第19話 友の気遣い

「じゃあ、私達、帰りますね」

美香は、川田さんに向かってそう言うと、私の手を引っ張り、席を立った。

 飲み放題の関係で、一度会計を締めたのを機に、美香は帰る気になったようだ。


 しかし、どうしてこんなに早く……?

 打ち上げの始まった時刻が5時過ぎだったので、まだ8時だと言うのに……。

 美香だって、川田さんともっと話していたいのではないだろうか?


「慎ちゃん……。二人を送って行ってやってくれ」

「え……?」

「当然だろ。千秋ちゃんは、今日、わざわざ慎ちゃんのために来てくれたんだからな」

「……、……」

川田さんが、慎也に帰れと促す。

 慎也はもう少し飲んでいたかったのか、少し、不満そうな顔だ。

 きっと、これから、私や美香がいてはしにくい将棋の話をしたかったのだろう。


「あ、いえ……。川田さん、お気遣いなく」

「千秋ちゃん……。チームには、将棋より恋愛、家族優先ってルールがあるんだ。だから、慎ちゃんは帰るしかないのさ」

「そうなんですか?」

「あはは……。まあ、破る奴が多いけど、原則はそう言うことになっているよ」

本当にそんなルールがあるのか怪しいが、川田さんは先日も同じようなことを言っていた気もする。


「じゃあ、僕も帰ります」

「良いの? 残っても良いのよ」

「いえ……。監督の言うことは絶対なので。それに、千秋さんと一緒に帰らなかったら失礼ですよね。今日は僕のために来てもらったのですから」

「……、……」

慎也は、考え違いしていたことを自戒するかのように、自分の頭を拳で叩いた。


 美香は、

「そうそう……。慎也君も今日は大人しく帰らないとね」

なんて言っている。

 まるで、私が帰ると言えば、川田さんが、慎也も帰れと言うのを知っていたかのようだ。





 都営浅草線でも帰ることができたのだが、慎也が銀座線なので、三人とも銀座線に乗る。

 日曜の夜だけに電車は混んでなく、すんなり三人とも座れた。


「千秋……。今日は誘ってくれてありがとね。川田さんに登録してもらって嬉しいわ」

「そう……。川田さんはお忙しいみたいだから、少しでも長く話をしていた方が良かったんじゃない?」

「良いのよ。川田さんはどうせあの場にいる限り私には振り向いてくれないんだから。あの打ち上げは、川田さんにとって将棋関係の人と触れ合う場なの。だから、私があそこでいくら話しかけても、迷惑なだけなのよ」

「……、……」

美香の感じ方は、多分正しい。

 私も、慎也と天田君の対局を観ていて、慎也の頭の片隅にも、私がいないことを感じていたから……。


「美香さんって、将棋大会をご覧になるのは初めてですよね?」

「そうよ……」

「その割に、凄く分かってらっしゃるのは何故なんですか? 確かに、監督はあの場でいくらアプローチしても、振り向いてはくれないと思います。でも、それが分かるのって凄いことですよ」

「あのね……、慎也君。あなたや千秋とは、恋愛経験が違うのよ」

「……、……」

「それに、私、今日来たことで、川田さんや慎也君のことが少し分かった気がするの」

「……、……」

「慎也君が、何故、千秋に惹かれたかもね」

「……、……」

美香はそう言うと、慎也ではなく私を見た。


 私を見る美香の目は、

「千秋には分からないわよね……」

と言っているように思える。


 美香には、何が分かったのだろう?

 確かに私は、慎也が何故、私を選んだのかが分からない。

 ずっと、気にしていたし、何度も考えてみたのに……。


 私が慎也に惹かれたのは、明らかに、慎也が私を好きでいてくれたからだ。

 私から慎也を求めたのではない。

 だからこそ、私は慎也の気持ちが知りたかったのだ。


 それに、慎也には、将棋と言うかけがえのないモノがあることを知ってしまった。

 それなのに、何故、将棋とは縁もゆかりもない私を……。


「今だから言うけど、私、二人が出逢った合コンの時、本気で慎也君を狙っていたのよ」

「えっ……?」

「私が慎也君を見初めてセッティングしたのよ。狙っているに決まっているでしょ」

「だって、美香は年上好みだから、慎也君は狙ってないって言ってなかった?」

「言ったわよ」

「わざわざ、私の前に慎也君を座らせてくれたとも言ってなかった?」

「言ったわよ」

「……、……」

「そう言ったのは全部嘘よ。千秋が相手じゃ、仕方がないと思ったから……。それに、慎也君が最初から千秋しか見ていないのも分かっていたから……」

「美香……」

「最初に慎也君を千秋の前に座らせたのは、千秋だったら大丈夫だと思ったの。悪いけど、千秋には女として負ける要素がないと思っていたから……」

「……、……」

「でも、慎也君は千秋を選んだ」

「……、……」

「私、ショックだったわ。これだけ恋愛に一生懸命な私より、恋愛を諦めている千秋が選ばれるなんて……」

「……、……」

「だから、藤田なんてつまらない男に引っかかったのよ。川田さんのお陰で冷静になれたけど、一時は、千秋に私のすべてを否定されたように思っていたから……」

「……、……」

「どうしても千秋より先に幸せになりたかったの……。焦っていたのね、私」

「……、……」

「でも、全部、私の想定外だったわ。ううん……、勘違いだったのね。慎也君が千秋を選んだのは必然だわ。今日、それが分かったの……、私」

「……、……」

美香がそんな風に思っていたなんて……。

 私は気が付かなかった。


 慎也も意外なことを聞いたような顔をしている。

 美香は大胆な告白をしたにも拘わらず、優し気な笑みさえ浮かべているが……。


「慎也君が千秋を選んだのは、千秋が恋愛にそれほど思い入れがなかったからよ」

「ど、どういうこと?」

「千秋も、チームの面々を見たでしょう? あの人達、どう看ても恋愛と同等以上のモノを将棋に求めていたわ」

「……、……」

「つまりね、慎也君は恋愛に思い入れがない人達と一緒にいることに慣れているのよ」

「だから、美香ではなく、私を選んだって言うの?」

「そうよ……。私では重いのね。それに、千秋と一緒の方が自然な自分でいられるのよ」

「……、……」

「慎也君自身にも自覚がないでしょうけど、間違いないわ」

「……、……」

「でも、川田さんだけはそのことに気が付いているようね。だから、チームには恋愛、家庭最優先のルールがあるんだと思うわ」

「……、……」

「今日、千秋を将棋大会に呼んだのも、慎也君に将棋が第一義じゃないことを分かってもらうためよ」

「……、……」

「千秋にも言いたいことがあったのだとは思うけど、本当は、慎也君に千秋を大事にするように言いたかったんじゃないかな?」

「……、……」

私は、驚き過ぎて、何も言えなかった。

 私は朝から将棋大会を観ていたと言うのに、美香の半分も意味を理解していなかったからだ。


 美香は、私をけなしているわけではない。

 それどころか、最大限に私を理解してくれ、その上、協力してくれていたのだ。

 自分自身が傷つきながら……。


 先ほど、私と慎也を早く打ち上げから帰らせたのも、川田さんの意図を分かっていたからだ。


 美香……。

 色々と気を遣わせてごめんね。





「美香さん……。仰る通りだと思います」

慎也は、将棋を指しているときと同じ表情で呟いた。


「私はそう思ったけど、違っているといけないから、今度川田さんに逢ったら聞いてみてね」

「はい……。ただ……」

「ただ……?」

「僕は、将棋も真面目にやっているつもりですが、千秋さんへの気持ちは、それ以上に真剣です」

「……、……」

「それに、千秋さんと出逢ったのは、運命だと思っています」

「……、……」

「だから、美香さんが好意を持ってくださっていたことは光栄ですが、僕が千秋さんを選んだのではなく、運命が僕を導いてくれたのだと……」

私は、頭がくらくらした。

 生まれてこの方、こんなスイートな言葉をかけられたことがない。


 慎也は、天田君と将棋を指している以上に、私のことを大事に想ってくれているのだ。


 川田さんや美香の言いたいことは分かる。

 将棋には、それだけの魅力があり、そこに関係する方々も十分魅力的なのも分かった。

 でも、慎也は、私を選んでくれると言っているのだ。


 今までもずっと慎也はそう言ってくれていた。

 彼の中の覚悟は、ずっと変わっていないのだろう。

 

 私は今日、将棋と出逢ってしまったが、慎也への気持ちはぶれてはいないだろうか?


 大丈夫だと思う。

 慎也の将棋への真剣さを知ったからこそ、私への気持ちを確かめられたような気がするから……。


「もう……。電車の中でそんなに惚気られても、聞いてる私が困るじゃない」

「すいません……」

美香と慎也が、苦笑し合う。


「あ、もう……。千秋ったら、嬉しそうな顔をしちゃって……。ご、ち、そ、う、様……」

「……、……」

「私、恋愛経験が豊富な方だけど、付き合ってる相手から、運命……、なんて言われたことは一度もないわよ」

「うん……」

私は、美香の言葉にうなずいたまま、顔を伏せた。

 自身の顔が、真っ赤になっている自覚があったから……。


 凄く、恥ずかしい。

 でも、凄く嬉しい。


 照れもせず、真っ直ぐに運命と言い切ってくれた慎也が、愛おしい。


「渋谷に着いたわね。ほら……、千秋。終点よ、降りるわよ」

電車のドアが開き、乗客が降りていく……。

 両脇に座った慎也と美香が、立ち上がる。


 しかし、私はすぐに席を立つことが出来なかった。

 伏せていた顔を上げたら、涙がこぼれそうだったから……。





「じゃあ、私、一人で帰るわね」

「えっ?」

銀座線の改札を出ると、美香は、私と慎也を見まわしながらそう言った。


「まだ、9時前よ……。お邪魔虫は退散するから、二人でごゆっくりどうぞ」

「……、……」

美香は、笑いながら手を振る。


 突然、宣告された私達は、顔を見合わせてしまう。


「あ、そうそう……。分かっていると思うけど、くれぐれも、この後、飲みになんか行かないでね」

「……、……」

帰りかけた体制のまま振り向くと、美香は念を押すように言った。


「慎也君……、分かってるわね? これから行くのは、慎也君の部屋よ」

「あっ……、は、はい……」

上ずったような声で、慎也が応じる。


 私は、美香が何を言おうとしているのか、ようやく分かった。

 打ち上げから引っ張り出したのも、こうやって慎也と二人きりにするためだったのだ。


 まったく……、美香ったら。

 余計な気を遣って……。

 そんなことを言われて、私が慎也の部屋にホイホイ付いていくわけもないのに……。


 でも、今日の美香は、何だかカッコイイ。

 その去りゆく後ろ姿に、私は胸の内で、

「ありがとう……」

と、呟いていた。





「さて……、どうしましょうか?」

美香の姿が見えなくなると、慎也は私に尋ねた。


「どうしようかしら……。まさか、美香の言う通りにするわけにもいかないわ」

「そうなんですか?」

「だって、明日は仕事よ? 慎也君だって、そうでしょう?」

「あ、いえ……。僕は休みをとってます。毎回、社団戦の次の日は……」

「えっ?」

「いつも、川田さんや高梨さんと飲むんです……、朝まで」

「……、……」

「だから……、千秋さんさえ良ければ、来ませんか? 僕の部屋に」

「……、……」

「あ、いえ……。その、変な意味ではなく……。ちょっと千秋さんに見てもらいたいものがあるんです」

まさか、慎也が休みをとっていたなんて……。

 ただ、見てもらいたいもの……、と言われて、少し、私もその気になる。


 私も、有給ならいっぱい残っている。

 もし、明日休んだとしても、前もって言っておかなかったので多少の迷惑にはなるかもしれないが、高山課長なら許してくれるに違いないし……。


 でも……。

 先日は、美香が酔って寝てしまったから、仕方なく慎也の部屋に行ったのだ。

 今日このまま行くとすれば、自発的に行ったことになってしまう。


 それに、今日は間違いなく二人きりだ。

 だとすれば、必然的にあのキスの続きを……。


 ……って、私、何を考えているのかしら?


「……さん。千秋さん?」

「あ……、何?」

「やはり、千秋さんは都合が悪いですよね?」

「いえ……。その……」

こんな時、どう答えたら良いのだろう?

 これ幸いと行ってしまったら、慎也に尻の軽い女だと思われないだろうか?


「その、見せたいものって、今日じゃなくてはいけないの?」

「うーん……。出来れば早い方が良いかもです」

「そう……」

「今日は僕のために来てもらったのだから、これ以上わがままを言うべきではないのかもしれませんが……」

そう、しおらしく言われると、私も断りにくい。

 ……と言うか、すでに、もう断るつもりもないような気もするが。


「じゃあ……、ちょっとだけ……」

「ですね。終電が間に合えば駅まで送りますし」

「そうね。見せたいものって、すぐに見られるのよね?」

「ええ……。それほど時間はかかりません」

私は、何とか理由を調えた。

 かなり言い分が不自然なことは分かっていたが、慎也がこれだけ熱心に誘うのだし……。


 美香の思惑通りと言うのが少し癪だが、結局、私は慎也の部屋を目指すのだった。

 淡い期待と、大いなる不安を抱えながら……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る