一年生合奏『六段の調』

 舞台袖の床板が、靴下一枚の足裏にざらざらと冷たい。暗がりの中で装置を触る係員。スイッチ類の光が星のよう。アナウンスマイクに向かう瑞穂みずほ先輩の手元がランプに浮かび上がっている。


 すこしお腹がすいた。綾葉あやは先輩が配っていたバナナ、もらっておけばよかった。個人的には別に好きじゃないけど、手も汚れないしそこそこお腹に溜まるし、差し入れとしては秀逸だと思う。


 爪をはめた指を確かめる。象牙でできた演奏用の爪は、ネイルチップとは逆に指の腹側につける。全部の指につけてもいけない。右手の親指、人差し指、薬指の三本だけだ。半年前はそんなことも知らなかったのに、指にはめるエナメルの輪っかは皮膚にすっかり馴染んでいる。


 緋毛氈ひもうせんを敷いた舞台には、すでに十二面のことが並んでいた。桐の体に十三本張った糸。ピンと張った糸には音程を定めるが立っている。見かけは鉄塔と電線の関係に似ているが、げん一本に柱は一個だ。龍に喩えられるこの楽器が整列するさまは見慣れているはずなのに圧倒される。


「みんな、入って」


 実香みか先輩に小声で促され、私たちは舞台を踏む。ライトが熱い。足元の赤が反射して砂漠のようにぎらぎらしている。

 緞帳の裏にでかでかと書かれた「火の用心」に視線を奪われながら定位置に正座する。いちばん後ろの端っこは、私には安心できる場所だった。

 楽譜はない。深呼吸をして、散々弾き込んだ譜面を思い出す。書き込みは記憶しやすいと聞きかじった青のペンにしていた。記憶のなかの注意事項が、冷たい色の文字で私を落ち着けてくれる。


 みんなで一斉に、絃一本ずつ音を確かめる。一番高い手前から、いちばん低い向こうへ。


 きん、十、九、八、七、六、五、四、三、二、一。


 ここには先生が立会い、指示を受ける。言われた絃のを動かし、音を直す。繰り返して微調整を終えたら、膝に手を置く。アナウンスが客席へ挨拶をはじめた。


「――どうぞ最後まで、ごゆっくりお聴きくださいませ。一曲目は、一年生による合奏、八橋検校やつはしけんぎょう作曲『六段ろくだん調しらべ』です。この曲は――」


 演目の解説に入る。ここまで来れば、出番はすぐに来てしまう。もう一度頭の中で出だしをなぞる。


「――経験者も初心者も力を合わせ、練習に取り組んできました。六段に始まり六段に終わる、といわれるほど箏の基本がつまったこの曲が、毎年の一年生の課題です。演奏会の最初を飾ると同時に、一年生の最初の一歩となる演奏。どうぞあたたかく迎えてくださいませ」


 緞帳の分厚い布地ごしに、拍手の波が押し寄せる。お辞儀の格好で幕が上がるのを待つ。

 動作スイッチが入るのが聞こえた。じれったいほどゆっくりと、客席の気配が濃くなっていく。


 がたん、と音を立てて緞帳が上がりきる。顔を上げた。手を箏のうえに構える。


 箏曲に指揮者はいない。合図を出すのは最前列中央の理生りおだ。その背中にみんなの視線が集まっている。


 理生は一度落とした背をくっと上げる。タイミングを違えず親指に体重を乗せて、弾く。


 テーン。


 入りは緩やかに。左手で音の響きを変える。ホールの広さに、ピタリと揃った音が吸い込まれる。急かないように。


 トン、シャン。


 手は震えそうで、顔は熱くて、でも、指はちゃんと覚えている。みんなの呼吸がひとつになる。わくわくした。


 先生の注意を、楽譜にある無数の書き込みを思い出しながら、曲はなめらかに進んでいく。

 一段が終わり、二段に入る。練習ではあんなに苦労した細かい手が華やかに演奏を彩る。


 十二人がひとつのうねりになって曲はなにかの生き物みたいにホールを満たしていた。ひとりひとりの音がお互いを支えて豊かに、強く。

 二段から三段へ。盛り上がりをなぞるように、ゆっくりと加速をはじめる。


 熱いライトの向こうには客席が広がっているはずで、でもそちらを気にする余裕はなかった。私だけの演奏じゃない。心は箏の絃に似て張りつめている。

 三段を過ぎて四段。せわしなく手は動く。


 緊張を通り越したのか、音に酔っているのか、身体の中心がじんじんと痺れてくる。

 次は五段。走りきるだけだ。


 息が上がりそうだった。運動しているわけでもないのに。夢の中かと思うほどの浮遊感がある。

 六段に入った。半ばからは再び速度を緩めはじめる。


 あぁ、終わってしまう。名残惜しさを押し殺して、練習通りの速さで最後のフレーズを弾く。


 サーラリーン、シャーン……。


 余韻が消えると、拍手が湧いた。あたたかなシャワーのように、舞台に降り注ぐ。涙腺がおかしくなりそう。


 お辞儀を深く。最初の礼よりも実感がこもる。拍手はまだ止まない。

 緞帳がゆっくりと降りてくる。顔は上げない。これが私の初舞台だったなんて不思議で、まだ夢の中を漂っている気がした。旋律が耳に響き続けている。


 箏を抱えて退場する。先輩たちが音のない拍手で迎えてくれた。


 きっと、来年も真昼の砂漠のようなこの舞台に帰ってくるんだ。やりきったとは思えるけれど、満ち足りてはいない。むしろ弾く前にはなかった渇きを自覚していた。


 次の曲のアナウンスが始まった。

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