなって、の』


 俺は確信を得た。明らかに穏やかではない口調での口論が耳に入った。人の事情に首を突っ込むのは褒められたことではないが、もしも喧嘩の類ならば、差し支えない程度に仲介しないとこちらも目覚めが悪い。


 教室の扉越し、俺はそっと中の様子を覗き込んだ。






「............は?」


 教室の中心。机や椅子が乱雑にどかされ意図的に作られたであろうスペースに、案の定予想通り二人の人影。一人はどこかのクラスの男子。学年屈指の女たらしで、良い噂をほとんど聞かない。彼は前かがみになり、いや、四つん這いの姿勢で『誰か』に覆いかぶさっていた。その目は酷く血走り、完全に人間のそれではなかった。


 そして、その視線の先......つまり、『覆いかぶさられている人物は、机に隠れて顔は隠れていたが、その下にある身体は俺の位置からでも視認出来た。制服を大きくはだけさせている。白いワイシャツは半脱ぎにされ、雪のように白い肌が露出していた。


 下半身のスカートは脱がされていないが、乱れて脚に貼り付き、腰まわりの輪郭を明確にしている。きめの細かい太ももは、教室の窓から射し込む光を吸い込み、てらてらとあでやかに光を帯びていた。目の前で行われている事がどういう行為で、どういった意味を持つのか、俺は十分に理解していた。


 俺は喉を鳴らし、完全に見入っていた。その胸に、腰に、脚に。自分の内側からとめどなく湧き出てくる黒い欲望を抑えつけるために必死になった。


 そうして俺が立ち尽くしている間にも、『彼女』の身体に触れようと男は手を伸ばしている。


 と、その時、迫る手から逃れようと『彼女』が大きく身体を仰け反らせた。男は突然の抵抗に一瞬ひるんだ仕草を見せた。その拍子に男の手が机にぶつかり、机の位置を大きくずらした。その机は、『彼女』の顔を隠していたものだった。



 

愛花まなか............ッ⁉︎」


 そこにいたのは幼馴染の愛花。勝気な性格で、俺どころか男子であろうと怖気付かずに食ってかかった愛花。それどころか弱気な姿すらまともに見せなかった愛花。そんな彼女が男に押し倒され、あられもない姿を晒していた。


 そのほんの一、二秒の間に、俺の心には明確な殺意が湧いた。ぐつぐつと煮え立つ鍋のように感情が沸き立ち、そして溢れた。その後の事はあまりよく覚えていない。ページの抜け落ちた本のように、その部分だけが思い出せなかった。


 意識が戻ってから聞かされた事。どうやら俺は愛花を押し倒した男に飛びかかり、殴り続けたという。結果、裁判の直前まで発展したが、男が愛花にした行為が皮肉にも功をなし、そこまでは至らなかった。


 ここで終わればある意味ではめでたしめでたし、なのだけど、案の定愛花とは疎遠になった。むしろ俺が彼女から離れた、という方が正確かもしれない。事実、愛花からメールや着信が何件かあったが俺はそれを全て見なかったことにした。あんな醜態を晒しておきながら、見せる顔がないと感じていたからだ。


 その後もいくつか愛花からコンタクトがあったが、次第に少なくなり、やがてはゼロになった。学校を卒業後、俺と愛花は別々の進路に進んだ。結果、そのまま二年間一切の関わりを持たなかった。それが俺のためであり、同時に彼女のためにもなる、そう思っていた。


 けど、今になりいきなり『世界の終わり』を知らされ、愛花と再会して。本当にあの時の判断は正しかったのか、と考えてしまった。もしかしたら別の道が存在していて、俺と愛花は道を間違えただけなのではないか、そんな事で頭が一杯になった。たとえいくら考え直した所で望んだこたえには辿り着けないというのに......。








「ねぇ唯誓ただちかっ! さっきの映画最高じゃなかった⁉︎ 特にヒロインを取りあう戦闘シーンっ。作画が神がかってたよね⁉︎」


 隣を歩く愛花が興奮気味に言った。俺はそれなりの相槌を返す。


 公園を後にした俺と愛花。次の目的地に悩んでいたところ、アニメの劇場版が公開しているから観に行こうと愛花が提案したのだ。


 二年前はアニメなんて観ていなかった愛花。だからこそ俺は戸惑った。気を遣ってくれたのかと思ったが、どうやら最近友人の勧めでアニメに興味を持ったらしい。作画にまで意見する所を見ると、かなりどっぷりと浸かっているようだ。



「ちょっと反応薄くない? 面白くなかった? 映画」


「まさか。俺もアニメは好きだし楽しめたよ」


 確かに映画は良かった。愛花と違い昔からアニメを嗜む俺は、多分愛花以上に楽しめたと思う。けれど。


 俺は手元の時計を一瞥いちべつし、空を見上げた。五時二〇分。黄昏が空を染め、地平線の向こうからは藍色が姿をのぞかせていた。『終わり』まで後七時間を切っていた。刻一刻とタイムリミットは迫ってきているのだ。ただしそれを止められる力を俺は持っていない。


 俺と愛花は帰路に続くアスファルトを踏む。長くのびた影がアスファルトに二人のシルエットを映し出していた。


「ん......?」


 愛花が不思議そうな声で呟いた。そして耳を澄ましてみせた。


「どうした? 何か聴こえるのか」


「うん............この音は............」


 適当に返事をした愛花はただ遠くの音を聴くことに意識を集中させている。俺も試みるが、何も聴こえない。愛花は特別耳が良いのかもしれない。やがて愛花は合点がいったという風に指をパチンと鳴らした。


「わかった‼︎ お祭り! どこかこの近くの神社でお祭りやってるんだよ!」


「祭り? なんでまた」


「お祭りの時によく聴こえる笛と太鼓の音が聴こえた。多分、間違いない」


 多分なのに間違いないと断言するのかっ。と指摘しようかとも思ったが、やめた。言葉のというやつだろう。祭りか、確かこの近くに神社があった気がする。俺は少し間を置いて言った。


「ちょっと見に行ってみるか、愛花?」


「うんうん、行く行く! というか唯誓が行かなくても私だけで行こうと思ってたし」


 そう笑いながら言うと、小走りで神社のある方へと向かって行ってしまった。はしゃぎ方が完全に子どものそれだ。その後ろ姿を見ていると不思議と笑いがこみ上げてくる。あまりに平穏、あまりに平和。今なら『終わり』なんて本当は冗談だ、と言われても鵜呑みにしてしまうだろう。


 胸にもやもやとしたモノをこもらせたまま、俺は愛花を追いかけて走り出した。






 家と家の隙間から提灯ちょうちんの灯りがぼう、と、まるで蛍の光のように辺りを照らしているのが見えた。目的地の神社まで近づけば近づく程、祭囃子の音は大きくはっきりと俺の耳にも届いていた。笛や太鼓が音色を奏で、日本らしさを感じさせる空間を作り上げている。


 俺らと同じようにこれから祭りに向かうようで同じ方向を歩く人、もう存分に祭りを楽しんだか、神社とは逆方向に向かっている人もぽつぽつと見受けられた。いずれにしろ、皆が幸せそうな顔をしている。


 提灯の灯りと、道の左右に所狭しと並んだ屋台の電球が、行く道を橙色に染める。徐々に広がる夜空がそれを更に引き立てていた。


「う〜ん! 焼きそばにたこ焼きにじゃがバター......どれも興味を惹かれる、魅力的‼︎ 唯誓、どれがいいかなぁ?」


「全部はムリっ! 子どもじゃないんだから一つ、いや、二つに絞りなさい」


「えぇぇぇ⁉︎ そんなぁ......。唯誓のケチ」


「ダメなものはダメです」


 食い下がり、ねだってくる愛花を俺は軽くいなす。本当なら全部買ってあげたいところだが......。ポケットから革の財布を取り出し中を確認する。案の定、中には小銭が数枚と千円札が一枚。映画での出費が響いたようで、祭りの価格相場について行ける程の金額を持ち合わせていないのだ。




 結局、愛花は不満を隠さず表情に反映させながら焼きそばをチョイスした。




 買った焼きそばのパックを片手に持ち、二人で人混みの中をかき分けるように進んでいく。人の体温で蒸れ、首筋からは汗が伝う。それを拭うと、後ろを歩く愛花に声をかけた。


「愛花っ、離れたら絶対はぐれるからな。離れるなよ?」


「あ......う、うんっ」


 俺の呼びかけに対し愛花は少しの間の後に答えた。人に阻まれて声が届きにくかったのだろうか、会話にラグがある。


 特に目指す場所もなくただ進もうと前を向いた時、何も持たず無沙汰にしていた右手に、ほのかに熱を持った何かが触れた。すれ違った人の手が偶然当たってしまったのだろうか。の割には随分しっかり握られている気がするのだが......。



「あ......っ」


「............ほら、これなら、はぐれない......でしょ?」


 俺の手に触れられていたのは、愛花の手だった。自分の手とは違い、の一切ない指と手のひらが確かな体温を持って俺の手を包んでいた。よく見ると手が少し赤みを帯びている。泳ぎ気味な目で愛花の顔を見ると、彼女の顔は手以上に紅潮していた。それは周囲の熱気のせいか、あるいは......。


「っ......」


 そこまで考えて、慌てて払拭ふっしょくした。暑さで火照り、良からぬことを考えてしまったようだ。そう、これは暑さのせいだ......。真っ赤になっている今の顔を愛花に見せたくなくて、前だけを見て歩いた。


 辺りが夜のとばりに包まれていく。








 明るく照らされた神社が、もうかなり遠ざかっていた。そして辺りに広がるのは藍色の景色と、わずかな月明かり。少し物足りなく感じるかもしれないが、これはこれなりに赴きを感じさせるものだ。振り返ると、愛花と目が合った。


「な、何? 唯誓。顔に何かついてる、かな」


「いや......何でも、ない」


 雰囲気に流されているのか、神社にいる時とは違い言葉が上手く繋げられずに会話が成立しない。まるで脳がまっさらになるような感覚。全速力で走った訳でもないのに心臓が早鐘を打っている。鼓動が後ろの愛花に聴こえるのではないかというほどに大きい。


 今まで、神社の時もそうだった。この掴み所のない感覚、感情。これらは暑さによるものでも、雰囲気によるものでもない。本当はずっと分かっていたのに、そうでないふりをしていただけなんだ。そう、これはきっと。


「ねえ」


「......何?」


 愛花はそれだけを告げ、俺の手を引いて歩き出した。帰るべき場所とは真逆の方向へと進んで行く。


 本来なら止めるべきなのかもしれない。けど、これが愛花の意思ならば、全てが『終わる』まで俺は彼女に従おうと思う。最善の選択じゃなくても構わない。愛花にとって最善であればそれで良いと今では思える。





 しばらく歩いたところで愛花は足を止めた。こちらを見て、ここ、と目で合図をしてくる。目の前にある建物は、見覚えがない場所ではなかった。それどころか、ほんの数年前まではほぼ毎日通っていた場所。


「学校......? どうしてこんな場所に」


 校舎を見て言う。コンクリートで作られた四階建てのそれは、俺と愛花を見下ろすように鎮座していた。窓ガラスの向こうには一切の光はなく、完全な闇を落としている。人影はない。物音は風で校庭の砂が舞う時に鳴るパラパラ、というもののみ。寂しさを感じさせる夜景が、昼間の学生で溢れ賑やかな印象ではなくどこかノスタルジックな一面を演出していた。


「何でもいいでしょ。......行くよ」


「行くって、 どこへ」


校舎このなかに決まってるでしょ」


 えっ、と声に出てしまった。それはつまり、不法侵入ということになる。男なら夜の学校に忍び込むという行為に対し少なからず憧れを抱くものだが、それを実行するには至らないことがほとんどだ。しかし、愛花はそれを平然とやってのけると宣言した。そこにシビれるが憧れはしない。


 俺が面食らっている間に、愛花は昇降口の前に立っていた。慌てて追いかける。



 しかし予想通りというか、昇降口は施錠されていて開かない。何度か開かないか試みるも、徒労に終わった。


「開かないぞ。予想はしてたけどな」


 呆れ気味に呟いた。


「まあまあ、慌てないでよっ。これはただの前置きみたいなものだからさっ。本番はこれからよ」


 得意げに言って、俺の前を横切ってどこかへ行ってしまった。その姿を目で追うと、すぐに隠された意図に気がついた。


「ん、その顔は気づいた〜、って顔だね?」


 人差し指を口元に当て、不敵に笑う愛花。『悪だくみ』という言葉がよく似合う表情だ。


 愛花の狙いは校舎裏にある非常階段だろう。この階段の先にある扉は、有事の際に開閉出来るようにと鍵は取り付けられていないのだ。


 非常階段を登り、校舎の三階辺りの高さまで来たところで校舎へと繋がる錆びかけた扉に手をかけた。金属が軋んだ、自転車のブレーキのような不快感を覚える音が響いた。俺と愛花は顔を見合わせて苦笑する。


 校舎内は想像よりもひんやりとしていた。室内なのだから熱気がこもっていると決めつけるのは早計だったようだ。靴を脱ぎ、靴下のまま廊下を二人で歩く。上履きの時とはまた違ったひた、ひた、という粘着質な足音がする。


「愛花。どこに向かっているのかそろそろ教えてほしいんだけど......」


 小声で問いかけた。二人の他には誰もいないのに、何故か大声を出すことをためらわれた。少し驚いた表情を見せる愛花。すると左手の人差し指でどこかを指差した。つられてその先へと視線が移動してしまう。


「だからこの先に何が......あっ」


 何が、と言ったところで気がついた。愛花の指先で示されていたのは、ある一つの教室だった。別に特別教室というわけではない。ごく普通の教室なのだが、俺にはひどく思い入れのあるものだった。


 それは、夏のあの日。目撃してしまった場所。これが原因で、愛花と疎遠になってしまった、ある意味全ての元凶となった場所。もしかするとここに来なければ今日まで隣の幼馴染と笑いあっていれたかもしれない場所。


「俺たちの、クラス......」


「......」


 愛花はただ頷いて、教室の中へ足を踏み入れた。同じように教室へと続く。


 教室に入った途端、木の匂いが鼻をついた。別に不快なものではない。ウレタン樹脂の塗り床材を採用している廊下は無臭だが、木材質のフローリングを使う教室にはほのかに木の匂いが漂っている。


 ワックスがかけられているようで、靴下では歩きづらい。


 足元にばかり気を取られていた。視線を戻すと、一つの机に愛花は腰かけていた。姿勢をこちらへ向け、どこか妖しい笑みを浮かべていた。夜空に輝く月の光はスポットライトとなって彼女を照らしている。


「月......綺麗ね。って、何キザったらしいこと言ってるんだろう私」


 振り返り、浮かぶ月を眺めてぽつりと。その姿を見て俺は一瞬菱川師宣の『見返り美人図』を想像してしまった。完全に目を奪われている。


 やがて再度こちらに向き直ると、愛花は自分の座る机の隣にある机上を手のひらでぽんぽん、と軽く叩いてみせた。それが何かの合図であると理解するのに数秒の時間を要した。


「隣、座っても、いいのか?」


「............うん。良いよ」


 短く頷いた。ゆっくりと机に近づき、縁に手をかけて腰を持ち上げる。ぎし、と人一人分の体重によって天板が音をあげた。


 窓の外に目をやる。雲一つない夜空。一切の障害物に阻まれない星たちは存分に光を放って空を彩っている。昔見たプラネタリウムによく似ている気がする、惚けてしまうまでの情景。幻想的な目の前の光景は、この教室だけを別のどこかへと連れ出してしまうような、そんな錯覚を容易たやすくさせてしまう。


「......綺麗だな、すごく」


「くさ過ぎ」


「お前が言ったことだろっ」


 互いの顔も見ずに言いあう。その言葉にはあくまで笑いが含まれていて、険悪な雰囲気はない。


 沈黙が流れる。どこかから聴こえてくる鈴虫の鳴き声は、まるで水蒸気のように空中に吸い込まれて消えていった。



「ねぇ......唯誓。いきなりなんだけど、さ。聞いてほしいんだ。ある人の話」


 少し長めの沈黙を破ったのは愛花だった。相変わらずこちらを見ずに外を眺めながら。俺ばかりが愛花を見ているのは何かしゃくだったので、教室中に目を泳がせてああ、いいよと答えた。


 俺からは愛花の表情は伺えない。一体彼女がどんな表情を今しているのか、それを知り得ることは出来ないのだ。


「その人はね、私のヒーローだったの」


 だった。今は違うって事か。どこの誰かは知らないけど気の毒だな。


「彼......ヒーローはいつでも私を助けてくれたの。それこそ、ご都合主義なんて言われるような状況でも、ね」


 そんなフィクションみたいな事があるのだろうか。どこでも駆けつけてくれるヒーロー。


「でもある日、いつもみたいに私を助けた後、彼は突然私の前から姿を消してしまったの。まるで狐につままれたみたいにあっさりと、残酷に」


 愛花の声が震えた、確かに。細く、弱くなる声色は、彼女が無理をして話を繋いでいることを示唆しさしていた。



「彼には彼の考えがあったんだと思う。もちろん私は彼じゃないから、彼の考えを全て理解することは不可能」


 愛花は一度言葉を止めた。いや、言葉に詰まっている、のかもしれない。あ、と言葉になりきれない単語が何度か飛び出しては、勢いを失い床に落ちた。



「っ......でもっ、きっと彼は私に気を遣っていた。............そのくらい分かるよ」


 愛花は言う。俺には彼女の発言一つひとつが、彼女自身を縛り、いましめる為のもののように聞こえた。



「私、彼にあなたは悪くないって......言いたかった......っ。『また』助けてくれて......ありがとうって......ずっと言おうと思ってた」



 鼻をすする音。表情が見えなくても分かる。愛花の中に溜められていた感情が、せきを切ったように溢れ出したのだろう。


 ......あまりに哀しく、あまりに弱々しく、あまりに愛おしい。隣に座る少女が可愛く見えてたまらない。そんな彼女の手を、俺は優しく握った。



「............唯誓......?」



「..................いいから」


 困惑と驚きの色を含んだ愛花の問いを一言で流す。自分が一体どんな行為をしているのか、正直自覚出来ていない。それがいことなのか、悪いことなのかすらも。決めるのは愛花だと思ったから。




 再び、沈黙が包んだ。鳴き続けていた鈴虫もいつの間にか消え失せ、風すら吹かない。俺の手が包む愛花の手。まるで連結されたコンセントとコードだ。流れる鼓動も脈拍も、全てを共有しているように感じる。




「ねえ、............唯誓」


 一体どれくらいの時間が経っただろうか。一分? 一時間? あるいはそれ以上か。時計を見れば分かるが、見る気になれないのでやめておく。ようやく泣き止み、落ち着きを取り戻した愛花は、触れられている俺の手をゆっくり引き剥がすと呟いた。


「あんた............さっき私が『ヒーローだった』って言った時、じゃあ今は違うのか、って思ったでしょ」


「それは......まあ」


 図星を突かれ、言葉に迷ってしまった。愛花が小さく吹き出す音が耳に入った。


「わ、笑うなよっ」


「いや別にぃ? 笑ってないよ? ふふ」


 そう言いつつも思い切り笑っているじゃないかっ、と言いかけてやめた。何故か、それは愛花の笑っている顔をもう少し見ていたいから。理由なんてそれで十分だ。


 すると、愛花は机の上から腰を下ろし、すたっ、と足を床に着ける。風に乗ったスカートは開いた花のように舞い、彼女の脚のラインに沿って形状を整えた。




「私のヒーローは今でも変わってない。ヒーロー『だった』君は今でもヒーロー『だよ』」




 唐突に、突然に。


 頰に柔らかい感触を感じた。今まで感じたことのない、甘い感覚。瞬間、思考が停止し何も考えられなくなる。


 愛花の唇が、俺の頰に重ねられていた。彼女の顔の動きにつられ、長い髪がしなるようになびいた。瞬間、思考が停止し何も考えられなくなり、ただ伝わる甘美な刺激と、ふわりと鼻をくすぐったシャンプーの香りを堪能した。



「..............................えっ............あの、えと、その......えっ? 愛花」



「............好きよ。私のヒーロー、一ノ瀬唯誓さん」



 たった数文字で作られた言葉。にもかかわらず俺には、好きな歌手の曲よりも、偉い人のありがたい言葉よりも、ずっと価値のある、心に響く言葉に聞こえた。


「..................」


「ちょっと。こんなに可愛い娘からの告白よ? ......返事くらい......ちょうだいよ」



 やっぱり、俺の予想通りだった。今まで、正確には今日一日中胸に引っかかっていたモノ。それは恋。



「あぁ。ありがとう。......本当にありがとう。俺も大好きだよ、愛花」


 ......まるでこの瞬間を待っていたかのように、教室の窓の外には大きな花火が打ち上げられた。夜空に芽吹き、そして開花した様々な色の花は、多分、俺たちを祝福してくれているはずだ。そう思いたい。



 次々と打ち上げられる花火に照らされ、教室の壁には寄り添う二人......俺と愛花の影があった。この瞬間はいつまでも。ずっと......。








「あの娘、亡くなったのよ。愛花ちゃん」


「本当⁉︎ 礼儀正しくていい娘だったのに......。事故か何か?」


「新しく見つかった病気らしいの。何でも、体は元気でも突然心臓が止まっちゃうとか」


「そんな......可哀想。まだ成人すらしてないのに」


「私何度か彼女のお見舞いに行ったんだけどね、愛花ちゃんが亡くなる前日、一人の男の子がお見舞いに来てたのよ」


「親戚の子か何か?」


「ううん。親戚の子はもっと前に来てたわ」


「じゃあ一体」


「さあ、見当もつかないわね。......こんな事不謹慎だけど。その子、もしかすると愛花ちゃんのピンチに駆けつけるヒーローみたいな存在だったのかもしれないわね。『世界の終わり』に立ち向かう勇者みたいな、ね」

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明日、世界が、終わる、その時まで。 蔦乃杞憂 @tutanokiyuu93

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