Chapter.3

「―――」


藤田さんの唇が何か言葉を発したかのように動いたが、雨の音で聞き取れなかった。「違う」とか「そうじゃない」とか、そういうニュアンスを汲み取ったが、単に寒さで唇が震えただけなのかもしれない。


彼は気づいていたのかな。


「藤田さん?」

努めて明るく聞いてみたが、たぶん聞こえていない。彼は顔を上げたが、その表情は笑ってるのか泣いているのか、はっきりとした感情を伺うことはできない。何か言葉を紡ごうと口を大きく開く。いつもみたいに、震え声でそのくせやたら大きい声で、冗談しか言わないくせに。


「僕、安野さんと一番よく話をするのに、たぶん安野さんのこと何も分かっていないですよね」


その時はたまたま、ぼそぼそ声だったがとてもはっきりと聞こえた。





「藤田さん、急に辞めちゃうなんて、何かあったんすかね?」

閉店後、レジの閉め作業していると、床拭きモップの柄に顎を乗せながら渡部くんが後ろから近づいてきた。

「さあ、一身上の都合じゃない」

「いや、それは形式ではでしょ?」

「また顎ケガするよ」

「つめたいー」


渡部君はそう言いながらもひょろ長い体格を生かし(?)て陳列棚の下にモップを滑り込ませてゴミを掻きだそうとしている。こういう、身体を動かす仕事は真面目にやってくれる。


「あっ、なんかぁー噂なんすけど、就職活動的な?理由とかで」

「ふーん」

「だったら決まってから辞めたらいいのにってなりません?」

「人それぞれでしょ」

「つめたいー」


送別会もプレゼントも渡せないまま、彼は職場から姿を消した。店長には話を通していたらしく、一応正式なやり方で消えたのだが、メンバーのほとんどが彼の退職を訝しんだに違いない。


私もその一人になれたらどれだけ楽だったか。


閉店作業も終わり、渡部君と別れて建物の外へ出ると、夕方からの雨がまだ降り続いていた。

またうっかり傘を忘れていた私は、鞄の中の書類のことや、図書館で借りた本の存在もおかまいなく、そのまま一歩踏み出した。次第に、身体は冷え、湿気を吸った服が重力を持たせて足取りが重くなる。晴れている日でも、頭上に雨が落ちてこない屋内だって、部屋の中でも、私は常に雨を受けている。


終わらない仕事、ゆるい繋がりの固執、睡眠不足。


無意味で何も生み出さない会話。文字に起こしても何の発見もない。何もないけれど、それは日常の中に潜む虚無感から救い出してくれる、ささやかだが偉大な幸福。いつしか優しい記憶として保存され、繰り返される日常に埋もれていく。ときどき、思い出しては、掘り返して、しばらく眺めてはまた深い場所に埋め直す。


私はこの作業を、後何年くらい続けるのだろう?


鉛のように感じていた身体はさらに、熱を奪い、冷たさすらも感じなくなった。あの日の彼との距離感も測れないまま、景色がおぼろげになっていく。


「今日も、傘、忘れたんですか?」


いつの間にか、目の前で彼が傘を差し出していた。いつもと変わない、少し含み笑いを持たせた、したり顔で。


私は今、都合の良い夢でも見ているのだろうか。


「そろそろ風邪をひくかもしれませんね」

「じゃあ、お見舞いに行きましょうか」

「ずいぶんと進めてきますね」

「僕もう、安野さんにとって職場の人間ではありませんので」


じゃあ、あなたは私の何だろう。


彼の唇が都合の良い言葉を紡ぐことを願って、私たちはどちらからともなく歩き始めた。



《最強の理由》


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最強の理由 android @android

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