Chapter.2


「安野さんて、すごく明るくてコミュ力高いのに、プライベートが謎ですよね」



営業が終わり、一人、夜遅くパソコン作業をしていた私を見かねた(?)スタッフの一人が、「傘を忘れたので取りに来ました」とひょこっと顔を出してきた。

店内では、傘を持った客がちらほらいたが、天気予報では通り雨の可能性と言っていたし、置き傘すら持って来ていない。昔から「かもしれない」から、置き傘だの替えのストッキングだの、病気でもないのに薬だの、通帳、ナプキンなどなど、余計な物を鞄に入れる悪癖があるので、社会人になって一念発起として、鞄の断捨離を始めた。

結果、通勤(徒歩)にストレスはないが、今日みたいな大事な日に限って、忘れ物が出てきたりして、今は別のストレスと戦っているが。


「外、結構降ってますよ、大丈夫ですか?」彼――藤田さんはチェックの折り畳み傘を振って見せた。

さっきまでは新入社員の渡部君が「んじゃ、おつかれーっす」とチャラい挨拶を繰り出してそそくさと帰ってしまったのに、もう、この人は優しいな…

まぁ本当に傘を忘れて戻って来たのだから、一応、目上の人には天候に対する気遣いの一つや二つ繰り出すべきだろう、という彼なりの理由があるかもしれない。

「目上」といっても、キャリアと年齢では彼の方が一年長いので、尊敬の念も込めて、いつも互いの会話は敬語(私は仕事上の関係なら、年上年下関係なく敬語しか使わないという、不自然なルールを自分に課している)である。


「暴風雨ですか?」と言いながら、私はパソコンの電源を落とし、椅子から立ち上がった。そこそこの小雨なら間を縫って帰ればいい。職場から10分走れば、家に辿り着く。


「そこそこの大雨なら、走って帰れますから」と、ロッカーから鞄を取り出す。大丈夫、鞄の中には大事な書類は入っていない。藤田さんはこの返しの後に紡ぐ言葉を失ったようで、口元は笑っているが、目元が強張っているように見えた。もともと、この会話で切るカードなど用意していなかったのか、はたまた…


「安野さんの中の、暴風雨の基準が分からないです」

「すべての電車が運転停止になるレベルですかね」

「警報レベルじゃないですか」

「乗り物が乗れなくなると、もう生身の人間が外歩くの危険じゃないですか、その基準ですね」

「すみません、僕にはその基準、理解できないです」


私と藤田さんの間で、オチのない、否、オチを作らなくてもいい所謂どうでもいい会話が最近増えている。これって初対面から大きく進歩したからこそ成せる現象だと思う。ぽーんと何かを投げかけ、その反応を見て楽しんで、けれど結局何の話か忘れてしまう。会話の醍醐味というか、たぶん家族や親密な友人の間ではとうに過ぎ去った、「半知り」状態を私は今、とても満喫している。


彼は気づいているだろうか?


「傘持って来てないんですか?」と、彼は遅まきながら私が傘を忘れたことを察し(てくれ)た。よく見ると、目元が緩くなっている。どうやら余裕を取り戻してきた様子。


「実は…持って来ていないんです、ごめんなさい」

私は怒られた小さな子どもみたいに俯いた。「謝らないでください」と、藤田さんはようやくここで声に出して笑った。地声は小さいが、笑い声がやたら大きい。


「置き傘の奇跡を信じます!」と、休憩室の傘立てに視線を移すと、そこには透明なビニール傘が3本差さっていた。しかし、全て謎の死を遂げている。捨ててくれ。


「もう選択肢はありませんね」

「…ぐぬぬ」

「変なところで意地張らないでください」

「仕方ない。ここは入って差し上げます」


藤田さんはしたり顔のまま頷いた。


そして、冒頭の会話に戻る。

せっかくなので、非日常なシチュエーションだし、家族の話を切り出してみる。

さっきの母の話をざっくり(すごく都合の良い言葉!)まとめて語ると、藤田さんは笑ったり驚いたりと、雨の鬱陶しさが吹き飛ぶくらい、面白い反応を示してくれた。


私は彼の視線の隙を見て、濡れた左肩をハンカチで押さえた。小さな折り畳み傘では、雨を凌ぐ面積はごくわずかなもの。藤田さんの少し癖のある髪が湿気を吸っているので、少しボリューミーで可愛くなっている。


「自分の話」をしたくない時、私は躊躇なく人の話をする。


というか、今までの会話の話題は、大半が人の話で、これまでに自分の話題をこしらえていなかった。人にかまけて自分をおざなりにしていた、なんて言い訳でしかないが、私にとっては最大の理由だと思う。

例えば、教師をしている兄の話、舞台女優として奮闘している幼馴染、フリーターだが、もうすぐ結婚する彼氏がいる友達。みんな辛い現実と戦っているが、話を聞いてみれば、それはそれで幸せな生活を送っている。みんながみんな、ないものねだりをしていて、生きているステージなんて全く違うのに、どうしても幸せの「平均値」みたいなものを無理矢理作り出して、自らのそれと比べる辛い作業を毎日繰り返している。


他人の幸せを所有することに、惨めとか悔しいとか、そういう抵抗を感じなくなったのは、成長したから?理由は分からない。考えたくもない。


「プライベートって呼べるようなプライベートはありません」

「じゃあ安野さんにとって、プライベートとは何です?」

「藤田さんはそんな話をするために、私を傘に入れたのですか?」


冗談気に言うと、急に頭頂部に冷たい雨が刺さるように降ってきた。藤田さんが傘を持ったまま、いきなり立ち止まったのだ。私の数歩後ろで、少し下を向いて、表情は伺えないが、あきらかに今の私の言葉に「良い」反応をもたらしていないことは分かった。雨は思った以上に冷たかったが、私の身体から刺すような痛みはとうに消え去り、後は湿気と水を吸った服が鉛のように重いだけだった。


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