第3話

「よし、着いた」


 エンジンを切り、歩樹がふーっと伸びをする。お疲れ様、と声をかけると、うん、と照れたように微笑む。


「歩樹、運転ありがとう。このお花、加奈持つわ」


 隣にあった花束を抱え、加奈は一足先に車から降りた。


「なあ、歩樹。他にも誰か来てるみたい。珍しい」


 歩樹はわたしの言葉に相槌を打ちながら、思い出したように切ったエンジンをもう一度入れ、窓を少し開けた。初夏の陽射しは厳しく、こうして開けておいても戻ってきたときにはきっとサウナのように車内は蒸されていることだろう。歩樹はまたエンジンを切ると、セミの鳴く声と、緑の佐々鳴く声だけが耳元で鳴った。


「千恵、水汲みに行こうか」

「うん。加奈はもう先に行ったみたい」


 わたしたちが訪れたのは、みどり霊園。


 人の目から避けるように建てられたその墓地は、社会的に疎遠、隔離された、いわゆる訳アリの人間が埋葬されている。墓参りに訪れる人は滅多になく、うっそうと茂る雑草をかき分けて進む先に、やっと粗末な墓石がチラホラ見えるのだ。


「手桶は二つで足りる?」

「うん、いけると思う。あ! なんか手が軽いと思ったら、軍手とか後部座席に積んでるんやった。歩樹、ちょっと車のキー借りていい?」

「うーん、心配やから俺行くわ」

「何心配って」


 わたしがムッとした顔をすると、歩樹が頭をそっと撫でた。


「千恵はここおって。いい?」


 有無を言わさず、歩樹は車の方へ戻っていく。その後ろ姿があの時に似ていて、わたしは思わず手を伸ばした。つかめない背中に向かった手が宙を切った時、ハッと我に返る。


「なに、してるんやろう」


 空気を掴んだその手の平を見つめる。こんなところにいるから、きっと思い出すのだ。何も出来なかった自分への嫌悪さを。引きずってでも殴って気絶させてでも、行かせてはならなかったのに。後悔の波が襲う。波、というよりは、下から迫りくる、水、水。


 スカートが足にへばりつき、新調したヒールはとっくに脱げ、ただ迫ってくる水から逃げようと必死だった。混乱した人々の間を掻き分け、歩樹から離れないように必死に腕をからませた。



「……千恵?」

「っ」


 その声で息を吹き返したわたしは、忘れていた呼吸を取り戻すように肩で息をした。


「汗すごいけど、大丈夫?」

「あ、うん」


 わたしは鞄からハンカチを取り出し、ファンデーションが取れることもお構いなしに額の汗を拭った。


「ほんとに大丈夫?」

「うん。大丈夫。あ、加奈も待ってるし行こう」


 歩樹はまだ納得がいかない様子だったが、ようやく足を進める。


「千恵は、こっち持って。俺これ二つとも持つから」


 そう言って、軍手や線香やらが入った紙袋をわたしに渡し、男にしては華奢な歩樹だったが、たっぷりの水が入った手桶を軽々と持った。


「ここは世界からおいてかれてるみたい」


 周辺だけを見ると、戦国時代とそう差がないだろう古びた柵の間から主張する雑草をかき分け、わたし達は目的の場所を目指した。

 所々に転々と転がっている粗末な石も、きっとそこに誰かがいるという証なのだろう。添え物も当然のように何もなく、細い道に飛び出している石が墓石なのか、それともただ単に少し大きめの石なのか区別のつかないものもあった。


 二人が足を止めたのは、霊園の中でもかなり奥まったところにある墓石の前だった。

周りのものと比べものにならないくらい綺麗で、字も掘られている。ここでは珍しくごく一般的な墓石だった。だが悲しいことに、名字は乱暴に削り取られてしまっている。

 残っているのは、恵、の文字だけだった。


「これだけ見たら、女の子みたいやんな」


 先に着いていた加奈が、わざと元気な声を出している。声は、鼻声だった。


「恵(ケイ)。来た。今年もみんなで」


 わたしたちは悲しみに浸る前に、それぞれ軍手をはめ、墓石の周りの雑草を抜いた。そして石を磨き、お供え物を置く。加奈はメーカーの違うお茶を三本。歩樹はサッカーボールを。そしてわたしは、パーゲンダッツのアイスを。


「それ一瞬で溶ける」


 加奈は笑ったが、止めることのできない涙が、目の端から零れていった。


「誰も来てないみたい。この前が命日やったのに、何も置かれてなかったし」

「そっか」


 それからわたしたちはお線香をあげ、一人ひとり彼の前で手を合わせた。

 このとき一般的には南無阿弥陀仏だとか、こんなことがありましたよ、などの報告をするものなのだろう。わたしも身内のお墓参りの際にはそうしていた。だが彼のときは、優しい言葉をかけることも、近況を報告することもなかった。去年も、その前もそうだった。


 たぶん、まだ受け入れられていないのだと思う。彼の死を。


 だって、何も聞かされていないのだもの。成仏なんて誰がさせてやるか。そんな気持ちにすらなるほどだ。


 皆はどうなのだろう。


 そう訊く勇気はなかった。歩樹とさえも、恵の話はあまりしない。お互いに避けているのかもしれない。いや、きっとそうだ。


 一通りのことを済ませると、手持ち無沙汰になったわたしたちは誰からともなく帰る準備を始めた。朝一番に集まって昼に解散する予定であっても、結局いつも夜まで一緒にいてしまったあの頃とはずいぶん違う。

 ここは恵という人間の居場所に間違いないのだが、恵の気配を感じることはもう出来ないのだ。それが分かっているからこそ、余計に辛くなる。


「忘れ物ない?」

「うん。もし忘れてたら恵にあげることにする」


 加奈が墓石に向かって手を振ると、先頭をきって雑草をかき分けて車の方へ戻っていく。歩樹も続いた。

 わたしもその後を追おうとしたが、進みかけて足が止まった。気のせいだと思いたい。だが、本当に聞こえたのだ。


 恵だけが呼んでいたわたしのあだ名を。


 ほら、また。ちぃ、って。


「千絵」


 今度は歩樹の声だった。


「どうしたん?」


 母語の岐阜弁と、大学時代から馴染んだ関西弁が混ざり合った発音の歩樹の声は確かに聞こえたが、わたしは振り向かずにいた。


「千絵?」


 今さっきここには恵がいない、と思ったばかりではないか。恵の声が聞こえるはずなどない。きっと空耳だ。そう分かってはいるが、どうしても動けなかった。

 後方で草が揺れた。歩樹が心配して引き返して来たらしい。そしてすぐに背中から温もりを感じた。


「……ちぃ」


 耳元で囁かれ、わたしは咄嗟に身をよじるようにして歩樹の腕から逃れた。


「あ……ごめん」


 自分がしてしまったことに気がつき謝るも、歩樹は何もなかったかのように口元を緩めただけだった。他に何か言おうかと考える暇もなく、歩樹がもと来た道に戻っていく。


「行こう。加奈が待ってる」

「……うん。ごめん」


 そうしてわたしは、歩樹の後ろにぴたりとついて雑草道を抜け、車に戻った。

 行きはあんなにワイワイとにぎやかだった車内は、重い空気に包まれていた。加奈の流すテンポの良い洋楽だけが空回りしていたが、誰も指摘しなかった。


 今回の墓参りで、分かったことが一つある。


 わたしは、恵の死を受け入れられずにいる。つまり、納得していないのだ。どれだけ世間に非難されていたとしても、どうしたって恵があの事件を引き起こした犯人だとは思えない。

 大学時代に知り合ってから一緒にいた期間は7年ほど。とはいえ、7年も一緒にいれば人となりは分かるつもりだ。彼は人懐っこいゴールデンレトリバーのようで、欠点といえば少し口が悪いくらい。基本的には優しい人だった。職場での営業成績も常に上位だと鼻高々に話しており、これからの人生も謳歌していくと、あんなに気合を入れていたではないか。


 そんな人間が、事件を起こすのだろうか。


 三年前に起こったシバ水族館での爆破事件、死者16人、重軽傷者50人を超えるあの事件。


 その犯人は、恵ではないと思う。恵ではないという確たるものはないが、恵が犯人だという証拠が確かにあったわけでもないはずだ。


 事件を起こしたとして、どうして死ぬ必要までもあったのか。


 彼に自殺願望があったとして、たくさんの人々を巻き添えに出来るほど残酷な人間ではない。どちらかというと、高層マンションの屋上から飛び降りる方がよっぽど似合う。いや、飛び降りる前に躊躇して、やはり今日死ぬのは辞めておこうと心に決めたが、うっかり足を滑らせて転落して死ぬ。そんな死に方になるだろう。


 とにかく、あの事件を引き起こしたのは、恵ではないと思うのだ。

 わたしは、ゆっくりと歩樹の方に顔を向けた。


「ちょっと、いい?」

「ん?」


 わたしは加奈の方を振り向いたが、眠ってしまっているようだ。三人で話した方がいいとは思うが、一度歩樹と二人で話したかったこともあり、わたしは話を続ける。


「……恵の」


 歩樹が息を呑むのが分かり、思わず言葉を止めた。だが今を逃せば、きっとこの先話し合う機会は巡って来ないかもしれない。


「恵の、ことで」

「……分かった。でも、加奈を送ってからにして」

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