第4話

 加奈を送り届けた後、歩樹は自身が仮住まいとしておいている会社の寮へと車を走らせた。


 さすが一流の企業の寮なだけあり、立派なマンションの6階に歩樹は住んでいる。西日が強く差し込む部屋のため部屋の中は外よりも暑く、靴を脱ぐやクーラーを付け、カーテンを閉めた。


「何か飲む?」

「じゃあ、お茶」

「ん、わかった」


 仕事の都合で数カ月の間だけ大阪で暮らす彼の部屋は、整理整頓ができているというよりは、物が少なすぎて整頓されているように見えるだけだった。だが、好きなスポーツ漫画だけはしっかりと棚に埋め尽くされている。そこに添えるようにして、わたしが編集している医療本が並んでいた。


「あれ、コレ……」


 わたしは看護師になる学生に向けた参考書『ながら読みシリーズ』を手に取る。これは初めてわたしの企画が採用されたもので、その嬉しさに1巻をプレゼントしたことを覚えている。だが、歩樹の本棚には現在発売されている『ながらシリーズ』が全て納められていた。

 看護師になる予定も、医療の仕事に携わることも生涯ないだろう歩樹にとっては迷惑だと気が付き、そのあとに発売したものはあえて渡さなかったはずなのに、だ。


「あ、それ」


 持っていたマグカップを机に置き、「見つかったか」と歩樹が照れたように頭をかいた。


「千絵っぽいな、って思ったから。なんか、置いときたくて」


未だ看護師を目指す学生の多くは女性だ。そのため女性ウケをターゲットにし、難しい語句もゆるキャラの4コマを使って説明することで分かりやすく、なおかつ可愛いものをと意識したのだった。


「言うてくれたらあげるのに。結構高いやろ?」

「いや、なんか、むしろ買うときが楽しいっていうか」


 歩樹の言葉にわたしは微笑した。


 そんな感覚を、わたしもよく知っていた。出版社で働く人間になってから感覚が麻痺していたが、自分が作ったものが店頭に並び、それを買うということは、わたしがかつて夢見ていたことだった。初めて店頭で自分の本が売られているのを見たとき、見飽きるほど接したにも関わらず、その本を手に取り中身を確認したのを覚えている。それをレジに持って行くことも、なんだかとても誇り高かったのだ。

 歩樹も、同じように思っていてくれたのだと思うと胸が熱くなる。と同時に、わたしは歩樹のようにきちんと相手のことを思いやっているのか不安になった。わたしの心には、まだ、恵がいる。どうしても、恵がいるのだ。


「恵のこと……やんな」


 わたしが頷くと、歩樹は、ふーっと大きく息を吐く。


「急にどうしたん?」

「歩樹は、どう思う? 恵のこと」


 すごいざっくり訊くんやな、と歩樹は少し驚いたようだったが、わたしは何も言わず歩樹の返事を待った。

 どう思う。その問いかけに、歩樹は第一声に何を言うだろう。

 いい奴だった。あの頃は楽しかった。そんな無難な答えが、歩樹には似合う。それでも、わたしは歩樹の口から、疑問が出てくることを祈った。

 どうして事件を起こしたのか。そんな疑問を出てくることをわたしは祈った。


「いい奴やったと思う」


 ほらね。思った通りの答えが返ってきて、わたしは気を落とした。が、歩樹はそこで終わらなかった。


「でも、よく分からん奴やった」

「え?」


 よほど素っ頓狂な顔をしていたのか、歩樹が慌てたように付け加える。


「あ、俺はそう思うってだけ。俺は社会人なってからずっと岐阜やったし、年に1回会ってただけやからなんとも言えんけど。でも、あの事件が起こってからじゃなくて、バイトで知り合ってからあの4人でしょっちゅう遊んだりしてたときも。俺はそう思ってたよ」


 歩樹の言った、よく分からない奴とはどういう意味だろう。単細胞とまではいかないが、尻尾が付いているかのような純粋に気持ちを表す恵のことは分かりやすい人間だと思っていた。

 いい奴だがよく分からない。それはヨッ友(挨拶する程度の友達、の意)レベルの付き合いだったら納得だが、それでもよく分からないとはどういうことなのか。わたしは歩樹に訊こうとしたが、ワンテンポ早く歩樹から話を切りだした。


「千絵は恵があの事件起こしたって、思ってないやんな」

「だって!」

「警察が調べただけで、恵がやった、て言われても納得せーへんのは分かるよ。でも、あのとき千絵もおったやろ。見たやろ。何よりも恵が言ってたの聞いたやろ」


 ごめん。全部俺のせい。


 あのときの恵の声が、耳の中で反芻される。そして後のことを歩樹に託し、来た道を引き返していくあの背中が頭に浮かんだ。


「千絵。恵がなんであんな事件起こしたんか俺には分からんよ。けど、恵が死んだのは事実やし、それはどうあってもひっくり返ることはないやん」


歩樹は一拍おいてから続ける。


「やったらもう考えんとこう」


 ちぃ

 そう呼びかけてくる恵の顔はいつも笑顔だった。イ段が重なるせいもあるかもしれない。

 このときの声と笑顔を忘れることは生涯ないと思う。そして、そのたびにきっと事件のことも付きまとう。


「忘れた方がいいってこと?」


 声が震えた。


「そこまで言ってないけど……これからの千絵にはもう関係ないことを考えて辛くなるなら」

「関係ないって、そんな言い方」

「違う千絵、よく聞いて」


 その時、タイミングよく電話の着信音が鳴り響いた。それを無視して歩樹は話を続けようとしたが、画面に表示された名前を見た歩樹は大きく息を吐き、ごめん、と地べたからパソコン用の椅子に席を移動しながら電話に出た。上司からの連絡のようだった。

 内容を聞くつもりはなかったが、相手が怒っていることは分かった。歩樹の何回か目のすみません、の後に聞こえたのは、こんな大変な時期によく休みなんか取れたな、という罵声だった。

 電話はその後、すぐに切れた。というよりは、あちらが言いたいこと言い終えたらしい。

 歩樹はもう一度大きくため息をつくと、ごめんね、と今度はわたしに言う。


「謝ってばっかりやな」

「そうやな。ちょっと色々あって」

「そっか」


 わたしはそこで言葉を切った。それだけ忙しいにも関わらず、歩樹は恵の墓参りのために有給を取って来たのか。あれだけ罵倒されていたのだ、きっと無理やり取ってきたのだろう。恵のために。


「そっか」


 もう一度、わたしは言った。


「ごめん」

「え?」


 歩樹の声が少しかすれた。


「歩樹も恵のこと大事じゃなかった、みたいな言い方してごめん。そんなはずないのに」


 わたしは歩樹を見上げる。

 デスクに移っていた歩樹がこちらに来ようと腰を浮かせたとき、インターホンが二人の間の空気を横切るよう鳴った。

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アクアリウムに花束を 148 @honoka_

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