Eve

 俺があの一年に縛られているのは彼女のせいだ。ただの言い訳なのはわかっている。

 彼女は俺の知る唯一の女といえる。散々過去記事で童貞を強調してきたからにはわかるだろうが、これは男女の関係とは言わない類のものだ。

 赤ン坊の頃に母親の乳を吸っていたから女を知っているとは言わないように。


 だが、女という存在がファンタジーでもなんでもなく地続きに存在している感覚は彼女がくれた。

 結果的に俺は、人類の半分を彼女を通して見ているわけだ。

 今じゃ結婚しているかもしれない、子どもがいるかもしれない、はたまたこの世にいないかもしれない彼女のことをようやく語る気になった。

 この文章すべてが俺の主観であり美化された記憶であり再開の余地なく終わった話であることだけ、はじめに断っておく。



 あの年俺は二回目の大学四年であり、やる気のない就活生であり、週一回の必修単位とサークル活動のためにキャンパスをうろついていた。居場所を求めていたくせにどこにも馴染めなかった。下級生ばかりの講義室にも、本来なら引退しているはずの部室にも、後輩より多く払うコンパにも。


 彼女は入学年度がひとつ下の同学年であり、サークルの後輩だった。〆切に合わせてろくでもない原稿を描いては呑んだくれていた俺とは違い、早めに提出される原稿とコンパ参加率の低さが一年の頃から有名だった。

 俺がよく連んでた奴らは皆、女子とはロクに話せなかった。俺も女子の区別なんてまともについちゃいなかった。そんな連中でも知っているくらいには浮いた存在だったわけだ。


 彼女の作品は正確なデッサンでもって日常を丹念に描く、よく言えば優しく、悪く言えば起伏に乏しいものだった。ユーモアこそ命くらいに思っていた俺はつまんねぇと軽く読み飛ばしたものだ。今考えると悪ノリに頭っから突っ込んでいた俺の方がよっぽどつまんねぇのだが。


 彼女がなぜ俺に興味を持ったのかは永遠の謎である。


 入学式後のビラ配りで、離れて立っていた彼女と目があった。偶然かもしれないし、他の誰かを探していたのかもしれない。

 新歓のときに一人でビールを煽っていると、通りすがりに会釈をされた。いわゆる五年生は俺だけだったから、悪目立ちしていただけかもしれない。


 生温い風が葉桜になった並木から花びらを巻き上げていたあの日、昼食に誘われたのは何が目的だったんだろうか。先輩、と声をかけられて無視できるはずもなく、校門を出て安いファミレスに入った。

 出前のうどんみたいな茹で加減のスパゲティをフォークに巻きつけながら、俺は彼女の孤独を知った。意外なことに俺の寂しさに少し似ていた。彼女は一年生を二回やっていた。正確には一年半だ。初めての夏休みから次の三月までを休学したのだという。二度目の四月、新しい同級生にはあまり馴染めず、入り直したサークルでも進んで交流を持てなかった。

 四年間は連む相手がいた俺と、すでに三年を希薄な人間関係に生きていた彼女じゃ年季が違う。逆に頼ってみたいような気にもなった。


 あの頃すでに、わけわからん文章をネットに上げていた。形のない不安を叫ぶには、知り合いのいない世界が良かった。ああいうグチャグチャに暑苦しいのはもう書けない。若かったんだろう。

 顔を知ってる人間にあれを見せたのは彼女が最初で最後だ。


 公開しているなんて言わなかった。携帯のメモに控えた奴を見せていた。奇跡的にセンスに合ったのか、毒に酔ったのか、彼女は俺の文章を気に入った。書けたら教えてくださいと言われるまま、毎週のように昼飯を食いに行った。


 金は一応俺が多く出していたが、店は彼女が決めた。牛丼やらラーメンやらファストフードやら、安価なチェーン店ばかりだった。

 作品の印象に違わず丁寧な育ちをしていそうな彼女には不似合いだったが、洒落た店へ連れて行くほどの度胸も知識も無かった。穴の空いたビニールクロスの椅子にしゃんと背筋を伸ばし、べとつくテーブルの上で正しく箸を持つ。服装は清楚すぎて、爪も指先もそこで出てくる食べ物で作るには整いすぎていて。

 ペラペラのハンバーガーを齧るより、コース料理のパンをちぎっている方が似合う指。缶詰のモモとパインとサクランボが入った杏仁豆腐とは名ばかりの牛乳寒天をすくうより、薄い皿に入ったスープをすくう方が様になるスプーン運び。南米産のチキンを切り分けるより、マンゴーなんかが山ほど乗ったタルトへ切り込む方が慣れているだろうナイフさばき。


 後ろめたさは常にあった。そのくせ何度も自惚れた。彼女と過ごす価値が自分にはあるんだと。見えもしない才能を信じて世の中に向かって痛々しいナニカを投げまくった。


 彼女はいつも感想を述べた。自分のことに触れながら。経歴や住処といった個人情報は喋らないかったけれど。故に、休学の理由すら知らないままだ。

 俺は彼女を知っていた。情報の集積としての彼女ではなく、ゆらめき常に変化する感情の重なりとしての彼女を。


 先輩、わたしも集団の中に入っていくの苦手なんです。歳が違うし遠慮してしまうのもあって。本当はやましい事なんてないはずなのに。

 先輩が羨ましいです。ストレートに思うことを言葉にできるのが。不安も嫉妬も飲み込んじゃって、もう綺麗なフィルター越しにしか表現できないんです。

 先輩、きれいなふりをしなくていいなら、もっと楽に息ができそうな気がします。強迫観念ですよね、これ。


 彼女はいつも去り際に、ありがとうと言った。その響きに感じるのは自分にはない弾力だった。境遇もコンプレックスも身の内に抱えて、時間はかかっても溶かしてしまえるような強さを感じた。

 女は男より痛みに強いらしい。心も同じなんだろうか?


 現在まで引きずるほどに影の濃い日々は、ありふれた終わり方をした。卒業式会場で、袴姿の彼女が控えめに手を振ってくれたのが最後の場面だ。隣には別の女子がいて釈然としない気持ちになった。とはいえ彼女の孤独は彼女にしか感じられないもので、俺に女子どうしの距離感がわかるはずもなく。


 彼女のその後はまるで知らない。なのにどこかで見ていてくれるんじゃないかと夢想したりもするのだ。俺があのたった一年間に縛られているように。

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