一年生合奏『六段の調』
舞台袖の床板が、靴下一枚の足裏にざらざらと冷たい。暗がりの中で装置を触る係員。スイッチ類の光が星のよう。アナウンスマイクに向かう
すこしお腹がすいた。
爪をはめた指を確かめる。象牙でできた演奏用の爪は、ネイルチップとは逆に指の腹側につける。全部の指につけてもいけない。右手の親指、人差し指、薬指の三本だけだ。半年前はそんなことも知らなかったのに、指にはめるエナメルの輪っかは皮膚にすっかり馴染んでいる。
「みんな、入って」
緞帳の裏にでかでかと書かれた「火の用心」に視線を奪われながら定位置に正座する。いちばん後ろの端っこは、私には安心できる場所だった。
楽譜はない。深呼吸をして、散々弾き込んだ譜面を思い出す。書き込みは記憶しやすいと聞きかじった青のペンにしていた。記憶のなかの注意事項が、冷たい色の文字で私を落ち着けてくれる。
みんなで一斉に、絃一本ずつ音を確かめる。一番高い手前から、いちばん低い向こうへ。
ここには先生が立会い、指示を受ける。言われた絃の
「――どうぞ最後まで、ごゆっくりお聴きくださいませ。一曲目は、一年生による合奏、
演目の解説に入る。ここまで来れば、出番はすぐに来てしまう。もう一度頭の中で出だしをなぞる。
「――経験者も初心者も力を合わせ、練習に取り組んできました。六段に始まり六段に終わる、といわれるほど箏の基本がつまったこの曲が、毎年の一年生の課題です。演奏会の最初を飾ると同時に、一年生の最初の一歩となる演奏。どうぞあたたかく迎えてくださいませ」
緞帳の分厚い布地ごしに、拍手の波が押し寄せる。お辞儀の格好で幕が上がるのを待つ。
動作スイッチが入るのが聞こえた。じれったいほどゆっくりと、客席の気配が濃くなっていく。
がたん、と音を立てて緞帳が上がりきる。顔を上げた。手を箏のうえに構える。
箏曲に指揮者はいない。合図を出すのは最前列中央の
理生は一度落とした背をくっと上げる。タイミングを違えず親指に体重を乗せて、弾く。
テーン。
入りは緩やかに。左手で音の響きを変える。ホールの広さに、ピタリと揃った音が吸い込まれる。急かないように。
トン、シャン。
手は震えそうで、顔は熱くて、でも、指はちゃんと覚えている。みんなの呼吸がひとつになる。わくわくした。
先生の注意を、楽譜にある無数の書き込みを思い出しながら、曲はなめらかに進んでいく。
一段が終わり、二段に入る。練習ではあんなに苦労した細かい手が華やかに演奏を彩る。
十二人がひとつのうねりになって曲はなにかの生き物みたいにホールを満たしていた。ひとりひとりの音がお互いを支えて豊かに、強く。
二段から三段へ。盛り上がりをなぞるように、ゆっくりと加速をはじめる。
熱いライトの向こうには客席が広がっているはずで、でもそちらを気にする余裕はなかった。私だけの演奏じゃない。心は箏の絃に似て張りつめている。
三段を過ぎて四段。せわしなく手は動く。
緊張を通り越したのか、音に酔っているのか、身体の中心がじんじんと痺れてくる。
次は五段。走りきるだけだ。
息が上がりそうだった。運動しているわけでもないのに。夢の中かと思うほどの浮遊感がある。
六段に入った。半ばからは再び速度を緩めはじめる。
あぁ、終わってしまう。名残惜しさを押し殺して、練習通りの速さで最後のフレーズを弾く。
サーラリーン、シャーン……。
余韻が消えると、拍手が湧いた。あたたかなシャワーのように、舞台に降り注ぐ。涙腺がおかしくなりそう。
お辞儀を深く。最初の礼よりも実感がこもる。拍手はまだ止まない。
緞帳がゆっくりと降りてくる。顔は上げない。これが私の初舞台だったなんて不思議で、まだ夢の中を漂っている気がした。旋律が耳に響き続けている。
箏を抱えて退場する。先輩たちが音のない拍手で迎えてくれた。
きっと、来年も真昼の砂漠のようなこの舞台に帰ってくるんだ。やりきったとは思えるけれど、満ち足りてはいない。むしろ弾く前にはなかった渇きを自覚していた。
次の曲のアナウンスが始まった。
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