水の女神の住む社

一視信乃

水の女神の住む社

 この季節になると思い出す。

 あの日彼女と見た、ほたるの美しさを。


        *


 父方の祖母の家の庭には、滾々こんこんと清水のく小さな池があった。

 周りに樹木が生い茂り、水面みなもに星影が映りそうなほど昼なお暗い池であったが、不思議と怖い感じはせず、むしろ清らかな気が漂っていた。

 そして、池の中には、個人宅にあるものとしてはかなり立派なお社があり、水神である弁天様がまつられていた。


 七福神の一柱にも数えられる弁天――弁才天は、元はインドの河神で、技芸、弁舌、、福徳などを司る女神である。

 商いをしていた祖父とお花の先生をしていた祖母が、商売繁盛を願って祀ったのだというような話を誰かから聞いたが、祖母の裏の仕事を思えば、とてもそれだけとは思えなかった。

 だって、あの社には、がいたのだから。


 亭主を早くに亡くし、女手一つで五人の子を育て上げた祖母は、お花を教えるかたわら、持って生まれた霊感を生かし、占い師のようなことをしていたそうだ。

 運勢や方位などを鑑定する他、お祓いなどもしていたようで、それを彼女が手伝っていたのだろう。


 父に連れられ祖母の家へ行くたびに、彼女は池のほとりに立って、じっとこちらを見つめていた。

 子供だったオレには、彼女が何者かはわからなかったが、少なくとも普通の人でないことだけは薄々わかっていた。

 そして、どうやら父には見えていないのだということも。

 だって、あんなにセクシュアルな格好の美女がいたら、父親として男として、あれほど平然としてはいられないだろう。

 豊かな黒髪を結い上げ、グラマラスな裸体に、薄布と装飾品だけを身に付けた彼女は、どう考えても目の毒でしかない。


 ある時、何気なく手を振ってみたら、彼女はとても驚いた顔したあと、満面に笑みをたたえ、全力で振り返してきた。

 アダルトな見た目を裏切る子供じみた反応がおかしく、オレは彼女に好感を持った。


「ねぇ、バアちゃん。彼女は何者なの? スゴくキレイだけど、天女サマ?」


 思い切って尋ねると、ため息混じりに祖母はいった。


「ああ、やはり、おめぇにゃアレが見えるんか」


 男にしては珍しいと感心してから、神妙な顔付きになり、諭すように続けた。


「アレはきょーてーモンじゃけぇ、関わったらおえりゃあせん」

「きょーてー?」

「恐ろしかいう意味じゃ。おめぇにゃまだ早かろうが、欲ば持ってアレに触れりゃ、地獄に落ちるけんのぅ」


 地獄という単語ワードより、祖母自身が恐ろしく、オレは何度も頷いた。

 そして、それからは、彼女のいる池の方をなるべく見ないように努めた。


 やがて、小学校高学年にもなると、祖母の家へ行く機会も減り、初めてのカノジョも出来たりして、彼女の存在など、頭の隅の方に追いやられていたが、中二の夏に祖母がきゅうせいし、オレは彼女と再会した。

 通夜の準備で忙しそうな大人たちの邪魔にならぬよう、ひとりで庭を散策していたオレは、池の畔に立つ彼女を見つけた。

 ひどく心細げな表情で、おもの方を見つめていた。


「泣いてるのか?」


 オレは、初めて彼女に話しかけた。

 涙を隠そうともせず、彼女はいった。


「当たり前だよ。ヨシノが死んだんだから」


 ヨシノはバアちゃんの名前だ。


「お前、バアちゃんとはどういう関係なんだ?」

「ヨシノは友達だよ。一緒にゴハン食べたり、テレビを見たり」


 なんだよ、バアちゃんのヤツ、オレにはあんなおどかすようなこといったクセに、自分は彼女と楽しくやってたんじゃないか。


「お前、神サマなんだろ? バアちゃんとこ、いつでも会いに行けんじゃねぇの?」

「あのね、いくら神つったって、そうなんでもかんでも好き勝手には出来ないんだよ」

「そっか……」


 祖母とはもう二度と会えないという当たり前のことを、改めて思い知らされ、なんだかしんみりしてしまった。

 すると彼女は、ゴシゴシと乱暴に涙を拭い、じろじろと遠慮えんりょにオレを見つめてきた。


「そーいえば、キミ、ヨシノの孫でしょ。おっきくなったねぇ。すごいイケメンになった」

「なんだよ急に、親戚のオバサンみたいなコトいって」

「オバサンじゃなくて、お姉さまだよ、坊や」


 彼女は微笑み、そして、池の方を指差した。


「ほら、見て、坊や。キレイだよ」


 見ると、昼なお暗い水面に、本当に星が浮いていた。

 いや、違う。

 あれは蛍だ。

 二つ三つ、黄色っぽい小さな光が、チラチラと瞬きながら、スイスイと飛んでいた。


「スゲー。生で見たの初めて」


 祖母の家へ来ても、勝手に池に近付くことは禁止されてたから。

 ゆっくり点滅する光は、なんだかとても儚げで、この世のものとは思えぬほど美しかった。


「ここは水がキレイだからね。昔はもっとずっとたくさん居たんだよ」


 とても優しい語り口。

 もしかして、オレを励まそうとしてくれてるのだろうか。

 蛍より、隣り合う整った横顔の方が気になり出したとき、遠くでオレを呼ぶ声が聞こえた。


「あ、お父さんが呼んでるよ。早く行かないと」

「あっ、ああ……」


 後ろ髪引かれる思いで、オレは池を後にした。


 通夜が終わりちょうもんきゃくも帰ってしまうと、明日まだ葬儀があるというのに、オジたちは酒盛りを始めた。

 思い出話やら互いの近況やら、色々と話すうち、話題は家のこととなった。

 住む者のいなくなったこの家を、今後どうするのか。

 オジサンもオバサンも、すでに自分の家がある。

 都内とはいえちょっと西に位置するこの場所は、駅からも少し遠く何かと不便であるらしい。

 だから、すぐに「売り払ってその金をみんなで分けよう」なんて話になった。

 部屋の隅で携帯をいじりながら、聞くともなしに聞いてたオレは、驚きのあまりつい口を挟んでしまった。


「お社は?」

「社? ああ、池にあるヤツか。あれは壊さないとな」

「えっ、神様いるのに?」

「だから、神主さん呼んで、ちゃんとお祓いとかしてもらわないと」

「面倒だよなぁ、ああいうのは」


 誰も、彼女のこと、知らないのか?


 たまらずオレは屋敷を飛び出し、彼女の元へ走った。

 ぬばたまの闇の中、彼女は淡い光をまとい、池の畔にたたずんでいた。

 蛍はもうおらず、ひとりきりだった。


「どうしたの、坊や」

「ここ、壊すってオジサンたちが」

「そっか。仕方ないね」

「お前、どうすんだ」

「どうするって、天に帰るよ。ヨシノもいなくなっちゃったし」


 そういう彼女が、蛍火のように儚く見えたから、思わず言葉が出てしまった。


「オレんち来ないか」

「えっ?」


 彼女は驚いたが、自分でも驚いていた。

 でも、言葉は止まらなかった。


「うち、マンションだから、池もお社もねぇけど、ちっちゃい神棚くらいなら、小遣いで買えると思う。だからっ――」

「ありがとう」


 不意に、ふわりと、甘い匂いに包まれた。

 確かな温もりと、柔らかな感触。

 くらりとまいがしそうなほど、それは衝撃的であり、またとても心地好いものだった。


「すごい嬉しい。でも、本当にいいの?」


 ちらりと、幼い日に聞かされた祖母の言葉が甦った。


 ――アレはきょーてーモンじゃけぇ、関わったらおえりゃあせん。


 でもなぁ、バアちゃん。

 オレを抱きしめながら、子供みたいに泣く彼女を突き放すなんてこと、オレには出来ねぇよ。


「いいよ。神棚とか、ちゃんと用意するから、それまで――」

「大丈夫、社なんていらないから。愛する人の心が一番いい家だって、ヨシノと見たドラマでもいってたけど、あたしもそう思う」


 オレを見下ろし、彼女は笑った。

 南国に咲く、花のようにあでやかに。


「だから、死が二人を分かつまで、末永くよろしくねっ、darlingダーリン


 そうして、彼女――弁才天サラスヴァティーとの関係が始まったわけだけど、それからオレの人生は大きく変わった。

 神と繋がりを持ったことで、さらに霊感が強くなり、変なモノを見たり襲われたりするようになって、ソイツらと戦うことを余儀なくされてしまった。

 また、弁才天は非常にしっ深い神サマだというちまたの噂は本当で、オレは女のコと、話をすることすら満足に出来なくなってしまった。

 ここにきてようやく、祖母のいってた「彼女は恐ろしいモノだ」ということを染々痛感させられたけど、だからといって、オレはあのときの行動を悔いたりはしない。

 でなければ、彼女とは二度と会えなかったのだろうし、今のオレもなかったのだろうから。


        *


 目を開くと、見慣れた天井がそこにあった。

 オフィスのソファーで寝転んどって、マジに寝てもうたみたいや。

 伸びをしながら時計を見ると、まだ四時前だ。


「なぁ、バイトくん。ちょっと車出してくれへん?」


 ソファーから身を起こし、デスクの後輩に声をかけると、すぐに返事がきた。


「は? 今からですか? 今日、外行く仕事ありましたっけ?」

「あらへんよ。プライベートや。ドライブデートしよ、ゆうとんねん」

「デートって、気色悪い言い方しないで下さいっ」


 この素直な反応がおもろくて、ついからかいたくなるんやけど、今日は頼み事もあることやし、ほどほどにせんと怒らせてまうな。


「しゃーないやん。オレかて可愛い女のコとがええけど、そんなんしたらサラスア レに殺されるし。付きうてくれたら、晩飯くらいおごったるで」


 晩飯奢るの一言で、彼の心が動いたんが、表情からもわかった。


「……しょうがないですね。で、どこ行くんです?」

「蛍狩りや。なんや無性に見とうなってな」

「蛍ですか。うちの方にも見れるとこあったけど、どこまで行くんです?」

「せやなぁ、どこがええやろ」


 ホンマに行きたい場所は、記憶の中にしかあらへんし。

 そないに思いながらスマホを取り出すと、都内近郊にある蛍の名所を探し始めた。

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