家族暦四年一月一日
バターと玉子の香りがした。寝室にはレースカーテンしか引いていないけれど、早朝とあって窓からの光は青く弱い。身を起こしてベビーベッドをうかがう。一歳の娘、亜矢子は深い息をたてて眠っている。カーディガンを羽織って寝室を出た。
電気をつけたリビングは煌々と明るい。ほっとしてキッチンに立つ夫の背へ声をかける。
「おはよう」
二年前の今日はわたしがキッチンに立っていた。去年は夫。ずいぶんと様になってきたフライパンの扱いを頼もしく思う。夫の方が凝り性だから、いわゆる料理上手というならわたしより上になってしまった。
黄色い、ふわりとしたオムレツがお皿に落とされる。カリッと焼いたソーセージとつるりと赤いプチトマトが付け合わせだ。横合いからお皿を取って、テーブルへ運ぶ。
「ありがとう、亜希子」
テーブルにはもう、ほとんど完成した朝食が並んでいる。ブロッコリーとフライドオニオンのサラダ、くし切りのオレンジ、それからマグカップいっぱいの紅茶。トーストのお皿を夫が持ってきたなら、いつもより厳粛な気持ちで朝食が始まる。
かりっと焼けたトーストが熱いうちに、バターを薄く塗る。すぐに溶けてトーストは金色に照る。頬張れば甘やかに香ばしい。
「あけましておめでとうって言いたくなるんだけど、変な話だよね」
「そうかな? ぼくら家族に暦があるとしたら、今日が元日じゃないか」
三度目の結婚記念日。今日が四年目の一月一日。
ソーセージを齧る。皮は軽く弾けて、塩気の強い肉汁があふれた。程良く茹でたブロッコリーをこりこりと噛みながら、昔のことを振り返る。
「一年間は二人で、二年目はお腹の中の亜矢子とほとんどを過ごして、今年は三人で少しずつ育って。来年は……」
「来年の記念日は、亜矢子もこのテーブルにつけたら素敵だな」
「さすがに無理じゃないかしら。わたしたち、食事どころじゃなくなっちゃう」
区切りの日の食事くらいはふたりきりが良い。そう笑いながら、オムレツを口にする。ふわりと香るバターに玉子の優しさが際だつ。
また救われてしまった。未来のことを思うのはいつだって怖い。傍目にはかぎりなく順調な暮らしの向こうに、いつも終点を透かし見ている。
「自分の子にママって呼ばれる日が来るなんて、思ってもなかった」
首をすくめてプチトマトを噛んだ。新鮮でよく冷えていて、甘酸っぱく瑞々しい。
痛みも苦しみもなく、病のありかは身に宿る淡い光だけが教えてくれる。滞りなく日常を送れることは幸せだけれど、後ろをつけてくる死の足音はわたしたちの間に確かな影を落としている。
わずかひと月で命を落とす者もいれば、わたしのように極めて緩徐に進行する者もいる。あるいはわたしも、来月には突然症状を加速させて死に至るのかもしれない。
まだ亜矢子の前から消えたくない。骨も肉も残さず光と散るこの病にあって、幼い子どもは親の死を理解するのに苦労するだろう。発症したときはせめてこの子を産むまではと思ったし、生まれてからは乳離れするまではと思った。わたしのことを覚えていられるくらい大きくなってほしい。死をなんとなくでもわかるまで側にいたい。
願いはとどまるところを知らないし、どこまで叶うかなんてだれにもわからない。ただ、一歳の娘に向けたビデオレターを削除して誕生日祝いの動画を撮ったときの、あの泣きたいような衝動は生涯忘れないはずだ。ああいう瞬間を重ねて、どこまでも家族みんなで歩いていきたかった。
「わたしね、さるかに合戦のカニみたいに亜矢子を急かしているんじゃないかって時々思うの」
「どういうこと?」
「あれ、柿の木にむかって早く芽を出さないとちょん切るぞって脅すじゃない。わたしも、成長が早く見たくてどこかで急かしている気がして」
夫は動じもせずに答える。
「そんなことないだろ。ぼくらの子だから、天才なんじゃないか?」
「もう、親ばかなんだから」
だけど本当に亜矢子は聡明だった。ふとしたときの、凛とした眼差しを思う。発達には個人差があるのが当たり前なのに、不安になってばかりではいけないとも思う。
オレンジを手に取ったとき、寝室から亜矢子のぐずる声が聞こえた。ふたりで視線を合わせて一瞬、微笑む。
「わたしが行くよ。お仕事の準備、しなきゃでしょ」
一日が始まる。ひとまずは平穏に、次の一年への希望を抱いて。亜矢子はもう、触れると壊れてしまいそうな新生児ではない。どうか、この子の育ってゆくところに一秒でも長く寄り添えますように。
(当作品は『やがて光となって散る』https://kakuyomu.jp/works/1177354054886257400 より第三話[吾子]の後日譚にあたります)
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