第6話 歩かねばならない(この足は誰のものでもなく私の足だ)

 空は晴れた。

海も凪いだ。

まるで何も無かった様に静まり返っていた。

僕は長い坂を滑り降りていた。

時の止まったこの場所から、もう何処かへ行きたくはなかった。

白砂に車輪が食い込んで、足を取られた。

僕の身体は放り出される。

されるがままに、僕は砂の上に倒れ伏した。

もう、何処へも行きたくない。


「よう、サボリ魔」

影が僕の身体を覆った。

「メーノか」

「毎度毎度オレで悪いな」

しょうがない、近くに家があるんだから。

「そういうメーノもサボりじゃないか」

「ああ、俺は……そうだな。サボりって言うか、撤退だな」

「撤退?」

驚いて身体を起こした僕に、彼はニヤリと笑いかける。

「学校なんかにいられなくなったんだよ」

「退学ってこと?」

「やめてきた」

「あと何ヶ月で卒業だろ!?」

「だからだよ。たかが数カ月に何の意味がある? チャンスは今だって思ったんだ。だからやめた」

「やめてどうするのさ!」

「前にも言っただろ? 俺はこの町を出るんだって」

「だから、それは無茶だって……」

「ソロ、どの道を行くか考えた事は?」

「な、なに?」

「自分がどの道を歩くかを考えた事はあるかって聞いてるんだよ」

「……ない」

「うそだ」

笑いながら僕を小突いた。

「うそだよ、そんなの。お前、流されて何となく生きてきたと思ってるんだろ?」

「そ、そう、いや、うん、多分」

「でも、そんな事ってねぇんだよ。いつも、知らず知らずに俺達は道を選んでんの。どの道を通るか、無意識のうちに判断してんだな」

「そ、そうなのかな? 僕には自信がないな、選んでるって」

「だって、お前は死にもせずにこうやって生きてるじゃねーか。どの道を選んだって良いんだぜ? 突然自殺したって良いんだ。いや、それにしたって自分で選んで生きてるんだぜ?」

でも、僕は、漂っているだけだ。

遠くからやって来るものに脅え、倒されそうになってふらついてばかりいる。

それって、選んでいるのか?

「じゃあ、さ。道を選ばないって言うのはどうなの?」

「逃げるって事か?」

「そう」

「それも選んでるんじゃねぇか? 逃げるって事を選んで……」

「そんなのじゃ意味ないじゃないか! いつまでもグダグダやってて、脅えてるなんて、選んだ事にはならないよ」

彼は笑い出し、両足を投げた。

それから強く僕を小突きはじめた。

段々痛くなってくる。

「俺もそう思ってたんだよなぁ。俺もさ、逃げようと思ってたわけ。行きたい所、したい事、仕事、未来のこと、全部どうでも良いと思ってた。とりあえず、なるようになるって」

「なるんだろ」

「さあな、なるかもな。だけどさ、突然気が付いたんだ。脅えてて、どうにもなんねぇ自分に」

メーノは砂を握って、風に向けて放った。

「俺の従兄が戦争で死んだ」

砂はあっという間に霧散する。

「俺に楽器とか色々教えてくれた人でさ。辻楽士だったんだ。その人は逃げて、逃げて、逃げて、死んだんだ」

「弾を避け切れなかったんだ?」

「ははっ。わりぃ、わかりにくかったな。その人はさぁ、何にもしなくても金はある様な家に産まれたんだよ。どうしてそんなのが俺の親戚だか知らねぇんだけどさ。何もしなくてもどうにでもなる人だった。そのかわり、何かをしちゃいけなかった。家名を汚す様な事はな。……辻楽士なんて、絶対にダメだった。だから、その人は逃げた」

「どこへ?」

「家から。そのあとは町から。それでもダメだから戦場へ。逃げて逃げて、その人は死ぬまで歌い続けて死んだんだよ。馬鹿な話だけどさ、そいつは塹壕の中で歌っていて死んだんだって」

もう一度、砂を取る。

「俺もそうするつもりなんだ」

「せ、戦場へ?」

「バカ、そんなつもりはねぇよ。俺はまだ死にたくはない。だけど……俺が俺の靴を履いて俺の行く道を行くとこから始めるんだ」

砂がまた舞う。

「なあ、逃げるのって悪い事なのか?」

僕にはわからない。

だから、答えなかった。

「その人は葬式もあげられなかった。どうしてだか、うちへ遺骨が来た。俺はな、ソロ、どんな道を選ぶかは大して重要な事じゃないと思うんだ」

とん、と人指し指でこめかみを突いて、僕を睨む。

「大事なのは覚悟だと思うんだ。言葉じゃない、腹の底からここまで突っ込んでくるものだよ。俺はさ、別に何にも優れちゃいないけど、覚悟だけは決めてやるつもりだ。躊躇ったり諦めたりするのは余裕のあるやつのすることだろう? 俺等みたいなのぁ覚悟を決めるしかないんだよ。決心、覚悟。俺の頼りはそれしかないんだ」

「……うん」

「俺も逃げる事に決めた。この町から、親父の敷いた道から、あらゆる事から逃げまくってみせる。俺は今まで……なあ、気が付いたんだ……俺は逃げてもいなかったんだって。脅えてオロオロしていただけなんだ。逃げるのって悪い事なのか?」

「僕は……。僕には、逃げる事なんてできないよ」

「じゃあ、どうする? 突き進むか?」

「わ、わからない」

とん、と腹を突いた。

「わからないよな」

じんわりと痛みが広がる。

僕は、両膝を握り締めた。





 僕は久し振りに開いた八号を通って病院へ向ったが、フィーネの顔が二階の窓から見えていてすぐに引き返した。

やっぱり顔は合わせづらかった。

それに、フィーネの眼は遠い海と空の合間を見ていたから。

その顔は、何だか知らぬ人の様に見えた。


コンツェルトは、元気がなかった。

ああ、そう言えば今日は餌を出してなかったな。

「ごめん、今出すよ」

批難がましく鳴いて僕を見上げる。

わかった、わかった。

餌を出すと急に元気になる。

ゲンキンな奴。

僕はコンツェルトの頭を叩いた。

「ソロ」

母の声が響く。

僕はそれを無視して自室に向った。

母は何度か呼び掛けるが、僕はそれをすべて無視した。

ベッドでうつらうつらとしていると、ノックが聞こえたが、僕は答えない。

「ソロ、入るぞ」

父の声だ。

カギが無い事が悔やまれる。

父は、僕の椅子に座って、溜息をついた。

「大事な話だから、聞いてくれ」

「……」

「お前もそろそろ進路を決めてるはずだろう。父さんは、どんな道を選んだって良いと思ってる」

「……」

「ま、内心は父さんの後を継いでくれたら良いと思ってるけどな。でも、お前の選んだ道なら何でも良いと思ってる」

うそだ。

「僕は、何も選んでないよ」

「お前」

「何をする気もない」

「まあ、反発するのもわかるさ。そう言う年頃だもんな」

「僕はずっとこのままでいたいんだ」

「おい、いいかげん真面目に話を聞けよ」

「僕は真面目だよ。何を選びたくもないんだ。勝手にしてくれ」

「ソロ! おまえ、ここまで育ててもらって、なんだ! その言い草は!」

「ほら、出た。育てた恩を返したら良いの? 今までかかった金を返せば良いの?」

「そういうことじゃないだろ!」

「じゃあ、どういうこと!!」

「俺はただ、お前に」

「わかってるよ、僕だって。父さんの仕事を継げば生きられる、それ以外は僕には無理だ。職人になるスキルもなければ、運動もできない。とりわけ頭も良いわけでないし、他の役所へのコネもない。外の町ならもっとだ。いずれ死ぬか、乞食かってことだろう?」

「でも、可能性はあるじゃないか。どんな仕事を選んだってお前の自由だ」

「自由ね。僕の自由は仕事を選ぶ事にしかないの?」

「それは」

「仕事を選ばない自由ってのは」

「おい、いいかげんにしろ!」

父は椅子を蹴倒す様に立ち上がった。

「いつまでも、甘えてるんじゃない! いいか、未来はもうそこまで来てるんだ。お前がそうやって逃げてるうちに……」

父はいらだちを噛み殺す様に口を閉ざす。

そして、何も言わず僕の部屋を出ていった。


 その夜は、寝れない夜だった。

いつまで経っても睡魔はやってこなかった。

父の言葉が思い出される。

間違った事は一つも言ってないんだ。

それはわかってる。

だけど、受け入れる事は……やめ、こういう事を考えていたら、よけい寝れない。

「くそ」

どのみち寝れそうにない。

いい加減、夜が明けてしまう。

屈託してやる事といったら、コンツェルトをいじるか……だめだ、今はコンツェルトはいない……自転車に乗って何処かへ行くかしかない。

僕は、こっそり着替えて部屋を抜け出し、自転車に飛び乗ったのだった。


 こんなに深い夜の道は、久し振りだった。

空の月はもう一つしかない。

家の前の道路を折れて、海の方へ向う。

夜風は濡れた様に涼しげで、幾ら漕いでも汗一つかきはしない。

昼の空と違って、夜の空は随分遠くにあって世界を覆っている様に見える。

青空は果てがない、恐ろしい程果てがないが、星空はまるで世界を包み込んでいるようだ。

世界が一つの様に見える。 ここが世界だ。

多分、遠い戦争の地や見知らぬ土地の人々も同じ星を見ているんだろう。

そして、同じ月で暦を作っているのだ。

なんだ、世界って然程大きくない。

大きくないけど、僕達が小さ過ぎるのだ。

「……?」

突然、誰もいない道路にふっと何かが浮かび上がった。

白いドレスの様な物が風に舞いあげられた。

「フィーネ!?」

それは、白いワンピースと複雑な紋様の羽織を纏ったフィーネだった。

「どうして!?」

「私、外に出てきちゃった」

「は、はやく、戻らないと!」

フィーネは首を振った。

息は上がっていた。

星の光の所為だけでなく、その顔色は青ざめていた。

「私は、生きたい。生きてみたいじゃない?」

フィーネは笑った。

僕は口籠る。

「ソロ、約束……後ろ、乗せて」

倒れ込む様に僕の背に縋り付く。

覚悟。

生きる事。

どの道を選ぶか。

「うん」





「フィーネ、何処へ行きたい」

「何処でも。綺麗な場所がいいな」

「うん」

フィーネの細い腕が僕の身体を締め付けた。

「とっておきの場所があるんだ」

夜空が段々青くなり、空に明るみが増してきた。

「綺麗なんでしょ?」

「もちろん」

僕は自転車を漕ぐ。

海岸線を突っ切ると、海の匂いがする。

「良い匂い」

「浜辺の匂いだ」

「始めて」

「もうこの海岸の浜辺はフィーネの世界でしょ?」

「うん」

それから、僕は漕ぎまくる。

少しでもフィーネの世界を広く、広く。

夜も、空も、海も、彼女が世界を拾って行く。

海の向こう側がわずかに明るむと早駆けに屋根屋根が反射する。鳥が飛んで、答えるように海鳥が帰って来る。夜の名残が埃になって降っている。瓶や缶が惨めに転がっている。影の無い犬の背が細い階段を駆け上がる。船の曳航。タイヤが弾く小石。一番遠くの雲。冷たい朝の風に、フィーネの腕がもぞもぞ動く。

古道にまでさしかかった。

「すごい……」

「大昔だ。ここも、フィーネの世界だ」

太古に死に絶えた世界にはびこった苔達が朝の気配に気がついて、呼吸を始める。

「揺れるよ」

フィーネの腕が一瞬、強く胴に巻き付いた。

思い切って駆け抜ける。

「ここを越えると長い坂があるんだ」

「うん……」

古い道の匂いは濃くなっていく。

「そこはすごいきれいで」

フィーネの腕の力は少しずつ弛んでいく。

「時が止まったみたいなんだ」

その身体が重くなっていく。

「もう、すぐだ」

古道の狭い道を抜けると海の向うに太陽が輝き始めていた。

前輪は坂に差しかかる。

「すごく綺麗で、絶対フィーネも気に入ると思うんだ」

彼女の身体は僕にのしかかり、ずれかける。

それを僕は片手で受け止めようとして、ぐらりとする。

「これもフィーネの世界だろ?」

左手がダラリと垂れる。

それを抱えるように肘をまわす。

光のような金色の髪がなびいているだろう。

「ほら、朝だ」

海と空の間に太陽が輝いていた。

僕等はとりわけ眩しい朝の中を勢いに任せて下っていった。


 砂の上に車輪を埋めて、僕は急ブレーキをかける。

僕はフィーネの身体を抱えていたから吹っ飛ばされてしまう。

フィーネは力無く僕の腕と砂に抱きとめられた。

朝日で波の音が掻き回されて轟く。

僕はぐったりとしたフィーネを抱きしめた。

遠くで何か喚く声が聞こえた。

「っせぇぞ、朝っぱらから」

ドタドタと駆け降りてくる。

数秒、男が僕達を眺め回して、口を開きかけ、もう一度眺め回し、言った。

「おっ、おい! どうしたんだ!?」

「……どうも」

「その女の子ァ、お前、ぐったりしてるじゃねぇか!」

「どうしたんだよ、親父」

「メーノ、おい、車出せ! 車ァ!」

「あ?」

「ぼけっとしてんじゃねぇ!!」

「ソ、ソロ……!?」

「おらぁ、さっさと行けっつんだよ!」

「わ、わかった!」

そして、エンジン音がうなる。

ごつい男の手に僕はフィーネを渡す。

フィーネはあっという間に僕の手から離れていく。

僕は、それから、また、自転車に乗った。


 涙は出なかった。

朝日はもう昇りきっていた。

海岸線から見える海は、広い。

僕はそこを突っ切る。

風を追い越そうとする様に、できるだけ早く。

そして、赤信号に阻まれて止まるのだ。

「ソロ」

やっぱり、オッシアはそこにいる。

「どうしたの?」

「なにが」

「どうして、そんなに泣いているの」

「え?」

僕は自分が泣いているのも気付かなかったらしい。

くそったれに鈍感だ。

「ねえ、僕は何処へでも行けるよ」

「うん」

「もう誰だって、後ろにのせる事ができる。後ろ、乗りなよ」

オッシアは僕の頬に手を当てて、首を振った。

「私は乗らないわ」

「そう」

それは正しい事だ。

きっといつもそうやって言うことは。

「私は、もう、そうやって決めたから」

「決めたんだ」

「私が生きるのは、それしかないし、私の為に敷かれた道を歩むのって、それって悪い事じゃないでしょう?」

それは悪い事じゃない。

悪い事なんてそもそもないのだ。

どんな道を選んだって、悪い事なんてない。

重要なのは、道を決めることなのだ。

その足で生きることなのだ。

そして、その道を覚悟をもって歩みきることなのだ。

「ねえ、ソロ、どうしてそう泣いているの?」

僕はオッシアにすがっていた。

足下で自転車の倒れる音が遠くで聞こえる様な気がした。



 青空の向うからやってくる風がカーテンを叩き、朝を告げる光が僕の顔に降り注ぐ。

それで僕は起き上がる。

なぁ、とコンツェルトが朝飯を催促する。

「はぁい、はいはい」

天気は良いようだ。

今日はフィーネの葬式である。

「なぁん」

「あんまり急かすなよ」

僕は胴長の猫を抱え上げる。

あ、そういえば。

「あの時見た夢って……どうなってたんだっけ? なあ、コンツェルト」

猫は眼を細め、二本のシッポを振る。

「は、ははっ! そうか!」

思い出した。

「あの夢はあそこで途切れていたんだ」

僕は、騎士の駒を動かさずにただ躊躇っていたんだった。

なんだ、それだけだ。

「今度あの夢を見たら、お前だったらどうする?」

くるる、と喉を鳴らす。

「僕? 僕だったら、そうだな、また躊躇うだろうなぁ」

躊躇うさ。

先延ばしをして、曖昧にしてみせる。

襲ってくる全てに狼狽してやる。

コンツェルトの朝飯を作っている最中に、父はすまなそうな顔で声を掛けた。

「お前も、まあ、なんだ。色々あるけどなぁ」

「うん」

「でも、まあ、それはそれとしてだな」

「もういいよ、その話」

流石に父は口を閉ざした。

「僕は……」

と、言いかけてやめた。

もうどうにだってなることをいちいち口には出さない。

後悔はしない。

それだけだ。いつもそれだけなんだ。

「悪い、早くしないと遅れちゃうから」

喪服のネクタイをちょっと触ってから、僕は家を飛び出す。

自転車のサドルを叩いて砂を飛ばす。

雲一つない空は海に吸い込まれそうだった。

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hay que caminar @kurayukime

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