十一

 開放廊下に女性が立っていた。

 春らしい暖色の上着を羽織って背筋を伸ばした横姿は、ゆったりとした口調で優しげなトーンでありながらも輪郭のはっきりとした声そのままといった印象だった。鍵をドアに差しこむ彼女の表情は、長い亜麻色の髪の陰になって見えない。

 出くわしてしまった。靴を履いた所で隣の部屋のドアが開く音が聞こえ、三和土で息を潜めてやり過ごしたというのに。忘れ物でもしたのだろうか。

 安普請のアパートは生活音や声が漏れ聞こえ僕は密かに彼女に親しみを覚えていたけれど、顔を合わせた事は一度もなかった。

 洗濯物を干しながら鼻唄を歌う声や、電話をしているとおぼしき話声から勝手に好印象を抱いただけだ。

 時には、嬌声が聞こえたりもした。ユニットバス内に反響したその声は、艶っぽさを帯びながらもあの独特の芯を失ってはいなかった。彼氏らしき男との睦言を耳にしても不思議と嫉妬はしなかった。むしろ彼氏がいるのは当然に思えた。

 僕の視線に気づいたのか、彼女がこちらを向いて挨拶をする。

 会釈をしてうつむいてしまったのでどんな顔をしていたのかわからないが、きっと声音からして微笑んでいたのだろう

 とたんに彼女と付き合っている男が憎らしくなった。


<了>【505文字】

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十一 @prprprp

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