Assassin【Code Name : Night Edge】

御手紙 葉

Assassin【Code Name : Night Edge】

 これは、夜の刃と呼ばれた一人の殺戮者についての記憶である。

 彼の破滅に向かうその太刀が振るわれる時、そこに人生の幕が下ろされる。それは無情な世の終わりのように、そして執着から離れた軽やかな終幕のように、闇を切り裂き、空を穿ち、やがて漆黒となる。

 闇に潜み、ターゲットを必ず死の淵へと追い詰めて斬撃を放つ。その剣戟の鮮やかさに、世にいる人々は彼のことを怖れながらも、こう語った。

 夜の刃。闇に潜む暗殺者、と。


 *


 少女は街を歩き去っていくその一人の青年へ向けて、叫んだ。行かないで、と。

「サラ。もう僕はこっち側へは戻れないよ。戦乱を終わらせる為に、僕は僕の力を尽くすだけだ。これが時代の流れなんだよ。僕の生はこの為にあったんだ。だから、わかってくれ――サラ、君だけはこの時代の行く末を見守っていればいいんだ」

「なんでよ……そんな剣を振るわなくたって、私達は一緒に、この街で、生を噛み締めて生きていけばいいじゃない。それは立派に時代を変えるってことなんだよ。一人一人の人間が心の闇と向き直れば、そこで時代は変わっていくんだよ」

「もう、戻れない」

 サラの言葉を、青年は刃ではなく、言葉の切っ先で抉った。サラは彼の背中へ駆け寄って腕を掴もうとしたが、すぐにつまずいて倒れてしまう。

 彼女は這うようにして彼の外套の裾を掴み、無我夢中で引っ張った。彼をこの街から出してはいけない、と不吉な予感が彼女の肌を冷たい夜気のように覆っていた。

「人を殺して戦乱が終わったとしても、それは本当の終わりじゃない。人の心が平和にならなければ、見えないところで戦乱は膨れ上がって、どうしようもなくなるわ」

 サラ、と彼はようやく足を止めて振り返り、ゆっくりと屈んで彼女の髪を撫でた。そのサラサラとした短い銀髪が、彼の手の中で音もなく滑った。

「そこまでわかっているなら、サラは道を間違えないよ。君はいつも道の奥にある光を見出して、それを自分の心にも灯して人々を照らすことができるんだ。君のような優しさを持った人なら、きっとこの時代を別の方向から変えていける」

「違うの、そういうことじゃない。私はただ――」

 彼はふっと一つ微笑みを零すと、彼女の肩を支えてその場に座らせた。そして、ゆっくりと――彼女の白い頬にキスをした。

「サラ、また会おう。僕は時代を変える。君も、君の道から時代を変えて、僕を見守っていてくれ」

 彼はそう言い、身を翻らせて夜の帳へと吸い込まれていく。道の先へと消えていく彼へと必死に手を伸ばしながら、サラは無我夢中で叫んだ。

 待って、行かないで!

 その声は無情に彼の外套に張り付き、夜の涙となってただ冷たい土へと消えていく。それは心の凍てつく刃と愛する人との別れがもたらした、彼が放った彼女への斬撃だった。

 彼の剣を受け止めた彼女は喘ぎ、地面へ倒れたまま、ただ咽び泣くしかない。

 ただ一つ、闇の中で輝く彼の太い剣の鞘を食い入るように見つめたまま。


 *


 彼は確かに時代を変えた。彼はその剣だけで殺戮者となり、戦乱の渦の中心にいた。そして、彼の言葉の通りに、彼は人を殺して時代を変えたのだ。サラはずっとその街に暮らしながら、彼の噂を度々耳にした。戦場で風のように一瞬だけ現れ、標的を必ず射止める暗殺者のことを。

 彼は要人を殺し、手練れを抹殺し、一人戦場の頂点に立っていた。そして、誰にもその言葉を聞かれることなく、ただ無言で、風の唸りのように速い剣戟で相手の体を断つ。

 その人が彼だとわかったのは、ある記者が彼の姿を一度だけ捉えたことがあったからだ。

 その新聞に大きく載った写真は、黒い外套で全身を覆い、フードで顔は隠れており、ただその腰から太刀の鞘が覗いていた。その鞘を見て、サラが見誤るはずがなかった。彼の太刀は世界でたった一つしかない、彼だけのものだったからだ。

 鞘にはわずかに宝石が数点埋め込まれ、闇でも光輝くようになっている。そして、紋章。彼の体にも刻まれたその刻印は、彼と剣を繋げるものだった。その剣を見て、見紛うはずがない。彼が剣を手にし、振るう姿を見ていた私が、錯覚と判断するはずがないだろう。

 サラは街中に落ちていたその新聞を手にして震えながら、花壇の縁に腰掛け、あの日のように涙を流した。けれど、今度はとても静かな――伝い落ちるだけの涙だった。

 彼は殺戮者となった。そしてまだ私は、この時代を変えられずにいる。

 彼がこの街を去ったあの日のことを、今でも鮮明に思い出せる。

 地面を踏みしめ、迷いなく夜の帳へと向かって突き進むその細い影。禍々しいほどに闇夜に煌めく、太い剣の鞘。血の匂いのする彼の赤い眼光。

 ――待って、行かないで!

 何度も叫んだその自分の悲痛な声が、耳の奥で蘇る。今だって叫んでいる。私はあの人の帰りを待って、ずっとずっと手を伸ばして呼んでいる。

 ――待って、行かないで!

 その呼び声は、冬の凍てつく刃に切り伏せられ、彼がかつてサラを犯した剣先によって、跡形もなく宙を舞う。


 *


 ジャンは酒場で酔っぱらって女に手を出そうとする連れの男二人を思いっ切り掌で叩きながら、その礼を言ってきた女がどこか彼女に似ていたので、少しの間、女の顔に見入ってしまった。

 何かしら、と女がまんざらでもなさそうに聞いてくるので、ようやく我に返った。何でもないさ、とジャンは苦笑しながら、ビールをさらにもう一杯、一気に呑んだ。

 こうして冬になると、いつも思い出す。彼女と別れたあの日のことを。

 外套を羽織り、街を出て行こうとする彼を、その少女は必死に這ってしがみ付き、押し留めようとした。

 ――待って、行かないで!

 涙を流しながら懇願する彼女の頭に手を置きながら、彼はただ笑ってその場を立ち去ってしまったのだ。それに対して、後悔がなかったはずはない。彼女の悲痛な泣き声を耳にして、何度も足を止めかけ、己の進もうとしている道が本当に正しいのか、考えようとしてやめた。

 彼が腰に差した太刀の先のように、その鋭い心の刃によって、彼女の想いを切り伏せてしまったのだ。

 その斬撃は無情で、残酷で、そして哀しみに溢れている。その哀しみを失った今、僕はまだ自分を人間と呼べるのか――そんなことを、ふと思った。

 ジャンはビールをもう一杯飲み干すと、連れの男達に、いい加減暴れるなよ、と一人ずつ殴って静かにさせた。

「なんだよ、ジャン。せっかく大金稼いで飲みに来たのに、つれねえじゃねえか。もしかして、昔の女のことでも思い出してるのかよ? せっかくこんないい女に溢れているっていうのに、勿体ないことだわな、はっ!」

 禿頭の男は下卑た笑いを浮かべながら、自分に寄りかかってくる女の肩を抱いている。一方、もう一人の角刈りの頭をした男も、馬鹿笑いを続けながら、手羽先を齧っている。

「俺達は頼まれた仕事を忠実にこなしたんだ。それだけ、女と食い物にありつける権利がある。お前ときたら、澄まし顔で明後日の方向を見ながらビールをちびちび飲むだけだ。いい加減、この後のハッスルする時間のことも考えたらどうだ」

 禿頭の男――同じく暗殺部隊の一員で、共同で同じ敵を屠った仲間だ。ジャンにとっては本当にいけ好かない男だが、その腕前だけは巨漢五人がかりでも全く動じない天性のものを持っている。

「そうだぞ、ジャン。お前は何の為に戦っているんだよ。そこまで強いのに、全く自分の手の内を晒さずにいつも達観ときてやがる。お前の馬鹿笑いもたまには聞いてみたいもんだ」

 禿頭の男よりさらに体を大きくさせた角刈りの男は、暗殺部隊の一員としてはかなりの熟練だ。肩で背負うような大剣を振り回し、相手の剣ごと体を粉砕する。それはまさに、戦場の獣の姿だ。

 剛腕のイリス。大剣のモーリス。この辺りでは一番有名な手練れの二人だ。

「俺はお前達のように、隙を見せてしまうような遊び方はしない。ここも、ある意味戦場だからな」

「はっ! 酒場でビール飲んでる時も、戦場と同じなのかよ。お前のイチモツは女を見ても、腰から提げたそのちっちぇえ剣みたいに萎れたままか? いい加減、目を覚まして飲めよ。ほら、モタモタしないで、どんどん持ってこい!」

 イリスがその太い腕を振って、酒場の店員にビールを次々と持って来させる。ジャンはそんな彼らの様子を見つめながら笑っていたが、差し出されたジョッキを返そうとはしなかった。

「いいか、ジャン。お前は本当に俺達と互角を争うぐらいの強者だが、上には上がいるんだぜ」

 そう言って、モーリスはカウンターの端っこでのんびり新聞を読みながら酒を飲んでいた若者から、その記事をひったくって、ひらひらと振ってみせた。

「夜の刃さんがよ、最近全く噂を耳にしないのよ。どうも、殺されたとか言われてるみたいだな」

 ジャンの肩が一瞬、ピタリと動かなくなった。そして、明後日の方向を向いていたその顔を振り返らせた時、イリスとモーリスの顔が硬直した。

 その笑みは一緒のままなのに、その口元は緩んだままなのに――その赤い眼光が、血走っていた。

 その射抜くような殺しの眼差し。不完全な善への渇望。漆黒の闇に渦巻く光の螺旋。

 イリスとモーリスの額に一瞬、汗が浮かんだが、すぐに彼らは笑いながら、元のようにジャンの隣に座った。

「夜の刃は手練れの暗殺者に殺されたんじゃないかと噂されている。それこそ、S級の奴だ。たぶん、俺達でも敵わない。夜の刃を殺ったとなると、それはもう、人間の域を超えている」

「本当にそうなのか? 僕は奴がまだ生きていると思うな。まだその剣の矛先で誰かを殺っている」

「あのな、新聞の記事ならまだしも、俺達の情報の中でも浮き上がってこないんだぜ? あれだけ戦場のパワーバランスを簡単に覆す奴が、一切姿を見せずに戦況を混沌としたものにさせている。これは本当に、少し前では考えられないような状況だぞ?」

「噂は噂を呼ぶ。僕達が何を言ったって、全くそんなことは取るに足らない世間話にしかならない。無意味だ」

 そうか、とイリスはそこで少しだけ声を低くし、笑顔を冷めたものにさせた。ジャンはその表情をちらりと見て、いつものように笑うと、何も言わずに椅子から立ち上がった。

 そんな彼を見て、二人もやれやれとばかりに首を振り、各々の武器を手にして立ち上がる。

「勘定は僕が持つ。世話になったからな」

 ジャンは懐に手を入れると、店員がぎょっとして腰を抜かすような金貨をカウンターへと置き、裏口から出て行く。二人も肩をすくめながらその後に続いて外へと向かった。

「ジャン、お前本当にまたこの街を離れるのか?」

「もう一度、俺達と一緒に戦わないか? 俺達はお前の力を買っている。俺達三人が揃えば、まず誰にも負けない。それこそ、夜の刃であってもだ」

 ひんやりとした夜気の中に放り出された三人は一列になって歩きながら、そんな酒場の明るい雰囲気とは全く温度の違う会話を交わす。

「なあ、本当に――」

「すまないな。お前達との仲はこれで終わりだ」

 ジャンは振り向かずにそう言って、酒場の裏手の通りを歩き出す。イリスが言葉を切り、足を止めた。そして――。


 剛腕の触手が、ジャンの残像を裂いた。空を切る剣先の手応えのなさに、イリスが舌打ちを付き、ジャンの姿を探そうとしたが、その時には――。

「――ッ!」

 視線を横に投げると同時、イリスの喉は掻き切られていた。それでも寸前で致命傷を避け、後ろに飛ぶ。入れ替わるようにモーリスが大剣を風圧で物言わせながら、ジャンの剣を捌いた。

 いや――それは捌いたと錯覚しただけで、ジャンはその大剣を握ったモーリスの腕を宙に舞わせていた。

「うがあああああッ!」

 モーリスが倒れ込むより早く、イリスが上着を赤く染めながら、瞬速で剣を振るってくる。ジャンはその剣先を、鼻先で全て細い剣で受け止め、横に飛んだ。

 ジャンがいた場所に無数の影が殺到し、どこに潜んでいたのか、酒場の影は血に塗れた殺し屋達の剣先の鈍い光で浮き上がっていた。

「逃がすな、奴をここで仕留めろ!」

「腕一本でもいい! 必ず奪え!」

 無数の刃が立ち尽くすジャンの元へと向かってくる。ジャンはその疾走する影の集団を無感情に見つめながら、あの夜のことを思い出していた。

 あれは、まさに天上の紙一重の戦いだった。あれが、僕の全てを狂わせたのだ。

「シッ!」

 その見えない刃が顔を掠めると同時、ジャンはその影の急所を突いて、横へ飛び、一撃、二撃をかわし、モーリスの大剣を掴んで二人を斬った。すかさず大剣を立ててその上を飛び、壁を飛び、影達が呆然と空を見上げる中、旋風の一撃で奴らを穿つ。

 ――それは無情な世の終わりのように、そして執着から離れた軽やかな終幕のように、闇を切り裂き、空を穿ち、やがて漆黒となる。

 もう声を出すこともなく、影は影として、散った。ジャンは全く剣を深いところまで使うことなく、剣先だけで相手を仕留めていた。刃に歪みは一切ない。あるのはただ、鮮やかな剣戟の軌跡を描いた地面の赤い紋様だけだ。

 ジャンは剣を疾風の速さで一振りし、血の雫を払い除けると、それを鞘へと差そうとした。すると、その瞬間――。

「とっとと逝きやがれ、この化け物がッ!」

 背後から声がして、時を凌駕する凄まじい斬撃がジャンの背中へと放たれた。ジャンはそこから動こうとせず、ただ腕を肩の上で振って、その斬撃を受け流した。

「てめえは人間じゃねえ。俺達のこと、いつから感づいていたんだ?」

 イリスが首から血を流しながら、剣を地面へ突き立てて杖にし、ゆっくりとジャンの元へと歩み寄ってくる。

 ジャンは振り返り、その絶対零度の暗殺者の瞳を見つめながら、少しだけ笑って言った。

「最初からだな。バレバレだ」

「わざわざお前と一緒に敵を殺ったことも、全てが水の泡か。お前、夜の刃だな?」

「違う。僕はお前と同じ、ただの暗殺者だ」

「ただの暗殺者が、十五人を一気に斬り伏せられるかよ。てめえは、人間じゃねえ。だから、最後に掠り傷一つでもいい、貰っていく」

 ジャンはイリスに向かい合って剣を両手で握って構えた。イリスは獲物を仕留めるそのいつもの構えで、立ち向かってくる。

 瞬間、獲物を刈る時の彼らの下卑た笑いや、豪快な剣戟を思い出し、笑みが漏れた。そして――。


 ジャンが剣を振るうより先に、イリスの首筋には大きな裂け目が開き、彼は呆然とジャンを見つめながら倒れていく。ジャンのうなじに一陣の風が吹き、何かがイリスの背後を駆け抜けたような気がした。しかし、その姿は捉えることができなかった。

 ジャンの息が止まる。彼が斬撃を放つよりも先に、イリスは誰かの手によって斬り伏せられ、絶命していた。

「な、に……?」

 地面で事切れているイリスを見つめながら、ジャンは離れたところに立つその一つの影に気付いた。

 その長く細い影は漆黒で、まさに夜の闇を切り伏せ、中から死という混沌を溢れ出させる尋常ではない気配を放っていた。こいつは、人間じゃない。ジャンは理解した。十五人を斬り伏せたジャンが人間でないとするなら、こいつは化け物を超えた規格外だ。

 絶対に、敵わない。そう体の震えが語っていた。


 ふわりと、風が吹く。その影の黒い外套が捲れ上がる。そこに、小さな点々とした宝石の光が浮き上がり、太刀の鞘が露になる。そこに刻まれた紋章――その、禍々しい暗殺者の名を冠した剣の確かな証だ。

「貴様」

 ジャンが剣を握って構えると同時に、フードを被ったその影は地面を蹴って消えた。ジャンの視界に、朧げにその影が疾走していく残像が見える。その死の走馬灯が過った時、もうジャンは駆け出していた。

 夜の闇を穿ち、風を斬り伏せ、時を凌駕し、二人はとてつもない速さで街を抜けていく。その先にあるのは、あの雑木林だった。ジャンの胸の内でその恐怖が再び、懐かしさを伴って大きくなっていく。

 そんな、まさか――あそこは――。

 やがて林が周囲から消え、開けた大きな丘が見えた。砂埃が漂い、喉をいがらっぽい咳が覆う、まさに墓標を立てるには相応の、死の聖地だった。その影は丘の中央に立つと――“奴”と同じように、ただ無造作に両腕を伸ばして立ち、こちらへと振り返った。

 赤い眼光が、酒場の看板のネオンのように――いや、死を予兆する警笛のように、ジャンの胸を刺す。

 そんな――あいつは、もうこの世には――。

 奴がその太刀を抜いた。夜の中に映えるその無色の鉄屑は、今まで幾千もの兵士を、人間を、歴史を、時代を、屠ってきた禍々しく呪われた凶器だ。そんなものを“二度”受け止めて、僕が再び生きて返れる保証はない。

 ジャンは覚悟を決めた。そして、この夜の奇跡に、感謝さえ覚える。自分もその細い剣を抜いた。それを横に構える。距離はとても開いている。二人の間を、砂埃を纏った肌に乾いた風が吹き抜けていく。その砂塵が舞った瞬間、ジャンは地面を蹴ろうとして、すぐ目前に奴が迫っていることに気付いた。

 速すぎる――。

 だが、ジャンも宙に浮いた瞬間、視認できない速さで剣戟を放っていた。奴の外套が膨れ上がり、その紋様の鞘がその剣を受け止めた。ジャンが、なに、と目を見開くのと同時に、奴は体を反転させて、その勢いのまま、ジャンの剣の深いところへと想像を絶する圧力の斬撃を放っていた。

 まさかモーリスの大剣ならまだしも、あの長さの太刀で、ここまで吹っ飛ばされるとは。

 ジャンは宙を飛びながら、一本の木の幹に足を付けて宙で静止し、相手の姿を再び確認しようとした。だが、その瞬間には奴はその場から消え、斜め死角から斬撃が宙へと一直線に向かってきた。

 な、にッ!

 直観だけでその剣戟を己の剣で受け流す。だが、その斬撃の深い圧力に体が木の幹へと押し潰される。すかさず、一撃、二撃――。斜めへの斬撃は、空から地から息つく暇もなく繰り出され、その戦い方には、本当にあの時と同じ戦慄を覚えた。

 あの時と同じだ。あらゆる角度から見えない速度で攻撃を繰り出し、その圧力で相手に何もさせなくさせる。やがて剣は折れ、己が分断されるのを見守るしかない。だが、僕はあの時――。

「生きる」

 そう心に決めたのだ。例え相手が夜の刃でも――一度、“屠ったはずの相手”でも、それは変わらない。僕は何度でも、地を這って、奴の首を狙い続ける。

「僕はッ」

 奴の斬撃を受け止めていた両腕を持ち上げ、それを奴の影へ向けて、今までの圧力とは比較にならないほどの斬撃を放った。直後に肩に衝撃。相手の斬撃を受け止め、抵抗せずに、逆に諸刃の剣を放つ。傷を負うのは承知している。食らい逃げで開いた相手の隙を狙う――!

 奴が地面へ着地し、飛び退いた。だが、その瞬間にはジャンの斬撃は風を唸る螺旋のように相手へ襲い掛かる。

 一撃――相手の足元に跳ね除けられる――二撃――相手の肩に確かに斬撃――三撃目――太刀に軌道を変えられ、逆にジャンが懐に軽傷――四撃、五撃、六撃、七撃、八撃目――。

「シッ」

 間髪入れずに相手の懐に飛び込み、拳を突き出す。鉄屑に覆われたその掌を受け止めた奴はまず失神する。あの時、夜の刃を屠った攻撃も、これだ。

 ――今度も――――――やれるッ!


 そう考え、思いっ切り相手の鳩尾を突いた手応えが伝わってきた。奴の体が傾ぐ。意識を失った証拠だ。

 最後の斬撃を放ち、奴は分断され、血飛沫を上げ、全てが終わりを告げる――はずだった。


 短い剣戟の交差する金属音。ジャンは懐に入って突き出したその攻撃が、確かに――奴の鞘に押し留められていたことを悟った。

 そして――自分の腕が即座に斬り伏せられる。

 地面に膝を突き、祈るような格好で――空を仰ぎ、その闇に潜み、夜の刃と化した暗殺者を見つめる。

 奴には一度勝った。そして、確かにあの男は事切れていたはずだ。

 この丘で、奴と剣戟を交え、最後に螺旋の一撃で仕留めた。奴の死骸はこの丘にそのまま放置し、この死神が今手にしているその剣も、捨てた。なのに――屠ったはずなのに、殺したはずなのに――。

「どうして、だ。僕はお前を一度、殺したはずなのに。どうして――何者だ、お前は」

 目から溢れるように雫が零れ落ち、外套を伝って夜の見えない紋様を描く。そこにはもう、生への執着と、後悔と、それと残してきた彼女への懺悔が、夜を穿ち、疾走する暗殺者の走馬灯として、闇に刻まれる。

 それは本当に残酷で、無情で、そして哀しみに溢れている。

 夜の刃が自分の黒いフードに手を掛けた。そして、ゆっくりと――それを下ろした。


 きらりと月明かりに瞬く銀髪。ぞっとするほど白い、死人の頬。

 女、だった。あの時の男とは違う、とても美しい――見惚れてしまうほどに神々しい、一人の殺戮者。

「貴方が、クリスを殺した、“月夜の刃”、ジャンね」

 その女の瞳から硝子細工のような、美しい一雫が伝い落ち、月の光に瞬く。

 本当に、美しい。そして、本当に禍々しい。

「貴方がクリスを殺し、この丘に捨てたのね。私はここに来て、クリスと再会し、そしてこの剣を受け取った。彼はもう喋らないし、この世にもその魂は残されていなかった。でも、私にはまだ彼の声が聞こえたの。時代を変えるには――やはり、人を殺しても、欺いても、結局は――最後の一人まで救われるべきなんだって。だからね、私はクリスの為に、最後の剣を振るうことにしたの」

 腕から伝い落ちる血の雫が、ジャンの足元に落ちていく。ジャンは泣きながらその女神を仰ぎ、やがてつぶやく。

「夜の刃はお前だったのか?」

「私はクリスと一緒に、ある街でずっと暗殺術を教え込まれていた。でも、私にはその道を貫くことはできなかったの。私は剣を捨て、街に残り、彼は剣を翳し、時代へ立ち向かった。私達は正反対の道を歩いてきたけど、でもね――クリスを殺した貴方だけは、この剣で屠らなければいけないと思った。だから、最後の剣を抜いた」

 女は妖しく笑い、唇の端に血糊を付けたまま、優しく諭すように言った。

「後悔はない?」

 後悔は、ある。あの街に残してきてしまった彼女が、今も僕を待っている。

 ――待って、行かないで!

 僕の外套を掴み、必死に押し留めようとした彼女の悲痛な泣き顔を思い出す。僕は誤った道を歩んでしまったんだな――そう最後に、ようやく理解した。

「最後に、何か言いたいことはある?」

「お前は、何者だ」

「私は――」


 「サラ。サラ・アッシュブラウン」


 彼女はそうつぶやき、くすりと笑うと――。

「偽名だけどね」

 そう言って、剣を薙ぎ払った。


 最後に、ジャンの頭を掠めたのは、愛しい一人の女性への、懺悔だった。

「マリー、――」

 サラの頭越しに、本当に美しいまんまるの月が輝いていた。

 その月へと願いを篭め、ジャンは目を閉じた。


 *


 その夜、一人の少女が教会の屋根裏部屋から、窓の外を見て、月に祈っていた。

 彼が再びこの街に帰ってくることを。そして――。

「――ッ」

 少女は目を見開いて、はっとしたようにその満月を見つめた。

 どこからか、彼の声が聞こえたような気がしたからだ。

「ジャン……」

 その小さな月夜の花びらは、幾千の兵士の血に塗れ、妖しく夜に溶けていく。


 了

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