第20話 私の彼は……(最終話)

 慎也の部屋は、相変わらずきれいに掃除がしてあった。

 ベットにはキチンと布団カバーが掛かっており、とても男性の部屋とは思えない。


 先日、訪問した際になく、今、あるものは扇風機くらいか。

 エアコンも付いているが、

「電気代が高くなるので、あまり使いません」

と、慎也は笑う。


「少し、飲みなおしましょうか?」

そう言うと、慎也は缶ビールを冷蔵庫から出してきた。

 小さめのビールグラスに注ぎ、二人で控えめに乾杯をする。


「天田さんとの将棋、勝ちたかったな……」

「……、……」

ビールに口を付け、慎也はぽつりと呟く。

 きっと、川田さん達と、この話がしたかったのだろう。


「最後まで、多分、僕が良かったはずなんです」

「川田さんもそう仰っていたわよ」

「そうでしたか……」

「川田さんは言っていたわ。慎也君が胸を張って将棋を指しているときは、形勢が良いのだと」

「そんなことまで言ってたんですか」

「だから、私は、天田君との将棋も、慎也君が勝つのかと思ったわ」

「ああ……。僕は決め手を指したと思っていたんです。でも、見事に切り返されて、分からなくされてしまって……」

「……、……」

「本当に強い人は、ああ言うところでも崩れない。意表を突かれても、瞬時に対応出来るんです」

「……、……」

「僕は弱いな……。勝てないまでも、もう少し食い下がりたかった」

「……、……」

悔しそうに語る慎也に、私は何も言ってあげられない。


 男性というのは、誰でもこんな悔しがり方をするのだろうか?

 そもそも、どうして勝負事を好むのかも分からない。


 しかし、私は、分からなくても良いような気がしてきている。

 慎也が一生懸命打ち込んできたものを、分かったような気になるのも、何か違う気がするから。


 それに、私は慎也自体と接しているのだ。

 将棋は、慎也の向こう側に透けて見えるだけのもの……。

 だから、慎也が将棋に向き合う気持ちにだけ、私は向き合えば良いのではないだろうか。





「すいません……、将棋の話をしてしまって……」

「ううん……」

「千秋さんには面白いわけがないですよね」

「……、……」

慎也はそう言うと、空になったグラスに、二杯目のビールを注ぐ。

 そして、私の微妙にビールの残っているグラスにも、注ぎ足した。


「あっ、そうだ……。千秋さん、あまり時間がないんでしたよね?」

「ええ……」

「じゃあ、用件を済ませますね」

「……、……」

慎也は立ち上がり、クローゼットを開けた。


「これ……」

差し出したのは、紙袋であった。

 慎也の勤める会社のロゴが入っている。


 私は受け取り、中を見る。

「水着……?」

「はい」

「私に……?」

「ええ……。ウチの商品なんですけど、千秋さんに似合いそうだなと思ったので……」

「……、……」

「今日は将棋に付き合わせてしまいましたけど、来週末は海に行きませんか?」

「……、……」

紙袋には、ワンピースとビキニらしき水着が、それぞれ一着ずつ入っていた。

 色はどちらも黒……。

 私は唖然としてしてしまい、何も言えない。


 水着なんて、何年着ていないだろう?

 恐らく、最後に着たのは、高校生の時に授業でだろう。

 その時は、いわゆるスクール水着だったので、色気も素っ気もないものだったが、それでも気恥ずかしかったのを覚えている。

 授業は、女子だけで行われていたにも拘わらず……、だ。


 それなのに、こんなオバサンになってから公衆の面前に水着姿を晒すなんて……。

 しかも、慎也にも見られるのだ。

 私にとって海で水着になることは、今、突然、慎也の前で裸になることと同じくらい抵抗がある。


「ち、千秋さん……?」

「……、……」

水着の入った紙袋を凝視し、固まる私……。

 慎也が心配そうに声をかけるが、何とも言えず沈黙を続けるしかない。


 きっと、慎也は本当に私に似合うと思って言ってくれているのだ。

 アパレルメーカーに勤めているのだから、選定眼にも自信があるのだろうし。

 真面目な慎也のことだから、間違っても、いかがわしい気持ちで提案しているわけではないはずだ。


 しかし、気恥ずかしさ以外にも、私が水着になることに抵抗を覚える理由はある。

 その理由とは、慎也は水着が似合いそうだからだ。


 慎也がどんな水着を着るかは分からないが、痩せ型だけど、少し筋肉質な彼の身体は、海辺によく映えることだろう。

 サラサラな茶髪と爽やかな笑顔が、間違いなくビーチの景色に溶け込むはずだ。


 その隣で、私はどんな顔をして水着姿になれば良いのだろう?

 色がやたらと生白い、いかにも水着なんか着慣れていないオバサンが、若くてカッコイイ、ビーチボーイ然とした男性の隣に立たなければならないのだ。


 これって、拷問にも似た罰ゲームではないだろうか?

 いや、罰ゲームどころか、恥さらし以外の何物でもない。


「あっ、色がお気に召しませんでしたか? もっと華やかな方が良かったでしょうか?」

「……、……」

「セパレーツのも考えたんですけど、色目が子供っぽいのが多かったんですよね。千秋さんは色が白いし大人の女性なので、選ぶならやはり黒かなあ……、って」

「……、……」

「もしかして、デザインが気に入りませんでしたか? ちょっとシンプル過ぎたかな?」

「……、……」

「正直、ビキニは少し大胆かなとも思ったのですが、他にあまりピンとくるのがなかったもので……」

「……、……」

「でも、千秋さんなら、どちらを着ても絶対に似合います。だから、今、着るだけ着てみていただけませんか?」

「……、……」

着てみていただけませんか……。

 ついに、求刑が行われた。


 慎也の心配は、私の気持ちとはかけ離れた方を向いている。

 間違っても、海に行くのも水着を着るのも嫌……、なんて、私が考えているとは思っていないだろう。


 そ、そんな優しげな目差しで、私を見つめないで……。

 私……、慎也の期待には応えられそうにないから。


「もし、今、着てみて、似合わなかったり、気にくわなかったら、海に行くこと自体を諦めましょう。僕が千秋さんの魅力を引き出せてないってことなので……」

「……、……」

「無理強いするつもりはないです。僕はそんなに傲慢な人間ではないですからね」

「……、……」

そう優しく諭すように言われて、私の心は、グッときた。

 慎也は、あくまでも私の気持ちが第一で、尊重してくれるのだ。

 せっかく、海に行くのを提案してくれたことも、水着を選んでくれたことも、諦めてくれると言ってくれている。


 似合うわけがない。

 だから、ここで着さえすれば、私は刑から逃れられるのだ。


「あ、あの……」

「……、……」

「き、着るだけで良いのよね?」

「はい……?」

「ダメなら、本当に諦めてくれるわね?」

「え、ええ……」

私は、なけなしの勇気を振り絞って、今、着ることを受け入れた。

 勇気の裏には、慎也の気持ちを無碍にしたくない想いだけしかないが……。





 慎也は、ダイニングに続く襖を閉め、寝室から出て行った。

 取り残された私は、戸惑いながらも、二着の水着を紙袋から出す。


 うっ……!

 これ、思ったより、ハイレグかも……。

 ワンピースの方を拡げて、私は瞬時にそう思った。

 着てみないと分からないが、スクール水着とはわけが違う露出に驚いた。

 早くも、着るのを断念しそうな私がいる。


 窓を閉め切ったせいか、身体が火照る感じがする。

 エアコンも扇風機も稼働していると言うのに……。


 パンツスーツを脱いで下着姿になると、私は丁寧に脱いだものを畳んだ。

 そして、後ろ手にブラジャーのホックを外した。


「千秋……。すっかり女になったわよね」

打ち上げで美香が言っていた言葉が、不意に甦る。


 ち、違うから……。

 これは、そう言うことではないから……。

 私は何に言い訳をしているのか、心の中で必死に否定する。





「トントン……」

襖を軽く叩いて、慎也に合図を送る。


「あ、着替えられましたか? では、開けますね」

「……、……」

慎也の声が、話しながら近寄ってくる。


「……、……」

「ち、千秋さん……」

「あ、あの……」

「き、綺麗です。それに、凄く似合っています」

「う、ううん……。だ、ダメよ、これは似合っていないわ」

「いえ、凄く大人っぽくて、その上、……」

慎也は、私の姿をしげしげと眺めながら、クローゼットの扉を開け、内側に張り付いている姿見を指さした。


「ご自分で、見れば分かりますよ……」

「……、……」

姿見に映る私は、あられもない姿でこちらを見ている。

 耳を真っ赤に染め、不安そうな目で……。


 このワンピースの水着は、私には大胆過ぎる。

 足の付け根どころか腰骨近いところまで切れ込むカットも、胸の下から下腹部に向かって意味無く菱形に空いたデザインも、私に気恥ずかしさを感じさせる効果しかない。


 ただ、どういうわけか、サイズだけはピッタリのようだ。


「どうですか、ご自分で綺麗だと思いませんか?」

「う、ううん……。やはりダメよ。こんな大胆なの……」

「大胆じゃないですよ。大人っぽいけど、ちっともいやらしくない。それでいて、身体のラインが綺麗に出ています」

「で、でもね……、慎也君……」

「僕が想像していた以上です。選んで良かった……」

「だ、ダメよ……。わ、私……」

私が必死に否定しても、慎也はちっとも聞き入れてくれない。

 確かに、不格好だとは自分自身でも思わないけれど、でも、ここで認めたら、海でこの水着を着なくてはならない。


 それだけは、どうしても嫌だ。

 たとえ、慎也の願いでも……。


「千秋さんのお気に召さないようですね」

「そ、そうね……」

「すいません……。なんか、押しつけちゃって……、自分の気持ちを」

「……、……」

「でも、本当に素敵だと思ったんです、僕は」

「……、……」

慎也がそう思ってくれる気持ちは嬉しい。


 でもね、そう言うことではないの。

 分かって……、慎也君……。


「では、ビキニの方も着て下さい。それもお気に召さなかったら、約束通り、諦めますので……」

「そ、そうね……。ダメだと思うけど、着てみるわ」

「……、……」

「ごめんなさいね……」

慎也は、寂しそうな顔で、ダイニングへ戻っていった。


 罪悪感に近い気持ちが私の中に生まれたが、すぐに打ち消し、ワンピースの肩紐に手をかけた。





「し、慎也君……?」

「あ、着られましたか?」

「これは、ダメよ。全然ダメ……」

「えっ? じゃあ、とりあえず見せてもらって……」

「ダメっ! あ、あの……、それは許して」

「もしかして、サイズでも合いませんでしたか?」

「う、ううん……、そう言うことではないの。でも、その……」

「……、……」

私は、慎也が襖を開けようとするのを拒絶した。

 と、とても、こんな姿を慎也に見せられない。


 ビキニの水着は、ブラには肩紐がなく、胸の谷間が露わになってしまっている。

 しかも、ボトムはサイドを紐で結んだだけの心細いもの……。

 チラッと姿見で確認したが、これでは裸でいるのと大して変わりがない。


「こ、これはダメだから、もう着替えるわね」

「えっ?」

「ごめんね。でも、これは……」

「千秋さん……」

「あの……、じゃあ……」

「一目だけでも見させてもらえませんか?」

「そ、それは……」

「僕は、そんなに似合わないものを選んでしまいましたか?」

「……、……」

「それに、さっきのワンピースだって、凄く綺麗だったじゃないですか」

「……、……」

「千秋さんは、そんなに僕に肌を見せるのが嫌ですか?」

「……、……」

「僕は、そんなにいやらしい人間だと思われていますか?」

襖のすぐ向こうで、慎也の声がしている。


 そ、そんなことを言わないで……。

 慎也君に見られるのが嫌なんじゃないの。

 ただ、とても恥ずかしいの。

 もう、私、オバサンなの。

 だから、許して……。


 私は、言葉にならない想いを、必死に胸の内で繰り返していた。

 でも、きっと慎也には伝わらないだろう。


 慎也は押し黙ってしまった。

 怒っちゃったかな?

 そうよね……、私が頑な過ぎるのよね。

 

 襖の向こうから、慎也の息遣いが聞こえる。

 慎也が何も言ってくれないのは、酷く不安だ。

 慎也は、しらけたような表情をしているのだろうか?





「……、……」

「……、開けて良かったんですか?」

「……、……」

「ビキニもお似合いですよ」

私は、逡巡の末、自ら襖を開けた。

 恥ずかしいけど、慎也に愛想を尽かされるのは嫌だから。


 案に相違して、襖の向こうの慎也は、少し驚いたような感じではあったが、いつも通りの爽やかな表情であった。


「慎也君……。オバサンがこんな大胆な水着を着たら、他の人に笑われてしまうわよね?」

「……、……」

「もう、気が済んだかしら? これで許してもらえる?」

「すいません……」

「良いのよ、私がオバサンなだけなんだから」

「いえ、僕がバカでした」

「ううん……。ご期待に添えなくて、こちらこそごめんね」

「いえ……、違うんです」

「違わないわ、私が悪いのよ」

「いえ……」

私は、恥ずかしくて倒れそうだ。

 しかし、辛うじて正気を保つと、両手で、わずかながらでも胸の谷間を隠した。

 

「海……。行くの止めましょう」

「えっ?」

「千秋さんが嫌がっているみたいだし……」

「……、……」

「それに、僕も行くのが嫌になりました」

「えっ?」

「だって、こんなに綺麗な千秋さんを、他の奴に見られたくないです」

「し、慎也君?」

「すいませんでした。他の奴に見られたら、僕は嫉妬で狂いそうだ」

「……、……」

「千秋さん……、綺麗です」

「……、……」

慎也は、穏やかにそう言うと、突然、私の両肩を掴んだ。


 そして、優しく自身の身体に引きつけると、腰と首に手を回し、私を抱擁した。

 身体から、少し、ビールの匂いがする。


「ちょ、ちょっと……。慎也君?」

「すいません……。でも、少しだけ、こうさせて下さい」

「私、こんな格好なのよ……」

「千秋さんの肌……、柔らかくて、すべすべしています」

慎也の指が、脇腹の形をなぞる。

 指が私の肌を這う度に、そこから細かな電流が生じる。


 首に回した慎也の手が、うなじにかかる。

 ビクッとした拍子に、至近距離で慎也と目が合う。

 慎也の瞳は、潤んでいる。


 その瞳が、更に近寄る。

 そして、ほどなく唇が重なる。

 背筋を大きな電流が駆け上がる。


 ああ……。

「私、女になるんだわ……」

 そう思い、私は目を閉じた。





「中野さん……。今日、久しぶりに、お昼を食べない?」

高山課長から、昼食のお誘いがあった。

 今朝も課長は忙しそうにしておられたが、何か思うところがあるのだろうか?


 利休庵の蕎麦は、夏でも瑞々しい緑色をしている。

 二人で盛り蕎麦を手繰り、しばしの間、清涼感に浸る。


「ねえ……、コンタクトに変えたの?」

「あ、はい……。彼が、その方が良いって」

「あの、年下の彼ね?」

「はい……」

「今朝から、それが気になって気になって……」

「うふふ……。気にしていただいて、ありがとうございます」

そうか……。

 今日、私を昼食に誘ったのは、そのためか。

 高山課長は、いつも私を見守ってくれている。


「どう? その後、彼とは……」

「……、……」

私は言葉に詰まった。

 どう言って良いのか分からない。


「彼……。何か、隠していることがあるって言ってたわよね?」

「私の彼は……、……」

今なら、ちゃんと言えそうだ。


 私の彼は、とても優しい……、と。


                       fin

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私の彼は、何だか怪しい てめえ @temee

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