プリティドール
@f_yamato
第1話
プロローグ 美女の皮を被った野獣
「可愛らしい顔さらしやがって、なかなかやるやないけ」
凶暴な雰囲気を漂わせた男が、凄まじい形相で、女を睨みつけている。
右頬から顎にかけて走る引き攣れた刃物傷が、より一層、男を禍々しく見せている。
男は、ごつい体格をひけらかすように、小さ目のTシャツを着ていた。
どこで買ったのか、そのTシャツには、刺青のような龍の絵柄がプリントされている。
袖の終わりから、まるで絵柄の続きのように、、本物の龍が、太い上腕二頭筋のてっぺんで牙を剥いていた。
金鎖のネックレスに、金のブレス、両手の小指と薬指には、ヤクザ御用達の、ぶっとい銀の指輪を嵌めている。
一般の方々なら、絶対に近寄りたくない相手だ。
そんな男に凄まじい目付で睨まれも、女は平然と腕を組んで、うす笑いを浮かべている。
街灯に照らされた女の笑みは、舞台の上でスポットライトを浴びているように、とても輝いていた。
トップモデルやハリウッド女優と言っても誰も疑わないような、滅多にお目にかかることのない美貌の持ち主だ。
美人といっても、近寄り難いような、冷たい印象のする顔立ちではない。
男の言った通り、愛らしい顔立ちをしており、どちらかといえば、男が守ってあげたくなるようなタイプだ。
日本人ではない。
見る限り、アメリカかイギリス辺りのご婦人のようだ。
深いエメラルドグリーンの大きな瞳。
程よい高さで、スッと通った鼻筋。
少し大きめの口に、ふっくらとした唇。
背中まである、鮮やかなブロンドの髪は、ふわりと綺麗なカーブを描いている。
身長は一六五センチくらいで、あちらのご婦人にしては少し小柄だが、少し大きめに開けた胸元から覗く、白い盛り上がった胸の谷間は、とても魅力的だ。
くびれた腰に、張りのあるヒップ。
スラリと伸びた形の良い脚に、白いパンツスーツがジャストフィットしている様は、まるでファッション誌から抜け出してきたように見える。
「わたしが、容姿端麗なのは知ってるわ」
男の眼光をしれっと受け流して、流暢な日本語で、女がさらりと言ってのける。
「だけど、あんたなんかに言われると、素直に喜べないわね。なんか、わたしの美貌を冒とくされたみたい」
見かけによらず、女はきついことを、顔色も変えずに言った。
男の額に、青筋が浮いた。
男は、自称レスラーを名乗る、半グレ集団のボスだった。
「ねえちゃん、俺に向かって、そんな舐めた口をききさらすとは、ええ度胸しとるやんけ」
暴力に生きる者として、相手に舐められてはいけない。
男は、女を威嚇するために、精一杯ドスを利かせたつもりだろうが、悲しいかな、かすかに声が震えていた。
いつもは、凶悪な光を宿しているであろう目にも、わずかに怯えの色が浮かんでいる。
ここは、大阪ミナミの、アメ村から少し離れた路地裏だ。
深夜の二時ともなれば、通る人もほとんどおらず、半グレ集団の溜まり場と化している場所だった。
「能書きはいいから、早くかかってくれば?」
相変わらず、腕を組んだままで、女は静かな声で言った。
「それとも、逃げる? どうせ、こいつらと同じで、あんたも大したことないんだろうから、逃げても許してあげるわよ」
挑発するように言いながら、女が路上を見回した。
路上には、女を睨みつけている男に負けず劣らずの方々たちが、十人ほど転がっていた。
良い子はとっくに寝る時間だかろといって、寝ているわけではない。
さりとて、酔っ払って、いい気持ちで伸びているわけでもない。
二人ほどビクビクと全身を痙攣させながら、弱々しい呻き声を上げているが、残りは、まるで死体のようにピクリとも動かない。
ある者は口から泡を吹き、ある者は白目を剥いている。
女の言葉が、よほど癇に障ったのだろう。
男の目から、怯えの色は消え、猛々しい光が宿った。
「舐めたことほざきやがって」
男が吠えながら、腰から大型のナイフを引き抜いた。
男が手にしたナイフは、二十センチはあろうかという刃渡りに、背にはぎざぎざが付いていた。
どちらで切り付けても、十分に殺傷力がありそうだ。
突き刺そうものなら、両側から内臓を抉られ、大けがでは済まないだろう。
それを誇示するように、街灯の明かりを反射して、 刃先がキラリと凶悪な光を放っている。
それを見ても、女は顔色ひとつ変えずに、相変わらず腕を組んだまま、悠然と立っている。
それどころか、満面に笑みを湛えている。
「あらあら、素人が、そんなおもちゃを振り回しては駄目じゃない。怪我をするだけよ。おばかさん」
緊迫感の欠片もなく、女はさも楽しそうに、からかい口調で言った。
「強がるんやあらへんで、ねえちゃん」
いとも簡単に、十人の仲間が倒されたのだ。
女が強がっているのではないことは、男には痛いほどわかっていた。
しかし、このまま引き下がるわけにはいかない。
手下を倒されて、おめおめと逃げたとあっては、これからミナミの街を、肩で風をきって歩けなくなる。
男が率いる軍団は凶暴さが売りで、ヤクザの世界でも、一目置かれた存在なのだ。
それに、手にしたナイフの感触が、男に勇気を与えてもいた。
「ねえちゃん、あんたがどんだけ強うても、素手では、こいつに敵わなへんやろ」
男は、自信を取り戻したようだ。
もう、声に震えは混じっていなかった。
「今さら謝ったかて遅いが、裸になって土下座するちゅうんやったら、命まではとらへん。わいのマグナムでひいひいいわしたるだけで、勘弁したるわ」
下卑た笑みが、男の顔を覆う。
「もっとも、この落とし前はきっちりつけてもらわなあかんさかい、わいの後で、こいつらにも回させて、その後でソープにでも売り飛ばしたるけどな。それが嫌やったら、わいの奴隷でもええで。飽きるまでは、可愛がったるで」
大の男が素手の女性相手に、大きなナイフをかざしていきがるなんて、みっとも恥ずかしいこと、この上ない。
それにもって、そんな下卑たことを恥じらいもなく言ってのけるなんて、所詮、堅気にもヤクザにもなれない、半グレ止まりの性根に違いない。
とはいっても、男の構えから、相当にナイフを扱い慣れているのがわかる。
だから、気持ちに余裕が出たのだろう。
平然としているように見せかけているだけで、女は、内心ビビッていると勘違いしているのかもしれない。
これまで、このナイフを見て、ビビらなかった者がいなかったのも、男にそんな勘違いを与えていた。
「さあ、どうする? 謝るんなら今のうちやで」
男が勝ち誇ったように、唇の端を吊り上げた。
「そんなナイフごときで、わたしに勝ったつもりだなんて。まったく、おめでたい男ね」
女が、嘲るような笑みを浮かべた。
「ごたごたと能書きはいいから、早くかかってきなさいよ」
男に向かって、笑いながら中指を立ててみせた。
「このアマ、どこまでも人を舐めさらしやがって」
男の怒りが、頂点に達した。
こめかみの青筋が、ピクピクと脈打っている。
ただでさえ凶悪な人相が、怒りと屈辱で醜く歪み、男の顔が一層禍々しくなった。
「もう、勘弁できへん。ムショでもどこでも行ったるわ。今更、謝ったかて、もう遅いで。生意気な口を利いたことを、あの世で悔いさらせ」
柄を握る男の手に、力が込められた。
「死ねや、おら~」
吠えながら、ナイフを腰だめに、女へと突っ込んでいった。
ガタイに似合わず、男の動きは俊敏だった。
並みの人間なら、避ける暇もなく、あっという間にどてっ腹を刺し貫かれていただろう。
しかし、男が付き出したナイフの先に、女の姿はなかった。
ナイフが空を刺し、男がたたらを踏んだた瞬間、男の身体が宙に舞った。
ナイフを握った手が、奇妙な角度で捻じ曲がっている。
男には、なにが起こったのかわからない。
宙に浮きながら茫然とする男の目の前に、女の顔があった。
驚きで目を瞠る間もなく、女の綺麗な足が一閃した。
男の身体が、くの字に折れる。
ナイフが、小気味のよい乾いた音を立てながら、道路で跳ねた。
同時に、男が背中から、地面に叩きつけられた。
ドスっという鈍い音と共に、ギャッという、蛙が踏み潰されたような悲鳴が、夜のしじまに谺した。
男の横に、女が静かに着地する。
着地と同時に間髪入れず、女が容赦なく、悶絶している男の横っ腹に、鋭い蹴りを入れた。
男の目が、一瞬見開かれた。
ゴフッと呻いて、口から血の泡を吹く。
「もう、ええやろ。それ以上やったら、殺してまうで」
もう一発、蹴りを入れようとして、女が足を振り上げたとき、女の背後から、緊張感の欠片もない、実にのんびりとした声がかかった。
声をかけたのは、女の後ろで、ずっと成り行きを眺めていた男だった。
背丈だけは女よりかなり高いものの、少し痩せぎすで、どことなく頼りなげな感じのする男だった。
美男でもなければ、取り立ててブサイクというわけでもない。
いわば、どこにでもいそうな、サラリーマン風の日本人だ。
「つまんない」
声をかけた男に向けられた女の目は、実に悲しそうだ。
「こいつら、マジ弱すぎて、準備運動にもならないんだもの」
男が、黙って肩を竦める。
女の方は、見かけは可憐だが、少し前までは、CIAのトップシークレットとして扱われていた、最強の暗殺者だった。
男の方は、少し前までは、普通のサラリーマンとして、小さな商社に勤めていた。
裏の世界とは、まったく縁もゆかりもない、正真正銘の民間人である。
見てくれも、歩んできた人生もミスマッチな二人だが、なんとこの二人は、紛れもない夫婦だった。
男の名は、杉村悟。
女の名は、カレン・ハート。
悟とカレンは、ある事件をきっかけに知り合った。
当時のカレンは、眉一筋動かさずに人を殺める、冷酷無情な殺し屋だった。
男に対して、何の感情も抱いたことはない。
ましてや、弱腰な日本人なぞは、軽蔑しきっていた。
そんなカレンが、どういった訳か、日本人である悟を気に入ってしまった。
それまで恋愛の経験もなければ、恋愛したいとも思っていなかったカレンは、愛情表現の仕方がわからなかった。
しかし、どうしても、悟を手に入れたかった。
思い悩んだ挙句、カレンは思い切った行動に出た。
その事件で、腹部に銃弾を受けて入院していた悟の病室に夜中に忍び込み、ベッドに横たわる悟の額に銃口を押し付けて、「わたしと一緒になるか、ここで死ぬか、どちらかを選べ」と言って迫った。
命が惜しかったのか、悟もカレンを気に入っていたのか、悟は素直にうなづいた。
そんな、小説や映画でもあり得ないカップルだが、不思議と仲が良い。
「なかなか、良い代物ね。わたしが貰っておいてあげる」
気持ちの切り替えが早いのか、カレンの顔からは、さきほどの悲しみは消えていた。
路上に落ちているナイフを嬉しそうに拾い上げ、倒れている男の腰から、鞘を奪った。
「こんな弱っちい奴に持たれたら、ナイフが可哀相だわ」
鞘に納めたナイフをベルトに差しながら、悟に笑顔を向ける。
悟も笑顔で応えてから、路上に目を移した。
狭い路上を埋め尽くさんばかりに倒れている、さぞ凶暴であったろう方々たちを見回す。
どの輩も、軽傷の者はいない。
「よりによって、カレンに喧嘩を吹っ掛けるとはな。こいつらも、とんだ災難やったな」
悟が、憐みを帯びた口調で、ぽつりと呟いた。
常に死と隣り合わせで生きてきたカレンは、平和が続くと、無性にストレスが溜まるときがある。
そんなときは、深夜のミナミの繁華街、それもとりわけ物騒な場所に、ヤクザや不良外国人を狩りに出かける。
カレンに言わせれば、どんなに凶暴であろうが、所詮は素人なので、あまりストレス解消にはならないが、それでも、やらないよりはましなのだそうだ。
路上に倒れている半グレ共も、カレンの狩りの獲物だった。
カレンの美貌と身体に目が眩んだのが、彼らの運の尽きだった。
いくら平和な日本とはいえ、深夜の繁華街の危ない路地裏に、カレンみたいな女がのこのこと現れるはずはない。
男連れとはいえ不自然だ。
しかも、二人は堂々と歩いていたのだ。
ある程度危険を察知する臭覚を持っているはずの半グレ共も、カレンの美貌と、自分たちの腕に対する自信と、観光客が迷い込んだと勘違いして、カレンに襲い掛かった。
その結果、逆に、カレンのおもちゃにされてしまった。
さすがに、殺してはまずいので、カレンは持てる能力の数十分の一も出していない。
いわば、フェラーリで、ミナミの路地裏を走行するくらい、セーブしていた。
カレンにとっては、ほんのお遊びにしか過ぎなかった。
だが、プロを相手にしても、軽く手玉に取るカレンに、痛めつけられた方はたまったものではない。
この半グレ共も、暫くは病院のベッドで唸ることになるだろう。
それだけで済めばいいが、ほぼ全員が 、退院しても悪さなんて出来ない身体になっているに違いない。
そして、今日のことを、カレンに絡んだことを、一生後悔しながら生きてゆくことになる。
あの時、いっそ殺されていたほうが幸せだったと思う日々を過ごしながら、歳を重ねてゆくのだ。
悟には、そのことがよくわかっていた。
「成仏するんやで」
半グレ共の冥福を祈って、悟が片手で拝む。
「なにを拝んでるの?」
カレンが、怪訝な顔をした。
「こいつらの、冥福を祈ってたんや」
「殺してないわよ」
カレンの否定に、悟が手を振る。
「わっかとる。せやけど、こいつらは、もう死んだも同然や」
言ったあと、直ぐに付け足した。
「いや、ここで、死んだほうがましやったんやないかと思うで」
「それは言えてるかも」
カレンが、屈託のない笑顔を見せる。
「あ、見て。可愛い」
カレンが、電柱に貼ってあるチラシに目を止めた。
そのチラシは、仔猫の里親募集ののやつで、可愛い仔猫の写真が載っている。
「まるで、わたしみたい」
カレンは、路上に倒れている男共には目もくれず、チラシの猫を見ながら、自分を指差した。
「見かけはな」
カレンが、さきほど自分のものにしたナイフを引き抜いた。
「見かけはって、どういうこと? 見かけはこの猫のように可愛いけど、中身は虎だとでも言いたいわけ」
「そんな事言うたら、虎に失礼やろ」
ナイフを目の前に翳されても、悟は動じることなく、軽く返した。
「そうね。いくらわたしが強くったって、虎と比べちゃ駄目よね。虎は、ライオンより強いっていうし」
(違うで。いくら虎が強いいうても、カレンと比べたら、このチラシの猫のようなもんや。だから、虎に対して失礼やと言ったんや)
悟は心で反論したが、それを口には出さなかった。
ただ、にっこりと笑っただけだ。
カレンが傷つきはしないかと気遣ったのではない。
自分の命を気遣ったのだ。
悟の言葉を勝手に解釈して納得したカレンは、ナイフを鞘に納め、悟の腕に両腕を巻きつけてきた。
「帰ろ」
「そうやな」
悟が、もう一度、路上に倒れている男共を見回す。
まるで、猛獣に襲われた後のように、悲惨な光景が広がっていた。
顔を上げると、二人は腕を絡めたまま、何事もなかったかのように、仲良くその場を去っていった。
第1章 魔女の目覚め
東京を代表する都市として名を馳せている都市、新宿。
夜の十時。不夜城と呼ばれる歌舞伎町にとってはまだまだ宵の口だが、診療時間をとっくに過ぎた病院の周りだけは、異世界のように、静寂に包まれていた。
「姉さん」
静寂が、若い女性の叫ぶような声によって破られた。
「姉さんは、どこ?」
夜間出入口に詰めていた守衛が、女の顔を見て凍りついた。
幽鬼のような青白い顔に、狂気を帯びた目。
身体全体から、まるで今、殺人を犯してきたような殺気が漂っている。
美しい顔立ちだけに、余計に鬼気迫るものがあった。
「あ、あなたは?」
かろうじて驚愕から立ち直った守衛は、自分の職分を全うしようと、勇気を振り絞った。
「姉さんはどこよ?」
守衛の言葉など耳に入らなかったかのように、女が鋭い声で、叩きつけるように言った。
目に宿る狂気が、一層増している。
「あなたは?」
背筋に悪寒を覚えながらも、守衛は、女を落ち着かせようと、努めてゆっくりとした口調で、もう一度問いかけた。
「姉さん」
女は守衛を無視して、叫びながら、病院の中へと駆け出した。
「ちょっと、君」
守衛が慌てて、女の後を追いかけた。
「待ちなさい」
薄暗い廊下の中ほどで女に追いついた守衛が、女の腕を掴んで止めた。
「離してよ」
華奢な身体からは想像もできないほど強い力で、女が、守衛の手を振りほどいた。
女の顔が、般若のような形相になっている。
狂ってるのか?
守衛が怯んで、一歩後ずさりした。
「わたしは、ここへ運び込まれた、園田瑞穂の妹よ。姉さんはどこなの」
守衛の胸倉を掴まんばかりの勢いで、女が語気を荒げた。
「園田瑞穂?」
「電車に轢かれて、ここへ運ばれたって、連絡をもらったのよ」
女性が新宿駅でホームから転落し、運悪く到着した電車の下敷きになったという、先ほどラジオで聴いたニュースを、守衛は思い出した。
なんでも、スマホに夢中になって歩いていた若い男が、ホームの前に立っていた女性と接触し、そのはずみで、女性はホームに転落してしまったということだ。
女性を助けようとして、隣にいた男性がホームに飛び降りたが間に合わず、その男性も、一緒に下敷きになってしまった。
二人は、夫婦だったそうだ。
ぶつかった男は、二人を助けようともせず、その場を逃げ去った。
警察は、その場に居合わせた人々の証言や、監視カメラなんどで、男の行方を追っているという。
そんなに周りが見えなくなるほど、スマホで何をしていたんだろう?
そのニュースを聞いたとき、スマホや携帯を、ただの通信道具としか思っていない守衛は、不思議でしようがなかった。
ニュースでは、その女性が身籠っていたことまでは流していなかった。
多分、その段階ではわからなかったのだろう。
知っていたら、そんなネタが大好きなマスコミのことだ。
大々的に、センセーショナルな取り上げ方をしたに違いない。
むろん、お涙頂戴で視聴率を上げるためだけに。
視聴率を前にしては、人の尊厳などおかまいなしなのだ。
「そういえば、つい、一時間ほど前に、救急車がやってきて慌ただしかったですが、あれがそうだったんですね」
守衛の目が、恐怖の色から一転、同情の色に変わった。
「どこへ運ばれたの?」
「さあ、そこまでは」
守衛が首を振ったとき、廊下の奥から、二人の警察官が現れた。
ひとりは若く、もうひとりは年配だ。
女性と守衛の声が聞こえていたのだろう。
「園田靖男さんと、瑞穂さんのご家族の方ですか?」
年配の方が、事務的な口調で尋ねた。
「瑞穂の妹の、結城志保です」
志保が、身分を名乗った。
「姉さんはどこです?」
「他に、ご家族の方は?」
年配の警官は、志保の問い掛けには答えず、またもや質問してきた。
「いないわ。姉さんも義兄さんも、家族はわたし一人だけよ。それより、姉さんと義兄に合わせて」
怒気を含んだ志保の口調に、若い警官が反応した。
「君、警察に向かって…」
志保を怒鳴りつけようとした若い警官を、年配の警官が手で制した。
「いや、申し訳ありません。これも職務でして」
さしてすまなさそうに、軽く頭を下げた。
志保はそれには答えず、苛立った表情で、警官を見据えていた。
「なにか、身分を証明するものはお持ちですか。これも、職務でして」
志保の苛立ちなど、まるで意に介さないような、いたって暢気な口調で言って、年配の警官が、志保に手を差し出した。
「姉さん」
死体安置所に並んで置かれた、瑞穂と靖男の遺体の前に立った志保が、二人を見下しながら、悲しそうに呟いた。
二人の死に顔は、まるで夫婦揃って、睦まじく眠っているように見えた。
止まりかけの電車に轢かれたので、顔も体も、それほど損傷していない。
「ねえ、志保。わたし、好きな人ができちゃった」
「ねえ、志保。わたし、結婚してもいい?」
微笑んでいるように見える瑞穂の死に顔を見つめる志保の脳裏に、瑞穂の声がまざまざと蘇った。
同時に、とても幸せそうな顔をした。瑞穂の顔が浮かんだ。
瑞穂と志保の姉妹は、早くに両親を事故で亡くした。
瑞穂が十五歳、志保が七歳の時だ。
一時は親戚の許に身を預けたが、そこでは酷い仕打ちを受け続けた。
瑞穂は高校を卒業すると同時に就職し、親戚の家を出た。
それからというもの、瑞穂が親代わりになり、志保を大学までやった。
高卒の女性が、女手ひとつで、妹を大学までやったのだ。
その苦労は、並み大抵のものではなかった。
それだから、二人の結び付きは、とても強かった。
瑞穂は志保を可愛がり、志保は瑞穂を、この世の誰よりも慕っていた。
志保のために青春を犠牲にした瑞穂を救ってくれたのが、靖男だった。
靖男もまた、孤児であったが故か、二人の境遇に強い共感を抱いた。
全身全霊を懸けて瑞穂を愛し、志保を実の妹のように可愛がってくれた。
「わたし、赤ちゃんができちゃった」
志保の脳裏に、また、瑞穂の声が蘇った。
「この子には、幸せになってほしいの。そのためには、うんと長生きしなくちゃね」
そう言って、笑顔でお腹をさすっていた姉。
それが、子供共々死んでしまうなんて。
まだ、生まれてもいない子供。
どんな子だったのだろう?
女の子だと言っていたから、きっと姉に似て、綺麗な子だったに違いない。
志保は、漠然とそんなことを考えた。
人は、悲しみが大き過ぎると、涙さえ出ないものなのか?
「許さない」
聞いている者がいたら血まで凍ってしまうような、地獄の底から湧き出てきたような声で、志保が呟いた。
「姉さんの幸せを奪った奴を、絶対に許さない」
瑞穂の死に顔に、志保は誓うように決然と告げた。
もう、志保の目に、悲しみはなかった。
代わりに、燃え盛る憎しみの炎が宿っていた。
死者にしてやれることは、なにもない。
ただひとつ、復讐を除いては。
そんなことを、瑞穂が望んでいないことは、志保にはよくわかっている。
今の瑞穂に口が利けたら、きっとこう言うだろう。
「志保、あんたの気持ちは嬉しいけどね、復讐なんて馬鹿げたことよ。そんな考えは捨てて、あんたは自分の幸せを掴みなさい。それが、わたしには一番嬉しいの」
だが、姉は死んだのだ。
もう、話しかけてくることはない。
それに、復讐は、瑞穂や靖男のためにするのではない。
自分のためにするのだ。
自分の幸せなんて、どうでもいい。
こうなった以上、幸せになんてなれるはずがない。
最愛の家族を奪った奴に、何もせずに泣き寝入りをするくらいなら、死んだ方がましだ。
たかが、スマホなんかのために、三人の大事な命を奪い、幸せな家族の未来を奪った。
そして、自分の心も死んだ。
その張本人は、線路に転落した二人を助けることもせず、その場に止まることもなく、卑怯にも逃げ去ってしまった。
「許さない」
もう一度呟いて、志保は死体安置所を後にした。
もっと、姉の顔を見ていたかったが、きりがない。
それに、ここに長く止まるわけにはいかなかった。
鋭利な刃物で喉を切り裂かれた、二人の警官と一人の守衛が流す血を踏まないように気をつけながら、志保は暗い廊下を、足早に去っていった。
瑞穂と靖男の死から二ヶ月後。
帰宅で込み合う新宿駅の雑踏を、幾度も人にぶつかりそうになりながらも、寺山佳代子は、スマホの画面に魅入られながら歩いていた。
そして、とうとうぶつかってしまった。
「馬鹿野郎、こんな人込みの中で、携帯なんかをいじりながら歩いてんじゃねえ」
謝りもせず通り過ぎようとする加代子の背中に、怒声が突き刺さった。
加代子が振り返ると、柄の悪そうな中年の男が、凄まじい形相で加代子を睨んでいる。
「うるさいわね。あんたこそ、前を見て歩いてるんだったら避けなさいよ」
まさか、逆ギレされるとは思ってなかったのだろう。
男は、呆気に取られた顔をした。
次に、何かに怯えたような顔になり、逃げるようにその場を立ち去ってしまった。
加代子が熱中しているのは、「トゥルーフレンズ」という、ここ一ヶ月で急速に会員数を増やしてきたSNSのツールだ。
SNSとは、平たく言えば、インターネットを通じた交流会だ。
ソフトをインストールして会員登録さえすれば、世界中の誰とでも繋がることができる。
その種類は、様々ある。
トゥルーフレンズが急激に会員数を増やしてきた背景には、二つの機能があった。
ひとつは、自分が好きな歌手や俳優や声優などの声が設定できる機能。
その声で、相手からのメッセージを、甘く囁くように読み上げてくれる。
もうひとつは、気に喰わないメッセージをカットしていくうちに、どんどん学習していき、使えば使う程、自分の気に入らないメッセージが自動的にカットされる機能。
これらにより、悩みや相談事を書き込めば、不快な言葉を一切聞くことなく、自分の求める答えだけが、まるで恋人に慰められているかのように、耳に入ってくる。
ネットで不特定多数の人たちに相談を投げかける人々は、大半は本当に悩んだり困ったりしている人たちだが、自分が思っている通りの答えを求めている人も多々いる。
そういった人たちは、たとえ正論であろうと、耳に痛い意見は受け入れない。
自分の正しさを証明し、安堵したいだけなのだ。
トゥルーフレンズは、そういった人たちの心理を、うまく突いていた。
そして、トゥルーフレンズはフリーソフト、いわゆる無料のソフトだ。
使用料もいらないし、課金する仕組みも一切ない。
入力も音声できるようになっており、画面操作は、最初の設定くらいで済ますことができる。
広告の類も一切ないので、非常にシンプルな画面構成になっている。
このソフトが出回ってから、わずか一ヶ月足らずの間に、会員数は全世界で十億人近いと言われている。
まさに、驚異的な数字だ。
不思議なことに、これだけヒットしているにも係わらず、誰が作成したのかわかっていない。
フリーだと当然だと思われるかもしれないが、一般的に著名なフリーソフトは、大抵は作成者がわかっているものだ。
ここまでヒットしておいて、一切の広告も載せず、名乗り出る者もいない。
これは、常識では考えられないことだ。
加代子は、子供の頃から、無口で暗い性格だった。
そのため、いつも目立たない存在で、友達もいたためしがない。
これまで、楽しいことなんてこれっぽっちもなかったが、それを良しとしたことなんて、一度もない。
人並みに、友達も恋人もほしかった。
学校の中でも、登下校中でも、連れだってワイワイと楽しそうにしている同級生たちを、いつも羨望の眼差しで見つめていた。
それは、社会人になっても、変わることはなかった。
一生叶わぬ夢。
諦めの境地に達したとき、トゥルーフレンズが現れて、加代子を救ってくれた。
トゥルーフレンズのお蔭で、加代子の世界が一変したのだ。
トゥルーフレンズの中では、加代子は奔放に振舞えた。
明るく社交的で友達も多い、加代子の理想とする女性になれた。
現実の厳しい世界より、たとえ偽りの世界であっても、甘い夢を見させてくれる方に傾倒するのは、人間の本能と言って良いのかもしれない。
それを、弱さや現実逃避だと非難するのは容易いが、非難する人間にも、弱いところはあるものだ。
加代子は、トゥルーフレンズに嵌る前から、歩行中でも電車の中でも、所構わずスマホに見入っていた。
その頃は、そういった行為が危ないという認識は持っていたので、周りに注意はしていた。
それでも、幾度か人にぶつかりそうになったことがある。
その度に、舌打ちされたり睨まれたりした。
凄い剣幕で怒鳴られ、殴られかけたこともある。
その度に加代子は、小さな声で「すみません」と謝って、その場を逃げるように、そそくさと立ち去ったものだ。
それが、トゥルーフレンズを始めてからの加代子は、まったく人が変わってしまった。
理由はわからないが、特にここ数日というもの、加代子はキレやすくなっていた。
人にぶつかろうがどうしようがお構いなしにスマホに熱中し、ぶつかった相手からどんなに文句を言われようと、謝るどころか、今のように平然と言い返す始末だった。
不思議なことに、加代子の方が悪いのに、加代子が言い返すと、どんな相手でも逃げるように去っていった。
言い返したときの加代子の目が、狂気を帯びているからだとは、加代子自身は少しも気付いていなかった。
ホームの端で電車を待つ間も、いつものようにトゥルーフレンズに熱中していた。
間もなく電車が到着とのアナウンスが流れた。
「加代子さん、僕の胸に飛び込んでおいで」
加代子の耳に、大好きな俳優の、甘い囁きが聞こえた。
「なにも、恐れることはないよ。さあ、勇気を出して、僕の胸に飛び込むんだ」
加代子の目に、憧れの人が両手を拡げて、自分に向かって微笑んでいる姿が映った。
その誘惑に、加代子は抗うことはできなかった。
うっとりとした顔をして一歩前に踏み出し、思い切りよく両手を拡げて、愛する人の胸に飛び込むように、線路に飛び込んだ。
その刹那、電車がホームに入ってきた。
「キャー」
「人が飛び込んだぞ」
「人が轢かれた」
周囲から、悲鳴や叫び声が上がり、新宿駅は騒然とした。
東京郊外のマンションに住む、木田武雄と真由美夫妻は、リビングで夕食を摂っていた。
まだ新婚三ヶ月だというのに、武雄は妻の真由美に見向きもしないで、無言でスマホと向き合いながら、時々思い出したように箸を口に運んでいる。
付き合っている頃から武雄はよくスマホをいじっていたが、ここ最近は、特に酷くなった。
以前は、真由美との時間を大切にしてくれ、食事の時は共に語り合ってくれていたのだが、数週間から様子が変わってきた。
特にここ一週間というもの、依存症かと思うほど異常にスマホに執着し、トイレに行くときも手放さず、寝る間も削って、ずっとスマホと睨めっこしている。
風呂も、毎日入っていたのが、二日に一度になった。
それも真由美が口うるさく言ってやっと入るのだが、カラスの行水のように、ものの五分と入っていない。
洗面台にスマホを置いて、服を気ながらでも睨めっこしている有様だ。
何かのゲームに嵌っているのかと真由美が尋ねてみると、トゥルーフレンズと、一言ぶっきらぼうな答えが返ってきただけだった。
真由美は機械ものが苦手で、スマホにもあまり興味がない。
スマホとガラケーの違いもわからない真由美だから、トゥルーフレンズと言われても、なんのことかさっぱりわからなかった。
だが、それ以上訊くことはしなかった。
聞いても、理解できないと思ったからだ。
「臨時ニュースです。今夜七時頃、帰宅時間帯で混雑する新宿駅で、若い女性の飛び込みがありました」
スマホに魅入る夫に真由美がため息をついたとき、点けていたテレビのバラエティー番組が、臨時ニュースに切り替わった。
「目撃者の話しによりますと、その女性は、うっとりとした顔をして、電車が到着する直前にホームに飛び込んだとのことです。また、飛び込む直前まで、まるで何かに取り憑りつかれたように、スマートフォンに熱中してそうです」
真由美が、夫の武雄を見た。
アナウンサーの声が耳に入っているのかいないのか、武雄は相変わらずスマホと睨めっこしている。
夕飯は半分も減っていない。
「今月に入ってから、新宿駅だけでも、これで五人目となり、詳しい数字はわかっていませんが、全国各地でもホームからの飛び込みが頻発している模様です。それらの全員が、直前までスマートフォンに熱中していたことがわかっており……」
「また、飛び込みだって」
真由美が、武雄に話しかけた。
武雄は、スマホから目を離さず、「ふーん」と気のない返事をした。
「あなた、ご飯のときくらい、携帯をいじるのやめなさいよ」
真由美が、思い余って注意する。
「これは、携帯じゃなくてスマホだよ」
武雄は、顔も上げずに、小馬鹿にした返事を返すのみだ。
右手は、軽快に画面をタップしている。
「どっちでもいいでしょ。ねえ、わたしたち、まだ新婚なのよ。ご飯のときくらい、顔を見て、話しをしながら食べようよ」
半ばムッとし、半ば哀願するような口調で、真由美が言った。
武雄が、スマホ越に、凄まじい目付で、真由美を睨みつけてきた。
「うるせえな。そんなに暇だったら、おまえもスマホを持てばいいだろ。大体な、俺と話しがしたいんだったら、いい加減、スマホと携帯の違いくらい覚えろよ」
さも鬱陶しそうに、武雄が吐き捨てる。
「まあ、機械オンチのおまえには無理だろうがな」
最後に、憎まれ口を叩く。
「あなた、わたしと携帯と、どっちが大事なの」
今や、真由美の声は、怒りで震えている。
「なに、くだらんえこと言ってんだよ。うぜえったらありゃしねえ。それにな、さきも言ったろ。これは携帯じゃなくてスマホだよ。ス・マ・ホ」
武雄が怒鳴り声を上げながら、箸を投げ出して立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「寝室だよ」
「でも、まだご飯の途中じゃない」
「おまえが、あんまりうざいんで、食う気なんかなくしちまったよ」
武雄は、捨て台詞を残して、荒々しくリビングから出ていってしまった。
武雄が出ていってから、真由美は悔しさと情けなさのあまり、涙が溢れてきた。
そのまま、暫く、嗚咽を漏らしていた。
数分後、少し落ち着いた真由美は、「どうして、こんなことになってしまったの」と、ポツリと呟いた。
いくらスマホ大好き人間だとはいえ、ちゃんと分別を保っていた夫が、ここ最近、異常なほど執着し、まるで人が変わったかのように、怒りっぽくなってしまった。
ゆうべ、真由美は心配のあまり、会社でなにかあったのかと、武雄に訊いてみたが、「なにもねえよ」と、ぶっきらぼうな言葉が返ってきただけだった。
もしかしたら、これが夫の本性かもしれない。
結婚して三ヶ月、徐々に本性が現れ始めているのかもしれないと思ったが、真由美は、それを認めたくはなかった。
真由美が寝室に行くと、武雄は既にふて寝していた。
手には、しっかりとスマホを握り締めていた。
翌日の朝、真由美が目覚めると、もう武雄の姿はなかった。
いつもなら、ぎりぎりまで寝ていて、朝食を掻き込んで慌ただしく出ていくのだが、昨晩は早くからふて寝していたため、朝早く目を覚ましたものと思われた。
真由美は、自分と顔を合わせるのがバツが悪かったのだろうと思い込もうとしたが、どうしても、自分と顔を合わせるのが鬱陶しいかったのではないかとという思いが、頭をもたげてくる。
そう思うと、また真由美の目から、涙が溢れてきた。
夜の十一時過ぎ、真由美はじりじりしながら、夫の帰りを待っていた。
いつもならば七時には帰ってくるはずの武雄が、まだ帰ってこない。
残業で遅くなるときは、必ず連絡をしてくる。
武雄は人付き合いが良い方ではないので、急に飲みが入ったとは考えられなかった。
また、そういったときでも、連絡は入れてくるはずだ。
真由美はふと、昨晩の臨時ニュースを思い出した。
まさか、武雄が?
いや、そんなことがあるはずはない。
電車に飛び込んだ人がみなスマホに熱中していたのは、単なる偶然の一致だ。
だいいち、武雄に自殺する動機なんてあるはずがない。
まだゆうべのことを怒っていて、家に帰りたくないと思い、どこかで時間を潰しているのだろう。
きっとそうだ。
真由美は必至で、頭に浮かんだ不安を打ち消そうとした。
その時、真由美の不安が具現化したように、固定電話が鳴った。
武雄からの連絡かと思ったが、直ぐに違うことに気付いた。
武雄ならば、携帯にかけてくるか、メールで連絡してくるはずだ。
機械オンチながら、真由美も携帯を持っているので、固定電話が鳴ることなど、滅多にない。
固定電話にかけてくるのは、どちらかの両親か、なにかの勧誘くらいのものだ。
この時間に、両方の親がかけてくるなんてことは、よほどのことがない限り、考えにくい。
ましてや、勧誘なんてあるはずもない。
真由美は、不吉な予感を胸に抱きながら、受話器を取った。
「ハイ」と言った真由美の耳に、「木田さんのお宅ですか?」と、低い男の声が聞こえてきた。
「そうですけど」
真由美の不安は、ますます膨らんでゆく。
「わたし、S署の藤岡と申します」
警察と聞いて、真由美の動悸が激しくなった。
「大変お気の毒ですが、ご主人の武雄さんが亡くなられました」
事務的な口調で、藤岡と名乗った男が告げた。
真由美は衝撃で、受話器を落としそうになった。
頭の中が真っ白になり、なにも言葉が出てこない。
藤岡の声すら、耳に入らな入らなくなってしまった。
「もしもし、もしもし、奥さん、聞いてますか?」
電話の向こうで、藤岡が呼びかけている。
「そんな… なにかの間違いではないでしょうか」
執拗な藤岡の呼びかけに、我に返った真由美は、震える声で、呻くように言った。
「所持していた免許証で、ご主人と確認できました」
「あ、あの、主人は、その、どうして亡くなったんでしょうか?」
気が動転していてしどろもどろになりながらも、真由美は武雄の死因を尋ねた。
警察から連絡があったということは、なにか事件に巻き込まれたのだろうか?
元気だった夫が急に死んでしまうだなんて、真由美には到底受け入れることができなかった。
「詳しいことは捜査中ですが、ホームから電車に飛び込んだものと思われます」
「飛び込み?」
真由美が、かん高い声を上げた。
まさか、自殺?
ゆうべ、いくら怒っていたとはいえ、あんなことくらいで自殺するとは思えない。
もしかして、飛び込みの話題から喧嘩なったので、自分への当てつけに、発作的に飛び込んだのだろうか?
一瞬そう思ったが、直ぐにあり得ないと打ち消した。
「ええ。帰宅途中の最寄駅で、電車に飛び込んだようです。目撃者の証言では、スマホに夢中になっていたご主人が、電車が到着する直前、うっとりとした顔でふらふらとホームの端に行き、そのまま飛び込んだそうです」
静かな口調だが、藤岡の声は、容赦なく真由美の耳に響いた。
「主人は、今どこに?」
咳き込むように、真由美が問う。
「橋本総合病院です」
「わかりました。直ぐに伺います」
真由美は電話を切ると、財布だけを手に取り、タクシーを拾うべく、急いで家を出た。
気が動転しているせいか、鍵を掛けるのも忘れていた。
「間違いありません。主人です」
武雄の顔を確認した真由美が、涙交じりの声で告げた。
電車の下敷きになっただけなので、顔は損傷していなかった。
少し青白いところを除けば、今にも起き出してきそうに見えた。
「お気の毒です」
藤岡の慰めを聞いた途端、真由美は泣き崩れた。
スマホに執着していてもいい。
ご飯の時に会話をしなくてもいい。
だから、起きて。
憎まれ口を利いて。
真由美は、心の中で叫び声をあげた。
「ご主人が自殺するような動機に、なにか心当たりはありますか?」
真由美が落ち着くのを待って、藤岡が尋ねた。
もうひとりの刑事が、メモを取る態勢をしている。
「いいえ。私たち、まだ結婚して三ヶ月なんです。もし、主人が自殺したとしたら、なんで自殺なんてしたのか、思いもよりません」
昨夜の喧嘩のことは、真由美は言わなかった。
そんなことで自殺なんかする夫ではないと思っていたのもあるが、もしそれが原因だとしたら、真由美には耐えきれなかったからだ。
「そうですか」
藤岡が、小さく頷いた。
「最近、ご主人になにか変ったところはありませんでしたか?」
「いいえ、とくには…」
首を振りかけた真由美が、ハッとした顔をした。
「どうしました?」
「そういえば、ここ数日、携帯、いいえ、スマホだったかしら。を、異常なくらい触ってました。まるで、なにかに憑りつかれたみたいに。それに、少し怒りっぽくなっていました。わたしが、会社でなにかあったのかと尋ねても、主人は別にと、ぶっきらぼうな返事を返すだけでしたけど」
真由美の言葉を聞いて、藤岡の目が鋭くなった。
メモを取っていたもうひとりの刑事が顔を上げ、藤岡と目を合わせた。
二人が、厳しい顔をして頷き合う。
「先輩、これで、うちの管内だけで八件目ですね」
真由美が帰ってから、メモを取っていた高橋が、ため息交じりに話しかけた。
「そうだな。電車への飛び込みが三人で、歩道橋からが二人、それに、車道に飛び出して轢かれたのが三人」
藤岡が、指を折りながら、数えていった。
「だがな、それだけじゃないぞ。死にはしなかったが、突然、車道に飛び出した奴が、わかっているだけで八人はいる。わずか、一ヶ月の間にだ」
「そうですね。そのいずれもが、直前までスマホをいじっていたのが確認されています」
「目撃者の証言が、判で押したように同じだ。みんな、まるで夢遊病者のように、ふらふらと自分から飛び込んでいったとな」
「それに、飛び込む数日前から、異常にスマホに執着し、怒りっぽくなる点も共通してますね」
「ああ、そうだ。しかも、うちの管内だけじゃない。昨日も、新宿でも同じことがあった。ここ最近、全国で同じようなケースが多発している」
「偶然とは思えませんね」
こんなことが全国で立て続けに起こっては、刑事でなくても、偶然と思う者はいないだろう。
「電磁波の影響かもしれませんよ。携帯やパソコンの電磁波が人体に及ぼす影響は、まだはっきりと解明されてませんから」
偶然ではないと思っていても、若い高橋には、動機や方法が皆目見当がつかないため、犯罪と決めつけることはできないようだ。
「そうだな」
藤岡が頷いてみせた。
しかし、高橋の意見に同調していないことは、藤岡の顔を見れば明らかだった。
「安易に断定するべきではないのはわかっているが、俺は、違うと思う。これは、悪意を持った無差別殺人に違いない。そうでなければ、テロさ」
警察というものは、明らかな証拠がない限り、犯罪として断定することはしない。
たとえ、限りなく黒だと思っていてもだ。
藤岡は、同じ警察の高橋だからこそ、本音を口に出したのだ。
「でも、だとしたら、誰が、どういった目的で、どうやってるんですかね」
高橋は、電磁波の線を捨てきれないようだ。
「そんなことは、俺にもわからんよ」
粘る高橋に、藤岡が苦い顔で答えた。
「とにかく、署に戻って報告だ」
これ以上話しをしていてもらちがあかないと思ったのか、藤岡は話しを打ち切るようにそう言って、高橋の肩を軽く叩いて歩き出した。
「わかりました」
高橋も頷くほかはなく、素直に藤岡の後に続いた。
口には出さなかったが、藤岡は、これは、ほんの序章に過ぎないという予感がしていた。
これから、自分では想像もしえないような、とんでもないことが起きる。
それは、予感というより、確信に近かった。
真由美が武雄の帰宅を不安な気持ちで待っていたのと同じ頃、大阪では、野島美雪が不安な気持ちで、夫の帰りを待っていた。
帰宅時間はとっくに過ぎているのに、夫からはなんの連絡もない。
美雪がいくら電話しても繋がらず、ラインの返事もない。
既読すらされていなかった。
今日も、全国各地で飛び込みが頻発し、そのどれもが直前までスマホに夢中になっていたと、ニュースで報道されていた。
美雪は、夫のことが心配でならなかった。
美雪の夫も、昔から携帯やスマホをいじるのが好きだった。
美雪がいくら注意しても、止めようとはしなかった。
それで夫とは、何度も喧嘩になっている。
そんな夫でも、少し前までは、そこまで酷くはなかった。
それなりに、美雪に配慮はしてくれていた。
しかし、ここ最近は、家庭を顧みなくなった。
まるで、なにかに憑かれたみたいに、スマホに向かいきりだった。
注意でもしようものなら、思いきりキレられた。
手をあげられたこともあった。
付き合っていた頃から、しばしば喧嘩はしていた。
しかし、これまでどんなに喧嘩をしようが、手をあげられたことなんて、一度もない。
そんなだったから、美雪は腹が立つより、夫が鬱かパニック障害にでも陥っているのではないかと心配した。
だから、今日も、連絡もなしに、夫の帰りが遅いのを心配していた。
気持ちが不安で押し潰されそうになっていたとき、電話が鳴った。
恐る恐る受話器を取った美雪の耳に、警察という言葉が飛び込んできた。
「やっぱり、他の仏さんと一緒か」
夫に縋り付き泣き崩れる美雪を残して、死体安置所を出た津村が、顔をしかめた。
「そうですね」
津村の言葉に、磐田が相槌を打つ。
「自分の同期で、高橋という奴がS署にいるんですが、奴の管内でも、飛び込みが多発しているそうです。今しがたもあって、さっき奥さんが帰っていったそうです。うちと同じですね」
岩田は、先ほど高橋から伝え聞いた話しを、津村に伝えた。
その折に、藤岡が述べた見解も、津村に伝えた。
「これは、ひょっとしたら、どえらいことが起こっとるかもしれへんな」
岩田の話しを聞き終えたた津村は、険しい目をして腕を組んだ。
「警部補も、無差別殺人やテロやと思いはるんですか」
高橋と同期である岩田は、やはり、これらが犯罪だとは思い難かった。
外国ならいざしらず、日本で、そんなテロのようなことが起こるはずがないと、根拠もなく信じている。
だが、老獪な津村は、藤岡と同じ見解を持っていた。
今の日本は、これまでとは違う。
諸外国から犯罪者が、怒涛のように流れてきているのだ。
それに、日本でテロが起こらないという保証など、どこにもない。
自分たちさえ平和を唱えていれば、他国からなにもされないとうのは、ただの甘えた妄想に過ぎないということが、津村にはよくわかっていた。
現に、昔と違い、犯罪の質も変わってきている。
昔なら大事件で大々的に取り上げられたようなことでも、今では、大したネタにもならないほど、犯罪は多様化し凶悪化している。
昭和の時代から刑事をやっている叩き上げの津村には、そのことがよくわかっていた。
「いくら偶然やいうても、こないに偶然が重なるわけないやろ。しかも、全国で起こっとんのや。飛び込んだ状況も、それに至る経緯も、全部同やないか。なにがどうなってるんかは知らんが、これは絶対、誰かが仕掛けたことに違いあらへん」
津村の目には、切迫感が漂っている。
長年で培われてきた刑事の勘が、これからもっとどんでもないことが起きると告げていた。
藤岡や津村の予感通り、これは、ほんの序章に過ぎなかった。
これから起こることは、藤岡や津村の想像を、遥かに超えていた。
「まだまだこれからよ」
今日も全国各地で飛び込みがあったというニュースを、ヒステリックに繰り返し流し続ける報道番組を見ながら、志保は邪悪な笑みを浮かべていた。
「実験段階は終了。これからが本番よ」
気だるげな口調で言うと、志保はテレビを消し、ノートパソコンに向かった。
「人類なんか滅んでしまえ」
その言葉を念仏のように繰り返し呟きながら、志保は軽やかなタッチで、キーボードを操作していった。
第2章 赤い守り神
昔、香港の一角に、九龍城と呼ばれる、入り組んだ建物があった。
1800年代後半の列強による、租借とは聞こえがいいが、実質は植民地同様の扱いを受けていた土地から、例外として外されていた。
どの国の主権も及ばず、半ば放置されていたため、「東洋の魔窟」と言われ、犯罪者の温床として恐れられていた。
一般人は足を踏み入れ得ない場所で、なにも知らない観光客が迷い込んだりすれば、まず無傷では出てこれないと言われていた。
そんな無法地帯も、時代の流れには勝てず、ついに終焉を迎えた。
イギリスによる、中国への香港の返還が決まってから、九龍城は取り壊されることが決定した。
そして、1993年から1994年にかけて取り壊され、今は公園となっている。
周りは、活気溢れる商店街を中心に、閑静な住宅街となり、昔の荒れた面影は、どこにもない。
商店街の外れに、少し周囲とは趣を異にした、瀟洒な三階建てのビルがあった。
そのビルは、ある犯罪組織の本部であった。
「赤い金貨」
それが、犯罪組織の名前だ。
武器密売、麻薬、人身売買、暗殺の請負、誘拐ビジネスなど、裏の商売でおよそ金になることは何でも手がけている。
中でも、武器密輸が大きな資金源となっており、世界中のテロ組織や反政府ゲリラに、大量の武器を売りさばいている。
戦車や戦闘機、ミサイルまで取り扱っているというから驚きだ。
組織の歴史は浅い。
最初は、小さな犯罪集団かと思われていたが、数年も経ず、みるみると巨大な組織へと変貌していった。
組織の中核には、各国の政府高官や、軍部や情報部でそれなりの立場に席を置く者も、数多くいると言われている。
そうでなければ、ミサイルまで取り扱うことなんて、できはしないだろう。
組織は、金儲けのためなら、人の命などなんとも思っていない。
それどころか、大勢の人間が鮮血に染まることにより、より大きな金になるとの信条を掲げている。
「人命は金脈」
この信条が、組織名の由来となっている。
鮮血にまみれた金貨を掴み取ろうというわけだ。
裏社会の噂では、赤い金貨の裏には中国政府が付いていると言われている。
目的は、外貨獲得と敵対勢力の弱体化。
多少の信憑性はあるものの、真偽のほどはわからない。
というもの、敵対勢力と手を組んでいる反政府組織へも、大量の武器を流しているからだ。
今では、全世界のテロ組織に流れている武器の半分以上が、赤い金貨が供給しているとさえ言われている。
そのため、どこの国の諜報機関も、赤い金貨に注目し、情報を掴もうとしている。
しかし、未だ全容を掴んでいる組織はない。
その、赤い金貨の本部ビルの前に、一台の黒塗りのベンツが止まった。
外観とはそぐわぬ、コンクリートが打ちっ放しの無機質な地下室。
一癖も二癖もある、屈強な二十人ばかりの男が、それぞれ拳銃を手にして、後ろ手に縛られて座り込んでいる、三人の男たちを取り囲んでいた。
縛られている男たちも並みの人間ではないことが、この状況に怯えも見せず、ただふて腐れた顔をしていることから窺える。
誰も、言葉を発しない。
不気味な静寂の中で、突然、ブザーの音が響いた。
壁に埋め込まれている複数のモニターのひとつに、一人の男が階段をゆっくりと降りてくる姿が映し出された。
暫くすると、別のモニターに、その男が扉の前に立つ姿が映った。
味気ない室内に不似合な革張りの重厚な椅子に、ゆったりと足を組んで座っている男が、誰ともなしに顎をしゃくった。
取り囲んでいた男のひとりが頷いて、陣列から離れ、扉の横のスイッチを押す。
重厚な鋼板の扉が、音もなく静かに横に滑っていった。
完全に開ききらないうちに、モニターに映っていた男が、のっそりと入ってきた。
コブラを連想させる、邪悪な顔立ちをしている。
銃弾をも跳ね返しそうな分厚い胸と、丸太のように太い腕。
短く切り込んだ髪と、右の頬から顎にかけての引き攣れた刃物傷が、男の禍々しさを、一層際立たせていた。
男の名は、劉(りゅう)。
どんな地獄を潜ってきたのか、劉の全身からは、凄まじい妖気が放たれている。
劉の出現により、地下室の空気が一変した。
一癖も二癖もある屈強な男たちが、一様に顔を強張らせて、緊張に包まれる。
「遅かったじゃないか、劉」
ただひとり、椅子に座った男だけが落ち着いていた。
黒いサングラスで目を隠してはいるが、その男は、そんなに歳がいってないように見える。
綺麗に後ろに撫でつけられた髪は黒々としており、多分、四十を幾つも越えていないだろう。
物静かだが、底の知れない迫力がある。
それもそのはずで、この男は、赤い金貨の大幹部だ。
ただ老板(ボス)と呼ばれているのみで、名前も素性も、誰も知る者はない。
劉は、一切の感情を遮断した茫漠たる目で、老板を無言のまま見やった。
赤い金貨には、組織の障害となる者を排除する部隊がある。
その部隊は、『赤い守り神』と呼ばれており、世界中の犯罪者の中でも、とりわけ凶暴な猛者共が揃っていた。
その中でも、群を抜いているのが、劉である。
劉は、元々は中国情報部の破壊工作員であったと言われているが、その真偽は定かではない。
彼についてわかっていることは、殺戮を好み、特にナイフで人を切り刻むことを無上の喜びとしているということくらいだ。
劉は、目的のためには手段を選ばない。
自分の部下ですら平然と利用し、犠牲にする。
ましてや、無関係な人々なぞ、どれだけ巻き添えにしようが、一向に気にしない。
事実、一人の邪魔者を排除するために、二十人以上の一般人を巻き添えにしたという噂もあった。
劉は、金と女には興味がないらしく、彼が赤い金貨に入ったのは、どれだけ人を殺そうとも、組織に疎まれることがないからだと言われていた。
老板が劉に顔を向けたまま、ゆっくりと右手を上げた。
縛られた男たちを取り囲んでいた強者どもが、囲みを解く。
劉と聞いて、縛られている三人の目に、怯えの色が浮かんでいる。
劉が、ちらと三人を見たあと、再び老板に顔を向け、小首を傾げた。
「こいつらは?」
劉の目が、そう問うている。
「我が組織に、送り込まれてきたスパイだ」
劉が、かすかに頷く。
「左から、CIA、SVR、モサドだ」
CIAは、言わずと知れた、アメリカの悪名高い諜報機関である。
SVRとは、旧ソ連時代のKGBを前身とするロシアの諜報機関で、モサドは、イスラエルの諜報機関だ。
第二次世界大戦後に建国されtイスラエルは、建国当初に根差す問題が多く、アラブ諸国の中での異端児だ。
そのため、国を守るために、強力な諜報組織を作る必要があった。
それがモサドで、世界で最も優れた諜報機関と言われている。
「我が組織も、有名になったものだな。世界の名だたる諜報機関が、スパイを送り込んでくる」
老板が、微かに唇の端を吊り上げ、物憂げな口調で言った。
老板が指を鳴らすと、三人のスパイを見張る役目の二人を残し、残りの猛者共が老板と劉の前に整列した。
みんな、顔に緊張感を漲らせている。
「劉、おまえを呼んだのは他でもない。帰国早々で悪いが、これから日本へ行ってもらう。おまえにしか出来ない仕事だ。何をするかは、後で教える」
老板が、整列している男共に目をやった。
「こいつらは、今日から、おまえの部下だ」
劉が、静かに首を振った。
「なにも、おまえの部下が頼りないと言っているわけではない。おまえの部下は、優秀だよ」
老板がサングラスを外した。
人の心の奥底まで見透かすような、冷徹な目が現れる。
その目で見つめられると、誰しもが恐怖で凍り付いてしまいそうだ。
老板の目が、じっと劉に注がれた。
劉は顔色ひとつ変えずに、凍てつくような老板の視線を、平然と受け止めている。
茫漠たる目は、老板の視線を捉えているのかどうかすらわからない。
周りの男たちが、緊張に耐えかねて、ごくりと唾を飲んだ。
「こいつらは、長年日本で働いている奴らだ。おまえは、日本は初めてだろう。今度のミッションは、断じて失敗は許されない。だから、日本に精通している者達をおまえの下に付けるのだ」
静かだが、有無を言わせぬ口調だ。
劉が、無言で頷く。
劉は、まだ一言も口を利いていない。
「こいつらは、おまえの噂は知っているが、まだ、おまえの実力を見たことがない。噂だけでも十分だろうが、一度おまえの力を見せておいた方が良いと判断した。そのために、わざわざ日本から呼び寄せたのだ。さっきも言ったように、今度のミッションは、絶対に失敗できないからな」
そう言って、ボスが三人のスパイに目を移した。
妖刀のように冷たい光を放つボスの目に見つめられた三人は、一様に目を逸らし
「おまえ達、この男に勝ったら、助けてやろう」
三人の眉が、ぴくりと震えた。
「といっても、劉相手に、三人ではちょっと不利だな」
老板が片頬を歪めて、部下の一人に目で合図した。
合図を受けた部下は、三人の縄を切り、刃渡り二十センチはあろうかという大きなナイフを、三人に手渡した。
「それは、ハンディだ。劉は、素手で相手をする」
劉は、なんの感情も表に出さず、その光景を静かに眺めている。
ナイフを受け取った男たちが、劉と手にしたナイフを交互に見た。
三人とも、劉の噂は嫌というほど耳にしている。
そして、目の当りにして、劉の不気味な迫力に圧倒されてもいた。
それでも、犯罪組織に潜入するくらいだから、男たちも腕には相当覚えがある。
それぞれ、組織で鍛え抜かれてきた連中だ。
三人で掛かれば、いかな劉でも倒せるのではないか。
男たちは、そう判断した。
三人が目を見交わせ、同時に頷き合った。
それが合図でもあるかのように、無表情のまま、劉が無造作に一歩踏み出した。
三人が、また、目を見交わす。
もう一度頷き合い、それから意を決したように、一斉に劉に襲い掛かった。
自分に向かって繰り出された三本のナイフを、劉はなんなく躱すと、一人の腕を掴み、軽く捩じ上げた。
骨の折れる嫌な音と、小さく呻く声が重なった。
さすが、選び抜かれた男とあって、腕を折られても叫び声を上げはしない。
だが、その呻きが絶叫に変わった。
劉が、男の首を片手で掴んで、宙に持ち上げたのだ。
その絶叫も、長くは続かなかった。
劉が、男の首を掴んだ手に軽く力を入れて捻った。
それほど力を入れていないよに見えたが、乾いた音とともに、もがく男の足が止まった。
首が、あらぬ角度に捻じ曲がっている。
劉が手を離すと、糸の切れた操り人形のように、男の身体がことりと床に転がった。
その間、ものの数秒と経っていない。
残る二人が、両側から同時にナイフを突き出してきた。
軽いステップを踏んで後退した劉は、二人の後頭部を掴み、お互いの顔面を叩きつけた。
グシャッという音と共に、二人の顔面がみるみる朱に染まる。
そのまま二人を放り投げると、劉は、何事もなかったかのように、老板の前に立った。
もう興味を無くしたように、三人の骸を見ようともしない。
老板も、満足げに頷くだけで、三人の死体には目もくれない。
部下の男たちは、声も出せずに、呆然と立ち竦んでいるばかりだった。
深夜、横浜の埠頭に、一隻の黒いゴムボートが音もなく接岸した。
乗っているのは、二人の東洋系の男である。
ボートは、沖合を航行しているカナダ船籍のタンカーから密かに降ろされ、静かに波を漕いでやってきだ。
船外機を取り付けてあるが、万一の時の逃走用のためらしい。
ボートが接岸すると、倉庫の陰にひっそりと隠れるようにして停まっていた黒塗りのベンツが、エンジン音をたてずに滑り出した。
ベンツを認めると、ボートから屈強な体付きの男が降り立った。
短く刈った髪に、頬の切り傷。
劉だ。
劉は、国際指名手配されている。
一般的には知られていないが、世界の数ヶ国で起こったマフィアと闇社会との抗争事件や、某国における政府高官の暗殺事件などの首謀者と目されていた。
そのため航空機は使用できず、ヘリで海上のタンカーまで行き、そこから日本領海に入ったのだ。
劉が降りると、ボートは来る時と同様、音もなく沖合へと引き返していった。
劉は、悠々とした態度で、ベンツの後部座席に乗り込んだ。
ベンツが、静かに発進する。
運転しているのは黄という男で、地下室で劉の凄まじさをまざまざと見せつけられた一人だ。
劉より一足早く日本に来て、下工作を行っていた。
黄がバックミラーを見る度に、劉の顔が目に映る。
劉は腕を組み、じっと前方を見ている。
瞬きは、ほとんどしない。
なんの感情もない死人のような目が、自分を観察しているような気がして、黄は居心地が悪そうに、何度も尻をもぞもぞとさせた。
「尾けられてるぞ」
埠頭を離れて十分ほどした頃、抑揚のない声で、劉がぼそりと言った。
劉の声は、錆びれた金属のようにざらついており、少しかん高かった。
聞く者を不快にさせずにはおかない、一度聞いたら忘れられない声だ。
黄が、バックミラーを見た。
暫く後ろに注意を払っていると、確かに、気になる車が一台いた。
最初は気付かなかったが、よく見ると、間に数台挟んではいるが、巧みにこの車を尾けているように思える。
「確かめろ」
黄が確認したのを見計らったように、劉が命令する。
黄は不自然に見えないように、何度かスピードを上げたり落としたりして、その車の反応を窺った。
目星を付けた車は、間に何台か挟みながら、スピードを合わせている。
間違いない。あの車は、自分たちを尾けている。
そう確信した黄は、劉の勘の鋭さに舌を巻いた。
運転している自分が気付いていなかったのに、後部座席からバックミラーを覗いただけで気付いたのだ。
あの死人のような目は、一体どこまで見透かしているのだろう。
あまりの薄気味悪さに、黄の背筋が凍った。
「どうしますか?」
震えそうになる声を抑えて、バックミラー越しに尋ねる。
劉が無言で、首を掻き切る仕草をした。
「どこにしますか?」
バックミラーで劉の仕草を確認した黄が、再度尋ねる。
「任せる」
「わかりました」
劉は、無駄な言葉を一切口にしない。
劉の許で仕事をする以上、端的な言葉から意図を汲み取らなければ、へたをすれば粛清されかねない。
そのとこは、組織から厳重に言われている。
事実、劉の意図を汲み取れず、聞き返した仲間が、地下室で瞬殺されている。
黄は、人気のない工場地帯へと車首を向けた。
こういった場合も想定して、黄は、埠頭からアジトまでの道を徹底的に調査していた。
この辺は、景気の良い時は二十四時間体制でフル操業するくらい活気があった工場群だが、不景気の今は、工場も夕方には停止し、真夜中ともなれば、人を見かけることなどほとんどない。
もちろん、走っている車もない。
尾つけているのが何者かはわからないが、この辺にアジトがあると思うだろうという思惑と、この辺ならば人気がないので、劉の仕事がやり易かろうという判断で、黄はここを選んだ。
黄がバックミラーで確認すると、ヘッドライトの明かりは見えなかった。
「よく見ろ」
さすがに、車も走っていないこの辺では、尾行がばれると思って諦めたのかと思ったとき、心を見透かしたように、抑揚のない劉の声がした。
黄が、目を凝らしてバックミラーを見る。
劉の言った通り、ライトを消した車のシルエットが確認できた。
彼は、人間ではない。
黄は、薄気味悪さを通り越して、恐怖を覚えた。
「スピードを下げろ」
とある工場の角を曲がったところで、劉が命令した。
黄が、言われた通りブレーキを踏んで減速する。
「少し行った先で、車を停めろ」
スピードが二十キロまで落ちたとき、劉が言って、素早く車から飛び出した。
地上で身軽に二三回転して、劉が植え込みの陰に身を潜める。
ポケットから皮の手袋を取出し、右手にはめる。
ベンツが停まったのを確認してか、尾けていた車が、劉のいる少し手前で停まった。
相手はベンツの動向を窺っているのか、誰も降りてくる様子はない。
劉は植え込みの中を、音を立てぬよう、車の側まで静かに移動した。
そして、植え込みから獣のように飛び出して、助手席側の窓に、皮手袋をはめた右拳を、思い切り叩きつけた。
その車に防弾が施されていなかったのが、中の人間にとって、命取りになった。
窓は、いとも簡単に砕け散った。
乗っていた二人が、目を瞠って劉を見る。
劉は割れた窓から手を突っ込み、助手席側の男の後頭部を掴むと、渾身の力を込めて、フロントガラスに叩きつけた。
フロントガラスと一緒に、男の顔が砕けた。
運転席の男が、慌てて銃を取り出そうと、懐に手を入れた。
が、焦りと動揺のため、うまく取り出せない。
ハンドルも邪魔をしていた。
劉が素早くドアロックを解除し、ドアを開けた。
同時に、顔の潰れた男の死体を外に放り出す。
この時になって、ようやく運転席の男が銃を取り出した。
しかし、遅かった。
銃口を劉に向ける間もなく、その腕が掴まれ、凄まじい力で捩じ上げられる。
銃を持った男の腕が、嫌な音を立てて、あらぬ角度に捻じ曲がる。
悲鳴を上げかけた男の顔面に、劉のパンチが見舞われた。
男は声を上げることもなく、ぐったりとしてしまった。
劉が、車のライトを明滅させた。
ベンツがバックしてくる。
「こいつは、連れていって拷問する」
尋問と言わないところが、劉の凄まじいところだ。
劉は、本当に拷問する気なのだ。
自白剤もあるのだが、劉は、極限まで人をいたぶるのが好きな、根っからのサディストだった。
「まだまだスパイがいるようだ」
劉には珍しく、皮肉な口調で言って、かすかに顔を歪めた。
笑っているのだ。
その顔に、黄は身の毛がよだった。
「本部に連絡しておきますか」
吐き気をこらえながら、黄が尋ねた。
劉が、静かに頷く。
「こいつは、どうしましょう」
絶命している男を指さし、黄が訊く。
「始末させておけ」
気絶した男を、ベンツの後部座席に放り込みながら、劉が答えた。
黄は、携帯で手短に連絡をしてから、運転席に座った。
気絶した男は、手足をガムテープで巻かれ、口には猿ぐつわを噛まされていた。
劉は、助手席に座っている。
「出せ」
劉が短く命じると、黄が気持ちを落ち着かせてアクセルを踏んだ。
「あと十分もすれば、尾けていた車と顔の壊れた死体を、跡形もなく片付けてくれるそうです」
走りながら、劉に報告する。
劉は、興味なさげに頷くだけだ。
可哀そうに。いっそ殺されていたほうが幸せだったろうに。
後部座席に転がされている男をバックミラーで見ながら、黄は、これからの男の身の上を思うと身震いした。
第3章 孤高の女豹
イスラム圏の、とある国。
今、世界で最も残虐とのレッテルを貼られているテロ組織の兵士たちが、朽ち果てた建物の表と裏を固めていた。
「油断するな。女ひとりとはいえ、これまでに大勢の同志が殺(や)られているんだ」
隊長のジバルが、ヘッドセット付トランシーバー(インカム)で、兵士たちに注意を促す。
屈強な兵士たちを束ねるに相応しく、顔の下半分が漆黒の髭で覆われ、目付が鋭い。
自爆テロも平気で行うテロリストたちが、女ひとりに慎重になっているのも無理はない。
ここに追い込むまでに、三十人いた兵士が、半数に減っているのだ。
兵士たちが取り囲んでいるのは、長さ二十メートルほどの平屋の建物で、昔は何かの工場だったみたいだ。
銃弾によるものなのか、砲弾によるものなのか、コンクリートで作られた外壁には無数の穴が空いており、窓ガラスはことごとく割れていて、欠片を残すのみとなっている。
ジバルの合図で、ひとりの兵士が、窓の横に背中を張り付けた。
顔だけをそうっと出して、割れた窓から、中の様子を窺う。
刹那、一発の銃声が轟き、その兵士は左目から血を吹きだして、天を仰ぐようにのけ反った。
残りの兵士が、一斉に身を伏せる。
ここまで追い詰めるのに、RPG7や手榴弾はすべて使い果たしていた。
銃弾も、それほど残っていない。
にも関わらず、十五人の兵士が倒され、今また、ひとりが殺られた。
今や、凶悪な兵士たちの誰もが、目に怯えの色を浮かべ、戦々恐々として身を伏せている。
さすがに隊長だけあって、ジバルだけは、歯ぎしりはしているものの、怯えてはいなかった。
「みんな、窓の下に行け。俺が合図したら、窓から銃だけを突き出して一斉射撃しろ。いいか、水平から下を狙うんだ。間違っても、天井に向けて撃つな」
ジバルが、インカムで指示を出す。
「アッサム、おまえは扉の脇に立て。女が飛び出してきたら、即座に射殺しろ」
裏手に回っている副官のアッサムに指示を与えると、ジバルは静かに素早く、表扉の横に張り付いた。
「用意はいいか?」
表の兵士が全員位置に付いたのを確認したジバルが、アッサムに呼びかける。
「位置に付きました」
「撃て」
アッサムの返答を確認するなり、ジバルが号令した。
ジバルの命令と共に、凄まじい銃撃音が轟いた。
ジバルは、獲物が飛び出してくるのを待ち構える猟師のように、自動小銃の銃口を扉に向けている。
みながフルオートで撃っていたため、三十秒とかからず銃声が鳴り止んだ。
それが、兵士たちの命取りになった。
本来ならば、半分は援護に回しておくべきなのだが、冷静なつもりのジバルも、動揺していたのだろう。
銃声が鳴り止むと同時に、三つの窓から何かが飛び出してきて、地面を転がった。
兵士たちは、身を潜めて弾倉を交換していたため、それに気付くのが一瞬遅れた。
戦場では、一瞬の遅れが命取りになる。
「逃げろ」
いち早く気付いたジバルが大声を上げたが、遅かった。
ジバルの声は、爆発音でかき消された。
窓の下にいた兵士たちは、手榴弾の爆発をまともに喰らった。
ある者は頭が吹き飛び、ある者は腸から内臓がはみ出して、地面に転がった。
死なない者もいたが、全員が戦闘不能に陥っていた。
呆然としてその光景を見やるジバルの虚を突くように、中からドアが勢いよく蹴破られた。
開いたドアから、女が素早く飛び出してきた。
銃を構える暇もなく、ジバルの眉間に銃弾が撃ち込まれた。
ジバルは、うつろな目を開けたまま、仰向けに倒れた。
自慢だったであろう漆黒の髭が、赤く染まっている。
「隊長」
ジバルのインカムから、アッサムの叫ぶような声が漏れてくる。
「隊長、何があったんです。隊長、応答してください。隊長…」
女が、ジバルの耳からインカムを外した。
「隊長は死んだわ」
それだけ言うと、インカムを宙に放り投げ、ジバルの銃を奪った。
奪った銃で、女が、生き残った者たちの頭を、素早く冷酷に吹き飛ばしていった。
息をしている者がいないのを確認すると、何事もなかったかのように悠然と歩き出す。
見事なプラチナブロンドの髪をした、冷たい美貌の持ち主だ。
切れ長で凍てつくような灰色の目、顔は能面のように表情がない。
建物から少し離れたことろに、兵士たちが乗ってきた、三台のランドクルーザーが停めてあった。
女の乗っていた車は、ここへ来るまでに数え切れないほどの銃弾を浴びて、建物の傍らにスクラップと化して鎮座している。
女は急ぐ風でもなく、ゆったりとした足取りで、ランドクルーザーに近づいていった。
女がランドクルーザーの手前まで来たとき、裏手からアッサムたちが血相を変えて出てきた。
それを見計らったように、振り返りもせず、女が両手で手榴弾を放った。
放り投げると同時に、振り向く。
いつのまにか、女の両手にはハンドガンが握られていた。
アッサムたちが女の姿を認めたとき、女の投げた二個の手榴弾が、アッサムたちの足許で爆発した。
数人が、宙に舞う。
爆発の影響を受けなかった者も、機関銃のように連射された女のハンドガンの餌食になった。
みんな、額の真ん中を撃ち抜かれていた。
爆風が収まった後に残ったのは、全滅したアッサムたちの姿だった。
「歯ごたえのない奴ら」
能面のままつまらなそうに呟くと、女は二台のランドクルーザーのタイヤを撃ち抜き、残る一台に乗り込んで、悠々とその場を去っていった。
圧倒的な戦闘力を持つ女は、ターニャ・キンスキー。
ロシアのザスローン部隊に属している工作員だ。
ザスローン部隊とは、ロシア対外情報庁の特殊部隊だ。
暗殺や破壊工作を専門としていると思われているが、非常に機密性の高い部隊のため、その実態は明らかになっていない。
CIAやモサドでさえ、把握しきれないでいる。
そんな部隊の中でも、抜群の戦闘力を誇っているターニャは、見事なプラチナブロンドの髪と、微笑みを浮かべながら冷酷に人を殺めることから、エンジェル・スマイルと呼ばれて、裏の世界では恐れられている。
天使の微笑みは、見る者に幸福感を与えるが、ターニャの微笑みは、見る者を凍らさずにはおかないと言われている。
あくまで、噂だ。
なぜなら、ターニャの微笑みを見て、生きている者はいないからだ。
ただ一人の例外を除いては。
「もう少し、楽しめそうね」
暫く退屈そうに車を走らせていたターニャが、バックミラーを見て微笑んだ。
バックミラーには、猛スピードで追いかけてくる、連なった三台のジープが映っていた。
多分、アッサムが応援を呼んでいたのだろう。
全滅したジバルたちを見て、激怒して追いかけてきたに違いない。
三十人の兵士を皆殺しにしたとはいえ、ターニャは物足りない気持ちでいっぱいだった。
ターニャからしてみれば、どれも小物過ぎて歯ごたえがなく、ただただつまらない戦いだった。
追っ手のジープを認めても、ターニャはスピードを上げることもせず、悠然と車を走らせている。
バックミラーに映る車体が大きくなったとき、先頭の車の助手席から、男が身を乗り出した。
RPG7を、両手で構えている。
道幅は狭く、両端は砂漠になっている。
踏み入れば、砂にタイヤだ取られるだろう。
至近距離から放たれるRPG7の榴弾は避けようがないというのに、ターニャはうすら笑いを浮かべていた。
男の手から、榴弾が放たれた。
弧を描く間もなく、真っ直ぐに飛んでくる。
ターニャは、急ブレーキを掛けると同時に再度ブレーキを引き、絶妙なハンドル捌きで車をターンさせながら、車体が倒れるぎりぎりまで片倫を浮かした。
ほとんど真横になった車の腹部を掠めるように、榴弾が通過していった。
直後に、車体を元に戻し、四輪を地面に着ける。
先頭のジープとの距離は、二十メートルとない。
ターニャは、一度アクセルを思い切り踏み込むと、素早くドアを開けて飛び降りた。
砂漠の上を、背を丸めて猫のようにしなやかに回転し、落下の衝撃を吸収する。
ターニャが立ち上がったとき、先頭のジープが、無人のランドクルーザーと衝突した。
ランドクルーザーより小型のジープは、宙を舞うように後方に跳ね飛ばされ、二台目を走るジープに激突する。
そのときには、ターニャは豹のような速さで、砂漠を走っていた。
右手には、腰のホルスターから抜いたハンドガンを握っている。
最後尾のジープがブレーキを踏んで、かろうじて衝突の難を免れたときには、ターニャは宙を飛んで、そのジープの屋根に乗っていた。
屋根越しに、車内に向けて引鉄を引く。
全弾を撃ちつくしたターニャは、ジープから飛び降りた。
そのときには、もう弾倉は交換されていた。
ターニャが、油断なくジープの中を確かめる。
前部座席に二人、後部座席に三人乗っていたが、五人とも頭頂部の真ん中を撃たれて絶命していた。
瞬時でそれを見てとると、炎上している二台のジープに目を向けた。
生きている者はいないと思われたが、それでもターニャは、銃を構えながら、油断なく近寄っていった。
一人だけ、炎上する車から這い出してきた。
それを認めるなり、ターニャが男の眉間を撃ち飛ばした。
暫くそのまま銃を構えていたが、もう、誰も出てくる者はいなかった。
ターニャは、ポケットに残っていた最後の手榴弾を、ひとつの塊となって炎上する二台のジープに向けて放った。
それから、無傷のジープのところに行き、無表情に五人の死体を引き摺り出した。
フロントガラスに飛び散った血を、死体から剥がした服で拭い、奪った武器を助手席に置いた。
運転席のシートにもべっとりと血が付いていたが、ターニャは気にも留めずに座る。
「あんた達が、何人掛かってきたって、わたしは倒せない」
ぞっとする笑みを浮かべ、血まみれで転がっている男たちへ、冷ややかな視線を投げた。
「やっぱり、もの足りない」
仏頂面に戻ったターニャは、新たな敵が現れてくれることを願いつつ、延々と続く砂漠の道を走り続けた。
「やり過ぎだ」
ターニャの上官のニコルが、咎める視線をターニャに向けた。
白髪で紳士然とした風貌だが、鋭い眼光が、只者ではないことを物語っている。
「やり方は、わたしに任すと言ったでしょ」
ターニャはいたって涼しい顔で、平然と答えた。
「確かに、言った。だが、あそこまでやらなくてもよかろう。もし奴らが、我が国の仕業だと知ったら、このロシアで、テロが起こるかもしれないなんだぞ」
ニコルは、鋭い眼光でターニャを睨みつけている。
「わたしを、ハイエナ共の餌にしたから、無事に人質を救出できたんでしょ」
ターニャは、ニコルの視線を平気で受け流して、涼しい顔を崩さない。
「快く承諾しておきながら、何を言う」
反抗的なターニャの態度に腹を立てたのか、ニコルの眼光がますます鋭くなった。
「よく言うわね」
ターニャが、鼻で笑う。
「そもそも、あの作戦は、わたしが囮になる前提で立てられたものでしょ。わたしが断っていたら、どうするつもりだったの」
どうも、ターニャには帰属意識が薄いようだ。
規律の厳しいザスローン部隊に属していながら、ちっとも上官を敬っている気配がない。
「それは… まあ、君の言う通りだが」
痛いところを突かれて、ニコルが言葉に詰まった。
「しかし、あそこまでやらなくてもよかろう」
さきほどまでの、咎める視線は消え、苦々しい顔をした。
「命を張るのはわたしなのよ」
ターニャの目が、すっと細くなった。
「言っておくけど、わたしを飼いならそうとはしないことね。気に入らなければ、いつでも組織を抜けてやる」
ニコルの眉が、ピクリと動いた。
信じられないというように、かすかに首を振る。
「そんなことをすれば、死が待っているだけだ」
ターニャが、フンと鼻で笑う。
「わたしが死ぬまでに、組織の人間が、何人減るかしら」
言ったターニャは、ぞっとするような笑みを浮かべている。
これまでニコルは、ターニャが笑ったのを見たことがない。
いつも、能面のように無表情だった。
ターニャの笑みを見て、ニコルの背中に戦慄が走った。
自分の部下だから頼もしく思うだけだったが、もし、敵に回せば、、これほど恐ろしい存在はない。
ニコルは、今、そのことをまざまざと思い知らされた。
これまで、ニコルは、ターニャに数々のミッションを命じてきた。
そのほとんどが、組織の優秀な人間が何人掛かっても成し遂げられなかったものだ。
それを、ターニャ一人で、いともあっさりと片付けてきた。
ターニャは、獰猛な上に、狡猾で、生まれ持ってのハンターだった。
今回も、並みのエージェントならば、いくら命があっても足りないところを、つまらなそうな顔をして戻ってきた。
ターニャの言う通り、彼女が本気になれば、組織は壊滅的な打撃を受けることになるだろう。
ターニャの力をよく知っているニコルは、ターニャの言葉を否定することができない。
ニコルの肌に、粟が生じた。
「ターニャ、君は祖国を、このロシアを愛しているんだろう。だから、祖国のために組織に入り、祖国のために戦っているんじゃないのか」
ニコルが身を乗り出して、半ば宥めるように言った。
その口調には、微かに阿るような響きもこもっている。
「フン」
またもや、ターニャが鼻で笑う。
「あなたは、わたしの生い立ちを知ってるでしょ。それで、よく、そんなことが言えたものね」
ターニャを発掘して、組織に迎えたのは、他ならぬニコルだ。
ターニャの生い立ちは、わかり過ぎるくらいわかっている。
しかし、今更、ターニャがそれを持ち出してくるとは、ニコルには予想外だった。
「わたしの生い立ちを知ってるんならわかるでしょ。わたしには、祖国なんてものはない。祖国が、一体わたしに、何をしてくれたの」
動揺するニコルに、ターニャは冷たく言い放った。
「軍人だったわたしの父は、反逆者の汚名を着せられて死刑になった。上官の汚職を告発しようとしてね。母は、幼かったわたしと妹を育てるだめに、娼婦に身を落とした。そして、客に殺された。わずかな金を惜しんだ客に。妹は、施設で虐待を受けて死んだ。そんな国を、どうして愛せる?」
ターニャは、妹が死ぬと直ぐ施設を抜け出し、悪のグループの一員となった。
そのグループは、バックにロシアンマフィアが付いており、武器が豊富に手に入ったため、やりたい放題だった。
その中で、ターニャは銃の扱い方を覚えた。
元々素質があったのか、めきめきと腕を上げ、気が付くと、グループの中でもピカ一の腕前になっていた。
度胸もあり、命知らずでもあってので、ナイフや素手の喧嘩でも、男相手にひけを取ることはなかった。
狂犬のターニャ。
そう呼ばれて、グループ内でも一目置かれる存在になっていた。
ある日、グループの一人がへまをして、警官隊と撃ち合いになった。
グループのメンバーは五人、警官隊は二十人。
ターニャを除く四人は、警官隊にハチの巣にされたが、ターニャは警官隊を全滅させ、その場から逃れ去った。
指名手配されたターニャを見つけ出したたのは、警察ではなく、今の組織だった。
組織は、ターニャのような戦闘力のある人材を求めていた。
政府に手を回して、指名手配を取り消させ、犯罪歴も全て封印した。
そして、ターニャを組織へ引き入れた。
組織は、ありとあらゆる殺人技を、ターニャに叩き込んだ。
そればかりではなく、敵地への潜入方法や離脱術、語学や薬学や爆弾のことなど、あらゆるジャンルにおいて、ターニャを徹底的に仕込んだ。
ターニャは、それらの全てを、砂に水が沁み込むように吸収していった。
五年も経った頃、ターニャは最強の殺人マシーンに仕上がっていた。
その頃、ターニャの母親を殺した男が刑務所を出所した。
その男は、出所後間もなく、無残な惨殺体で発見された。
父親が汚職を告発しようとしていた上官は、家族もとろも、自宅で殺害された。
その中には、娘夫婦と、まだ幼い孫までも含まれていた。
上官とグルになっていた数人の軍人も、同じように家族もろとも自宅で殺害された。
そして、妹が死んだ当時の施設の職員も、皆殺しにされている。
いずれも、何ひとつ痕跡が残っておらず、迷宮入りの状態となっている。
しかし、組織はターニャの仕業と断定した。
だが、その鮮やかな手並みに満足したのみで、ターニャを咎めることはなかった。
ターニャを発掘し、鍛えたのは、他ならぬニコルだ。
ニコルは、輝かしいソ連時代の代名詞ともいえるKGBで、優秀な工作員として、世界を股にかけて暗躍していた。
そんなニコルは、今の凋落したロシアを憂いていた。
ロシアを再び世界の強豪国へと押し上げるには、どんな困難なミッションでもやり遂げる、優秀な人材の必要性を強く感じていた。
優れた頭脳、冷酷さ、いかなる状況でも臨機応変に対応できる柔軟性。
それには、物事に動じない図太い神経と、常に状況を把握する細やかな神経を併せ持ち、瞬時に行動を決める判断力と決断力が必要となる。
ターニャが撃ち合いになった警官隊を全滅させ、数多の警察の包囲網をかい潜って逃亡したニュースを見たとき、彼女を鍛えればものになると、ニコルは確信した。
そして、ニコルの思惑通りになった。
ただ一点、彼女の生い立ちから、愛国心だけが危惧されていた。
だから、彼女を鍛えている最中、ほとんど洗脳に近い形で、愛国心を徹底的に植えつけた。
つもりだった。
これまで、ターニャはニコルに逆らったことがない。
多分、牙を隠していたのだろう。
その牙を、ついに剥いた。
「いったい、なにが気に入らない。あまえを警察から救ってやって、ここまでにしたのは、この俺だぞ」
ぞっとするものを感じながらも、自分がターニャの恩人であり恩師であるとの自負から、まだニコルは、ターニャを制御できると思っていた。
「べつに、救ってもらわなくても、捕まったりしないわよ」
ターニャの凍てつくような目が、痛いほどニコルを突き刺してくる。
「勘違いしているといけないから、言っておいてあげるわ」
口調も、凍てつくように冷たい。
「わたしは、あなたや組織に、恩や義理なんて微塵も感じはていない。あなたの要請に従い組織に入ったのはね、警察から逃れるためじゃない。殺人の技術を習えて、それを実行できるからよ」
聞いている、ニコルの頬がぴくぴくと引き攣る。
「その技術を教えてくれたことには感謝してるけど、その借りは、もうお釣りがくるくらい返したでしょ」
ニコルの怒りが、頂点に達した。
「それが、恩師に向かって言う言葉か」
机を叩いて立ち上がると、ターニャに指を突き付けた。
ニコルも、幾多の修羅場を踏んできた、叩き上げの工作員である。
彼が本気で怒って、恐れなかった部下はいない。
だが、ターニャは恐れるどころか、静かに冷笑を浮かべているのみだ。
「陳腐な台詞ね。はっきり言っておくわ。わたしを満足させるような仕事を与えてくれる間は、組織のために動いてあげる。だけど、わたしのやり方に文句を付けたり、くだらない任務に就けたりすれば、いつでも組織を抜けるわよ」
ニコルが何か言いかけるのを、ターニャが手で制す。
「もうひとつ、わたしを意のままに操ろうとは思わないことね。さっきも言ったように、あなたにも組織にも、何の感情も持っていないから、気に入らなければ、誰でも殺すわよ。たとえ、あなたでもね」
この女なら、平気でやる。笑みを浮かべたまま、平然と自分を殺すだろう。
ターニャがエンジェル・スマイルと呼ばれて恐れられていることは、ニコルも知っていた。
これまでは、自分の部下にそのような者がいるのが、誇らしい気持ちだった。
だが、そのスマイルが自分に向けられたとき、誇らしい気持ちは消え失せ、真の恐怖が、ニコルの心を支配した。
「おまえの言い分はわかった」
ニコルは胸の内の恐怖を悟られぬよう、努めて平静を装いながら、諦めたように首を振ってみせた。
「いいだろう。おまえに、ぴったりの任務がある。今すぐ、日本に飛んでもらいたい」
これまで、ターニャにこの任務を与えるのを、ニコルは迷っていた。
へたをすれば、国際問題になりかねないからだ。
しかし、ターニャを宥めるには今回の任務がうってつけだと、自己保身からニコルは心を決めた。
それほど、今のターニャは、ニコルにとって脅威だった。
「日本に? あんな平和ボケした国に、どんな面白いことがあるというの」
ターニャの顔から、笑みが消えた。
「慌てるな、話は最後まで聞け」
ニコルが、両手を付き出す。
「ミッションの内容はこれから話すが、この件で、劉が日本に潜入した。多分、いや、間違いなく、カレンも出てくる」
劉とカレンの名を聞いて、ターニャの目が妖しく輝いた。
「いいわ、聞きましょう」
ターニャの顔に、再び笑みが広がった。
エンジェル・スマイルではなく、喜びの笑みが。
第4章 獣には野獣を
この一ケ月で、全国の駅や歩道橋の上からの飛び込み、ビルの屋上からの飛び降りが頻発していた。
走ってくる車目がけて、車道に身を投げ出す者も数多くいた。
その誰もが、手にスマホを握っていた。
今や、それらの事件とスマホの関連を疑う者は誰もいない。
しかし、警察や専門家がいくら調査をしても、具体的な証拠は何ひとつ見つけられないでいた。
テレビでは毎日のように特番が組まれたが、どの番組も、似たような内容になっていた。
各分野の有識者が出演し、ある者は狂信的な自然保護団体によるテロ行為だと主張し、ある者はどこかの国の陰謀だと訴え、そしてある者は、宇宙人による地球侵略が開始されたのだと意見を述べた。
そんな中で、大勢の意見を占めたのが、電磁波による脳への影響ではないかとの意見だった。
通信会社やインターネット関連会社、スマホのコンテンツを制作している会社などは、電磁波による影響も含めて、事件とスマホの関連性に懐疑駅な見解を表明している。
ネット上では、数多くのサイトで様々な意見が飛び交っていた。
その多くは、事の重大性を認識せず、ただ、お祭り騒ぎをしているに過ぎなかった。
ここに至って、政府も重い腰をあげた。
暫くスマホを見るのを控えるよう、テレビや新聞、ネットなどで声明を出した。
スマホ事業に関連する会社はこれに真っ向から反対し、それならば、事件とスマホの関連性をはっきりと示せと、政府に迫った。
そのような状況下でも、少し減りはしたものの、まだまだ歩きスマホをする人間は後を絶たず、相変わらず、飛び込みや飛び降りが続いていた。
そんな中、ついにと言うべきか、やはりと言うべきか、悪質な悪戯をする者が出てきた。
スマホの画面に、いきなり「飛び込め」とか「死ね」などの文字が表示されるウィルスが出回ったのだ。
警察は躍起になって捜査し、ウィルスが流された翌日には、ウィルスを作成した犯人が数人逮捕された。
それでも同じようなウィルスが次々に出回り、いたちごっこの様相を呈していた。
いつの世も、社会を混乱に陥れるのが好きな輩はいるものだ。
いずれ、それが自分に跳ね返ってくるなんてことは、露ほども思っていない。
そんなことをしているうちでも、飛び込みや飛び降りは後を絶たず、毎日何十という人々が全国で亡くなっていた。
しかし、この人数は、あくまでも警察を通じての公表であり、本当はその十倍は死者が出ていた。
それが世間に漏れると、人々は恐慌をきたすので、警察はわざと人数を少なくして公表していたのだ。
特にここ数日前から、犠牲者(立証はされていないが、警察も事件とみなしているので、自殺者ではなく犠牲者として扱っていた)の数は急激に増えている。
つぶさに数えれば、一日五百人では済まないだろう。
まさに、異常事態だ。
スマホと事件の関連性がはっきりと示されたわけではないが、ここまで来ると、恐怖に駆られてスマホを見るのを抑える者も出始めた。
それでも、飛び込みをする者の数は減らないどころか、ますます増え続けている。
トゥルーフレンズに魅入られている者は、もはやそれなしでは生きてゆけなくなっていたからだ。
トゥルーフレンズに魅入られていなくても、今やスマホは、人々の生活の一部になっており、重度の依存者も相当数いる。
スマホを控えている者のうちで、重度の依存者はストレスが溜まり、肩が触れたの、カバンが当たったのなど、ほんの些細なことで、あちこちで喧嘩が起こるようになった。
そうでなくても、時刻表や地図やお店探しなどの調べものが出来なくて困ったり、ネットで買い物が出来なくて困ったりする人々が大勢いた。
ネット通販で生計を立てている会社の売上は軒並み落ち込み、倒産する会社も出始めた。
それらの人々の怒りの矛先が、すべて政府と警察に向けられた。
マスコミは政府と警察の無能さを、連日のように叩いた。
民衆もそれに乗っかって、警察に抗議の電話が鳴り止まない日はなかった。
不思議と、ネットでの批判は少ない。
これも、人々がスマホを控えているからだろう。
各地で抗議デモが頻繁に行われるようになり、参加者と警察の小競り合いも多数の場所で起こった。
日本国民は大人しいことで知られているが、このままの状態が続けば、暴動すら起こりかねない様相を呈し始めていた。
このような状況を呆れた目で見つめていたのは、機械に弱いお年寄りと、スマホをあくまでも道具としかみなしていない人々であった。
それらの人々は、この状況を呆れると同時に、身震いするほどの恐ろしさを感じていた。
世の中が便利になればなるほど、人の心を狂わせるとうことを、まざまざと見せつけられた気持ちだった。
その混乱に、政府や警察とは違う次元で、頭を悩ませている男がいた。
飛び込みが続発する事件で、頭を悩ませている男。
その男とは、CIAの日本における責任者であるヒューストンだ。
世界に悪名高いCIA。
言わずと知れた、アメリカの誇る(?)諜報機関である。
一昔前までは、世界の主な紛争や暗殺を陰で操り、裏の世界を我が物顔で闊歩していた。
が、やり過ぎが祟って、アメリカ国内でも問題となり槍玉に挙がってからは、予算を削られ、動きも制限されて、往年の勢いに翳りがさしている。
それでも、まだまだ、世界の裏での暗躍は続いている。
今、世界の火種はいたるところにあるが、その中でも、極東アジアがかなり危険な状態にある。
テロ国家のレッテルを貼られている、北朝鮮。
かつての、米ソ冷戦時代に比べれば衰えたとはいえ、最近、再び存在感を増してきているロシア。
そして、その二国以上に危険なのが中国だ。
今から三十年ほど前、中国がまだまだ発展途上であった頃、経済力と技術力を付ければ、世界にとって脅威になると言われていた。
今、まさに、それが現実のこととなりつつある。
戦国時代には、この狭い日本にも、無数の群雄が割拠していた。
それぞれの国が覇権を争い、弱い国は強い国に併呑され、勝者が、また強国に呑まれていくということを繰り返して、ついに、一つの国としてまとまった。
今の世界でも、これと同じような事が起こっているのかもしれない。
古来から、この地球上に数多の生物が生息しているが、唯一、人間だけが生きてゆく以外の欲を持っている。
そのために、多くの生物を絶滅させ、同じ人間同士でも殺し合う。
人の歴史は、戦争の歴史なのだ。
なまじ知恵というものを持ったがための因果なのかもしれない。
価値観や宗教や生活習慣の違いと、識者は言う。
しかし、どんな綺麗事を並べようと、人より優位に立ちたい、他人を意のままに操りたいという征服欲、これらが人間を闘争に駆り立てていることは否めない。
要するに、人間というものは、自分勝手なのだ。
どんな崇高なお題目を唱えようが、自然とも他の生き物とも共存しようとしない、どうしようもない生き物なのだ。
多くの人々は、平和を願っているはずなのに、なんと矛盾していることだろう。
いや、矛盾しているとは言えないか。
学歴社会、出世競争、地位、権威、規模の違いはあるが、これらも、欲に取りつかれた戦争と、なんら変わりはない。
ただ生きるためだけであれば、不要だからだ。
ただ、生きるだけ。
なんと、難しいことだろう。
話しは逸れたが、今、世界の趨勢を左右する国は、アメリカ、ロシア、中国、この三ヶ国である。
そして、ロシアと中国は極東にある。
そんなホットな地域に、日本は存在している。
アメリカと中国やロシアが武力衝突ということにでもなれば、日本がいくら平和を唱えても、否応なしに巻き込まれることは必至だ。
極東から日本という国がなくなれば、アメリカは橋頭堡を失い、じりじりとロシアと中国に押されてゆき、世界の覇権どころか、アメリカという国そのものが危うくなる。
だから、日本支部の責任者といえば、かなり有能な人材が当てられている。
その、日本における責任者のヒューストンが、部下のスコットを前に、難しい顔をして腕組をしていた。
ヒューストンは執務室の一人掛けのソファに座り、テーブルを挟んで、スコットが三人掛けの長いソファーの真ん中に座っていた。
もう十分ほど、二人は沈黙したままだ。
「誰をやる?」
腕を解いて、ヒューストンが沈黙を破った。
「カレンしかいないと思いますが」
スコットが即座に答える。
「カレンか」
ヒューストンが、苦虫を噛み潰したような顔をした。
ヒューストンが渋い顔をしたのも、無理はない。
カレンは、エージェント時代は、ヒューストンの部下だった。
少し扱いにくいところはあったが、これまでの部下の中でも、群を抜いて優秀だった。
ヒューストンも、かつては優秀な工作員だった。
その当時で、彼を超える者はいないと言われていたほどだ。
だから、ここまでの地位まで上りつめてきた。
そのヒューストンも舌を巻くほど、カレンの戦闘力と頭脳は秀でていた。
というより、人間の持ち得る能力を、遥かに超えていた。
彼女は、あらゆる武器と格闘技に精通している。
殺しの技術だけでなく、科学や医学や薬学にも深い知識を有し、十数ヶ国語を自在に操ることが出来る。
容姿にも優れており、まさに、神が造りたもうた、人類の最高傑作と言えるだろう。
カレンの唯一の欠点といえば、ただの民間人の男に惚れたことくらいだろう。
なぜカレンが、ただの民間時に惚れ込んだのか。
ヒューストンには、さっぱり理解できなかった。
カレンがカンパニー(CIAの別称)を抜けると言ってきたとき、当然のことながら、ヒューストンは許さなかった。
カレンは、カンパニー在籍時代に、数多くの汚れ仕事に手を染めてきた。
他国の要人を、事故に見せかけて暗殺したこともあれば、ある国の諜報機関の支部を、テロに見せかけて壊滅させたこともある。
ヒューストンは、それらの秘密が漏れるのを恐れたわけではない。
カレンならば、そんなことはしないとわかっていた。
ヒューストンが許さなかった理由は、彼女に抜けられると、カンパニーの戦力が半減するからだ。
それほどカレンは、カンパニーにとって貴重な戦力だった。
ヒューストンはカレンを引き止めるべく、あらゆる説得を試みた。
しかし、そのどれもが徒労に終わった。
どうしても説得できないと悟ったとき、カレンの暗殺指令を下した。
カレンは、裏の世界の住人だ。
それも、世界の三凶の内の一人として、名が知れ渡っている。
そんな人間が、男に惚れて組織を抜けるという勝手を許していたら、他の者に示しがつかなくなるし、諜報機関としての威信が保てなくなる。
カレンの力をよく知っているヒューストンは、カンパニーの中でも選りすぐりの暗殺者二十名を選び出した。
その二十名でチームを結成し、万が一にも討ち漏らしのないよう、万全の体制で臨んだ。
チームはカレンの隙を執拗に狙い、チャンスが来るのを粘り強く待った。
チャンスは来た。
カレンが悟とドライブに出かけて、人里離れたコテージに泊まった。
深夜に、これから襲撃しますと連絡が入ったきり、その二十人とは連絡が途絶えた。
翌日、ヒューストンが現場に行ってみると、見事に額の真ん中を撃たれた二十名の骸が散乱していた。
どうやら、カレンの誘いだったらしい。
その日の夜に、カレンがヒューストンの自宅へ現れた。
ヒューストンに銃を突きつけ、これ以上自分を狙うなら、カンパニーを壊滅させると言ってのけた。
カレンの脅しは、それだけでは終わらなかった。
こんなこともあろうかと、これまでカンパニーが自分に命じてやらせてきた事を、克明に綴った書類がることを告げ、自分か悟に何かあれば、世間に明るみに出る手段を講じているとも言った。
ヒューストンには、カレンの言葉が嘘とは思えなかった。
カレンなら、それくらいのことはやりかねない。
そんな書類が世間に公表されれば、カンパニーは大きな打撃を被ることになる。
そうでなくても、カレンが本気になれば、カンパニーはかなりの痛手を負うことになるだろう。
ことによると、カレンの言う通り、壊滅に追い込まれかねない。
カレンという女は、それほど危険極まりない存在なのだ。
ヒューストンは考えた。
熟考の末、カレンを敵に回すより、うまく折り合いを付けて、何かあった時には、カレンの力を借りた方が得策だとの判断を下した。
カレンと悟には手を出さないことで、ヒューストンはカレンと暗黙の協定を結んだ。
カレンは、今、悟の生まれ故郷の大阪にいる。
ヒューストンが日本での責任者に収まっているのは、彼が優秀なのもあるが、そうした経緯があって、カレンとコンタクトを取れるのが、カンパニーの中で唯一ヒューストンだけだからという理由の方が大きい。
和解したとはいえ、ヒューストンは未だ、カレンに忸怩たる思いを抱いている。
だから、スコットがカレンの名を出したとき、渋い顔をしたのだ。
とはいえ、ヒューストンも、カレンしかいないと思っていた。
特に、劉とターニャがこの件で日本に来ているとの情報を受けている。
あの二人を相手に対等に渡り合えるのは、カンパニーに人材多しといえども、カレン以外には考えられない。
なにせ、カレンを含めて世界の三凶と、裏の世界で恐れられている人種なのだ。
獣には、野獣を当てるしかない。
「おまえの言う通りだ。ここは、カレンしかいないだろう」
ヒューストンは決断した。
「そうと決まったら、これからカレンのところに行ってくる」
「あなたが、直々にですか?」
スコットが、少し驚いた顔をする。
スコットは、ヒューストンとカレンの確執を知っている。
そんなヒューストンが、自らカレンに会うというのが予想外だった。
「部下をやったところで、カレンは動かんよ」
ヒューストンが、ため息をつく。
「それに、こんな時のために、俺は日本にいるんだからな」
半ば自嘲気味に唇を歪めて、ヒューストンが立ち上がった。
大阪はミナミの繁華街から少し離れた場所に、「可憐」とう名の喫茶店がある。
悟とカレンが開いている店だ。
CIAを抜けたカレンは、悟の生まれ故郷である日本へとやってきた。
アメリカにいると、エージェント時代に作ってきた敵や、カレンを倒して裏の世界で名を上げようとする跳ね返り者から、悟を守れないという理由からだ。
しかし、それはカレンの言い訳だった。
いくらカレンに恨みを持っていても、いくらカレンを倒して名を挙げたがったとしても、カレンという女を知っていれば、容易には手を出してこない。
もし悟を人質にでも取ろうものなら、類は自分だけには及ばず、家族や友人や組織の人間まで、ことごとく皆殺しにされるであろうことがわかっている。
事実、カレンとはそういう女だ。
だから、カレンを狙ってくる奴は、よほどの馬鹿だけだ。
そして、そんな奴の実力は、たかが知れている。
カレンが日本へやってきたのは、生まれ故郷であるアメリカを離れたかったからだ。
アメリカに留まっていると、自分は暗殺者だという気持ちを拭いきれない。
悟はカレンの経歴を知っているが、それでもカレンは、悟の前では一人の女性でいたかった。
たとえ、不良やヤクザ狩りをしたとしても、暗殺者とは違う。
それは、カレンの中では、まったく矛盾していない。
気性が激しく一途なカレンは、いつも悟と一緒に居たかった。
そのため、いつ敵が襲ってくるかわからないので、悟の側を離れるわけいにはいかない。
だから会社を辞めて自分の側にいてくれと言い張り、無理やり悟を退職させててしまった。
悟にとっては迷惑な話だが、悟としても、カレンを一人で放っておくと何をしでかすかわからないので、カレンの言うことに従い、あっさりと会社を辞めた。
お互い本音は言わないものの、二人の思惑が一致した。
話し合った結果、喫茶店を開くことにした。
そうすれば、いつも二人でいれるからだ。
なんのかのと言いながら、二人ともいつも一緒に居たいだけだった。
カレンには、エージェント時代に得た報酬の蓄えがかなりあったので、店が暇でも、悠々と暮らしていけるだけの余裕があった。
高級ホテル、高級リゾート、高級マンション、豪華な料理。
常に死に身を晒している者は、生きている実感を味わうため、オフには贅沢な時間を過ごす者も多い。
また、そんな生活をしたいがために、危険な職業を選ぶ者もいる。
だが、カレンは違った。
カレンはそういったものには、まったく興味がない。
不思議と、いつも似合った服装をしているものの、服は動きやすさを追求するのみで、ブランド物には興味がない。
食べられるものならなんでも口に入れるし、寝るところも、別にベッドでなくても構わない。
カレンが拘るのは、武器だけだ。
まさに、戦闘のためだけに生きてきた。
そんなカレンだから、報酬を何に使うでもなく、知らぬ間に貯まっていた。
客の来ない喫茶店で、悟とまったりとした時間を過ごす。
そんな日々を夢見ていたカレンの思惑は、見事に外れた。
今では、二人の店は大いに繁盛している。
カレンの本当の顔など知るはずもない男共が、カレンの美貌と、わざと片言で話す関西弁に惹きつけられて、鼻の下を伸ばしながら足繁く店に通ってくる。
本人に内緒で、ファンクラブまで出来ている始末だ。
もうひとつは、悟にとっても以外だったが、カレンは料理の腕前も相当なものだった。
喫茶店なので本格的なものは作らないが、それでも、ナポリタンやサンドウィッチなど、カレンの作る料理はどれも美味しい。
カレンの作る料理目当てで通ってくる常連客も大勢いた。
悟とまったりした日々を過ごすのを夢見ていたくせに、それに、悟を守るのだったら、あまり目立たない方がいいと思うのだが、カレンはそんなことはとんと気にも留めていない。
矛盾しているようだが、カレンにとっては毎日が楽しいから、それでいいのだろう。
多くの人間を殺めてきたカレンが、今は、多くの人の笑顔を見て暮らしている。
悟もそんなカレンを見ているのが好きなので、何も言わないで、カレンの好きなようにさせていた。
ただ、戦闘の中で生きてきたカレンは、平和が続くと無性にストレスが溜まることがある。
そんな時は、深夜のミナミの繁華街、それもとりわけ物騒な場所に、ヤクザや不良外国人を狩りに出かける。
カレンにとってはほんのお遊びみたいなものだが、プロが相手であっても軽くあしらうカレンに、痛めつけられる方はたまったものではない。
この間の半グレ共も、カレンのストレス発散の犠牲者だった。
そうとも知らずに絡んできた半グレ共は、自業自得とはいえ、とんだ災難であったに違いない。
ある日の夜。
閉店間際に、スーツを着た目付きの鋭い、大柄な白人が入ってきた。
その後には、小柄ながら、これも目付きの鋭い白人が従っている。
ただ一人残っていた、毎日カレン目当てに通ってくる常連客が二人を見て、怯えた様子でそそくさと帰っていった。
「元気そうだな」
逃げるように店を出てゆく客に一瞥をくれてから、ヒューストンが親しげな口調で、カレンに声をかけた。
「営業妨害しないでよ」
カレンの態度は素っ気ない。
悟が気を利かせて、店を閉めた。
外から見えないように、シャッターを下ろす。
「観光で来たの?」
カレンが腕組みをして、ヒューストンに皮肉な笑みを投げた。
二人が顔を合わすのは、カレンがヒューストンの自宅を襲って以来だ。
カレンは、ヒューストンが日本支部の責任者になったことと、この店がCIAの監視下に置かれていることを知っていた。
CIAの監視網から姿を隠すことは、不可能に近い。
排除するのは簡単だったが、自分たちを狙う敵が現れた場合、何かの役に立つかもしれないと思って、放っておいた。
それに、排除したって、代わりが来るだけだ。
「そんなに、暇そうに見えるかね」
ヒューストンは肩をすくめてみせて、悟に目を向けた。
「やあ、悟。君も、元気そうだな。もう、傷はなんともないかね」
ヒューストンは、一度悟と会っている。
まだカレンが悟と一緒になる前に、病院のベッドに横たわる悟を、事件の口封じも兼ねて、
ヒューストンは一度だけ見舞い行った。
まさかあの時、こんなことになろうとは、夢にも思っていなかった。
「お陰さまで」
悟が、にこやかに応じた。
「それはよかった」
ヒューストンが軽く頷いたあと、一言付け足した。
「しかし、よく死なずに生きているもんだ」
「それ、どういう意味」
カレンの目が、すっと細くなった。
「いや、よくも、カレンの逆鱗に触れないものだと思ってね」
ヒューストンが、おどけたように肩をすくめてみせる。
「わたしは、惚れた男には優しいの」
カレンが照れることなく、さらりと言ってのけた。
「それより、何の用?」
「歳かな、東京から来るだけで疲れたよ」
カレンの質問には答えず、ヒューストンが手近な椅子に腰を下ろした。
「たわ言はいいから、さっさと用件を話してくれる」
カレンの口調は、険を含んでいる。
「久しぶりに会ったというのに、冷たいな」
言葉とは違い、ヒューストンは涼しい顔をしている。
「まあ、いいだろう。もちろん、遊びで来たわけじゃない」
おまえも座らないかというように、ヒューストンが椅子を顎でしゃくったが、カレンは腕組みしたまま、静かに首を振った。
「今、世間を騒がせている、飛び込みが多発していることは知ってるな」
立ったままのカレンに、少し顔を上げて目を合わせながら、ヒューストンが重々しい口調で訊いた。
「知ってるわ」
それがどうしたというような、つまらなさそうな顔を、カレンはしている。
「君は、どう思っている?」
「別に、興味はないわ。どうせ、誰かの悪戯でしょ」
「大勢の人が亡くなっているのに悪戯とは、いかにも君らしい」
ヒューストンが苦笑する。
「君は、誰かが意図的に人を操って、飛び込みをさせていると思っているのか?」
「当たり前じゃない。電磁波なんて言われてるけど、あんなもの、誰かが仕掛けたに決まってるでしょ。そう思わないのは、馬鹿か無能な役人だけよ」
「じゃあ、それを否定しているスマホ関連の会社は、馬鹿ばっかりということになるな」
「あいつらは、自分の会社が大事なだけ」
突き放すように、カレンが言った。
「飛び込みとスマホの関連を認めてしまえば、誰も買わなくなるし、批判も集中するしね。電磁波のせいにしておけば、まだ言い逃れはできるわ。企業なんて、所詮そんなものでしょ。いくら人が死のうが、売上さえ上がればいいんだから」
「手厳しいな」
ヒューストンの苦笑が、ますます深くなった。
悟とスコットは、黙って二人のやり取りを聞いている。
ヒューストンが苦笑を収め、真剣な眼差しをカレンに向けた。
「君はあんなものと言うが、日本各地で大勢の人々が死んでいるんだぞ」
「フン」
カレンが鼻で笑う。
「自業自得でしょ。爆弾テロじゃあるまいし。死にたくなければ、スマホを見るのを止めればいいだけじゃない。それが出来ない連中がどれだけ死のうが、知ったことじゃないわ」
「ますます手厳しいな」
救いを求めるように、ヒューストンが悟を見る。
悟は、無言で首を振るだけだった。
「実はな、カレン」
いかにも重大発表をするかのように、ヒューストンが重々しい口調で切り出す。
「事件を起こしていうるは、我がカンパニーの人間だ」
「だから?」
ヒューストンの意に反して、カレンの反応は素っ気なかった。
「だからって…」
あまりにも素っ気ないカレンの反応に、ヒューストンが、拍子抜けしたような情けない顔になった。
暫く黙ってカレンの顔を見つめていたが、気を取り直して、話を続ける。
「ユウキシホという、日本人だ。カンパニーに入った経緯は省くが、なかなか優秀な人材でね、カンパニーの誰よりも、コンピューターに精通している。全世界でも、彼女ほどコンピューターを操れる者は、そうはいないと思う。アノニマスも含めてな。それがだ、彼女のお姉さんが、事故に遭って亡くなってしまった。歩きスマホをしている奴にぶつかられてホームに転落し、電車に轢かれてしまったんだ。彼女を助けようとして、旦那も一緒に死んでしまった。ぶつかった奴は逃げてしまって、今でも捕まっていない」
カレンの反応を探るように、ヒューストンは言葉を切った。
「それで?」
興味なさげに、カレンが先を促す。
「彼女は幼い頃に両親を亡くして、お姉さんに育ててもらったようなものだ。だから、お姉さんの仇を討とうと思ったんだろう。お姉さんの死の翌日から、消息が途絶えた」
悟がヒューストンの前に、黙ってコーヒーを置いた。
「お、ありがたい。久しぶりに喋り過ぎて、喉が渇いていたんだ」
ヒューストンが、美味そうにこコーヒー啜る。
「彼女の消息が途絶えて一ケ月後に、今の事件が起こりだした」
カップを置いたヒューストンが、話を続ける。
「多分、犯人を捜していたんだと思う。しかし、警察でも見つけられないものを、彼女ひとりで探し出せるわけがない。それで、犯人がスマホに依存していると見て、今回の事を企てたと思われる。それに、犯人を捜していくうちに、スマホに依存している人間すべてを、憎むようになっていったんだと思う」
「だから?」
カレンの口調が、絶対零度になった。
「彼女を探し出すから、確保してもらいたい」
「フン」
カレンが鼻で笑う。
「わたしの得意分野を知ってるでしょ」
カレンの瞳も、絶対零度になった。
「彼女の確保に、ターニャと劉が日本に来ている」
一転して、カレンの目が和んだ。唇も、カーブを描いている。
「彼女ほどの腕なら、どの国家であれ、諜報機関であれ、ハッキングをするのは容易いし、高度なウィルスも仕掛けられる。ロシアや赤い金貨が欲しがるのも当然といえよう。こちらとしても、彼女のような優秀な人材を失うのは惜しい。敵の手には、絶対に渡したくない」
「隠し事はなしよ」
カレンが、右手を上げて、人差し指を振った。
「隠し事?」
ヒューストンが、きょとんとした顔をしてみせる。
「ただコンピューターに優れているだけで、ターニャや劉が出てくるはずはない。彼女は、とんでもないものを持ち出した。そうでしょ」
「コンピューター専門の彼女が、何を持ち出せるというんだ?」
「とぼけのら、帰って」
怪訝な顔をするヒューストンに、カレンが厳しい口調で言って、入口を指さした。
「もう、閉店の時間なの。これから、悟と楽しい夕食タイムなのよ。くだらない話で、二人の甘い時間を無駄にしないで」
言い捨てると、ヒューストンに背を向け、厨房に向かって歩き出した。
「待て、悪かった」
ヒューストンが降参したように両手を上げ、カレンの背中に謝った。
「正直に話すから、そう怒らんでくれ」
振り向いたカレンに、ヒューストンが頷いてみせた。
暫く厳しい目付でヒューストンを見つめていたカレンが、やがて無言で頷いた。
「まったく、君には敵わんな」
カレンを誤魔化せるとは思っていなかったが、ターニャや劉の名を出せば、細かいことは気にしないかもしれないという思惑が、ヒューストンにはあった。
しかし、その思惑は、見事に外れた。
「わたしを誤魔化せると思っていたのなら、あなたは、わたしを舐めているか大馬鹿野郎かのどちらかね」
ターニャと劉の名を聞いたから、カレンはここまで我慢していたのだ。
そうでなければ、とっくにヒューストンを叩き出していた。
「ターニャと劉の名を出せば、君は一も二もなく乗ってくると思ったんだが」
ヒューストンが、正直な思いを口にする。
「確かに、魅力的だけどね。今のわたしには、サトルの命も懸かかっているのよ。状況も知らずに、おいそれと乗るわけにはいかないわ」
「まさか?」
ヒューストンが、訝しげな目をカレンに向けた。
「君は、今度のミッションに、サトルを伴おうというのか?」
「サトルとわたしは一心同体なの」
カレンは、さも当然といった顔をしている。
「ターニャと劉だぞ」
ターニャと劉の腕は、カレンに匹敵する。
だから、カレンを含めて世界の三凶と呼ばれ、恐れられているのだ。
そんな二人を相手にカレン一人でも荷が重いのに、素人の悟を伴っていれば足手まといになるのは明白で、ますますカレンに分が悪くなる。
そう思ったヒューストンは、カレンの意を測りかねて、心底戸惑った。
「あなたは、サトルのことを何もわかってない」
静かだが、迫力のこもった口調だ。
カレンの口調に気圧されたように、ヒューストンはカレンから目を逸し、悟に目を向けた。
悟は、ただニコニコと笑っている。
次に、救いを求めるようにスコットを見たが、スコットは無表情のまま、視線を宙に這わせている。
「わかった。サトルをどうするかは、君の自由だ」
ヒューストンが小さなためいきを吐き、諦めたように首を振った。
「じゃ、真実を話して」
ヒューストンが頷いてから、話し始めた。
CIAは、ある極秘のプロジェクトを進めていた。
世界中から集めてきた、選りすぐりの精神科医や人類学者、それに催眠術師や心理学者が、総力を結集して創りあげているプログラムだという。
そのプログラムとは、人の脳に特殊な刺激を与え、思うままに心を操ることを目的としていた。
このプログラムの特筆すべき点は、その刺激を与える地域を限定できることにあった。
例えば、ひとつの建物の中、ひとつの部屋の中といったように限定できるのだ。
もちろん、全世界も対象にできる。
このプログラムが完成すれば、重要人物を、危険もリスクも伴わずに暗殺し、あるいは意のままに操ることができる。
また、ある国を内戦状態に陥れたり、どんな組織であっても、内部崩壊させることも可能だ。
制限なしに使用すれば、人類を皆殺しにすることだって出来るという。
だが、大詰めの段階にきて行き詰っていた。
このプロジェクトに、志保は関わっていなかった。
しかし、どこから知ったのか、志保はそれをハッキングして盗み出した。
原本はバックアップごと消し去られて、CIAには痕跡も残っていない。
そして、志保はわずか一ヶ月足らずの間に、完成に近づけたらしい。
その実験として、今の飛び込み騒ぎを起こしている。
プロジェクトの首脳陣の見解では、もう直ぐ実験の第二段階に入ると思われ、これまでとは違った、とてつもないことが起こるだろうとということだ。
「そういったわけで、志保もろともソフトを奪ってしまえば、その国や組織は、世界を思いのまま操れる」
そこで言葉を切って、カレンの顔色を窺った。
カレンは、顔色ひとつ変えていない。
「我々は、志保の実力を見誤っていたよ」
そう締め括って、ヒューストンが自嘲気味に笑った。
「まったく、バカな物を開発したものね」
カレンの口調は、蔑みに満ちていた。
「相変わらず、後先考えずに、くだらない物を作っているのね」
「まあ、そう言ってくれるな。人間の世界なんて、くだらないものだ。破滅に向かっているのを知りながら、少しでも優位に立とうと、人殺しの研究を続けている。そうしないと、敵に喰われるからな」
「あら、あなた達が、破滅に向かっているのを知ってるなんて、驚きね」
カレンの皮肉に、ヒューストンは大袈裟に肩をすくめてみせた。
「君も、この世界を知り尽くしているだろう。もう、牧歌的な時代は終わったんだ。これから作り出されるものは、一歩間違えば、人類を絶滅に追いやるものばかりだ。所詮、人間なんて、愚かな生き物なんだよ」
「ま、その通りね。人間の欲深さには、底がないものね。政治家や、あなた達みたいな人種は特にね」
「その人種の許で働いていたのは、誰なんだ」
さすがに、カレンの皮肉に耐えかねたのか、ヒューストンがムッとした顔でやり返す。
「わたしに、喧嘩を売りにきたの?」
再び、カレンの口調と目付きが絶対零度になった。
ヒューストンは、身体の芯まで凍えた気がした。
「すまなかった」
社交辞令ではなく、ヒューストンは心底から恐怖を味わっていた。
自宅が襲われた時とは、比べ物にならないほどの恐怖を。
カレンは無言で、ヒューストンを見つめ続けた。
身体は凍ったようになっているのに、ヒューストンの額から、汗が流れ落ちる。
「いいわ、引き受けてあげる」
カレンの目が平常に戻り、あっさりと言ってのけた。
悟が苦笑を受かべる。
「助かる」
一瞬呆気に取られたヒューストンだったが、直ぐに我に返り、胸を撫で下ろした。
「万一の場合は、彼女を始末してもらっても構わない。彼女が死ねば、あのプログラムは、誰にも扱えないからな。彼女には可哀そうだが、敵の手に渡るよりはいい」
ここが、諜報機関の身勝手なところだ。
都合の良い時だけ使っておいて、用済みになったり、手に負えなくなったりすれば、いとも簡単に切り捨てる。
それまで、どれだけ組織に貢献していようともだ。
その最たる例が、ウサマ・ビン・ラーディンだ。
彼は最初、CIAに協力していた。
しかし、目的を果たすと、CIAは無情にも彼を切り捨てた。
その恨みから、彼はテロ組織の親玉となって、CIAを、そしてアメリカを敵視するようになり、うんざりするほどアメリカとCIAを悩ませた。
アメリカは、彼を世界の敵のように扱っていたが、彼をそうさせたのは、他ならぬアメリカ自身なのだ。
表の世界でも、大手企業などは、景気の良い時はじゃんじゃん人を雇い入れるが、いざ不況となると、それまでどれだけ会社に貢献していようと、不要になった社員はあっさりと切り捨てる。
どうやら、世の中、裏も表も一緒らしい。
「あんた達がどれだけ困ろうと、わたしは知ったことじゃない。人類がどうなろうと、それもどうでもいい。だけど、ターニャに劉と聞いては、黙ってられないわ」
カレンがさも嬉しそうに言ってから、悟を見た。
悟の苦笑が、ますます広がってゆく。
カレンとターニャは、仇敵同士だ。
これまで、何度も会いまみえ、未だに決着とつけられないでいる。
カレンを相手にして、唯一生き残っているのはターニャだけだ。
また、ターニャのエンジェル・スマイルを何度も見ながら、唯一生き残っているのも、カレンだけだった。
劉とは対決したことはないが、一度、対決したいと思っていた。
それに、カレンは、赤い金貨に借りがある。
カレンが悟と出会った事件も、敵は赤い金貨だった。
あの時、悟はカレンを庇って敵の銃弾を受け、命を落としかけた。
カレンは、悟を撃った奴の顔を、よく覚えている。
いつかそいつに、ありったけの銃弾を撃ち込んでやろうと思っている。
だから、赤い金貨の絡む事件には、必ず首を突っ込むことにしていた。
たとえ今回そいつがいなくても、強敵二人と殺り合える機会など、滅多にない。
いつも悟と一緒にいられるのは、この上もなく幸せなのだが、それでも、長年に渡って培われてきたカレンの闘争本能は、強敵を求めていた。
それは、カレンの生まれ持った業といっていい。
「ひとつ、忠告しておくが」
ヒューストンが、カレンに目を据える。
「シホは、コンピューターだけの人間ではない。君やターニャと比べては可哀そうだが、殺しの技術も中々のものだ。お姉さんが運ばれた病院で、警官二人と、警備員の死体が見つかった。三人とも、綺麗に喉を切り裂かれていた。どんな理由かわからないが、殺ったのは、彼女に間違いない。舐めてかかると、大怪我をしかねないぞ」
「面白いじゃない。彼女が、その殺しの技術を発揮して、抵抗してくれることを祈ってるわ」
カレンの会心の笑みを見て、悟が大きなため息を吐いた。
こうなったカレンは、もう誰にも止められない。
「しゃあないな」
悟が、ぽつりと心の中で呟いた。
第5章 襲撃
ヒューストンが訪れた日の深夜。
悟とカレンは東京へと向かうべく、名神から乗り継ぎ、東名高速を疾走していた。
車は、カレンお気に入りの、真っ赤に塗装し直したハマーである。
ハンドルは、カレンが握っている。
「なあ、カレン」
まったりとシートに凭れていた悟が、ぽつりと口を開いた。
「なに?」
カレンは、声だけで返事をした。
目は油断なく、四方に注意を払っている。
「前から思ってたんやけど、ハマーだけも珍しいのに、真っ赤に塗るやなんて、こんな目立つ車に乗っとったら危ないと思うんやけど。特に、今度の仕事は危険なんやろ。もっと目立んようにした方がええんとちゃうか」
悟の声音は、心配というより、不思議そうだ。
「いいのよ、これで」
にあっけらかんとした口調で、カレンが答えた。
「今の世の中、目立たないように行動するのは不可能なの。これだけ科学が発達していちゃね。だったら、好きな車に乗っていたいじゃない」
ちらりと悟の方を向いて、カレンが白い歯を見せた。
「ふーん、そんなもんか」
悟は、カレンの言う事がなんとなくわかるような気がした。
今や、人口衛星で、路上に落ちている針さえ見つけられる時代だ。
確かに、カレンの言うように、隠密に行動するのは不可能に近いかもしれない。
それにしても、命に関わることなので、出来ることなら目立ちたくないというのが人情だが、カレンは大胆そのものだ。
カレンの性格をよくわかっている悟は、そこは突っ込まなかった。
「志保という女性、見つかるやろか」
悟が話題を変える。
世界でも有数の人口密度の高い東京から、たった一人の人間を探し出すなんて、いくら科学が発達していても、悟には、到底不可能なことのように思えてならない。
「大丈夫でしょ。さっきも言ったように、今の世の中、隠れるのは不可能に近いもの」
悟の心配を吹き飛ばすように、カレンが快活に答えた。
それから暫く、二人は黙っていた。
突然、カレンの目がキラリと光った。
「早いわね。もう、現れたわよ」
カレンの口角が上がった。
「何が?」
悟はのんびりとシートに背を預けたまま、間の抜けた口調で訊き返す。
「敵に決まってるじゃない」
「うそや!」
悟が、ガバと身を起こす。
「俺らが大阪を出てから、まだ、そんなに経ってへんぞ」
「多分、どこからか情報が漏れているか、ずっとわたし達を監視してたんでしょうね」
事もなげに、カレンが答える。
「ほんま、裏の世界って凄いな」
のんびりとした声で歓心する悟に、カレンはちらりと視線を向け、笑みを浮かべた。
「で、敵はどこにおるんや?」
「後を見て」
言われた通り、悟は振り返って、リアウィンドゥ越しに後ろを見た。
少し距離を空けて、大型のトレーラーらしき車が一台、走っているのみである。
「トレーラーが走ってるだけやん」
「いくら真夜中といっても、トレーラー 一台だけだなんて、変だと思わない? それに、対向車線にも一台も走ってないわよ」
「偶然やろ。もしかしたら、事故があったんかもしれんし」
悟は対向車線に目を流しながら、、相変わらずのんびりとした口調で返す。
「だといいけどね」
カレンの口調にも微塵も緊張した響きはなく、むしろ、楽しそうであった。
「ほら、トレーラーが迫ってきたわよ」
カレンの言う通り、トレーラーが速度を上げ、みるみるとハマーに迫ってきた。
トレーラーに道を譲るように、カレンは走行車線に移った。
トレーラーが、ハマーに並んだ。
そのまま、ハマーを抜いていこうとする。
「やっぱり、きのせ……」
悟の言葉が終わらぬうちに、カレンが急ブレーキを踏んだ。
悟が舌を噛むと同時に、トレーラーが、いきなりハマーへ向かってハンドルを切った。
トレーラーの後部が、ハマーの鼻先を掠める。
「これでも、気のせいだと思う?」
カレンが悟に向いて、軽く片目をつぶってみせた。
「わかったよ」
悟が、納得したように頷く。
「それにしても、よう、タイミングよくブレーキを踏んだもんやな」
「だって、敵の手の内は見えているんだもの」
さもつまらなそうなカレンの口調に、悟は小さなため息を漏らした。
「これくらいで安心してられないわよ。もう一台、もの凄いスピードで近づいてきたわ。挟み撃ちにしようって魂胆ね」
悟が振り返ると、確かに、点のような灯りが見えた。
その灯りがみるみると大きくなってきて、ヘッドライトのものだとわかるようになるまで、大して時間は掛からなかった。
「挟まれたら、よけられへんやろ」
これまでのんびりしていた悟の顔に、少し緊張の色が浮かんでいる。
「どうするんや?」
顔に緊張を滲ませているものの、悟の口調には緊迫感はない。
「そうね、どうしようかしら」
うきうきとした声で言って、カレンが顔を綻ばせた。
その目は、前方のカーブに注がれている。
落石防止用にコンクリートで固められた山の斜面に沿うように、左へ緩やかな曲線を描いている。
「サトル、後部座席のシートを上げて、中に入っている筒を取ってくれる」
カレンに言われるまま、悟は素早く後部座席に移動し、シートを持ち上げた。
「こんな仕掛けしとったんか」
呆れた声を出しながら、悟が筒状のものを取り出す。
「これは、なんや?」
またもや素早く助手席に戻ったものの、悟は物珍しそうに、手にしたものをしげしげと眺めた。
その間にもカレンは、ハンドルを右や左に切っているが、それに合わすように、前方のトレーラーも、お尻を左右に振り、ハマーに抜かせまいとしながら、ゆっくりと走っている。
後方のヘッドライトが、直ぐそこまで迫ってきていた。
「RPG22よ」
RPG7という、中東戦争中によくニュースで取り上げられで有名になった携帯型の対戦車砲があるが、RPG22はその使い捨て仕様である。
「先端についているピンを外して、筒を引っ張って」
そう言われても、前も後ろも似たような形なので、どちらが先端かなんて、悟には判断がつかない。
「見ればわkるでしょ。早く」
「俺は、素人やで」
文句を返しながらも、悟はピンを見つけた。
カレンの言う通りピンを抜き、筒を引っ張る。
すると、出てきた筒に取り付けてあった照星(狙いをつけるためののもの)がピンと伸びた。
「なんや、これ?」
悟が、素っ頓狂な声をだした。
「いいから、こっちに渡して」
悟の驚きを無視して、カレンが右手を差し出す。
差し出された手に、悟がRPG22を乗せた。
「もう少し先で、左にカーブしているのが見えるでしょ。今から、サトルにハンドルを預けるから、わたしが声をかけたら、ハンドルを右に切って。命は預けたわよ」
そう言って悟にハンドルを握らせ、カレンはRPG22の安全装置を外して、窓から身を乗り出した。
足は、アクセルを踏んだままだ。
後方のトレーラーは、すでにハマーと数十メートルという距離に迫ってきている。
このままだと、ものの十秒もしないうちに、挟まれて潰される運命にある。
後方のトレーラーが、目も眩まんばかりのハイビームに切り替えたとき、無造作ともいえる仕草で、カレンがRPG22の引鉄を引いた。
乾いた音をたてて、弾は前方のトレーラーの左側を掠めるように飛んでいき、落石防止用のコンクリートに当たった。
その瞬間、腹に響くような轟音が響いた。
砕け散ったコンクリートの塊が、雨のようにトレーラーに降り注ぐ。
そのうちのいくつもが、フロントガラスを突き破り、運転席を襲った。
カレンは発射と同時にRPG22を投げ捨て、乗り出した身体を引っ込めながら。「今よ」と叫んだ。
悟が、ハンドルを右に切る。
同時にカレンが、アクセルを思い切り踏み込み、座席に座る。
絶妙のタイミングで、悟がハンドルをカレンに譲った。
無数のコンクリート片に体中を貫かれて絶命した運転手を乗せたトレーラーは、制御を失い、そのまま斜面に激突した。
その勢いで、トレーラーの車体が右に傾いて転倒した。
そのまま、横に滑っていく。
滑るトレーラーを掠めるようにして、危うくハマーがすり抜けていった。
後方から迫っていたトレーラが急ブレーキを踏んだが間に合わず、横転したトレーラーに、かなりの勢いで突っ込んでいった。
金属同士がぶつかる鈍い高い音と共に、突っ込んだトレーラーの後部が、宙に浮いた。
二台のトレーラーは、絡み合ったまま中央分離帯を越えてゆき、反対車線の遮蔽板に激突した。
たちまちエンジンから炎があがり、あっという間に、二台とも紅蓮の炎に包まれた。
悟は振り返って、その光景を見つめながら、「ナムアミダブツ」と唱えた。
「凄いな、まるで映画みたいやん」
念仏を唱え終わると、悟は、もう何事もなかったかのように、前を向いて暢気な声をだした。
カレンが微笑む。
「よくやったわね、サトル」
笑みを崩さず、カレンが優しい口調で褒めた。
「そう言われてもな」
カレンに褒められても、悟は嬉しくなさそうだ。
「直ぐ座席に戻るんやったら、俺にハンドルを任さんでもよかったんとちゃうか」
少し恨めしそうな声で、カレンに文句を言う。
カレンの笑みが、ますます広がった。
「あの状況では、ほんの一瞬が生死を分けるの。サトルにハンドルを任せていなかったら、確実にトレーラーにぶつかっていたわ」
慈しむようなカレンの口調は、RPGをぶっ放した時とは、まるで別人のようだ。
「そうなんや? 俺、失敗したらどうしようって、どきどきしてたんやで」
悟が、胸を撫で下ろす仕草をしてみせた。
「言ったでしょ。サトルを信頼してるって」
悟の顔が、嬉しそうに輝いた。
それから、怪訝そうな顔になる。
「なんで、トレーラーを狙わず、山を撃ったんや? あの距離で、カレンが外すわけないからな」
「馬鹿ね、あんな至近距離でトレーラーを撃っちゃったら、わたし達まで巻き添えを喰らってたわよ」
「言われてみれば、そうやな」
疑問が解けてすっきりしたのか、悟は無邪気に頷いた。
命を落としかけたというのに、二人の会話は、まるでデートを楽しんでいるかのように朗らかだ。
「そやけど、あの筒を投げ捨てたんはまずかったんんとちゃうか? えらい騒ぎになるで」
「筒って、いいわね」
カレンが、声を出して笑う。
「大丈夫よ。事故として処理されるから」
ひとしきり笑い終えると、自信を持って言い切った。
「それはないやろ」
悟が、懐疑的な顔をする。
「あの山の砕け方と、RPGの抜け殻が見つかったら、誰がどう見ても、事故とは思わへんぞ」
「さっきは筒で、今度は抜け殻か。悟って面白いわね」
悟の言い様がおかしくって、またもやカレンが、大きな声で笑う。
「筒や抜け殻が、そんなに面白いか」
悟は怒っているのではない。
笑いを取って、してやったりという顔だ。
大阪人の性である。
「面白いわよ。そんな表現が出来るなんて、サトルは詩人になれるわよ」
「俺が詩人やったら、とっくに逃げとるわ」
「ま、そうね。サトルが詩人でなくてよかったわ」
カレンは怒ることなく、冗談とも本気ともつかぬ口調で返した。
「いいこと、サトル」
カレンが真顔になる。
「今の日本の国民はね、テロや戦争なんて、よその国の出来事で、自分の国でそんなことが起こるなんて、これっぽちも想像してないわ。だから、もしそんなことが日本で起こったなんて知ったら、マスコミは騒ぎ立てるわ、国民はヒステリックになるわで、それはもう、収拾のつかない事態に陥るでしょうね。そうなったら、政府としても対処しきれないので、事実をひた隠すに決まってるわ」
確かに、カレンの言う通りに違いない。
日本でテロでも起ころうものなら、平和に慣れている日本人には衝撃が大き過ぎて、到底受け入れられないだろう。
マスコミも国民も、ハチの巣をつついたように騒ぎ立てるに違いない。
ましてや、高速道路でRPGなんて物騒なものをぶっ放したと知れたら、これはもう、テロでは済まされない。
日本が大混乱に陥ることは、目に見えている。
「そうやな、確かに、カレンの言う通りやな」
悟は、カレンの言葉に反論のしようもなく、ただ顔をしかめるのみだ。
「今の日本人はね、自分達だけは大丈夫っていう安心感を得たいがために、世界で起こっている現実から目を背けているのよ。よその国でなにが起ころうと、所詮他人事だからね。そうやって、見せかけの平和にしがみついて満足してるのよ。自分達から手を出さなければ、どこからも襲われないと思っているのが、その証拠ね」
悟の顔が、ますます苦渋に満ちていく。
悟の、苦渋に満ちた顔をチラと横目で見て、カレンが話を続ける。
「もし、事を公けにしたとしても、ロシアや赤い金貨が絡んでいるなんてことがわかったら、弱腰の政府には何も出来やしないわ。赤い金貨の存在なんて、日本の国民からすれば、あまりにも非現実的過ぎて、誰も信じやしないでしょうしね」
日本国民である悟は、ただただ恥じ入るしかなかった。
「このことを、政府も素直に認め、マスコミもヒステリックにならず堂々と取り上げて、一体となって捜査に当たるくらいの気概があれば、日本も、よその国から舐められたりしていないわよ。そう思わない?」
カレンの言うことは、まったくその通りだ。
カレンと行動を共にしている悟は、強豪国がどのように諜報活動を行い、自国の権利を守るために、どんなことをしているかを、少しは知っている。
彼らに、綺麗事は通用しない。
騙すか騙されるか、脅すか脅されるか、叩き潰すか潰されるか、だたそれだけだ。
彼らのやり方には、甘えや妥協など、一切ない。
常に現実を直視し、相手の弱みを握り、時には弱みを造り出す。
そして、最大限にそれを利用する。
冷酷かつ非情に、手段を選ばず、徹底的に相手を叩き潰すか服従させるかだ。
そこには、倫理などまったく通用しない。
そうやって、彼らは国や国民を守り、自国を発展させていっている。
まさに、国家間というものは、弱肉強食の世界なのだ。
世論や他国の誹謗中傷を気にしていては動きが制限されるばかりで、その隙に、他国に足許を掬われることになりかねない。
そうなってから後悔しても遅いというのが、彼らにはよくわかっている。
だから、非情に徹する。
正に、「勝てば官軍」なのだ。
カレンと知り合うまでの悟は、確かに、カレンの言う通りだった。
実際に体験して肌で感じなければわからないこともあるが、それにしても、今の日本は甘すぎる。
アメリカやロシア、それに中国いった、したたかな国と対等に渡り合うことなど、出来ようはずがない。
まるで、空手の有段者と小学生が喧嘩をするようなものだ。
しかし、大多数の国民が、それらの国々と充分に渡り合えるものと信じ込んでいる。
そう考えると、悟はぞっとした。
そして、これからの日本はどうなるのだろうと思い、憂鬱な気分になった。
「サトルが落ち込むのもわかるけどね。この国は、一度とんでもない目に遭わないと、目が覚めないわよ。まあ、日本という国がなくならない限りは、何があっても立ち直れるんじゃない。本当は、強い国民だもの」
悟の心情を見透かしたように、カレンが悟を慰めた。
「そうやな」
昔は、日本や日本人を軽蔑しきっていたカレンが、今は日本人の底力を認めてくれていることに悟は嬉しく思い、落ち込んでいた気分が少し晴れた。
「大丈夫よ。何があっても、わたしはサトルだけは守ってみせる。もしもの時は、苦しまないように一発で楽にしてあげるから、安心してて」
「それは、有難いことやな」
悟が苦笑する。
「ところで、さっきの奴らは、ロシアと赤い金貨のどっちやと思う?」
「さあね、どっちでもいいんじゃない」
誰が襲ってこようと、カレンは興味がなさそうだ。
「カレンが興味あるんは、ターニャと劉だけのようやな」
「その通り。雑魚はどうでもいいわ」
顔色ひとつ変えずに言い切るカレンにとって、先ほどの事は、何ほどのことでもなかったのかもしれない。
「それにしても、さすがカレンやな」
「当然でしょ。わたしを誰だと思ってるの」
そうは返したものの、カレンの頬が少し赤らんでいる。
なぜかカレンは、悟に褒められると誇らしい気持ちになる。
エージェントだった頃は、与えられた任務を淡々と果たすだけで、どんな困難な任務であっても、充足感も達成感も感じたことはなかった。
それどころか、任務を果たせば果たすほど、やり切れない気持ちになったものだ。
あの時、勇気を持って、悟に銃を突き付けてよかったと、カレンはしみじみと思った。
「今度は、どんな手で襲って来るんかな?」
悟の口調に恐れはなく、単に、興味本位で尋ねただけのようだ。
カレンが、チラリと悟を見やる。
無邪気な悟の顔を見て頼もしく思い、クスリと笑った。
「もう、東京に着くまでは襲ってこないと思うわ。だから、サトルは寝てていいわよ」
「そうか。カレンがそう言うんやったら、そうやろな。そやけど、カレンが運転してるのに、横で寝るなんてできへんわ」
「嬉しいこと、言ってくれるじゃない」
カレンの声が弾んだ。
「そうやっ!」
悟が何やら思いついたらしく、大きな声を出した。
「俺ら、新婚旅行いってへんやん。これが新婚旅行やと思うて、東京まで楽しくドライブしようや」
緊張感の欠片もない悟の言葉に、カレンの胸がときめいた。
「命を懸けた、新婚旅行ね」
カレンの胸が、幸せで満たされる。
カレンと一緒にいるだけあって、悟もどこか変わっている。
民間人として生きてきたとはいえ、悟には暗い過去がある。
それは、カレンにも語ったことはない。
それを乗り越えて、今の明るい自分を創り上げた。
カレンも、悟のそんなところを、本能的に見抜いたに違いない。
「私たちには相応しいかも。ありがと、サトル。そうと決まったら、楽しくいきましょ」
そう言いながらも、カレンは油断なく周囲に目を配りながら、東京へと車を走らせていった。
第6章 三凶揃う
カレンの予測通り、あれからは襲撃もなく、ハマーは快調に高速を飛ばして、今は新宿を抜けようとしていた。
「カレンの言う通りやったな。で、これから、どうするんや」
まぶしそうに朝陽を見ながら、欠伸を噛み殺した声で、悟が訊いた。
不夜城と呼ばれ、深夜でも活気溢れるこの街も、さすがに始発が出る頃になると閑散している。
この時間に目に付くのは、店が出したゴミを漁ろうとするカラスと、これから帰宅しようという客引きやボーイやお店勤めの女の子、あとは、路上に蹲る酔っ払いくらいだ。
「とりあえず、ヒューストンが用意してくれたホテルに行きましょ」
それから二時間後、二人はヒューストンが用意してくれたホテルのスイートルームでくつろいでいた。
三十階の窓からは、大都会のビル群が広がり、まるで王様のような気分にさせてくれる。
先ほどまで、飽きることなく肩を並べて眼下に広がる世界を眺めていた二人だったが、さすがに一時間も眺めていると飽きてきた。
「暇やな」
大人三人が悠に寝れるであろうベッドに、大の字に寝転んだ悟が、天井を見上げながら退屈そうにぼやいた。
「いいじゃない、こんな機会、滅多にないわよ」
豪華な部屋で、悟と二人っきりで過ごせるのが、カレンにはたまらなく楽しいらしい。
「そんなんだから、大阪人はせっかちだと言われるのよ」
カレンが悟の側に身体を横たえて、悟の目を、悪戯っぽく覗き込んだ。
「それとも、わたしといるのが退屈?」
悟が、おもむろにカレンの頭を掴み、自分の方へ引き寄せた。
そのまま、熱い口づけを交わす。
「これが、答えや」
「いきなり、何するのよ」
そう言って、カレンが悟の上に乗り、今度はカレンから唇を合わせた。
「お返しよ」
もう一度、悪戯っぽい目で、悟の目を覗き込む。
「なんで、俺みたいなんを好きになったんや」
カレンに腕枕をしながら、悟が唐突に尋ねた。
「何でかしらね、魔が差したのかしら」
カレンが含み笑いを漏らす。
「まあ、そんなとこやろな」
「冗談に決まってるじゃない」
真顔で頷く悟の頭を、カレンが軽く小突いた。
「わたしのような人間が、魔が差すなんてあるわけないじゃない。あなたはね、自分では気付いてないでしょうけど、人にない非凡なものを持ってるわ。それに、男らしい」
「俺が、男らしい!!」
悟の目が、まん丸くなった。
「そうよ、男らしいわ。あなたは、あんな事に巻き込んだわたしを庇って銃弾を受けた。わたしのせいで死にかけたのに、わたしの愛を受け入れてくれた」
「銃を突き付けられて、わたしを選ぶか、死を選ぶか、どちらか決めろなんて言われたら、誰だってカレンを選ぶやろ。死ぬのは嫌やし、カレンはべっぴんさんやしな」
カレンの顔に、なんともいえぬ笑みが広がる。
「普通は、どちらも選ばないわよ。わたしという人間を知っていればね。逃げ出そうとするか、泣いて命乞いをするかのどちらかよ。あなたは、躊躇いもせず、わたしを選んでくれた。わたしを指さして、カレンがいいと言ってくれた。わたしのせいで巻き込まれたのに、身を挺してわたしと銃弾の間に入ってくれた。これが、普通といえる?」
「女性を守るのは、男の務めやからな。まあ、カレンがか弱いかどうかは別にしてや」
怒るどころか、カレンの笑みがますます広がった。
「そこよ。あの時、あなたはわたしの姿を知っていた。あなたの目の前で、何人もの敵を撃ち殺していたからね。それでも、あなたは、わたしを守ってくれた。これが男らいいと言わずに、なんて言うの?」
本気で照れてしまった悟は、なにも返せない。
「あなたをひと目見た時から、何かわたしの心に訴えてくるものがあったわ。だから、あなたを撒き込んだのよ」
悟の照れが、一瞬で吹き飛んだ。
「じゃあ、なにか? 俺に惹かれるものがあったから、俺をあんなことに巻き込んだんか?」
満面に笑みを湛えて、カレンが頷く。
「ひでえ話やな」
悟が呆れた顔をする。
が、直ぐに真顔に戻って、真剣な口調で言った。
「まあ、そのお蔭で、カレンとこうして一緒におれるんやから、感謝せんとな」
今度は、カレンが照れてしまって、顔を真っ赤に染めた。
「サトル」
「カレン」
二人が身体を寄せた時、カレンの全身に緊張が走った。
カレンが素早く悟を突き飛ばすと、自分も反対側に転がった。
プスプスと押し殺した音と共に、二人のいた場所に穴が開いた。
「お楽しみのところ、邪魔して悪かったかしら」
右手にサイレンサー付の銃を持ったターニャが、無表情な顔で、寝室の扉の前に立っていた。
「そう思うのだったら、邪魔しないでくれる」
カレンは、顔色ひとつ変えていない。
「ちょっと、嫉妬しちゃって」
ターニャも無表情を崩すことなく、カレンに狙いを定めたままだ。
「イタタ」
悟が背中をさすりながら、起き上がる。
「ターニャやんか」
ターニャを認めるなり、悟が親しげな声を出した。
「相変わらず、緊張感のない男ね」
ターニャの顔に、初めて感情が現れた。
わずかながら、苦笑を浮かべている。
悟とカレンを結び付けた事件に、ターニャも絡んでいた。
カレンは、ある強大な麻薬カルテルのボスを暗殺する任務を負っていた。
そのボスは、赤い金貨の幹部だった。
非常に用心深く、要塞のような邸宅で、武装した大勢のボディガードに守られており、滅多に外出しない。
要塞にこもっているターゲットを暗殺するのは、不可能に近い。
唯一のチャンスは、ターゲットは年に一度だけ、必ず、ある慈善事業のパーティに出席する、その時だけだった。
そのパーティは、表向きは孤児のためのチャリティだが、実態は麻薬売買の場だった。
一般の資産家も集まるが、多くのシンジケートの連中も混じっている。
そこで、カレンに白羽の矢が立った。
カレンは資産家の令嬢を装って、そのパーティに潜り込み、隙を見てターゲットを暗殺する任務を負った。
一人だと怪しまれる恐れがあるため、見せかけのパートナーとなる男を探す必要があった。
裏切りが当たり前の世界に身を置いているカレンは、同胞を一切信用することなく、一匹狼で通していた。
その時も、カンパニーが選んだパートナーを断り、自分で探すのを認めないなら、任務を降りるとまで言ってのけた。
カレンが会場となるホテルへ下見に来ていた時、商社マンだった悟が、商用で訪れていた。
その悟に、カレンは目をつけた。
見てくれはらしくないが、日本の大金持ちの馬鹿息子とでも言えば、通用するだろう。
そう思ったカレンは悟に近づき、うまく言いくるめて、パーティへの同伴を、半ば強引に承諾させてしまった。
そうして、首尾よくターゲットを暗殺して引き上げる途中に、ターニャと出くわした。
ターニャも、カレンと同じ任務を帯びていた。
因縁のライバルに先を越されたターニャは怒り狂い、敵の包囲が狭まる中で、カレンと決着を着けようとした。
カレンもそれに応え、お互い熱くなっていた二人は、不覚にも、敵が直ぐ傍まで迫ってきているのに気付かなかった。
その時に、悟はカレンを庇って撃たれた。
悟のお蔭で、二人は正気を取り戻し、敵の包囲網から逃れることができた。
悟が冷静に状況を判断し、カレンを庇わなかったら、二人共どうなっていたかわからない。
だから、ターニャは、悟に一目置いている。
「まあ、それだから、カレンと続いているのかもね」
「大きなお世話よ」
銃口を向けられてているというのに、カレンは悠然と腕を組んでいる。
「なんで、ここが?」
悟が、不思議そうな目をターニャに向けた。
ターニャは、意味ありげな笑みを返しただけで、何も答えない。
「裏の世界にはね、秘密なんてないのよ」
ターニャに代わって、カレンが答えた。
「それより、何しに来たの?」
カレンは、まだ腕を組んだままだ。
「ちょっと、挨拶をしておこうと思ってね。それに、あなたが骨抜きになっていないか、確かめたくて」
ターニャの銃口も、カレンに向いたままだ。
「わたしが、そんなやわに見える?」
「安心したわ、変わってなくて」
「当然でしょ。男を愛しても、わたしはわたしよ」
「そうのようね」
「なんなら、ここでケリを付ける?」
カレンは、いかなる時でも、腰と足首に拳銃を着けている。
たとえ、寝る時でもだ。
ターニャが引金を引いた瞬間、横っ飛びに躱し反撃する自信が、カレンにはあった。
「それも、いいわね」
ターニャもカレンの動きが読めるので、引金に掛かった指に、力を入れられないでいた。
二人の間が、緊張に包まれた。
「せかっくの再会やのに、二人とも、そんな怖い顔せんとき」
実にのんびりとした口調で言いながら、悟が、カレンとターニャの間に立った。
「クソ度胸もそのままね」
ターニャが、感心した様子で、悟を見る。
「それとも、馬鹿なのかしら」
そんなことは露ほども思っていないが、ちょっとからかってみたくなった。
氷の心を持つターニャにしては、珍しいことだ。
「失礼ね。わたしの旦那様に向かって」
「多分、馬鹿なんやろ」
カレンの言葉に被せるように、悟が笑みを浮かべながら言った。
ターニャから、殺気が消えた。
構えていた銃を降ろす。
「やめた。今日は、決着を着ける気分じゃなくなったわ」
「珍しいわね、あなたがそんな気になるなんて」
「あなたの旦那に、毒気を抜かれたの」
口調は苦々しかったが、ターニャの口元は綻んでいた。
カレンとターニャ。
どちらも、凍てついた心を持っている。
そんな二人の心を解きほぐすほど、悟には不思議な魅力があった。
悟には、得体の知れないところがある。
並みの男なら、自分を巻き込んだ女のために、銃弾に身を晒すことなど出来ない。
いや、たとえ心底惚れ込んでいたとしても、咄嗟に身を投げ出せるものではない。
悟の魅力は、普通の女性にはわからない。
ただ、頼りない男としてしか映らない。
常に死と隣り合わせで生きてきた二人だからこそ、悟の本性を感じ取ることが出来るのだろう。
「決着は、次に会った時に着けるわ」
そう言って、ターニャが二人に背を向けた。
その瞬間、ターニャの肩がぴくりと動き、再びカレンに向き直る。
「あなたのお仲間?」
ターニャの顔は厳しかった。
「わたしが群れるのは嫌いなのは、知ってるでしょ。あんたの仲間じゃないの?」
「わたしも、群れるのが嫌いなのは知ってるでしょ」
二人が頷き合い、ぞっとするような顔を浮かべた。
「ここは、共同戦線といきましょうか」
言って、ターニャがドアの横に張り付いた。
「そうね」
カレンが悟の腕を引っ張って、ターニャと反対側のドアの横に張り付く。
悟には、これから何が起こるか、予想がついていた。
なるべく二人の邪魔にならぬよう、大人しくカレンの後ろに立つ。
三人共、気配を気づかれぬよう、息を殺していた。
暫らくして、ドアがそっと開き、少しの間を置いて、目だし帽を被った二人の屈強な男が、自動小銃を構えながら、静かに部屋へと入ってきた。
カレンとターニャは、電光の素早さで二人の男の腕を掴んで、自分の方へと引き寄せた。
喉笛に手刀を浴びせ、手にしていた自動小銃を奪い取り、男達の身体を、廊下へと突き飛ばす。
その動作は、まるで双子のように、ぴったりと息が合っていた。
男達が廊下へと弾き出された刹那、激しい銃声がした。
銃声に合わせるように、二人の身体がダンスを踊る。
銃声が止んだ時、二人の身体がドゥッという音を立てて、廊下に沈んだ。
その隙を突いて、カレンとターニャが、腕だけを外に出して、敵から奪った自動小銃を乱射する。
なんの合図を交わしたわけでもないのに、ここでも、二人の息はぴったり合っていた。
弾が尽きると、カレンが素早くドアを閉めてロックした。
手招きで、ターニャを寝室へと誘(いざな)った。
カレンが、クローゼットから大きなバッグを引っ張り出す。
ターニャに向かい、にんまりとしてみせてから、バッグを開けた。
中を見た、ターニャの目が、妖しく輝く。
バッグの中には、十発近い手榴弾と、数丁の自動小銃、オートマチックの拳銃が五丁にリボルバーが五丁、それに予備弾倉が有り余るほど詰め込まれていた。
カレンとターニャが、それぞれ好みの武器を手に取る。
「これ、護身用。使い方はわかるでしょ。無闇に撃っちゃだめよ」
そう言って、カレンが小型のオートマチックを、悟に差し出す。
悟が、差し出された拳銃を素直に受け取る。
その時、立て続けに銃声が聞こえ、ドアを蹴破る音がした。
静かに暗殺しようと思っていたみたいだが、気付かれてしまっては意味がない。
どうやら敵は、強硬手段に切り替えたようだ。
カレンが寝室のドアを少し開けると、すかさずターニャが、手榴弾を放る。
ターニャの手が元に戻る前に、カレンはドアを閉めていた。
一瞬の後、大音響と共に部屋が揺れた。
カレンとターニャが、自動小銃を構えて、寝室から飛び出す。
ターニャは室内を、カレンは廊下を、暗黙のうちに受け持ち、生きている者があれば、容赦なく仕留めていった。
二人の銃声が止んだとき、部屋の内外には、二十以上の死体が転がっていた。
本当に、二人の息はぴったり合っている。
どんなに訓練を積んだ兵士でも、とてもここまでは出来ない。
合図など、なにもないのだ。
いかに、二人が戦闘のために生まれ、幾多の戦闘に生きてきたかの証であろう。
悟は寝室から、二人が生きている者がいないか調べている姿を見守っていたが、ふと背筋に冷たいものを感じ、窓に目を転じた。
いつの間にか、窓際に凶悪な面相をした大男が立っていた。
その男の後ろの窓が、なにかで溶かされたように、綺麗になくなっていた。
男は、片手に軽々と機関銃を持っている。
「カレン、ターニャ」
悟が大声で叫ぶと同時に、男に銃口を向けた。
悟の声に反応して、カレンとターニャが振り向いた時、悟は横っ跳びに拳銃をぶっ放すところだった。
同時に、男もトリガーを搾り、片手に持つ機関銃が咆えた。
悟の身体すれすれにいくつもの銃弾が掠めていき、悟の身体が、床に叩きつけられた。
「サトル」
カレンが絶叫しながら、男に向かって、自動小銃の引金を引いた。
ターニャも、それに続く。
ターニャの顔には、珍しく後悔の念が滲み出している。
悟を、不用意に一人にした責任を感じているのだ。
せめて、カレンだけでも、側につけておいてやれば良かったと悔やんでいる。
仇敵の旦那なんぞ、ターニャにとってはどうでもいい存在なのだが、悟には、一度命を救われている。
それに、カレンに次いで一目置いている存在だ。
ターニャが認めている人間は、カレンと悟だけなのだ。
二人の放った弾が着弾する前に、男は、巨体に似合わぬ身軽さで、横に飛んでいた。
そのまま、窓を突き破って飛び降りた。
「うそや、ここは三十階やで」
起き上がった悟が、粉々に砕けた窓から顔を出して、下を覗いた。
男の姿は、どこにもない。
「怪我はない?」
カレンが悟の横に来て、心配そうに悟の顔を覗き込む。
「大丈夫や。どこにも当たっとらん」
カレンの心配を吹き飛ばすように、悟が明るい声で答えた。
悟の声に、カレンは心底ほっとした。
「あれが、リュウね」
ターニャも、いつもの冷静さを取り戻していた。
「お蔭で、命拾いしたわ。あなたに助けられるのは、二度目ね。悔しいけど、礼を言うわ」
悔しいと言いながら、ターニャの唇が、緩くカーブを描いている。
エンジェル・スマイル以外に、ターニャの顔が綻ぶことなど、滅多にない。
「惚れても無駄よ」
自慢と警戒心が混ざった声で、カレンがターニャを睨んだ。
「それとこれとは別よ。いくら二度も命を助けられたからといって、恋愛対象にはならないわ。第一、わたしは、男には興味がないの」
カレンが口を開くより早く、ターニャが付け足す。
「誤解しないでね。レズじゃないから」
「あなたがレズだろうとなんだろうと、どうでもいい。サトルにちょっかいさえ出さなければね」
ターニャが、黙って肩を竦めた。
「ドアから襲ってきた奴らは、多分、囮やったんやろうな」
険悪な雰囲気になりかけた二人に割って入るように、悟が口を開いた。
「そのようね。わたし達が応戦している隙を突いて、背後から襲うつもりだったみたいね。噂通り、卑怯な奴」
カレンが、吐き捨てるように言う。
カレンからしてみれば、当然だろう。
カレンは、卑怯な手を使ってまで、敵を倒そうとは思わない。
腕に自身があるのもあるが、何より、性に合わないのだ。
裏で生きる者としては失格かもしれないが、カレンは殺人を好んでいるのではなく、殺し合いを好んでいるのだ。
カレンの言葉に同調するかのように、ターニャが頷いた。
ターニャもまた、卑怯な手を使ってまで、敵を倒そうとは思っていない。
二人共、自尊心の塊だった。
だから、息が合っていたのかもしれない。
外から、いくつものけたたましいサイレンの音が聞こえてきた。
あれだけ、派手にドンパチやったのだ。
大騒ぎにならないわけがない。
ホテルのロビーは、逃げ惑う人々でごった返していた。
「騒がしくなってきたから、わたしは消えるわ」
ターニャが、悟の襟首を掴んで引き寄せた。
「あなたって、面白い人ね。民間人にしとくのは、もったいないわ」
悟の耳元で囁くように言ってから、ウィンクして出ていった。
「サトルは、誰にもあげないわよ」
カレンが、ターニャの後姿に向かって毒づく。
が、その顔は、まんざらでもなさそうだった。
「サトル、わたし達も消えるわよ」
既に武器を戻したバッグを軽々と持ち上げながら、カレンが促した。
「大丈夫か? そんなもん持って」
「あら、少し軽くなったわよ。ターニャが、わたしの武器をちゃっかりと持っていったからね」
カレンの言う通り、ターニャは、カレンのバッグから手にした自動小銃とハンドガンと予備弾倉と手榴弾を、カレンに返すことなく持ち去った。
「重さを心配してるんやない。今、このホテルには、警官がうようよいてるんやで」
カレンの顔が綻んだ。
「警官に見咎められたら、皆殺しにするだけよ」
恐ろしいことを、いともあっさりと言ってのける。
実際にそうなった時、カレンは本当にやるだろう。
カレンには、善も悪もない。
世の常識も通用しない。
罪もない警官の命より、武器の方が大事なのだ。
カレンとは、そういう女だ。
「物騒やな」
並みの男なら、たとえ冗談でもそんなことを言われると怖気を振るうものだろうが、カレンの心の闇をわかっている悟は、ただ苦笑を浮かべただけだった。
「さ、行くわよ」
カレンが、まるでピクニックにでも行くような気軽な口調で、悟に声をかけた。
悟は、足早に歩み去るカレンの後を、黙って付いていった。
第7章 怒れる男
都内某所に、公安が隠れ蓑にしているビルがある。
そのビルの存在は、公安の中でも、ごく限られた一部の者しか知らない。
世間にあまり実態が知られていない公安の中でも、より機密性の高い事案に従事している者達が拠点にしている処だ。
そこを拠点としている者達は、同胞といえど、ほとんどが互いの顔や名前を知らない。
ましてや、自分が抱えている以外の事案なんて、一切知らされてもいない。
もし敵に捕まって、拷問されたり、自白剤を打たれたとしても、他に類が及ばないための配慮だ。
それだけ彼等は、危険な任務に就いているということだ。
それだけに、公安の中でも優秀な者たちだけが選ばれていた。
加えて、自衛隊やSATや警視庁などの他組織からも、優秀な猛者共が出向してきおり、公安というより、一種の諜報組織の体をなしている。
大勢の人々が、一杯呑んで、いい気分でいる時間帯。
そのビルの一室のソファに、不機嫌な顔をして座っている男がいた。
細身ながら、しなやかな筋肉を纏っているのが、服の上からも見て取れ、目に強い意志を宿しているその男は、ひと目見て、只者でないことがわかる。
男の名は、桜井健吾。
ビルに集う猛者共の中でも、群を抜いた存在だ。
上司である高柳から緊急の呼び出しを受けて、急いで駆け付けてきたというのに、もう二十分も待たされている。
桜井の苛立ちが頂点に達しようとした時、ドアが開いて、二人の男が入ってきた。
一人は、高柳。
濃紺の縦縞のスーツをビシッと着こなし、少し白髪の混じった髪を綺麗に横に撫でつけている様は、いかにもキャリアといった風情を漂わせている。
その証拠に、銀縁眼鏡の奥には、抜け目のなさそうな、狡猾ともいえる目があった。
もう一人は、桜井の知らない男だ。
背はそれほど高くないが、横幅が広く、がっしりとした体格をしている。
顎が張った顔に、刈り上げた髪。
桜井は一目見て、自衛隊のレンジャー上りではなかろうかと推測した。
しかし、一瞥をくれただけで、桜井の視線は、直ぐに高柳に向いた。
自分から呼び出しておいて、待たせた詫びもなく、高柳は桜井の前の一人掛けのソファに、ゆるりと腰を下ろした。
もう一人の男は、両手を後ろに組んで、高柳の後ろで直立する。
「一体、何事です。急に呼び出したりして」
高柳の後ろに立つ男など眼中にないように、ドスの利いたバリトンで言ってから、桜井はじっと高柳に目を据えた。
「プリティドールは、知っているな」
桜井の問いには答えず、高柳がもったいぶった口調で口を開いた。
桜井が、黙って頷く。
「ターニャと劉も、知っているな」
もったいぶった口調を崩さず、高柳が深々とソファに背中を預けた。
「この世界で、その三人を知らない奴はいないでしょう」
桜井は苛立ちを隠そうともせず、ぶっきらぼうに答えた。
癖なのか、それとも威厳を繕おうとしているのか、高柳は、重大な話をする時ほど、もったいぶった言い方をする。
そんな高柳に、桜井は日頃から反感を覚えている。
早く、要件を言いやがれ。
そう怒鳴りつけたいのを抑えて、「で、その三人がなにか」わざとゆっくりと訊いた。
これにも高柳は答えず、無言で桜井を見つめてくる。
高柳の目に、かすかに怯えに似た感情が表れているのを、桜井は見て取った。
「まさか?」
「その、まさかだ」
高柳の顔から尊大さが消え、苦渋に満ちた顔になった。
「世界の三凶が、この東京に揃っている」
桜井の目が、険しくなった。
「昨夜、カレンの許に、ヒューストンが訪ねた」
桜井は、カレンとヒューストンの関係を知っている。
CIAのトップシークレットだった破壊工作員の頃、プリティドールと呼ばれて恐れられていたカレンが、ただの民間人の杉村悟という男のために組織を抜け、今は大阪で喫茶店を営んでいることも知っていた。
「ヒューストンが帰った後、カレンが東京へ向かったという知らせが、張り付いていた者から入った」
常時、カレンに目を光らせていたのは、CIAだけではなかった。
公安もまた、カレンを監視していたのだ。
公安は、カレンがCIAを抜けたことを疑っている。
世界の三凶と謳われて恐れられているほどの女が、民間人の男に惚れるなんて、どう考えてもあり得ない。
仮にそうだとしても、CIAが易々と手放すはずもない。
カレンが日本へ来たのは、特別な任務を帯びていると、公安は推測していた。
カレンがヒューストンの自宅に押し入ったことは、公安でも掴んでいたが、それも、他者の目を晦ますための作戦だとうろと判断していた。
公安と同じ考えで、他の多くの諜報機関も、カレンを見張っている。
彼らの思考は、しごく当然だ。
自分たちの基準で照らしてみれば、こんな馬鹿げた話はあり得ない。
裏があると思っても、不思議ではない。
だが、そんな物差しで測れないのが、カレンという女だった。
「今朝方、といっても、深夜の三時頃だ。東名の名古屋付近で、トレーラー二台が衝突するという事故があった」
桜井は、もう苛立つくことなく、高柳の言葉に耳を傾けている。
「不思議なことに、その時間帯は両車線とも、事故現場から五キロ手前で通行止めになっていた。事故ということでな」
「しかし、事故はなかった」
高柳が頷いた。
「そのトレーラーの事故以外はな」
「だったら、その事故のために通行止めにしたんじゃないですか」
高柳が首を振る。
「カレンを監視している者が、その通行止めにより、足止めされた。カレンの車に発信器を付けているので、かなり後から追っていた。不思議なことに、パトカーも警備員もいなかったそうだ。それに、対抗車線まで通行止めにすることもなかろう」
「それだけじゃないでしょう」
桜井の勘は鋭い。
「ああ、トレーラーの事故現場に、撃った後のRPG22があった」
「まるで、戦争ですね」
RPGと聞いても、桜井は驚きもしない。
桜井は、頭も切れるが、腕も立つ。
超難関の国立大学の法学部を主席で卒業し、国家公務員試験の一種をトップで通っておきながら、キャリアの道を選ばず、大学を卒業すると同時にフランスの外人部隊に入隊した。
そこで兵士として一年鍛え上げられたあと、世界中の紛争地帯で、十年ほど傭兵として過ごした。
彼がキャリアを嫌ったのは、自由に動けないからだ。
世界の紛争を、肌で感じたかったのもある。
自分の経験を役立てて、日本の役に立ちたいと思った桜井は、外人部隊を除隊した後、公安に入った。
負のイメージが強い公安だが、諜報活動には秀でたものを持っている。
桜井は、これまで、日本が平和過ぎたのだと思っている。
これからは、日本でもテロが起きる可能性は十分にある。
世界の情勢を熟知している桜井は、そう予感していた。
そんな桜井だから、日本で何が起ころうと驚きはしなかった。
「そして、今日の昼前、赤坂のホテルで銃撃戦があった。手榴弾らしきものまで使っている」
これにも桜井は驚くことなく、じっと高柳の話に耳を傾けていた。
三凶が東京に集結しているのだ。
桜井は、何が起こっても不思議ではないと思っている。
「劉は、三日前に横浜に上陸した。沖合に停泊するタンカーから、ゴムボートに乗ってな。赤い金貨に潜り込ませていたモグラから、その情報を得ていた我々は、劉が上陸する地点で、うちの人間二人を張り付かせていた。情報に間違いはなく、劉が上陸したとの連絡が入った」
「その二人は?」
高柳が、静かに首を振った。
「劉の行先を確かめると報告してきたきり、連絡が途絶えている」
もう、生きてはいないだろう。
桜井の胸中を見透かしたように、高柳が頷いた。
「ターニャも、二日前に日本へやってきた。こちらは、堂々と飛行機でだ」
「なぜ、捕まえなかったんです」
「理由がない。劉と違って、国際手配されているわけでもないしな。それに、大使館付という身分も用意されているだろうから、そんなことをすれば、国際問題になりかねない」
高柳の目は、そんなことはおまえもわかっているだろうとでも言いたげだ。
桜井は、不承不承ながら、頷くしかなかった。
「そして、カレンだ。こちらは、今朝方東京に着いた。くる途中で、戦闘の痕跡を残してな」
桜井も高柳も、カレンがRPGをぶっ放したことについては、疑っていない。
「なぜ、あんなものを残していったのか、その意図はわからないが」
桜井には、その理由が明白に理解できた。
カレンが悟に言ったことと、まったく同じことを思った。
「言うまでもないが、カレンも拘束する理由はない」
半ば言い訳のように、高柳が付け足す。
「それについては承知ですが、なぜ、奴らが東京に来た時に教えてくれなかったんです」
「奴らの目的がわからなかったからだ。それに、君が今付いている事案も重要だからだ。だから、もう少し探ってからにしようと思っていた」
再び、わかるだろうという目で、桜井を見る。
桜井は何の反応示さず、じっと視線を高柳に向けている。
高柳が、居心地悪そうに、少し腰を浮かせて座り直した。
「しかし、そうもいかなくなった。証拠は残しちゃいないが、ホテルの銃撃戦は、間違いなく奴らの仕業だ」
「そうでしょうね。で、奴らの目的は? 少しは、何か掴めたんですか?」
「まだだ。考えられるのは、今全国を騒がせている、飛び込み事件くらいだ。今や、日本だけでなく、世界中で起こっているからな。この東京に、それに関連した何かがあるに違いない。我々の知らない何かがな」
桜井の考えも、高柳と同じだった。
高柳の言う通り、トゥルーフレンズによる飛び込みは、今や、全世界のいたるところで起こっていた。
最初は、歩きスマホだけを標的にしていた志保も、次第に、人間という生き物に、憎しみを募らせていった。
トゥルーフレンズは、全世界で三億億人を数える会員数だけに、そのすべてをターゲットにすれば、凄まじい数の人々が犠牲になる。
事実、これまでに、日本だけでも数万人の人が犠牲になり、世界各国の犠牲者を集めると、数十万人に上っていた。
世界中の、優秀なサイバー部隊や技術者が、躍起になって原因を追究しているが、未だ、トゥルーフレンズが原因だとは特定されていない。
それというもの、犠牲者の手に握られているスマホを解析しても、トゥルーフレンズはインストールされていないからだ。
犠牲者が最後に見ていたものは、ラインであったり、フェイスブックであったり、ツイッターやインスタグラムであったりと、まちまちだった。
犠牲者に死の囁きを行った後、トゥルーフレンズは、自動的にアンインストールされ、代わりに、なにがしかの有名なSNSソフトが起動されていたように見せかける仕組みになっていた。
いくら優秀な技術者が、犠牲者のスマホを調べても、トゥルーフレンズの痕跡すら残っていない。
だから、全世界で三億人もの会員数を抱えながら、トゥルーフレンズの認知度は低かった。
CIAが開発しようとしていたものを改良して、志保は、それほど狡猾な罠を仕掛けていた。
今や、全世界は、志保ひとりの手によって、大混乱に陥っている。
たったひとつのスマホ。
時代の技術を結集して、より便利な世の中にしようとして作られたスマホ。
便利過ぎるがために、自制心をなくさせる。
一頃流行った、場所により数々のモンスターが現れ、それをゲットするゲームにおいても、人々は自制を失くし、運転中でもモンスターをゲットしたいがために、人を撥ねて殺すという事態が起きた。
たかがと言っては失礼だが、人生になんのメリットももたらさないもののために、人生を棒に振り、あまつさえ、他人の人生まで奪ってしまう。
これが文明世界というには、なんとも情けない話ではある。
世の中が便利になればなるほど、人心は荒廃し、かつ脆弱になっていくのかもしれない。
志保は、そんな人間の弱さを、的確に突いていた。
「それしか、ないでしょうね」
桜井が、冷静な声で答える。
「誰かが、今の事件の原因となるソフトを作った。そいつが日本人なのか、あるいは、日本に潜伏しているのかはわかりませんが、世界の三凶は、それを操っている人間と、そのソフトを手に入れんがために、東京に来ているのでしょう」
「私も、そう睨んでいる」
高柳が、鷹揚に頷いた。
「何がどうなっているかはわからんが、我々の日本で、奴らに好き勝手な真似をさせておくわけにはいかん。今の任務は、誰かに引き継ぐから、君は、この件に全力を尽くしてくれ」
桜井は、高柳の眼鏡の奥に異質なものを感じた。
国家の危急時だというのに、高柳の口調と目には、焦りや怒りの色など、微塵も浮かんでいない。
口調にも、それは現れていた。
普段から、いかなる時でも冷静沈着な男だったら、違和感など感じはしない。
だが、高柳は、エリートにありがちな、自己保身に走るタイプの人間だ。
そんな人間が、東京という街で、戦争に近い騒ぎを起こされたというのに、憤りも焦りも表に出さないというのは、おかしなことだ。
が、桜井は、何も言わなかった。
気が小さいくせに、狸である高柳に、何を質問しても無駄だと思ったからだ。
上司と部下の関係でありながら、二人の仲はよくない。
桜井は、いつも勿体ぶった態度を取る高柳に反感を覚えていたし、高柳も、エリートの道を捨てて戦闘に生きる桜井を、どこか蔑んでいた。
そんな仲だから、桜井は高柳に心を許してはいない。
「言われなくても、そうします。奴らに、この日本で好き勝手にさせてはおきません」
違和感を感じながらも、桜井はそう答えた。
「世界の三凶相手では、いくら君でも、荷が重いだろう」
そういって、高柳が、後ろに立つ男を振り返った。
そして、桜井に目を向ける。
「そこでだ」
またもや、勿体ぶった口調で区切る。
「優秀な部下を、ひとり付けよう」
「奴ら相手に、生半可な奴は、足手まといになるだけです」
桜井は、傭兵時代に何度か命を落としかけたことがある。
戦争を生業としているのだから、当たり前の話だが、一度、テロ組織に奇襲をかけた部隊が全滅したことがある。
その原因となったのが、己の腕を過信した、一人の跳ね上がり者だ。
自分の腕を過信するあまり、注意を怠り、敵に察知されてしまった。
敵の数は、奇襲部隊の三倍はいた。
だからこその奇襲だったのだが、悟られてしまっては、奇襲にならない。
周りを取り囲まれ、退路を塞がれ、四方から敵の銃弾を浴びた。
桜井だけがなんとか突破口を開き、虎口から逃れることができた。
以来、桜井は、組む相手を選ぶようになった。
公安に入ってからっは、常にひとりで動いている。
どんな危険な任務であっても、誰とも組まない。
彼もまた、カレンやターニャと同じ人種であった。
「彼なら、大丈夫だ」
高柳が、自信たっぷりに頷いてみせた。
高柳が片手を上げると、後ろに立っていた男が、高柳の横に出てきた。
「緒方君だ」
緒方が、ゆっくりと頭を下げた。
「彼は、レンジャー出身だ」
桜井の見立て通り、緒方はレンジャー出身だった。
だが、そんなことは、桜井にはどうでもいいことだ。
大事なことは、戦力になるかならぬかである。
「人を、殺したことはあるか?」
緒方がびっくりしたような目で、桜井を見る。
桜井の視線の強さに圧倒されながら、「いいえ、ありません」と、緒方が気を取り直したように、胸を張って答えた。
「なら、やめておけ」
桜井が、冷たく言い放つ。
「なにを、言っている」
高柳の目に、苛立ちが現れた。
「世界の三凶相手に、人を殺したこともない奴が、太刀打ち出来ると思いますか?」
「我々の任務は、彼らと殺し合いをすることではない。彼らの目的を掴み、それを阻止することだ」
桜井が鼻で笑う。
「奴ら相手に、そんな甘いことを言ってちゃ、命が幾つあっても足りませんよ」
「君は、上司を愚弄するのか」
今や、高柳から尊大さは消え、顔を赤らめている。
「そう思うのだったら、あんたが現場に出て、陣頭指揮を執っちゃどうです」
元々一匹狼な性格の上に、高柳に反感を持っている桜井なので、高柳を前にしても、なんら怯むことはない。
高柳は、暫く桜井を睨んでいたが、やがて、肩の力が抜けた。
「わかった。どうするかは、君の判断に任せよう」
諦めたように首を振り、深く腰掛け直す。
この時、桜井がさきほど感じた異質な思いが、違和感に変わった。
部下の自分にここまで言われて、それ以上怒ることなく、あっさりと折れてしまった。
これまでの高柳であれば、自分を任務からはずすと怒鳴ってもおかしくない。
なにかある。
長年危険に身を晒してきた桜井の勘が告げていた。
高柳が怒ってみせたのも、演技かもしれないと思った。
高柳の言うように、彼らの目的を掴み、阻止するだけなのだったら、組織力を活かせばいいことだ。
持てる人員を最大限活用して、情報を収集し、彼らの目的とするものを、先に奪う。
それで、解決するはずだ。
確かに、相応の犠牲は出すかもしれないが、なにも自分にここまで言われて、折れることはない。
それをせず、自分の暴言さえ我慢するには、なにか理由があるはずだ。
桜井は、そのなにかを、見極めてみたくなった。
「いいでしょう」
それ以上なにも言わず、桜井は静かに告げた。
高柳の目が光るのを、桜井は見逃さなかった。
「緒方君を、伴ってくれるか」
「それも、いいでしょう」
ここは突っぱねるより、高柳の言うことを聞いて様子をみた方がいい。
それも、桜井の勘だった。
「そうか」
高柳が、安堵するような笑みを浮かべた。
が、目は笑っていない。
「わかっていようが、なにがあっても、本部が責任を取ることはない。そのつもりで頼む」
桜井にとっては、いつものことだ。
その代わり、桜井は、本部の意向など気にせず、自分のやりたいようにやる。
「わかってますよ。まずは、銃撃戦があったホテルを見てきます」
そう言って、桜井は立ち上がった。
緒方が、無言で桜井の後に従う。
「世界の三凶が揃い踏みか」
ドアを開けながら、桜井が呟く。
「この日本で、奴らの勝手にはさせん」
ドアを閉めたとき、桜井の目には、決然とした光が宿っていた。
第8章 とぼけた男
悟とカレンは、国道沿いのファミレスで、遅い夕食を摂っていた。
二人は襲撃を受けた後、もう一部屋別に予約しておいた部屋に移った。
それは、カレンが独自に予約しておいたのだった。
その部屋で騒ぎが収まるのを待ち、二人は悠々とホテルを出た。
「なあ、これからどうするんや? ホテルに帰るんか?」
悟がステーキを頬張りながら、疑問をぶつける。
「帰らないわよ」
「なら、どっか新しいホテルに泊まるんか?」
「うふっ」
カレンが、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「わたしの、隠れ家に行くのよ」
「隠れ家?」
悟が、素っ頓狂な声を上げた。
「しっ、声が大きいわよ」
カレンが人差し指を口に当てて、悟を軽く睨む。
「そやかて、隠れ家やなんて、びっくりするやないか。なんでカレンが、東京に隠れ家なんて持ってんねん」
悟の驚きも無理はない。
二人が東京へ来るのは初めてだし、東京へ住もうと話したこともない。
「東京だけじゃないわよ。パリやロンドンやベルリンに北京、他にも幾つか、主要都市に持ってるわ」
淡々と答えるカレンの顔を、悟はじっと見つめている。
普段なら、「凄いな」とかいって感心する悟にしては、珍しいことだ。
「どうしたの?」
カレンが怪訝な顔をした。
「いや、なんでもあらへん」
悟は笑顔で誤魔化したが、悟の胸には、そうまでしないと身を守れないと思っているカレンの心情をおもんばかり、カレンのこれまでの生き様がどんなものだったかを改めて思って、胸がつかえていたのだ。
CIAともなれば、いろんなところに隠れ家を用意しているはずだ。
それを、カレンは信用していなかったということになる。
事実、今日のホテルも、着いて間もなく襲われた。
カレンが別の部屋を取っていたのも、用意周到なのではなく、単にCIAを信用していなかったからだと、悟は思い知らされた。
「これ、あげる」
カレンが、唐突に二冊の雑誌を悟に差し出した。
それは、無料のアルバイト求人の案内誌だった。
「なんや、これ?」
悟が、怪訝な顔をした。
「このお店の入口に、置いてあったの。これを、お腹や胸に入れておけば、ちょっとした防弾になるのよ」
「ほんまか?」
悟が、疑い深そうな目で、カレンと雑誌を交互に見る。
「本当よ。紙っていうのはね、一枚一枚は薄くっても、纏まると結構丈夫なの。FBAIでは薄い雑誌を丸めて、武器にする訓練をしているわ。たかが雑誌といっても、使い様によっては、人殺しの道具にもなるのよ」
「へぇ~ そうなんや」
悟が、カレンから雑誌を受け取り、「こんなんでね」と、感心しrたように無邪気に眺める。
そんな悟を、慈しむような目で見ていたカレンの顔が、一瞬険しくなった。
が、直ぐに笑みを湛えて、「ちょっと、おトイレに行ってくるね。いい子にしてるのよ」、そう悟に告げると、席を立った。
雑誌を眺めていた悟は、カレンの表情の変化に気付かなかった。
「行ってらっしゃい」
暢気な声で返事をすると、悟は雑誌から目を離し、ぼんやりと窓外を眺めた。
「杉村悟だな」
いきなり名前を呼ばれて、悟は、窓から声のする方に、目を転じた。
いつの間にか、二人の男が、悟の側に立っている。
目だたぬように、悟に銃口を向けていた。
一人は細見だが、長身で目付が鋭く、豹を連想させる男だ。
もう一人は、背丈はそれほどでもないが、横幅があり、かっしりとしていて、見るからに屈強そうな男である。
桜井と緒方だった。
「騒ぐんじゃないぞ。大人しく、我々と一緒に来てもらおう」
桜井と緒方が、両側から悟を挟み込むようにして、悟を店から連れ出した。
店を出た彼らの前に、滑るように白い四ドアのセダンが停まった。
悟を真ん中にして、三人が後部座席に乗り込むと、そのまま何事もなかったかのように走り出した。
「悪いが、目的地に着くまで、目隠しをさせてもらうぞ」
桜井がそう言って、緒方が、悟に目隠しをした。
窓には、スモークシールを貼っているので、外から見られる心配はない。
「あんたら、何もんや?」
恐れ気もなく、悟が尋ねる。
「黙ってろ」
緒方が威嚇するような声で言って、悟の横腹を小突いた。
内調か公安の人間だろうと当たりを付けた悟は、何を訊いても無駄だと思い、それ以上口を開かなかった。
悟は、成行きに任せることにして、シートに背中を預けた。
昨夜から一睡もしていない悟に、睡魔が襲う。
軽い車の振動が、より一層、悟を眠りへと引き込んでいった。
悟を乗せた車は、何度も左折や右折を繰り返しながら、一時間lほど走って停まった。
「降りろ」
静かな声で桜井が言ったが、悟は無反応だ。
「降りろ」
もう一度、桜井が言う。
それでも、悟はピクリとも反応しない。
「こいつ、恐怖のあまりブルってるんじゃ」
緒方が、悟の顔を覗き込んだ。
顔を上げて桜井を見た緒方の目が、丸くなっている。
「桜井さん、こいつ、寝てます」
「なんだって!」
普段、物に動じない桜井が、驚いた声を出した。
桜井も、悟の顔を覗き込む。
緒方の言う通り、悟は爆睡していた。
その寝顔は、とても幸せそうで、今にも涎を垂らさんばかりだ。
「呆れた奴だな」
桜井が、半ば感心した口調で呟いた。
「おい、起きろ」
苦笑しながら、桜井が悟のわき腹を強く突いた。
「イタっ! なにすんねん」
悟が、激痛に跳ね起きた。
「おまえ、この状況で寝るとは、随分、いい度胸してるな」
桜井が、半ば呆れ、半ば感心した口調で、悟を眺めた。
あのカレンと一緒に暮らしているくらいだから、只者ではないと思っていたが、それにしても、この状況で熟睡するとは、度胸があるのか、ただの馬鹿なのか、桜井は測りかねて戸惑っている。
「しゃあないやん。俺、昨日から寝てないんやし。それに、黙っとれ言うたんは、あんたらやないか。それやったら、寝るしかないやんか」
臆することなく、悟が文句で応えた。
「とぼけた奴だな」
桜井は怒るのも忘れて、ただただ呆れるばかりだ。
「おまえ、この状況がわかってるのか」
「そんなん、わかるはずないやろ。俺がわかっとんのんは、目付の悪い奴らに、有無を言わさず拉致られたことだけや」
桜井は何かを言いかけたが、口を閉じ、再び悟をまじまじと眺めた。
運転席と助手席の男も、呆気に取られた様子で、悟を見ている。
緒方だけが、顔に朱を差している。
「きさま、我々を舐めているのか」
怒気を含んだ声で言い、悟の襟首を掴んだ
悟の顔が、みるみる赤くなっていく。
が、悟は何も言わず、目隠しの向こうから、じっと緒方を見返している。
「まあ、そう短気を起こすな」
桜井が、緒方の手を掴んだ。
「離してください。こんな奴は、一発殴ってやれば、大人しくなりますから」
「やめろと言っている」
静かだが、ドスの利いた声だ。
「ここは、軍隊じゃない。こいつは、あくまでも民間人だ。手を出すことは許さん」
桜井の迫力に圧されて、緒方が手を離した。
「とにかく、降りてもらおう。目隠しはそのままでな」
桜井が悟の手を取り、車から降ろした。
悟の鼻孔を、磯の香りがくすぐる。
どこかの埠頭だろうと思っていると、金属の軋む音が聞こえ、悟の背中が押された。
中に入ると、もう一度金属の軋む音が聞こえ、悟の目隠しが解かれた。
悟が、辺りを見回す。
いかにも古くさそうだが、灯りだけは煌々と照らされている。
建物の中は広く、天井は高い。
壁は漆喰で、床はコンクリートの打ちっ放しだ。
天井付近に、いくつかの窓があった。
何かの倉庫だったのだろう。
建てられてからかなりの年数が経っているのは、壁のところどころがひび割れが出来ていることからもわかる。
今は荷物も置かれていないため、所々に天井を支える柱があるだけで、建物の中はガランとしていた。
入口の横に木の階段があり、その上には、事務所と思しき部屋があった。
埠頭沿いの倉庫に拉致か。まるで、映画みたいやな。
暢気に、そんなことを考えていた悟の耳に、ドスの利いた声が飛び込んできた。
「おまえ達が、東京へやってきた目的は?」
これも、映画みたいや。
どこまでも、悟の思考はのほほんとしていた。
「東京見物や」
怯えも緊張も混じっていない声で、悟が答える。
「きさま、ふざけるのもいい加減にしろ」
どこまでも人を食った悟の態度に、緒方が堪忍袋の緒を切り、凄みを利かせて怒鳴った。
が、悟は臆することなく、平然と言い放った。
「俺とカレンは夫婦や。旅行に出かけて何が悪い。あんたら、内調か公安の人間か知らんが、いきなり人に銃を突き付けて拉致っておいて、何を偉そうに言うてんねん」
「きさま」
緒方が一歩出るのを、桜井が手で制した。
「なあ、杉村さんよ」
緒方の肩を掴んで脇にどかした桜井が、悟と向き合った。
「東京で、一体、何が起こってるんだ。あんたも日本人だろ、素直に話しちゃくれないか」
口調は柔らかだが、桜井の目からは言い知れぬ迫力が滲み出ていた。
これにも、悟はなんら動じない。
「だから、旅行に来たと言ってるやんか」
「あんた、そんなにカレンが怖いのか」
「カレンが、怖い?」
「あんたの噂は聞いてるよ。なぜかカレンに気に入られたあんたは、カレンに銃を突き付けられて、自分と一緒になるか、ここで死ぬか選べと、迫られたらしいな。それで、死ぬのが怖くって、カレンと一緒になったってな」
桜井の口調には、半分揶揄が込められていた。
「軟弱な奴だ。俺だったら、潔く死を選ぶがな」
緒方は、嫌悪感を露わにしている。
レンジャーで鍛えられた緒方には、到底許せないことなのだろう。
「確かに、カレンは怖いな」
緒方には一瞥もくれず、悟は悪びれもせず答えた。
「我々に協力してくれれば、あんたを、カレンの目の届かないところに匿ってやろう」
「なんなら、始末してやってもいいぞ」
悟が、緒方の顔をまじまじと見た。
どうやら、冗談で言っているのではなさそうだ。
緒方の顔には、自信が満ち溢れている。
「カレンを始末するやて? あんた、カレンがどういう女かわかってるんか?」
「ふん、CIAのトップシークレットの破壊工作員と言ったところて、所詮、女だろ。どうせ、色仕掛けなんかで、成績を上げていたに違いない」
緒方の言葉に、悟が声を立てて笑った。
ひとしきり笑った後、緒方に軽蔑の目を向ける。
「無知って、怖いな。カレンに掛かれば、あんたなんか瞬殺されるで。お遊びの相手にもならへんわ」
言った途端、緒方の拳が悟の頬を捉えた。
悟が吹っ飛ぶ。
「アメリカのスパイとつるんでいる奴が、偉そうな口を叩くんじゃない、この、売国奴が」
緒方が、鬼のような形相で怒鳴った。
悟ごときに侮辱されたのが、よほど頭にきたのだろう。
唇から滴る血を袖口で拭いながら、悟が起き上がる。
凄まじい形相で自分を睨んでいる緒方の目をものともせず、悟が一気にまくし立てた。
「売国奴? よう言うわ。今の政治家の方が、よっぽど売国奴やないか。自己保身のために、アメリカや中国に尻尾を振っとんのは、どいつらや。綺麗事ばかり言いよるけど、結局は口だけで、実際はアメリカの言いなりで、中国のなすがままやないか。国を守ろうっちゅう意識の欠片も見えへんし、日本人の誇りなんて、微塵も感じられへんわ。あいつらは、自分が助かるためやったら、喜んで国を売り渡すやろ。マスコミにしてもそうや。よう歴史も調べへんくせして、よその国の非難を受け入れて、自分の国の批判ばっかりしとるやないか。俺みたいな、か弱い民間人を苛めとる暇があったら、そんな連中をどやしつけたったらどやねん。その方が、よっぽど日本のためになるやろ。おまえらも、そんなことはようわかってるはずや。権力が怖いんか、上からの圧力かは知らんが、そういうアホを野放しにしとるあんたらこそ、売国奴と違うんか。それにな、あんたらがどう思ってるか知らんが、俺はカレンを裏切る気もないし、別れたいとも思っとらんわ」
一気にまくしたててから、切れた口の中に溜まった血を、唾と共に緒方の足許に吐き捨てた。
のんびり屋の悟にしては、珍しいことだ。
滅多に怒りの感情を表すことのない悟だが、よほど緒方に嫌悪感を抱いたとみえる。
「きさま、もう許せん」
緒方が拳銃を引き抜き、悟に銃口を向けた。
今にも引き金を引こうとした緒方の手首に、桜井の手刀が浴びせられた。
握った拳銃が、床に落ちる。
桜井はそれを拾い上げると、自分の腰に収めた。
「おまえは、口を出すな」
緒方の腹に、桜井が拳を打ち付けた。
緒方が、小さな呻き声を上げて蹲る。
「なかなか言うじゃないか。だがな、我々を舐めてもらっちゃ困る。いいか、杉村。これは、お遊びじゃないんだ。おまえがなんと言おうと、俺は、日本の平和を守る。杉村、おまえの知っていることは、どんなことをしても吐いてもらう。痛い目に遭いたくなければ、今のうちに、大人しく白状するんだな」
桜井が、これまでにない迫力を、悟に向けた。
だが、悟は、平然としているどころか、満面に侮蔑の笑みさえ浮かべている。
「まるで、ヤクザの台詞やな。痛い目って、なんやねん。殴るか拷問か知らんが、時代錯誤もはなはなしいで。今は、科学の時代や。自白剤とかあるやろ。そんなんやから、日本は舐められるんや。まったく、情けないわ。遊びやないって? 笑かしてくれるやんか。言うとくけどな、あんたらのやってることこそ、カレンと比べると、遊びと同じやで」
桜井が、小さなため息をつく。
「なぜ、カレンみたいな女が、日本人を、それもただの民間人を好きになったのか、ずっと不思議に思っていたんだ。なにか裏があるんじゃないかと疑っていたよ。でもな、今、なんとなくわかった気がしたよ」
そう言って、桜井が興味深そうに悟を見た。
「しかしな、おまえも知ってると思うが、今、東京には、ロシアの諜報機関と、赤い金貨という犯罪組織の、それぞれ最強と謳われている人物が潜入している。それに、カレンだろ。これを偶然と思うほど、我々も馬鹿じゃないんでね。放っておいたら、東京は大変なことになる。だから、我々に協力してくれないか」
「桜井さん。なにも、そんな奴に頭を下げることはありません。わたしが、なんとしてでも吐かしてみせます」
緒方が憎悪の目で悟を睨みながら、怒りに任せて声を荒げた。
いかなる時でも冷静沈着に行動するように訓練されてきたレンジャーにしては、少し頂けない。
ここでも、桜井は違和感を覚えた。
「痛みつけて吐かそうたって、無駄だ。この男は、一筋縄ではいかんよ」
感じた違和感をおくびにも出さず、桜井が落ち着いた声で、緒方を制止する。
「その通りよ。サトルは、拷問くらいで音をあげないわ」
桜井の言葉に続いて、女の声がした。
「そんなん、勝手に決めるなや。俺は、痛いのには、めっちゃ弱いんやで。って、カレンやないか」
少し興奮していた悟は、声音では気付かなかったが、声の主に目を向けて驚いた。
悟が目を向けた先には、カレンが腕を組んで立っていた。
背中には、大きなバッグを袈裟懸けに背負っている。
笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
ぞっとするような冷たい目で、桜井と緒方を見据えている。
桜井が素早く拳銃を引き抜いて、カレンに銃口を向けた。
一拍遅れて、緒方も桜井に倣う。
さきほど取り上げられた拳銃とは別に、もう一丁隠し持っていたようだ。
それをちらりと横目で見た桜井の違和感は、ますます膨れ上がった。
が、今は緒方に構っている場合ではない。
「どうしてここが?」
油断なく銃口を向けながら、桜井は落ち着いた口調で尋ねた。
「まあ、そんなことはどうでもいいか。いいところに飛び込んできてくれた。大人しく、両手を上げてもらおうか」
二人に銃口を向けられても、カレンは腕を組んだまま、不敵な笑みを浮かべている。
「桜井さん、チャンスです。カレンを殺ってしまいましょう。カレンが死ねば、こいつも喋る気になるでしょう。
緒方は、勝った気になっている。
「あら、あんた達に、私が殺れると思ってるの? お馬鹿さんね」
銃口を向けられているというのに、カレンは小馬鹿にした口調でからかった。
明らかに、二人を挑発している。
「この野郎」
緒方が、易々とカレンの挑発に乗った。
引金に掛けた指に力を入れようとした瞬間、一発の銃声が轟いた。
桜井と緒方の拳銃が弾け飛ぶ。
二人が痺れた右手首を押えながら、呆然とした顔でカレンを見る。
緒方が撃とうした瞬間、カレンは組んでいた腕を解き、電光石火の早業で腰から銃を抜くと同時に、二人の銃を撃ち飛ばしたのだ。
あまりの早撃ちに、銃声は一発にしか聞こえなかった。
「相手を撃つときはね、黙って撃ちなさい。一瞬の遅れが、命取りになるのよ」
カレンの短い講釈の間に、悟が二人の落とした銃を拾い上げる。
「ちょっと、これ持ってて」
拳銃を拾い終わった悟に、カレンが背中に掛けていたバッグを渡した。
「重たっ!」
手に持った瞬間、あまりの重さに、悟が取り落としそうになった。
「よう、こんな重たいの、平気で担いでたな。一体、なにを詰め込んでるんや」
「宝箱よ」
そう答えて、カレンが緒方の間に立つ。
「サトルを殴った代償は、高くつくわよ」
カレンの目からは、凄まじい殺気を放たれている。
カレンの迫力に怯んだ緒方が、顔を引き攣らせて、一歩後ずさった。
「殺したらあかんで」
カレンの背に、悟が声を掛ける。
「あなたを、殴ったのよ。わたしはね、少し頭にきてるの」
押し殺したカレンの声が、一層、緒方の顔を歪ませる。
「前からおったんやったら、なんで、俺が殴られる前に助けんのや」
悟が、不満そうな目を、カレンに向けた。
「公安がどこまで掴んでいるか、知りたくって。それに、サトルが恰好よかったんだもの。つい、見とれてしまったのよ」
屈託のないカレンの答えに、悟が天井を仰いだ。
「それやったら、同罪やんか」
「うーん、そうかも」
もう一度、悟が天井を仰ぐ。
「仕方ないわね。殺すのだけは、勘弁してあげる。命拾いしたことを、サトルに感謝なさい」
カレンの声は、さも残念そうだ。
「ふざけるな、女のくせに」
緒方が、キレた。
今しがた、驚異の早撃ちを喰らったというのに、緒方には、どこまでも女性を見下す習性があったのだろう。
ましてや、カレンは、ファッション雑誌から抜け出てきたような女性だ。
緒方は雄叫びをあげながら、カレンに突進した。
が、ものの一瞬で、緒方は白目を剥いて悶絶していた。
どこをどうされたのか、やられた緒方も含めて、戦場で鳴らした桜井ですらわからなかった。
「坊や、世間は広いのよ。もっと世間を知っておかないと、あなたのような人は、長生きできないわよ」
倒れた緒方を哀れむように見下しながら、カレンが小馬鹿にした口調で囁く。
「もう、それくらいで勘弁したり。相手は、素人なんやから」
悟が、カレンと緒方の間に割って入る。
民間人の悟が、レンジャー上がりの緒方を、素人と言い切るところも凄い。
カレンやターニャを知っている悟からすれば、緒方は子供同然のように見えていた。
「わかったわよ」
カレンが渋々といった態で、肩を竦めた。
それから、桜井の方を向く。
桜井は目を逸らすことなく、カレンの鋭い視線を、静かに受け止めている。
「ふーん、いい面構えをしてるわね。少しは、骨がありそう。名前を聞いておこうかしら」
カレンが名前を尋ねることなど、滅多にない。
桜井に、多少の興味を持ったとみえる。
「桜井だ。我々の世界じゃ伝説になっている、プリティドールに褒めてもらえるとは、光栄なことだな」
桜井は、興味深げに、カレンをじっくりと観察した。
噂通り、美人だ。
見た目は、とても暴力とは縁のなさそうな、可憐な乙女のように見える。
カレンを見ていると、桜井は、今見た光景が信じられない気持ちだった。
「どうして、ここに?」
「大阪にいる時から、あなたのお仲間が、わたし達を監視していたのは知っていたわ。わたしの車に、発信機を仕掛けていたのもね。だから、あなた達の努力を無駄にしないようにしてあげたわけ」
そう言って、カレンが悟のポケットから、小さな金属片を取り出した。
「それって?」
悟が、カレンの摘んでいるものを指差し、あんぐりと口を開けた。
「んふ、発信機よ。ダーリン」
「じゃあ、あの時トイレに行ったんは、俺を拉致らせるためか?」
「ゴメンね。公安だったら、サトルに危害を加えないと思ったのよ」
さして申し訳ないと思っていないような口調で謝るカレンに、悟はため息で応えた。
「さすが、プリティドールだな」
桜井が苦笑する。
「ところで、見張りの二人はどうしたんだ?」
「知らないわ。表から入ってきたわけじゃないもの」
「この倉庫の出入り口は、一箇所しかないんだぞ」
「あら、別に出入り口から入らなくっても、どこから入ってもいいじゃない。そんな固い頭で、よくスパイが務まるわね」
「これは、一本取られたな」
涼しい顔で皮肉るカレンに、桜井は苦笑を向けた。
カレンのいう通り、大きな油断だったと、桜井は内心自分の愚かさを呪っていた。
「スパイって言われたことには、反論しないんだ」
「そんなことは、どうでもいいことだ。やっていることは、似たようなものだからな」
淡々とした桜井の答えに、カレンがにやりと笑う。
「やっぱり、あなた、見どころがありそうね。ま、それは置いといて、あなた達はこの件から手を引きなさい。あなたはともかく、こんな部下を連れていたんじゃ、ターニャや劉なんて、とても手に負えないわよ」
まだ倒れている緒方を見やって、カレンが冷笑を浮かべる。
「ご忠告はありがたいが、我々の国で、君たちに好き勝手にされたんじゃ、俺の立場がないんでね。それに、俺は、この国が好きなんだ。だから、この国を守ら「なくちゃいけない」
桜井が、射るような目でカレンを見つめながら、穏やかな口調で返した。
「ご立派なことね。だったら、少し手伝ってもらおうかしら」
意外なカレンの言葉に、桜井は意図を測りかねて怪訝な顔をした。
「それに、ターニャにもね」
「ターニャに?」
桜井が、オウム返しに訊く。
カレンがこくりと頷くと、「ターニャ、出てらっしゃい」と、ある柱に向かって声をかけた。
「ばれてたの」
柱の陰から、ターニャが姿を現した。
「ターニャ、なんでここに? いつからおったんや?」
悟の目が丸くなっている。
「そう、矢継ぎ早に質問しないの」
ターニャは、どこか悟には気を許しているのかもしれない。
今も、能面のような顔ではなく、唇が緩くカーブを描いている。
「あなたの演説、なかなか面白かったわよ。まんざら、馬鹿でもなさそうね」
「やっぱり、馬鹿やと思ってたんやな」
悟が、なんともいえぬ情けない顔になる。
「だって、カレンと一緒にいるなんて、普通じゃないもの」
「言われてみれば、確かに、普通やないわな」
ターニャの言葉に、悟は腕を組んで、真顔で頷いた。
「失礼なことを言わないで。と、言いたいとこだけど、サトルが普通じゃないのは、わたしも認めるわ」
悟の顔が、ますます情けないものになる。
「ターニャがここにいるのはね、あなたに発信器を仕掛けてたからよ。部屋を出ていくときに、襟を掴まれたでしょ」
カレンが、悟の襟の内側から、小さな金属片をつまみ出した。
「それを知ってて、そのままにしておいたの?」
ターニャが、少し驚いた顔をした。
「簡単に、あなたに会えるでしょ。今みたいにね」
「喰えない女ね」
「あなたには言われたくないけど、まあ、褒め言葉として受け取っておくわ」
「おまえら、俺をなんやと思っとんねん」
二人のやり取りを聞いていた悟が、少し怒りを含んだ声で、語気を荒げた。
「愛する旦那様」
「貴重な情報源」
ためらいもなく重なる二人の声に、悟は怒る気も失せて、がっくりと肩を落とした。
桜井が、そんな悟を同情するような目で見ながら、ターニャに声をかけた。
「君と会うのは久しぶりだが、変わってないな」
「あら、あなた達、知り合いだったの?」
カレンが、以外そうな顔をする。
「まあな、ちょっと、昔にいろいろあってね。それより、何を俺たちに手伝わせようてんだ?」
ターニャとのことについては言葉を濁して、桜井が尋ねる。
カレンはそれには答えず、含み笑いの顔で、ターニャを見た。
「敵の、人数減らしでしょ」
薄笑いで応えて、ターニャが言う。
敵とは赤い金貨のことだと察しはついたが、桜井は、まだ状況を呑み込めずにいる。
「どうやら、組織の中に、裏切り者がいるようね」
「さすがね。よく、状況を把握してるじゃない」
「敵わないわね、まったく」
嘆息混じりに言って、ターニャが首を回した。
「もう少し、詳しく状況を説明してくれないか」
桜井が言ったとき、「そうか!」と、悟が大声を出した。
「俺を拉致らせたんは、そのためやったんか」
が、カレンに目を向けた。
「さっきは、公安がどこまで掴んでいるか知りたかったとか言ってたけど、ほんまは、なんも掴んでへんって、カレンは知っとたんやろ。俺を利用して、最初から戦力として使うために、わざと俺を拉致らせたんやな。違うか?」
「ご明察」
カレンが、にっこりと微笑む。
「それに、俺に発信器を仕掛けたのをいいことに、ターニャも引き摺り込んで、自分の負担を少しでも減らそうって、そういう魂胆やったな」
「それも、正解。やっぱり、サトルって素敵」
カレンが、目を輝かせる。
「ようやるわ」
半ば呆れた口調で言って、悟がため息をつく。
カレンのことをよく知っている悟は、カレンの描いた筋書が完全に読めた。
「俺が公安に捕まって、情報源である俺を奪いに、ターニャまで現れたって、そうヒューストンに報告したやろ。ご丁寧に、この場所まで教えてな」
「よく、そこまでわかったわね」
どうやら、悟の読みは正しかったようだ。
カレンが、目を丸くしている。
「伊達に、一緒に暮らしてへんで」
悟が、どやという顔をカレンに向けた。
ターニャは、冷ややかな顔で、二人のやり取りを聞いている。
「そんで、CIAの応援を断ったな。大勢で押しかけると、俺の命が危ないって言うてな」
「だって、後ろから撃たれるのは、ご免なんだもの」
カレンが、ちろりと舌を出した。
自分の考えを正確に言い当てられて、少しバツの悪そうな顔をしているものの、カレンに悪びれた様子は、一切ない。
「やっぱりか」
悟が、がっくりと肩を落とした。
第9章 カレン吼える
悟の言葉で、桜井はすべてを理解した。
「すると、何か? あんたは、組織に裏切り者がいるのを利用して、わざと我々に杉村を拉致させておいて、赤い金貨の連中をおびき寄せ、一気に始末しようと、そういうことか?」
カレンが、ゆっくりと頷iた。
「何のために、あんたが東京にやっていきたのかはまだ掴んじゃいないが、劉も東京に来ているという。多分、何かを奪い合っているんだろう。そこへ、我々まで加わっては、余計にやっかいなことになる。奴らにしてみれば、あんたとターニャ、それに我々を一度に始末するいい機会だ。奴らは、東京にいる全ての兵力をここに向けてくるだろう。それを逆手に取って、逆に、奴らを始末しようって寸法か」
桜井が、憮然とした顔をした。
「よく、そんなことを思いつくわね」
ターニャが呆れた顔をして、両手を拡げた。
「その方が、手間が省けていいでしょ。それに、ここで奴らを叩いておいたら、あなた達にとっても、損はないはずよ」
「冗談じゃないぞ。ここで、ドンパチやらかす気か」
あまりにも平然と言い放つカレンに、桜井が怒りを露わにする。
「あら、日本を守るのが使命だと言っていたじゃない。だったら、ここで戦わなくてどうするの」
桜井の憤慨をさらりと流して、カレンがしれっと答えた。
「もう、遅いわ。敵は、近くまで来てるわよ。死にたくなければ、戦うしかなさそうね。カレンの策略に乗せられるのは癪だけど」
苦々しげな口調で言ったものの、ターニャはどこか楽しそうにしている。
根っからの戦士なのだ。
「みなさん、すんません」
悟が、桜井とターニャに頭を下げた。
「おまえも大変だな」
「あなたも大変ね」
桜井とターニャが、同時に同情の声をかける。
「ありがとうございます」
悟は、もう一度、二人に深々と頭を下げた。
「なに、一人でいい子になってるの。まるで、わたしが悪者みたいじゃない」
カレンが、ふくれっ面になった。
「いや、実際そうやし」
即座に、悟が突っ込んだ。
「いいわ。ここは、サトルに免じて、わたしが悪者になってあげる」
悪びれもせず、堂々と言い放つカレンに、悟と桜井とターニャのため息が重なった。
「おまえも、いつもでも寝てないで、手伝え」
未だ倒れている緒方を脇腹を、桜井が蹴った。
緒方は、呻き語を上げながら両手を踏ん張り、なんとか状態を起こした。
暫く、そのまま荒い息をを吐いていたが、二三度頭を振って起き上がる。
「随分、蒼い顔をしてるわね。そんなんじゃ足手まといになるだけだから、隅っこにでも行っていて」
「冗談言うな。あんなくらいで、俺は参らないぞ」
「随分、見栄っ張りな坊やね」
強がりを言う緒方の頭を、カレンが撫でる。
緒方の手がぴくりと動いたが、反撃はしなかった。
さきほどのカレンの攻撃が、さすがに堪えたとみえる。
「噂に聞いていたのと、少し違うな」
桜井が、誰にともなく呟く。
「なあ、おまえがカレンと出会ったとき、カレンはあんなだったか?」
今度の言葉は、明白に悟に向けられたものだった。
「俺は、あんなカレンしか知らんけど」
「そうか? 俺が得ていた情報では、カレンはいかなる時でも、感情を表さず、まるでマシーンのような、冷酷な殺し屋とういことだったが」
「その通りよ。サトルに出会うまでのカレンは、確かに、あなたの言う通りの女だったわ」
ターニャが、桜井の疑問に答えた。
「なに、人のことを勝手に話してるの。ターニャ、あなただって、以前はもっと冷酷だったじゃない」
そう言いながら、カレンが持ってきたバッグを開ける。
「そうだとしたら、あなたのペースに巻き込まれているだけよ。まったく、わたしとしたことが」
この二人は、本当に世界の三凶と謳われるほどの危険人物なのだろうか?
カレンの早撃ちといい、緒方を瞬時に倒した鮮やかさといい、桜井はカレンの腕は認めていた。
が、二人のやり取りを見ていても、どうもしっくりとこないのだ。
桜井がターニャと出会ったのは、もうかなり前のことになる。
ターニャが、まだスパイとして駆け出しの頃だった。
今のように、エンジェル・スマイルと呼ばれてもおらず、その当時から非情ではあったが、どこか甘い部分もあった。
その記憶が抜け切れない桜井には、余計にそう思えた。
「そろそろ来るわよ。さあ、好きなのを選んで」
カレンが、バッグに詰め込まれていた大量の武器を床に並べながら、嬉しそうに言った。
その中には、ショットガンはおろか、なんとグレネードランチャーまで混じっていた。
まさに、カレンにとっては宝箱に違いない。
「今朝より、豪華になってるじゃない」
並べられた武器を見て、ターニャの目は、宝石のように輝いている。
「あなたが、ちゃっかり持ち帰ったことは忘れてあげるから、好きな得物を選んでいいわよ」
カレンが屈託のない笑みを浮かべて、ターニャを見た。
「当然でしょ。あなたに、嵌められたのだから。それにしても、あの武器の代償は高くついたわね」
言って、嬉しそうに、並べられた武器を物色し始める。
やはり、ホテルでの銃撃戦に、二人は絡んでいたのだ。
桜井は、さきほど思ったことを撤回した。
噂通り、この二人は危険人物だ。
改めて、思い知らされた
「よう、そんだけの武器、平気で担いどったな」
悟が、しごく暢気な口調で感心している。
こいつも、ある意味、危険人物だな。
桜井は、悟に得体の知れないものを感じていた。
ターニャは、ショットガンを背中に架け、弾倉帯を左肩に架けると、サブマシンガンを右手に持った。
左手で、手榴弾をいくつかポケットに捻じ込む。
武装し終えたターニャが、満足げに頷いた。
桜井も、並べられた武器を見て、傭兵の血が騒いだ。
「これじゃ、戦争じゃねえか」
憮然とした顔を装ってはいるが、心は嬉々としている。
彼もまた、カレンとターニャと同類なのかも知れない。
「あなたは、いいの。素人が持ったって、弾の無駄遣いにしかならないわ」
カレンが、サブマシンガンを取ろうとした悟の手を押さえた、
悟は恨めしげな目でカレンを見たが、渋々ながら、サブマシンガンから手を離した。
「いい子ね」
カレンが微笑みながら、愛銃を腰から抜き、悟に手渡した。
「これを持って、あの柱の陰に隠れててね」
「俺も手伝おうと思ってたんに、まるで、子供扱いやん。まあ、カレンの言う通りやから、しゃあないか」
悟はぶつぶつと呟きながら、渡された拳銃を手にぶら下げながら、柱の陰へと歩いていった。
「本当に、サトルが好きなのね」
ターニャが、銃を点検しながら言う。
「なにを、言ってるの」
思いの武器を装備していたカレンが、手を止め、ターニャを睨んだ。
「危険に晒したくないってのもあるでしょうけど、それより、サトルに人を撃たせたくないんでしょ。ホテルの時も、そうだったわね」
「勝手に、言ってなさい」
グレネードランチャーに弾を込めていくカレンの顔に、少し赤みが差している。
愛とは不思議なものだと、ターニャは思った。
今のカレンは、お互いがライバルとしてぶつかり合っていた時とは、まるで人が違っている。
あの頃のカレンには、ターニャでさえぞっとするような迫力があった。
そんなカレンに、ターニャは、畏敬の念さえ抱いたものだ。
桜井は二人の会話を聞きながら、カレンにここまで惚れられている悟が、羨ましいのか可哀相なのか、どっちなんだろうと思った。
まったくの興味本位ではあるが、一度、悟の本音を訊いてみたいと、心底思った。
任務の相手以外、他人に興味を持たない桜井にしては、珍しいことだ。
三人が、思い思いの武器を装備し終えたタイミングを見計らったように、外から銃声が聞こえた。
途端に、カレンとターニャの顔から、表情が消える。
目に凄みを帯びた光を宿し、全身から、身の毛のよだつような殺気を放ち出す。
これが、こいつらの本性か。
二人の殺気に触れて、桜井の背筋がぞくりとした。
戦場でも、ここまでの闘気を宿す兵士には、そうそうお目にかかったことがない。
銃声は数十秒続いていたが、突然止んだ。
倉庫の中が、静寂に包まれる。
それを破るように、軋んだ音を立てて、扉が開いた。
全身朱に染まった男が、ふらつく足取りで、桜井の前にくる。
膝から崩れ折れるのを支えるように、血まみれの手で、桜井の腕に縋った。
「新井」
桜井が、崩れ折れる新井を支える。
カレンとターニャは、開いた扉の陰から、油断なく銃口を外に向けている。
「しっかりしろ」
そうは言ったが、新井の目から、命の光が消えかけているのを、桜井は見てとっていた。
「ぶ、武装した奴らが…… た、竹田は、竹田は… や、殺られま、し、た」
口から血を流しながら、かすかな声で、とぎれとぎれの新井の言葉を聞き漏らすまいと、桜井は耳を傾けた。
「敵の数は?」
無情なのはわかっていたが、桜井が、目を閉じかける新井の身体を揺さぶった。
「さ、三十人く、らい…… む、無念で」
最後の命を絞り出すようにそれだけ言うと、言葉途中で、新井の眼から光が消えた。
桜井は、もう喋ることの出来なくなった新井の身体を静かに床に横たえると、マシンガンを手にして立ち上がった。
「畜生お~」
緒方が叫びながら、外に向けて撃ち放った。
狙いも定めず乱暴に引金を引く、緒方のマシンガンの銃口が激しく上下に揺れ、数秒後静かになった。
装弾数三十発の機関銃も、フルオートで引金を絞りっ放ししにすれば、弾が尽きるまでに、ものの数秒とかからない。
いくら実践が初めてで、仲間が殺されたとはいえ、レンジャーで鍛えられたにしては、あまりにお粗末すぎる。
桜井の疑念は、確信に変わった。
「どけっ」
全弾撃ち尽くして、なおも引金を引いている緒方の襟首を掴み、桜井は乱暴に横に振り払った。
緒方が、尻もちをつく。
「杉村あ~、俺たちから、目を逸らすんじゃないぞ」
大声で悟に声をかけておいて、桜井は扉の陰から、外の様子を窺った。
カレンとターニャも、桜井の言葉の意味を理解したようだ。
「あなたは、足手まといだから、引っ込んでなさい」
ターニャが、緒方からマシンガンと弾倉帯を取り上げ、カレンが悟に軽くウィンクした。
悟が、指で丸を作ってみせる。
悟も、何のことかわかっているみたいだ。
カレンとターニャも、外の様子を窺う。
三台のトラックが、カレン達のいる倉庫へ、ゆっくりと向かってくる。
トラックを盾にするように、銃を構えた男たちが、後に続いていた。
カレンが、扉の陰からマグナムを構え、トラックのエンジンを狙い撃った。
その弾が、正確にエンジンを貫き、トラックは轟音を発して、前半分が砕け散った。
すかさず、ターニャが、別のトラックに向けて、手榴弾を放る。
ターニャも、絶妙だった。
手榴弾は、運転席の窓に当たると同時に爆発し、フロントガラスと一緒に、千切れた運転手の身体が飛び散った。
舵を失ったトラックが、カレンに破壊されたトラックとぶつかる。
残る一台のトラックが、猛然と倉庫に向かってスピードを上げた。
桜井の投げた手榴弾が、そのトラックの車体の下で破裂した。
轟音と共に、車体が宙に舞う。
盾を失った男たちが、銃を乱射しながら倉庫に突進してくる。
それを、カレンとターニャは、三点バーストで、正確に撃ち倒していった。
半数が倒され、残りの半数が、トラックの残骸の陰に身を隠す。
慎重になった敵は、トラックの陰から、散発的に弾を浴びせてくるだけだ。
戦いは、膠着するかのように見えた。
その時、敵の一人が、RPG7を構えるのが、カレンの目に映った。
「散って」
カレンが叫んだ。
ターニャと桜井が、素早く反応する。
二人は、ステップを踏んで、扉から離れた。
直後に、敵の放ったRPG7の榴弾が飛んできて、柱に当たって爆発した。
その柱は、悟が隠れていたところだった。
「サトル!」
カレンの絶叫が、木霊する。
「大丈夫や」
別の柱から、悟の声が聞こえた。
「弾が当たるまで、隠れとるような間抜けとちゃうで」
悟も、敵がRPG7を構えたのを見て取って、素早く場所を移動していたのだ。
こんな激しい銃撃戦の最中でも、冷静に状況を見据えていた悟に、桜井だけではなく、ターニャまでもが驚いた。
「サトルって、最高」
よほど安堵したのか、カレンの声が震えている。
「おう、まかしとき」
悟が、この場の雰囲気にそぐわぬ、陽気な大声を出した。
「愛してるわ」
カレンも、負けじと大声で返す。
この状況で、こいつらは、一体、どんな神経をしてやがるんだ。
桜井は、呆れるのを通り越して、空恐ろしく思った。
長年傭兵をやってきた桜井でさえ、命を懸けた戦いとなれば、多少の緊張はする。
だが、悟の声には、緊張感の欠片もない。
桜井がターニャを見やると、ターニャも、同じ思いを抱いているようだ。
複雑な表情を浮かべている。
カレンは、悟を危険な目に遭わせた自分の迂闊さを呪いながら、残っていたありったけの手榴弾を、矢継ぎ早に放った。
全てを放った後、間髪いれず、グレネードランチャーの全弾を撃ち尽くす。
相次ぐ手榴弾の爆発と、凄まじい榴弾に、トラックの残骸と共に、敵の身体が、次々と宙に舞う。
追い打ちをかけるように、ターニャと桜井の銃弾が集中する。
撃った方も、撃たれた方も、凄まじい硝煙が立ち昇っている。
カレンが熱くなり応戦している時、かすかな物音を聞き咎めた悟が、二階の事務所を見上げた。
そこには、劉が、カレンにサイレンサー付の銃口を向けている姿があった。
「カレーン」
悟の叫び声は、激しい銃撃戦の音に掻き消された。
劉が邪悪な笑みを浮かべると同時に、悟が、劉とカレンの間に身を投げた。
飛出し様、悟が、劉に向けて発砲する。
どちらの銃口からも、硝煙が立ち上った。
悟の放った弾は、奇跡的に劉の持つ拳銃に当たって、劉の手から拳銃が弾け飛んだ。
背後の銃声に三人が振り返った時、三人の目に、悟が腹を押さえて倒れる姿が映った。
倒れた悟の延長線上に、劉の姿がある。
三人は、瞬時に状況を理解した。
「サトル」
カレンが悲鳴に近い声を上げながらも、劉に向かい引金を絞る。
ターニャと桜井は、外の敵に向き直り、一瞬の隙を突いてこちらに走ってくる敵に、的確な掃射を浴びせた。
外の敵は、これで全滅した。
カレンの銃口から弾が着弾する寸前、意味ありげな笑みを残して、劉が事務所に飛び込んだ。
直ぐに、ガラスの割れる音が聞こえてくる。
「外に出て」
カレンが叫ぶと、悟に駆け寄った。
桜井も駈けてきて、二人で悟の両脇を抱え、悟の足を引き摺りながら、外へと急ぐ。
ターニャは二人よりも先に出て、油断なく銃口を周りに向けている。
「おまえも、手伝え」
外に出ようとする緒方を、桜井が呼び止める。
桜井の声に応じるように、ターニャの銃口が緒方に向いた。
緒方は、素早く踵を返して、悟の足を持った。
「少しでも、遠く離れるのよ」
外へ出ても、三人は悟を抱えたまま、足を急がせた。
露払いをするように、ターニャが銃を構えながら先頭に立っている。
トラックの残骸を過ぎた時、轟音と共に、倉庫が揺れた。
劉は、用意周到だった。
手下が襲っているときに、後ろから一発ずつで仕留められればいいと思っていたが、万が一のことを考えて、倉庫に爆薬を仕掛けていた。
世界の三凶と謳われている矜持か、サディストの性か、爆弾で吹き飛ばすよりは、自分が仕留めて、同類に見られていたカレンとターニャを、自らの手で倒したかった。
カレンは卑怯と言ったが、劉にも、彼女らと違う信念は持っているみたいだ。
劉の仕掛けた爆弾が、倉庫を木端微塵に吹き飛ばした。
いたるところに、相当強力な爆薬を仕掛けていたとみえる。
一瞬にして吹き飛んだ倉庫の爆風が、みんなの身体を煽った。
三人が足を取られ、悟の身体が、地面に投げ出される。
「イタッ」
悟の口から、言葉が発せられた。
「サトル、あなた…… 」
カレンが、目を見開いた。
ターニャと桜井も、信じられないという目で、悟を見る。
「いや~、カレンのくれたお守りは、効果があるわ」
痛さに顔をしかめながらも、悟は明るい声で言って立ち上がり、服の下から、二冊の雑誌を取り出した。
二冊目の雑誌の真ん中に、弾がめり込んでいる。
劉がサイレンサーを使用していた分、貫通力が弱まったのだろう。
「それって…」
カレンが、悟が手に持つ雑誌を指さす。
「そうや、カレンが防弾にもなるって、俺にくれたやつや」
カレンがトイレに立ち上がると直ぐに、悟は服の下に雑誌をベルトで挟んでいた。
放ったらかしにしておくと、カレンになにか言われると思ったのかもしれないが、悟のことだ、カレンの言葉を素直に信じたものと思われる。
「ああ、サトル」
カレンが無上の喜びを顔一杯に溢れさせ、両手を拡げて、悟の胸に飛び込んだ。
「痛っ!」
悟が、悲鳴を上げた。
「大丈夫?」
「大丈夫や。さっき落とされたときに、脇腹を強う打ったみたいやけど、なんでもあらへん」
明るい口調で笑う悟だが、カレンを心配させまいとして無理をしているのが、苦痛に耐える顔に表れていた。
「こんなんで済んだのは、カレンのお蔭や。ありがとうな」
「なに、言ってるの。カレンを庇わなければ、そんな目に遭わずに済んだじゃない。今朝といい、あなた、本当によく、命が持っているわね」
呆れた口調で言ったものの、ターニャの悟を見る目には、賞賛が称えられている。
ターニャの言葉に、カレンは反応しなかった。
悟に命を助けられるのは、これで三度目だ。
一度目は、命を落としかけた。
腹部を撃たれて、三日生死の間をさ迷い、退院までに一ケ月を要した。
二度目は、今朝。
弾は当たらなかったといえ、一歩間違えば、死んでいた。
そして、今。
雑誌を詰めていなかったら、確実に死んでいた。
悟は、半分冗談で差し出した雑誌を、律儀に信じていた。
そこまで自分のことを信じてくれていることと、どんな危険な状況であっても、逃げもしないで傍に居てくれることに、無情の喜びを感じた。
同時に、悟に迫ったことを、激しく後悔した。
自分なんかのために、悟を死なせていいのか?
その思いが、胸を締め付ける。
「何を、暗い顔してるんや。カレンらしゅうもない。いつも、言うてるやろ。か弱い女性を守るのは、男の務めやってな。まあ、カレンがか弱いかどうかは別としてやな。これも、いつも言うてることや」
悟の快活な言葉が、カレンの暗い心を吹き飛ばした。
わたしは、幸せだ。
これまで、幸せなど感じたことのないカレンが、悟と暮らし出して幸せを感じるようになった。
今、カレンは、それ以上の幸せを感じている。
もう、何があっても後悔しない。
たとえ、自分ために悟が犠牲になったとしても、それを受け入れる。
それが、悟の愛に報いることだ。
わたしは、全身全霊をかけて、悟を愛する。
これまで以上に。
命を懸けてとは言わない。
悟が一番悲しむことは、わたしが死ぬこと。
悟の身の安全を考えて、わたしが戦いを止めたら、それも、悟は悲しむ。
だから、わたしは戦う。
そして、生き抜く。
悟も、絶対に死なせない。
矛盾しているようだが、カレンの考えは正しかった。
悟は、カレン以上にカレンのことをわかっていて、カレンの全てを受け入れているのだ。
ターニャは、内心で舌を巻いていた。
これまでに、悟のような男には、お目にかかったことがない。
一流の諜報部員といえども、悟のような男はいない。
どこか飄々としていて、掴みどころがない。
頼りないように見えるのに、愛する女を守るためには、命を惜しまない。
一度だけなら、出来るかもしれない。
しかし、悟は、これまでに二度、死にかけているのだ。
それでも、恐れもせず、今度も躊躇いもなく身を投げ出した。
今、生きているのは、奇跡としか言いようがない。
いくら命を助けられたとはいえ、その場に居合わせていたターニャですら、桜井同様、カレンが悟と一緒になったのを理解できないでいた。
しかし、今ならわかる。
カレンは、ターニャ以上に、悟のことを見抜いていたのだ。
きっとカレンの本能が、そうさせたのだろう。
「あいつが、劉か」
燃え上がる倉庫を見ながら、桜井が呟いた。
「相変わらず、卑怯な奴」
悟の身体を調べながら、カレンが吐き捨てるように言う。
「卑怯でも何でも、わたし達の世界では、相手を倒した者勝ちよ。正面切って戦おうなんて、あなたの方がどうかしてるのよ」
ターニャは、いたって冷静だ。
好きか嫌いかは別にして、この世界で綺麗ごとを言っていたのでは、任務を全うできない。
そういった意味では、カレンもターニャも、これまで生き残ってきたのが奇跡といえる。
「そんなことは、どうだっていい」
悟の具合を調べ終えたカレンが、すっくと立ち上がった。
「あいつは、わたしの獲物よ。サトルを撃った代償は、必ず償わせてやる。手を出したら、承知しないわよ」
言い方は穏やかだったが、目は、ぞっとするほどの暗い闇に覆われていた。
これは、カレンが本当にキレたことを語っている。
カレンがここまでキレたのは、数えるほどしかない。
その中でも、今回のカレンは、最大級にキレていた。
「どうぞ」
ターニャは、あっさりしたものだ。
「共倒れになってくれれば、こっちは大助かりよ」
「しかし、おまえ、いい腕してるじゃないか」
ここで二人に殺り合われてはたまらないと思った桜井が、二人の気を逸らすように、大きな声で悟に話し掛けた。
「まぐれや」
悟が表情も変えずに、平然と答える。
「そうか? 普通、身体を投げ出しながら相手の銃を撃ち落とすなんて、映画でもなきゃ、出来ない芸当だぜ」
悟が、「ハハハ」と頭を掻きながら笑った。
「わたしが、惚れた男だからね」
臆面もなく言ってのけるカレンの目に、さきほどの暗い闇は、もうない。
今まで激しい戦闘をしておいて、この二人の神経はどうなってやがる。
まして、杉村は、死んでいたって、おかしくないところだったんだぞ。
数多の修羅場を踏んできた桜井も、この二人に、戦慄に似た感情を抱いた。
遠くから、サイレンの音が聞こえてくる。
「わたしは、これで消えるわ。あなたがリュウに倒されなければ、わたしが倒してあげる」
ターニャが、カレンに憎まれ口を叩いてから、悟に向かい、笑みを浮かべる。
「その時は、わたしの許にいらっしゃい。あなたを民間人で放っておくなんて、本当に勿体ないもの。わたしが、立派なエージェントにしてあげる」
「なんなら、ここでカタを付けてあげようか」
カレンが、ターニャの前に立ちはだかる。
「言ったでしょ。わたしと決着を着けるのは、あなたがリュウを倒した後よ。探し物は、わたしが先に見つけてあげるから、あなたはリュウと遊んでなさい」
そう言い捨てると、またもや悟にウィンクして、ターニャが去っていった。
サイレンの音は、どんどん近づいてくる。
「わたし達も、消えるわよ」
カレンが、悟の手を取って歩き出した。
「おい」
桜井の声に、カレンが振り向く。
「探し物とは、一体、何なんだ?」
「自分で調べることね」
そう言うと、カレンは、もう後ろを振り返ることはなかった。
「待てっ」
追おうとする緒方の腕を、桜井が掴んだ。
「何で、止めるんです? ターニャに続いて、カレンまでも見逃すんですか?」
緒方が喰ってかかるのを、桜井が嘲笑で受け止めた。
「ポーズはよすんだな。あいつらを捕まえようとしていたら、俺たちは、もうこの世にいなかったさ。おまえは、身に沁みてわかっているだろう」
「しかし、カレンには、杉村というお荷物がいるんですよ」
「ふん、俺は、おまえが一番のお荷物に思えたよ」
辛辣な桜井の言葉に、緒方の目に、微かに憎悪が浮かんだ。
「まあ、あれが、おまえの本気だったとしたらだがな」
「どういうことです?」
緒方の目が、憎悪から動揺に変わる。
「なんでもないさ」
桜井は、緒方の目の変化を見逃さなかった。
ここまで緒方の表情を読み取れば十分だった。
自分を失脚させようとしているのか、それとも?
桜井は、高柳の意図がわかるまで、緒方を自分の許で泳がしておこうと思った。
「俺たちも、ずらかるぞ」
それだけ言い捨てると、桜井は緒方も見ずに、足早にその場から立ち去った。
去りながら、あれだけ派手にドンパチやらかしたのに、サイレンの音が少ないのが、桜井は気になっていた。
いくら埠頭から少し離れた倉庫とはいえ、夕方の六時に、戦争といってもいいほどの闘いを繰り広げたのだ。
それなのに、パトカーが来るのも遅いし、サイレンの音から察すると、数も少ない。
なにか、とんでもなくやばいことが起こっている。
桜井の勘が、そう告げていた。
第10章 魔女の成長
桜井の予感は当たっていた。
カレン達が銃撃戦を繰り広げている時、東京では大変なことが起こっていた。
早い帰宅者でそろそろ混雑が始まろうかという、午後五時を過ぎた新宿駅。
十六番ホームまである駅が狭く感じられるほど、構内は大勢の人々で賑わっていた。
帰宅を急ぐ者、これから会社に帰りもうひと仕事しようという者、長い夜を楽しく遊ぼうと、意気揚々と改札口へと向かう者。
電車が到着する度に、人が吐き出され、吸い込まれていく。
無口で早足で歩いている者もおれば、集団で騒いでいる者もいる。
不況とは言われているものの、平和な日常に水を差すごとく、突然、東京方面へ向かう中央線のホームから、絶叫が上がった。
その絶叫は、広い新宿駅のすべての喧噪を掻き消すくらい、凄まじかった。
電車を待っていた人々は、何事かと、声が聞こえた方向に一斉に顔を向けた。
歩いていた人々も、足を止め、様子を窺う。
新宿駅に、一瞬の静寂が訪れた。
その静寂が、直ぐにざわめきに変わる。
それが合図でもあったかのように、池袋・上野方面の山手線のホームから悲鳴が上がった。
続けて、各ホームや改札付近などで次々と絶叫や悲鳴が上がり、新宿駅は、人々の叫びの渦に包まれた。
「臨時ニュースです」
「たった今、大変な情報が入りました」
ワイドショーやバラエティやニュースを流してした各チャンネルが、一斉に臨時ニュースに切り替わった。
どの局も、血にまみれた新宿駅の映像をバックに、顔を引き攣らせたアナウンサーが、悲痛な声で、目の前に置かれた紙を読み上げている。
バックに流れる映像は、まるでホラー映画さながらだ。
ホームのそこかしこに飛び散った鮮血、いくつもの柱からは、まだ乾いていない血が、下に向かって細く糸を引くように、流れ落ちている。
「さきほど、新宿駅において、未曾有の大参事が発生しました」
それは、日本史上、いや、世界でさえ類をみない、前代未聞の大惨事であった。
新宿駅構内のいたる所で、無差別殺人が行われたのだ。
最初の被害者が絶叫を上げてから、五分も経たないうちに、警官が到着した。
が、三名の警官では、どうしようもなかった。
彼らが駆け付けた時には、構内のそこかしこで、殺戮が繰り広げられていた。
血まみれで倒れている人、パニックに陥り逃げ惑う群衆、そんな人々を、血濡れた包丁やナイフを振りかざして追いかけ回す、顔に狂気を宿した大勢の人間。
逃げる最中に将棋倒しになり、倒れた人を、大勢が踏み越えてゆく。
その人間が、躓き倒れ、それをまた大勢の人間が踏み越えてゆく。
その光景は、さながら戦禍に晒され、殺戮や略奪をほしいままにされる小さな村に勝るとも劣らぬ、狂気の世界だった。
応援に継ぐ応援で、最終的に新宿駅に駈けつけた警官の数は、二百人を越えた。
逮捕された犯人は、百三十二人に上った。
みんなが、大人しく捕まったわけではない。
訳のわからないことを口走りながら、警官に向かっても、刃物を振りかざして襲いかかった。
そのために、二十人以上が射殺または足や腕などを撃たれたが、警官の殉職者も、同等数出していた。
被害者の数は、将棋倒しで圧死した者を含め、二百三十二名が犠牲となり、重体八十五名、重傷百二十六名、軽傷の者はざっと五百名を超え、今なお増えている。
救急車の数も足りず、収容する病院数も、絶対的に不足していた。
そのため、軽傷者はその場で簡単な治療を施されることになり、新宿駅は野戦病院と化していた。
犯人を捕まえてみると、みな普通の人だった。
年齢も性別もまちまちで、中には、少年少女も混じっていた。
それらの者の大半は、身柄を確保される時に、手に血まみれのナイフや包丁を持ち、呆然と立ち尽くしていた。
臨時ニュースは、そのまま報道特番となった。
時間の経過と共に、まるで選挙速報のように、テロップに映し出される犠牲者の数が増えてゆく。
家にいる人々は、一様に顔を強張らせながら、固唾を飲んでテレビ画面に釘付けになっていた。
ただ一人の例外を除いては。
「真の恐怖は、これからよ」
ヒステリックな声で喚き立てるアナウンサーを、醒めた目で液晶越しに眺めながら、口元を歪めて、志保が呟いた。
志保の呟き通り、新宿駅の惨劇は、ほんの序章に過ぎなかった。
初めは、姉を死に追いやった犯人に復讐したいがため、CIAが開発中のソフトを盗んでトゥルーフレンズを作り上げたが、今の志保は、自然と動植物に害をなす人類を駆除することが、自分の使命だと思っている。
志保はその生い立ちから、人間という生き物が好きではない。
幼い頃に両親を事故で亡くしてからは、筆舌に尽くしがたい苦労を味わってきた。
両親が亡くなった後、志保たち姉妹は、父方の弟に引き取られた。
邦彦という叔父は、兄である志保の父を幼い頃から慕っていたみたいで、よく家にも遊びに来ていた。
来る時は、必ず志保と瑞穂にお土産を持ってきてくれ、一緒に遊んでくれた。
志保と瑞穂も、邦彦叔父さんが大好きだった。
そんな邦彦叔父さんが、二人を引き取ってから、がらりと人格が変わった。
邦彦は、喜んで二人を引き取ると言ったわけではなかった。
「俺はな、おまえ達の親父と仲が良かったわけじゃない。あいつは、小さい頃から要領がよかったからな。それに付いていれば楽できると思って、仲のよい振りを演じてただけだよ」
ある日、二人を目の前にして、邦彦がそう言い放った。
二人を引き取ったのは、父親が蓄えていたお金目当てだった。
志保の父は大きな会社に勤めていて、それなりの蓄えがあった。
邦彦がよく遊びに来ていたのも、お金の無心をするためだった。
邦彦は、昔は勉強が嫌いで、今は働くのが嫌いだった。
どこに勤めても長続きせず、職を転々と移っている。
そのくせ、見栄だけは人一倍強く、マイホームに車と、自分の稼ぎ以上のものを購入して、ローンの返済に苦しんでいた。
そんな邦彦と結婚するくらいだから、妻の康代も普通ではない。
その両親に育てられた、二人の子供も意地悪だった。
妻と自分の子供の前ではっきりと、「おまえ達を引き取ったのは、ローンの返済ためだったが、思ったより貯金が少なくて、半分も返せやしない」と、志保と瑞穂に言い切った。
それを聞いても、康代は諌めることもなく、邦彦に同調して、冷たい目で二人を睨んでいるだけだし、二人の子供は、嘲るような笑みを浮かべているだけだった。
それでも、二人を追い出すことはしなかった。
後で知ったことだが、父親は何かあった時のために、自分の蓄えを弁護士に任せ、志保と瑞穂が成人するまでは、他人が勝手に使えないようにしていた。
邦彦は、二人を大学まで出すという条件で、毎月弁護士からお金を貰っていた。
二人を追い出してしまうと、そのお金が貰えなくなる。
もちろん、そのお金が、二人のために遣われることはなかった。
食事も着る者も、すべて分け隔てされ、暴力こそ振るわれなかったが、生きるぎりぎりの範囲でしか与えられなかった。
瑞穂が高校に入った時、たまりかねて、弁護士の許へ相談に行った。
事情を訴え、毎月邦彦に渡す代わりに、自分に渡してほしいと頼んだ。
瑞穂は、そのお金で邦彦の家を出て、志保と二人で暮らすつもりだった。
しかし、弁護士は、瑞穂が未成年という理由で、首を縦に振らなかった。
これも、後で知ったのだが、邦彦は弁護士と結託しており、いくばくかのバックを弁護士に渡していたのだ。
両親が死んでから、友達と思っていたクラスメイトも、だんだんと距離を置くようになっていった。
お小遣いなど貰えないないので、一緒に遊びにも行けないし、お誕生パーティに呼ぶこともなければ、呼ばれてもプレゼントを買えないので、行くこともできなかった。
親からも、両親のいない子とは付き合うなと言われていたみたいだ。
高校生になった時には、志保は人間というものを憎み、人類なんて滅んでしまえばいいと思っていた。
そんな志保を踏み止まらせていたのが、瑞穂だった。
瑞穂だけが、志保の良心だった。
その瑞穂を失い、今、志保のたがは、完全に外れている。
志保は、人類の皆殺し計画を実行に移しつつあった。
やろうと思えば、直ぐにでも出来た。
各国の政治家や軍部首脳を操り、核戦争でも起こさせればいいだけのことだ。
それでなくても、今の世界は、いつ戦争が起こってもおかしくない状態にある。
志保が背中を少し押してやるだけで、人類は破滅へと向かう争いを、喜んで始めるだろう。
しかし、それをやってしまっては、自然や動植物に被害が出る。
志保の目的は、害虫駆除だ。
害虫を駆除するために、守ろうとするものを破壊しては意味がない。
それだから、原始的なやり方で、殺し合いをさせて減らしていくのだ。
もうもうひとつ、歪んだ理由があった
己の欲望を満たすために、平気で自然を破壊し、動植物を踏みにじってきた。
それでも飽き足らず、同胞同士でも殺し合いをしている。
すべては、くらだない欲のためにだ。
そんな人間達を、簡単に殺してしまったのでは面白くない。
恐怖を味わせ、絶望のどん底に突き落とす。
そのくらいの報いを受けるべきだと、志保は思っている。
その手始めとして、人が集まる時間帯を狙って、新宿駅をターゲットにした。
結果はまあまあだったが、志保が満足するほどではなかった。
まだまだ、弱すぎる。
もっと改善するべく、志保はテレビから離れ、パソコンに向かった。
背中でアナウンサーの悲痛な声を聞きながら、人類を絶滅に追いやるプログラムを強化するために、新宿駅での結果を分析し始めた。
「次は、ここか」
軽快なタッチでキーボードの上を這わせていた指を止め、志保が呟いた。
さらなるデータを得るために、次の実験を始める気だ。
新宿駅の惨劇から三時間後、まだ落ち着きを取り戻さないうちに、日本一横断者の多いと言われる渋谷のスクランブル交差点で、第二の惨劇が起きた。
歩行者用の信号が青に変わり、大勢の人々が交差点を渡っている時、突如何人もの歩行者が、鞄の中からナイフや包丁を取出し、周りの人々に襲いかかった。
十分もしないうちに、日本国中に新たな惨劇のニュースが伝わった。
新宿駅よりは少なかったものの、それでも、死傷者の数は二百を超えていた。
新宿駅と同じく、加害者は普通の人々で、どんなグループやカルト教団にも属していなかった。
しかし、一般の人々が、ナイフや包丁を持ち歩くわけがない。
加害者を問い質しても、誰ひとりとして、自分がやったことを覚えている者はいなかったし、なぜ凶器を持っていたかも覚えていなかった。
この異常事態に、警察は厳戒態勢を敷いた。
東京駅・池袋・品川・秋葉原など、人の集まる場所に、非番の者まで駆り出して、可能な限りの人員を配置した。
立て続けにこんな惨事が起こっては、いつもは腰の重い警察も、さすがに楽観視できなかった。
そんな警察を嘲笑うかのように、その日は何事もなく過ぎた。
しかし、翌日、昨夜以上の惨劇が幕を開けた。
それは、警察の予想を遥かに超えていた。
午前八時、山手線の全駅で、一斉に無差別殺人が起きたのだ。
警察の厳戒態勢は続いていたが、一斉に何十人という人間が、いきなり近くの人を切りつけるのだから、咄嗟に対応できるものではない。
わずか十分足らずの間に、五千を超える人々が犠牲になった。
負傷した者は、その何倍にも達していた。
日本中が大恐慌を来たし、世界中が驚愕した。
各国のマスコミは、一面でこの事件を、大々的に取り上げた。
日本を敵視している一部の国の、ごく一部の国民だけが、天罰だと大いに喜んだが、そんな国であっても、多くの人々は、あまりの痛ましさに胸が締め付けられていた。
その日の夕方には、大阪・名古屋・博多・札幌と、各地の主要都市でも、ついに、無差別殺人が発生した。
この日だけで、死者は一万人を越えている。
もはや、パニックを通り越して、日本中がヒステリー状態に陥っていた。
本来、冷静に対応しなければならないマスコミが、ここぞとばかりに、より国民の恐怖を煽るような放送をするものだから、国民のヒステリーに、ますます拍車が掛かることとなった。
これも、視聴率競争による歪みなのだろうか?
それとも、国民が求めているのだろうか?
ともあれ、言論の自由をはき違え、大衆に迎合どころか媚を売り、使命を忘れたマスメディアほど、始末の悪いものはない。
が、それよりも始末に負えないのがネットである。
ネット上では、愛も変わらず、無責任な言葉が飛び交っていた。
「神の怒りに触れたなりー」
「やっぱり、宇宙人の仕業だよ」
「これは、絶対、あの国の陰謀に違いない」
「いや、地球の復讐だよ。人類が今まで、好き勝手にしてきた報いだな」
「無能な政府よ。何も出来ないなら、解散しちまえ」
「人類の滅亡に一票」
飛び込み事件の時と、何ら変わってはいない。
顔が見えないことをよい事に、好き勝手に無責任な発言が相次いだ。
顔を晒しては言えないことでも、陰に隠れてなら、いくらでも言いたいことが言えるなんて、人の心の闇は、どこまで深いのだろう。
志保は、そんな人間の陰湿さに絶望していたのかもしれない。
だが、マスコミもネットの住民達も、これがまだまだ序章に過ぎないということを知らなかった。
これから、かつて体験したこともない恐怖が始まろうとは、日本国民のみならず、世界中の誰もが、予想すらしていなかった。
当事者の志保を除いて、こんなものでは済まないだろうと思っていたのは、、悟とカレンにターニャ、それに、桜井くらいであったろう。
「ほんま、どえらい事になっとんな」
テレビを観ながら、実にのんびりとした口調で、悟が呟いた。
悟とカレンは、ソファで膝をくっつけ合って、テレビを観ている。
二人は、カレンが持つ隠れ家に身を移していた。
そこは、渋谷の郊外にある、ありふれた一軒家だ。
外観こそありふれているものの、中はありふれてはいない。
建物の中だけでいえば、月並みな家具が配置された、普通の民家である。
この家が特殊なのは、建坪の広さ以上の、厚さ五センチの鋼板で覆われた地下室があることだ。
その地下室への入口は、巧妙に隠されている。
食料は、二人ならば、悠に二年は食べていけるほどの備蓄がされており、水も地下水を汲み上げているので、涸れることはない。
いわゆる、シェルターというやつだ。
部屋は三つに仕切られており、ひとつはベッドルーム、ひとつはリビングと台所、そしてもうひとつは、コンピュータールームになっている。
もちろん、風呂とトイレも完備されている。
自家発電も備えてあるので、電気にも困ることはない。
悟には言っていないが、この地下室には、もうひとつ秘密があった。
それは、後でわかることになる。
機械オンチの悟は、コンピューターに関しては皆目だ。
そんな悟でも、コンピュータールームに置かれている機器が凄いものだということくらいはわかった。
しかし、実際には凄いどころではない。
並みの大手会社では覚束ないような機器が、部屋中に整然と配置されている。
「凄いな」
地下室に足を踏み入れた悟は、目を瞠って周りを見回したものだ。
聞けば、カレンは世界の主要都市で、隠れ家を持っているという。
カレンは、当時から、自ら属する組織を信用していなかったというこが窺える。
そうでありながら、暗殺や破壊という任務を帯びて世界中を飛び回っていたカレンの姿を想像すると、悟は胸が詰まる思いをした。
ふいに、悟はカレンの過去が知りたくなった。
これまでも、カレンの過去に興味がなかったといえば嘘になるが、そこまで知りたいとも思わなかった。
悟が好きになったのは、今のカレンであって、カレンの過去を知ったところで、仕方がないと思っていたからだ。
カレンも、自分の生い立ちを悟に語ることはしなかった。
どのような経緯でCIAで働くことになったのか、なぜ、暗殺の任務を行うようになたのか。
それは、カレン自身が望んだことなのか。
カレンが、愛国心からCIAで働いていたのでないことは確かだ。
カレンに愛国心というものがないことは、悟はよくわかっている。
かといって、人を殺すために、その道を選んだとも思えない。
闘争本能は人一倍持ち合わせているが、殺戮を好む性格ではない。
悟が見るところ、カレンは人間嫌いだ。
というより、人間に対して、何の感情も持ってはいない。
怒りも、悲しみも、憐みも、期待も、何もない。
悟と、戦う相手を除いては、カレンにとって人間というものは、河原の石ころと同じ存在なのだ。
カレンの闇は、生まれつきなのかもしれないし、想像を絶する出来事が、カレンをそうしたのかもしれない。
過去を知りたいと思っても、悟は自分から尋ねる気はなかった。
訊けば、教えてくれるかもしれない。
が、カレンを傷付けることになるかもしれない。
暗殺者としての自分を知り尽くしている悟にも、語らない過去。
そんな過去を、自分の興味だけで訊くほど、悟のカレンに対する想いは半端ではなかった。
時期が来れば、カレンは必ず話してくれる。
悟は、そう信じて疑わない。
その時が、自分の過去を語る時だとも思っている。
悟もまた、気軽に語るべきでない過去を背負っていた。
一歩間違えば、志保の仲間入りをしていても、おかしくはなかった。
持って生まれた性格なのか、志保における瑞穂のように、心の支えになってくれる人がいたのか、そうはならずに、悟はこれまでまっとうに生きてきた。
飄々としながらも、悟がどこか普通の人と違っているのは、そんな過去に起因していた。
「まだまだ、こんなものじゃ終わらないわよ」
悟の呟きに答えたカレンの顔は、いたって平静だ。
「これから、どうなるんやろな」
「そうね、明日か明後日あたりには、世界のいたる所で、同じようなことが起きるんじゃない。そうやって、全世界の人類を脅かしておいてから、次のステップに移る」
「次のステップって?」
「さあね」
カレンが、肩を竦めてみせる。
「核戦争でも引き起こすか、それとも人工衛星の雨を降らすか、少なくても、今より大勢の命が失われることは確かね」
恐ろしいことを、カレンは平気で言ってのけた。
「まあ、そんなとこやろな」
悟も、驚きもせず、頷いてみせる。
「今は、魔女の成長過程ってとこね。魔女が悪魔に変わった時、人類は滅びるわ」
その日が、そう遠くないことを、カレンと悟はわかっている。
「まだ、ヒューストンからは、何も言ってこんのか?」
「まだよ。魔女が、おいそれと居場所を掴ませてくれるわけはないわ」
カレンに、焦りの色は見えない。
悟には教えていないが、カレンは、コンピューターの腕前も相当なものだった。
それは、地下室にある機器を見てもわかる。
カレンが本気になれば、CIAの専門部隊だろうが、アノニマスだろうが敵わない。
もしかしたら、志保の能力を上回っているかもしれない。
神が与え給うた超人類は、すべてにおいて、人より秀でていたのだ。
カレンが積極的に動かないのは、ある思惑があってのことだ。
カレンは、志保が赤い金貨と繋がっているのではないかと、劉の襲撃を受けた時から思っている。
劉が志保の行方を追っているのなら、カレンを襲う必要などない。
邪魔になる敵を叩き潰しておこうという見方も出来るが、カレンが一筋縄ではいかないのはわかっているはずだ。
カレンと戦うリスクを冒すより、志保を見つけて確保することの方が、先決のはずだ。
もうひとつ、早々と東名で襲われたことと、ホテルに着いてそれほどの時をかけずに襲われたことも、カレンには気に入らなかった。
CIAの内部に、赤い金貨と通じている者がいるということだ。
ヒューストンかスコットか、あるいは別の誰かか?
志保からソフトを盗み出させたのも、その者が手引きしたに違いないと、カレンは睨んでいる。
誰なのか、ある程度の目星は付けているが、確証がない。
その気になれば、カレンにとって、志保の居場所を見つけることなど造作ないことだったが、裏切者の確証を掴むために、わざとCIAからの連絡を待っていた。
自分に牙を剥いた者は、必ず叩き潰す。
それが、カレンの信条だ。
ただ、トゥルーフレンズのメカニズムは突き止めていた。
全世界の専門家が、何ヶ月にも渡って突き止められなかったものを、カレンは、わずか数時間で掴んでいた。
ヒューストンも、カレンがコンピューターに精通していることは知らない。
何者をも信用していないカレンは、たとえ上司であっても、手の内をすべて見せることはしていなかった。
「まあ、焦らないで、じっくり待ちましょ」
「そうやな」
テレビでは、相変わらず、悲惨なニュースが流れ続けている。
「なんで、こんなになっとんのに、みんなスマホを見るのを止めんのやろ」
悟は、ニュースを見ながら、不思議そうに首を傾げた。
「止めないんじゃなくて、止められないのよ」
トゥルーフレンズのメカニズムを突き止めていたカレンは、その根底に中毒性を持たせているのを見抜いていた。
いろいろなモンスターが、そこかしこに現れるというゲームが流行った時、人々は、一時期、熱狂的になった。
ブームは長くは続かなかったが、わずか数ケ月の間に、様々な問題を引き起こした。
車を運転しながらゲームに興じていて人を撥ねたり、バスや電車の運転手も、公務中にゲームに興じていた。
自転車や歩きながらは、言うに及ばずである。
大々的にニュースで取り上げられたが、レアなモンスターが出現するというので、車道に五百人以上の人々が群がったこともある。
まさに、狂気の沙汰である。
その中には、いい歳をした人々も混じっていた。
本来なら、分別があって然るべき人達だ。
文明の利器というものは、それほど人を狂わせるものなのか?
たかがゲームといっては失礼だが、己の快楽のためだけに、人の迷惑も省みず、あまつさえ、人を殺してしまう。
車を運転しながらゲームをすれば、どうなるかくらい、普通に考えればわかるはずだ。
それすらわからなくなるほど、理性を失くしてしまう。
そんな人間の弱点を、志保の作り上げたソフトは的確に突いていた。
CIAが結集した心理学者のお蔭でもあるが、サブミリナル効果と音声と光の魔術を用い、スマホの奴隷に陥っている人々を、より忠実な下僕に仕立て上げていったのだ。
スマホに執着している者は、じわじわと志保に取り込まれていった。
志保の魔術にかかったものは、それとは気付かずに、志保の言いなりに操られていた。
無差別殺人の加害者たちも、自分では意識しないうちに、包丁やナイフを家から持ち出し、あるいは購入し、鞄に忍ばせていた。
そして、志保の命令が下るや、即座に殺人鬼へと変貌したのだ。
志保は、人間の持つ弱さや脆さや愚かさを引き出したに過ぎない。
カレンは、そんな人間の心理と志保の戦略を、見事に看破していた。
つくづく、馬鹿なものを開発しようとしていたものだと、古巣に対しても心底軽蔑していた。
軽蔑というより、侮蔑と言った方が正しいだろう。
「どうしようもないな」
カレンから説明を聞いた悟は、苦笑する以外にアクションの取りようがない。
「人間って、そんなものよ」
カレンは、淡々したものだ。
「ここまできて、スマホを規制できない政府、売上が減ることだけを恐れて、スマホを売るのを止めない企業、事件とスマホは無関係だと言い放つ業者、視聴率アップのためだけに、より大袈裟に無責任に煽り立てるだけのマスコミ。ほんと、人間って愚かだわ。そう思わない?」
悟も同感だったので反論せず、自分に向けられたカレンの目を、じっと見つめ返しただけだ。
「そう思うんやったら、なんで、この仕事を引き受けたんや」
なんてことも、訊かなかった。
カレンがこの仕事を引き受けたのは、ターニャや劉といった強敵と渡り合える。
ただ、それだけだということが、悟にはよくわかっていたからだ。
悟は、カレンに銃を突き付けられたときから、『平穏』という文字を、自分の辞書から抹消していた。
代わりに、『波乱』という言葉に、赤線を引いた。
本当は、荒天どころではない。
カレンと一緒にいると、いつ雷に打たれてもおかしくはない。
それでも、悟は、いつも飄々としている。
カレンも、悟が物事に動じた姿を見たことはない。
自分を庇って腹部に銃弾を受けたときでも、悟は顔をしかめながら笑っていた。
その姿に、カレンは心底、悟という男に惚れた。
数多の修羅場を潜ってきたカレンも、こんな男を見るのは初めてだった。
自分と一緒に暮らし出してからも、悟はいつも、自分の言葉に従ってくれた。
ヤクザ狩りに出かけると言っても、止めることなく、怖気ることなく、嫌な顔ひとつせず、二つ返事で付き合ってくれた。
悟と暮らし始めてからのカレンは、毎日が暖いお陽さまに照らされているような、そんな心地よい気持ちだった。
闘いに身を置いた時の高揚感とはまた違った、これまで味わったことのない幸せを感じている。
闘いは終わるが、悟との日々は終わらない。
自分にこんな日が訪れようとは、カレンは想像すらしたことがなかった。
「カレンの言う通り、これから、もっと悲惨なことが起こりそうやな」
相変わらず、ヒステリックにがなり立てるアナウンサーの顔を見ながら、悟が暢気に言う。
「そうね。さしずめ、飛び降りがロケットを飛ばした状態だとしたら、今は、第1段を切り離したってとこね。第2段の切り離しでは、なにが起こるかしら」
カレンの言葉は、的確に志保の思惑を表していた。
「そろそろ、第2段の切り離しを行う頃ね」
新宿駅の惨劇から五日、今では、日本のみならず、世界中のいたるところで、無差別殺人が繰り広げられている。
朝も昼も夜も、駅や路上といった公共の場に限らず、職場や家庭内でも。
この五日で、何人の命が奪われたのか想像もつかないほど、世界は混沌とじていた。
これ以上の悪夢を、志保は人類に見させる気でいる。
志保は、魔女から悪魔へと、その姿を変貌しつつあった。
人類滅亡のカウントダウンが始まろうとしていた。
第11章 罠
「サトル、起きて」
カレンが、幸せそうに寝ている悟を、揺り動かした。
「ヒューストンから連絡があったわ。シホの居場所を掴んだそうよ」
「ン~ 居酒屋がどうしたって?」
薄目を開けたものの、悟はまだ夢の世界をさ迷っているようだ。
「だ、か、ら、シホの居場所がわかったの」
悟の耳元で、カレンが怒鳴るように言う。
「ワッ! なんや? どうしたんや? 敵襲か? カレン、大丈夫か」
悟が、ガバと跳ね起きる。
「呆れたお寝坊さんね」
カレンは、両手を腰に当ててt、呆れた顔で悟を見下している。
「なんや、カレンやないか。あんまり、びっくりさせんといて。心臓が止まったら、どうすんねん」
悟が胸を押えて、恨めしげな目で、カレンを見る。
「なに、言ってるのよ。出かけるから、さっさと支度して」
「どこへ?」
悟が、キョトンとした顔をした。
「言ったでしょ。シホの居場所が掴めたって」
カレンが腰を突き出して、悟の顔に自分の顔を近づけた。
「なんやって! そんなことやったら、なんで、もっと早よう、起こしてくれんかったんや」
目をぐるりと回しながら、カレンが両手を拡げて天井を仰ぐ。
「さあ、行くで」
カレンが呆れている間に、悟はさっさと着替えを済ませて、カレンを急き立てた。
「そんなに、慌てないの。朝ごはんくらい、食べていきましょ」
「なに言うてんねん。大阪人はいらちなんや。善は急げや、はよ行くで」
悟は、出口に向かって足踏みしている。
「いらちって?」
カレンが、小首を傾げた。
「せっかちってことや」
「せっかちって?」
「だから~」
それ以上説明のしようがなかった悟は、言葉に詰まってしまった。
なんともいえぬ悲しげな目で、カレンを見る。
(こいつ、ほんまは、わかっとるんやないやろな)
カレンの顔を見て、悟はそんな疑いを抱いた。
疑いながらも、説明の言葉を探す。
「つまり、気が短いってことね」
カレンが悪戯っぽい笑みを、悟に向けた。
(やっぱり、わかっとったんやないか)
悟が、少しふて腐れた顔をした。
「そんな顔しないの」
子供をあやすように悟の頭を撫でるカレンの手を、悟が急に引き寄せ、そのまま唇を重ねた。
「朝飯、いただき」
唇を離した悟が、陽気に言った。
「バカ」
カレンの顔が赤くなっている。
「はなら、ほんまの朝飯を食って、行こうか」
「そうね」
カレンは、呆れながらも、悟の陽気さに釣られて笑った。
「なあ、この車、どうしたん? CIAか?」
二人は、志保が潜伏していると告げられた場所へと向かっていた。
今日の車は、どこにでも走っていそうなセダンだ。
「あんなところから、借りるわけないじゃない。危なくてしようがないわよ」
吐き捨てるように、カレンが答える。
「じゃ、どこから? まさか、盗んだんやないやろな」
「失礼ね。これは、正真正銘、わたしの車よ」
カレンは、隠れ家に、複数台の車も有していた。
いつでも用意を怠らないのが、カレンである。
「どうやら、ここみたいね」
二人は、秋葉原と御徒町の中間くらいの、昭和通りから中央大通り寄りに二筋ほど入った、ビルの一角に佇んでいた。
秋葉原や上野に近いとはいえ、賑わっているのは、中央大通り沿いであり、二人のいる場所は、小さな会社が固まっている一角だ。
そのため、日曜の今は、人通りはまったくといってよいほどない。
志保が潜伏していると教えられた場所は、五階建ての細長いビルだった。
雑居ビルではなく、前はどこかの会社の持ちビルだったみたいだが、今は撤退しているようで、取り壊されるのを待っているかのように、見るからに廃れていた。
「ほんまに、こんなとこに隠れてるんか?」
悟が、疑わしそうに、ビルを見つめている。
「教えられた場所は、ここよ」
カレンは、鋭い目をして、建物を観察していた。
「とにかく、確かめてみようや」
歩きだそうとする悟の腕を、カレンが掴んだ。
「本当に、いらちね。あのビルにシホがいるとしたら、監視カメラでモニターされてるわよ」
「それも、そうやな」
悟が素直に頷いたあと、困った顔をする。
「それやったら、どうやって確かめるんや?」
カレンは、ポケットからスマホらしき物を取り出した。
今日は身軽に動けるように、手ぶらだ。
代わりに、ポケットのたくさんついた皮のジャケットとカーゴパンツという恰好をしている。
「ヒューストンに連絡して、応援を呼ぶんか?」
「わたしが、応援なんか頼むと思う? まあ、見てて」
茶目っ気たっぷりに言ってから、カーゴパンツのポケットから、細い金属の棒を取り出す。
イヤホンジャックのような穴に、その棒を装着する。
棒の先端は少し丸くなっており、まるでラジオのアンテナのようだ。
悟は、興味津々といいった態で、カレンのすることを眺めていた。
「これはね、特殊探知機よ」
画面を操作しながら、カレンが説明する。
悟が覗き込むと、画面にはいろんなアイコンが表示されていた。
カレンは、アンテナの先端をヒ゛ルに向け、ビデオカメラと思しきアイコンをタッチした。
画面に、ビルの画像が表れる。
「ロックオンした建物の、監視カメラや防犯ビデを探知するってわけ」
言いながら、アンテナをヒ゛ルの上から下に向けて動かしていくと、画像のところどころに、赤い点が灯っていった。
「この赤い点が、カメラの場所よ」
「えらい、ハイテクやな」
感心した様子で画面を見つめる悟の目は、子供のように輝いている。
「どんな仕組みになってるんや?」
「説明してもわからないわよ」
「まあ、その通りやな」
メカに弱い悟は、あっさりと頷いた。
「いろんなアイコンがあったけど、カメラ以外のもんも、探知できるんか?」
「そうよ」
「他には、どんなもんが探知できるんや?」
「そのうちわかるわよ」
「なんや、秘密か。まったく、カレンはケチやな」
不服そうな顔をする悟に笑顔で応えて、カレンが赤い点をタッチした。
画面が切り替わり、カメラの仕様らしきものが表示される。
それを確認したカレンは、またポケットから何かを取出した。
今度は、ストレート式の携帯電話のような、細長い形をした金属だった。
黒く塗られた表面には、何もない。
カレンが横のボタンをスライドさせると、頭からピンのような物が出てきた。
それを先ほどの特殊探知機の側面に繋げ、画面に表示されているOKボタンを押す。
すると、先ほどの黒い筐体の右上部分が青く光った。
「今度は、なんや?」
青い光を見ながら、悟が尋ねる。
「これで、あのカメラの映像はブロックしたわ」
「ブロック?」
「そうよ。この探知機で、あのカメラの仕様を解析して、こっちの機械である信号を送ったの。あのカメラは、信号が送られる直前に捉えた映像をずっと流し続けるってわけ」
ということは?」
「私たちが近づいても、何も映らないわ」
カレンの両肩に、いきなり悟の手が置かれた。
その手に力を込め、カレンの顔を正面からじっと見つめてくる。
「なに、どうしたの?」
悟の突然の行動に、カレンが戸惑いをみせた。
「ほんっまに、カレンは凄いな。俺、尊敬するわ」
眼を輝かせながら、心底感動した口調で、悟が言った。
「バカ、こんなときに、何を言ってるのよ」
肩に置かれた手を振り払い、軽く悟の頬を叩いたものの、カレンの顔は上気している。
「さて、そうと決まったら突撃や」
突然、悟がビルに向かい、足を踏み出そうとした。
「ちょっと待って」
悟の切り替えの早さに呆れながらも、進もうとする悟を、カレンが止めた。
「建物の中は、どんな仕掛けがあるかわからないわ。サトルは、ここで待ってて」
悟が、哀しそうな顔をする。
「やっぱり、俺は、足手まといか」
「そんなことはない。昨日も、私を助けてくれたじゃない」
カレンが、静かに首を振った。
少しの躊躇いのあと、悟に本心を告げる決心をした。
カレンは、いつになく真剣な眼差しで、悟の目を見た。
「私はね、もうあなたを、私なんかのために、危険な目に合わせたくないの。だから…」
言い終わらぬうちに、悟の唇が、カレンの口を塞いだ。
「俺は、カレンのために死ねるんやったら本望やで」
唇を離した悟が、愛情を含んだ笑顔を見せた。
悟の口調には、気負いも衒(てら)いもない。
カレンの気持ちは、凄く嬉しかった。
カレンが悟の身を案じるのは、初めてのことだ。
悟に銃を突きつけた時は、悟の気持ちより、カレン自身の気持ちを優先していた。
だから、あんな暴挙に出たのだ。
一緒に暮らしだしてからも、そうだった。
愛されているという自覚はあったが、カレンはまだまだ身勝手なところが多かった。
東京に着いた日、二度も身を挺してカレンを救った悟に、カレンの愛が、一層進化したに違いない。
カレンが、より人間らしさを取り戻したということだ。
それに悟は、危惧を抱いた。
何が待ち受けているかわからないところへ、そんなカレンが一人で向かっていくのは、死を引き寄せるだけだ。
本能的にそう思った悟は、カレンをいつものカレンに戻すために、滅多に出さない本心を口にしたのだ。
「そんなこと言ってくれたのは、初めてね」
カレンの目が潤んでいる。
「一緒に行こうや」
陽気に言って、悟が軽くカレンの肩を叩いた。
「わかった。一緒に行きましょ」
カレンは溢れ出そうとしていたものを袖で拭って、悟の手を強く握った。
「ねえ、サトル。この件が片付いたら、のんびりと東京見物でもしようよ。なんたって、新婚旅行だものね」
そう言って、悟の頬に軽く口付けをした。
「ええな、それ」
カレンの愛を受け取るように頬を撫でながら、悟が頷いてみせる。
「じゃあ、それを楽しみに、はりきるわよ」
「よっしゃ」
悟が、意気揚々と返事した。
「フン、しっかり鍵が掛かっているわね」
ビルの入口の鉄扉のノブを捻ったカレンが、いまいましそうな顔をする。
「こんな鍵くらい、開けるのは簡単だけど」
そう言って、カレンは特殊探知機を取り出した。
何やら画面を操作してから、それを扉に当て、上から下までなぞっていった。
「やっぱりね」
カレンが鼻で笑う。
「何が、やっぱりなんや。それに、今、何したんや?」
悟の疑問に、カレンが顔を上げて答える。
「爆弾が仕掛けられていないかチェックしたの。これは、爆弾探知機にもなるのよ」
「凄いな」
またもや、悟の目が輝く。
「やっぱりということは、この扉に、爆弾が仕掛けられてるんやな」
「ええ、不用意に開けていたら、二人ともバラバラになっていたでしょうね」
「じゃあ、裏へ廻らへんか」
「表も裏も一緒でしょ。それに、裏にもカメラがあるだろうし、また止めるのは面倒くさいから、表から入るわよ」
悟の提案に、カレンがこともなげに答える。
「まあ、カレンがそう言うんやったら、それでええけどな」
何か考えがあるのだろうと思い、悟はそれ以上何も言わなかった。
カレンが腕組みをして、入口のドアを見つめる。
ドアは鉄製だが、上半分は金網入りの、分厚いガラスが嵌っている。
カレンが小さく頷くと、ポケットから小さな巻尺のようなものを取り出した。
右手にそれを持ち、左手で小さな吸盤を取り出す。
「何や、それ」
「ガラス切り」
カレンが短く答えると、吸盤をガラスの真ん中に当てた。
右手に持った巻尺の真ん中のボタンを押すと、胴体の一部から、カッターナイフのような刃が飛び出した。
「そんなんで、こんな、ごっついガラスを切れるんか?」
悟の疑問はもっともだ。
金網入りの分厚いガラスが、カッターナイフのような薄い刃で切れるとは、到底思えない。
カレンは、悟の疑問を口ではなく、ガラスを切って応えてみせた。
カレンが軽く刃を滑らせると、金網入りのガラスが、まるで紙を切るように簡単に切れていった。
「切れたでしょ」
切り取ったガラスを、吸盤を引っ張って取り外したカレンが、得意げな顔を悟に向ける。
「これはね、特殊鋼で出来てるの。こんなガラスなんて、わけないわ」
「そんなん、よう持っとったな」
眼を輝かせて言う悟に、「スパイの常備品よ」と自慢げに答えるカレン。
カレンが、切り取った空間から中の様子を窺う。
(あんな金網入りの分厚いガラスを、あっさり切ってまうなんて、一体、あの刃はなんで出来てるんやろ?)
悟の関心はただそこにあり、戻されたポケットの膨らみを見つめていた。
「あるある」
中の様子を窺っていたカレンが、顔を上げた。
「なにが?」
「扉の下を見てごらん。それから左右もね」
間の抜けた声で問い掛ける悟に、カレンが場所をゆずった。
悟が中を覗いている間、カレンは用心深くビルの中を注視している。
「あれか?」
悟が見たものは、扉の下に這わせてあるコードと、扉の両側に置いてある金属の箱だった。
「扉を開けると、コードが引っ張られて、両側の爆弾が爆発する仕掛けね。そんなに威力はないでしょうけど、私たちが吹っ飛ぶくらいの威力はあるでしょうよ」
「どうするん?」
「中へ入って開けるわ」
こともなげに、カレンが答える。
「そうか?」
カレンを信頼している悟は、無理やろとも言わず、素直に頷いた。
「見てて」
カレンが茶目っ気たっぷりに言って、悟にウィンクしてみせた。
それから、自分が切ったガラスの穴を見る。
カレンの胴回りより、二周りほどの大きさである。
しばらく見つめていたカレンが、何かを確信したかのように大きく頷くと、十歩ほど後ずさった。
そして、扉との距離を測るように、一度扉を見てから、おもむろに駆け出した。
扉の数歩手前で思い切りよく足を踏み切り、両手を前に突き出してジャンプする。
そのまま、見事に切り取った穴をくぐり抜けていった。
建物の中に飛び込んだカレンは、片手を床に付けた反動で空中を一回転し、音もなく着地した。
その動作は、まるで雌豹そのものである。
着地するや、素早くズボンの裾に隠していたナイフを引き抜いて、扉の下のコードを切断した。
息ひとつ、乱してはいない。
「まるで、サーカスのライオンみたいやな。はら、火の輪くぐりの」
小声で囁きながら、カレンが開けた扉から、悟が入ってくる。
「私を、サーカスのライオンと一緒にしないでくれる」
「そうやな、悪かった。カレンにかかったら、ライオンも泣いて逃げるもんな」
「あなたのポケットに、あの爆弾を突っ込んで爆発させてやるから」
カレンが、小声で凄んだ。
これから、どんな罠が仕掛けられているかもしれないのに、二人共のんびりしたものだ。
建物の中は、正面右手に階段があり、奥にドアがあった。
どうやら、一階はその一部屋だけみたいだ。
「あの部屋から、確認しましょ」
どうすると眼で尋ねる悟に小声で返事してから、カレンが静かに奥へと歩き出した。
探知機で調べた結果、この部屋には爆弾が仕掛けられていないことがとわかっていた。
カレンがノブをそっと掴み、静かに回す。
鍵は掛かっておらず、ノブが回り、ドアが開いた。
中はガランとしていて、何もない。
カレンが首を振り、右手人差し指を上に向けた。
悟が無言で頷き、二人は二階へと続く階段へと向かった。
二階の構造も、一階と同じだった。
部屋も一階と同じで、ドアには鍵が掛かっておらず、中には何もなかった。
そうして、二人は三階へとやってきた。
「今度は、鍵が掛かってるわ」
悟の耳元で囁くと、またポケットから何やら取り出した。
それは微妙に太さの違う、長さ十センチくらいの針金のような束だった。
小さな輪っかに、十本ほどぶら下がっている。
カレンはドアの鍵穴を観察したあと、その針金の束を暫く見つめていた。
やがて、その内の一本を選ぶと、先端を器用に折り曲げて鍵穴に差し込んだ。
そのまま針金を少し動かすと、ものの十秒と経たないうちに開錠してしまった。
悟は、言いたいことがあったが、中に敵のいることを考えて黙っていた。
カレンが静かにノブを回し、ドアを薄めに開けてから、中の様子を窺う。
誰もいないのを確認すると、ドアを大きく開けて、中へと足を踏み入れた。
悟も、カレンに続いて静かに入ってくる。
二人が、部屋を見回す。
これまでの部屋と同様、何もなく空虚さだけが漂っていたが、二点だけ違いがあった。
ひとつは、どうしたことか、窓がコンクリートで塞がれていることだ。
そしてもうひとつは、壁に一枚の絵が掛かっていることだった。
額縁の裏に何か隠されていないか確かめようと、悟が額縁をずらしたとき、部屋のドアがバタンと閉まった。
「しまった」
言うや、カレンはドアに駆け寄った。
ノブを捻ってみたが、ビクともしない。
「罠よ」
カレンが言ったとたん、天井の通気口から、煙が噴き出してきた。
「青酸ガスよ。サトル、息を止めて」
匂いを嗅いだ途端それとわかったカレンは、素早く言ってから、悟を引き寄せた。
みるみるうちに、ガスが部屋中に充満していく。
このままだと、数分もしないうちに、悟とカレンの人生は終焉を迎えることになる。
部屋に青酸ガスが充満してから十分が経った頃、空調が作動しだした。
充満していたガスが、みるみる吸い取られてゆく。
全てのガスが吸い取られてから数分経って、静かにドアが開いた。
三人の屈強な男が、手に銃を構えて入ってくる。
悟とカレンは、うつ伏せに倒れている。
男たちは、冷ややかな目で、倒れている二人を見た。
カレンの右手には、銃が握られていた。
鍵を撃ち壊そうとしたのだろうか?
三人が顔を見合わせ頷きあうと、一人の男が、カレンの側へ歩みよった。
もう一度冷ややかな眼でカレンを見ると、足でカレンの腹を蹴って転がし、仰向けにした。
「馬鹿な奴らだ」
男が、カレンに嘲笑を浴びせた瞬間、カレンの眼が開かれた。
三人の男たちが驚く暇もなく、素早くカレンの指が動いて、あっという間に男たちの眉間を撃ち抜いた。
銃にはサイレンサーが装着されているので、それほどの音はしなかった。
男たちが倒れたときには、カレンはもう起き上がっていた。
「馬鹿は、あなた達よ。死んでるかどうか確かめもしないで、油断しているなんて」
今度はカレンが、倒れた男たちに嘲笑を浴びせた。
「まあ、そう言うたんなや。普通、この状況では助からんやろ」
悟も起き上がって、カレンの肩に手を置いた。
「それは、素人の考え。プロはね、相手の死を確かめるまで、絶対に油断しないものよ。最後まで、何があるかわからないからね。現に、私たちはこうやって生きているでしょ」
「そうやな」
悟が頷き、それから、好奇に満ちた目をカレンに向ける。
「しかし、よう、あんなもん持っとったな」
「言うと思った」
カレンが、ぐるりと眼を回した。
悟が言っているのは、防毒マスクのことである。
部屋からガスが噴き出したとき、悟に息を止めさせ、素早くポケットから折り畳んだ防毒マスクを取出し、悟に被せると、自分にも装着した。
ご丁寧に、ガスマスクには、十分は持つ小型の酸素ボンベが付いていた。
悟はずっとそれを言いたくて、うずうずしていたのだ。
死んだふりをしている間、それが苦痛でたまらなかった。
「こんなもの、スパイの常備品でしょ」
「いや、ガラス切りや探知機はわかるけど、それは違うやろ」
しれっと答えるカレンに、悟がすかさず突っ込みを入れる。
「いいじゃない。男が、いちいち細かいことを気にしないの」
カレンが、悟の頭を軽く小突いた。
「まあ、ええか」
何が良いのかわからないが、悟は一人で納得した。
「それにしても、カレンのポケットはどうなっとるんや。まるで、どっかの猫型ロボットの、何でも出てくるポケットみたいやんか」
ポケットに触ろうとする悟の手を、カレンが掴んで遮った。
「この中は、ヒ、ミ、ツ」
「また、秘密か」
うんざりするように言ってから、ふと、思いついたように尋ねる。
「なあ、何で、俺らが入ったのを見計らったように、ガスが噴き出したんやろ」
言いながら、悟が部屋を見回す。
「カメラでも付いてるんやろか」
「カメラが仕掛けてあれば、こいつらは、不用意に入ってはこないわ」
確かに、カレンの言う通りだ。
カメラで監視していれば、二人が防毒マスクを付けたことはわかっていたはずだ。
「多分、あの絵が、センサーになってたんでしょうね」
「探知機には、引っ掛からんかったんか」
「この探知機には、センサーを探知する機能はないの」
あっけらかんと言い放つカレンに、悟が呆れた顔をして「中途半端やな」とぼやいた。
「言ったでしょ。男は、細かいことをいちいち気にしないって。さあ、行くわよ」
そう言って、カレンがすたすたと歩き出す。
「都合が悪くなると、いつもこれや」
小声でぼやきながら、悟もカレンの後を追った。
二人は四階へと向うべく、静かに階段を上っていった。
このビルは、どの階も、すべて同じ構造になっているようだ。
四階も他の階と同様、奥まったところに部屋があった。
「ここにいて、顔を出しちゃ駄目よ」
悟を階段の陰に残して、カレンは右手に銃を握ったまま、部屋へ近づいていった。
足音を立てぬようにドアの前まで行き、ドアに耳を近づけて中の物音を窺う。
カレンの眼が、キラリと光った。
ドアは、内側に向かって開くようになっている。
カレンが、ドアを思い切り蹴ると同時に、左手の壁に身を寄せた。
開いたドアから、直ぐに銃弾の雨が通過していく。
ジャケットのポケットから、小さなボール状のものを取出したカレンが、それを部屋の中に投げ入れる。
数秒後、部屋から閃光が走り、銃声が止んだ。
すかさずカレンが、部屋の中へ転がり入る。
矢継ぎ早に、くぐもった音が鳴った。
カレンが部屋から出てきた時、悟が両手を挙げて、階段の陰から出てきた。
大きな男が二人、悟の背に銃を突き付けている。
それを見た瞬間、カレンが舌打ちをした。
どこに隠れていたのかは知らないが、油断した自分を責める。
「銃を、捨ててもらおうか」
一人が、訛りの強い英語で言う。
カレンが、そうっと銃を置いた。
男の一人が、カレンに銃を向ける。
男が、無言で引金にかけた指に力を入れようとした瞬間、悟が床に身を投げ出した。
意表を突かれて、男の力が、束の間緩んだ。
その一瞬が、男たちの生死を分けた。
男たちの喉を,メスのように鋭く細いいナイフが貫いた。
男たちは、驚いたように眼を見開いたまま、膝から崩れていった。
「ナイス、サトル」
カレンが、満面の笑みを浮かべる。
「ごめんな、足手まといになってもて」
バツの悪そうな顔をしながら、悟が起き上がった。
「なに、言ってるの? 謝るのはこっちよ。あなたを一人にした、私が馬鹿だった。ごめんね、危険な目に合わせちゃって」
「気にするな、お互い様やないか」
一歩間違えば死んでいたかもしれないというのに、悟はけろりとした顔をしている。
「よく、タイミングよく伏せたわね」
「ああ、カレンやったら、あそこで絶対、何かするやろうと思ったからな」
笑いながら答える悟に、「さすが、私の旦那様ね」と言って、カレンも嬉しそうに笑った。
「ところで、あんなもん、どこから出したんや?」
どうやら悟には、命を落としかけたことより、ナイフの出所の方が重要みたいだ。
「ここよ」
カレンが、ジャケットの裾を叩いてみせた。
「ポケットだけやのうて、そんなところにも詰め込んどったんか」
悟が、呆れたように言う。
「ぐずぐずしている場合じゃないわ。上に行くわよ」
悟の言葉を聞き流して、銃を拾ったカレンが、弾倉を交換しながら階段へと向かいかけた。
「あの部屋は?」
悟が、奥の部屋を指さす。
「モニタールームよ。五人くらい、いたかしら」
こともなげに答えて、カレンが歩き出す。
「なあ、志保さんはおるんやろうか」
「上に行けば、わかるわ」
「隠し部屋とか、あるんとちゃうか」
「そうかもしれないけど、とにかく、あと一階よ。そっちを先に調べましょ」
邪魔する者もなく、二人は五階に上がった。
「どうやら、ラスボスのお出ましね」
何かを感じたのか、カレンの眼が鋭くなった。
「サトル。私が入っても、暫くドアの前で待ってるのよ。多分、さっきみたいなことはないから」
確信を持った口調で悟に言って、カレンが無造作にドアを開けた。
そのまま、躊躇いもなく足を踏み入れる。
数歩進んだカレンが、突然身を捻った。
直後、カレンの身体すれすれに黒い影が舞い降りる。
すかさずカレンが、黒い影に向かい、肘を打ち込んだ。
影が体を半回転させ、カレンの肘が空を切った。
そこまでは、ほんの一瞬の出来事だった。
悟から、黒い影の横顔が見えた。
劉だ。
息を殺してドアの上に潜み、二人を待ち伏せていたのであろう。
カレンは遠くから、その気配を感じ取っていたのだ。
悟は今更ながら、カレンの勘の鋭さに舌を巻いた
劉は大型のナイフを構え、残忍な笑みをカレンに向けていた。
カレンが、シュルッという音を立てて、ベルトを引き抜いた。
細い編皮を何本か束ねた、お洒落なベルトだと思っていたものが、一瞬にしてムチに変わった。
「そんなもんまで、身に付けとったんか」
悟が呆れたように、ぽつりと呟く。
カレンは、右手に握ったムチを空中高く一直線に伸ばすと、そのまま器用に、手首から肘まで巻きつけた。
「サトルを撃った代償は、高くつくわよ」
抑揚を抑えた声で言うカレンの全身からは、妖気が漂っている。
劉は、ますます残忍な笑みを、顔一杯に張り付かせた。
劉は、美しい女を切り刻むのが大好きだ。
特に、カレンのような気の強い女なら、尚更だ。
カレンをねじ伏せ、その美しい顔をナイフでずたずたに切り裂く。
それを想像するだけで、股間が熱くなるの感じる。
噂通り、根っからのサディストだ。
暫く、二人は睨み合っていた。
時間にしてものの数秒ほどであったが、二人の対峙を眼を凝らして眺めていた悟には、永遠の時が刻まれていくように感じられていた。
やがて、二人の周りの空気が揺れた。
劉が、素早くナイフを突きだしてくる。
それを、カレンが右手に巻いたムチで弾く。
軽く金属のこすれ合う音がして、劉のナイフが流れた。
ムチには、鋼線が幾重にも織り込んである。
小口径の弾なら軽く弾くだけの硬度があるので、ナイフくらいではびくともしない。
平気で弾き返したように見えたが、ナイフを受けたカレンの右腕は痺れていた。
それほど、劉のナイフを繰り出すスピードが速かったのだ。
切っ先に込められた力も、常人のものではなかった。
噂以上だ。
顔にこそ出さなかったが、カレンは劉の強さに、内心舌を巻いていた。
同時に、久しぶりに本気で殺り合える相手に巡り会えた喜びに、打ち震えてもいた。
再び、劉のナイフが、カレンの胸を襲う。
今度は強く踏み込んでいる分、さきほどの攻撃より速度が増している。
ナイフが胸へと突き刺さる寸前に、カレンが身体を回転させた。
その反動を利用して、劉の後頭部に、鋭い肘を打ち込んだ。
劉は「グッ」と低い呻きをあげたが、カレンに躱され前へと泳いでいた状態が幸いして、致命傷には至らなかった。
続いて、カレンが蹴りを入れようとした。
それを予測していたように、振り向きざま、劉がナイフを横に払った。
すんでのところで足を止めて、カレンがナイフを躱す。
カレンの額から、一筋の汗が静かに流れ落ちている。
悟は、こんなカレンを見るのは初めてだった。
これまでどんな敵であっても、涼しい顔をして一撃のもとに倒してきたカレンが苦戦している。
表情にこそ表さないが、汗をかいているのを見ても、カレンが苦戦しているのがわかった。
劉の攻撃が変わった。
カレンを隅へと追い込むように、素早く、小刻みにナイフを繰り出してきた。
カレンが、劉の素早いナイフを躱わしながら、後退していく。
そうやって、徐々に壁際へと追い詰められていった。
遂に、背中が壁に張り付いた。
退路を失ったカレンの胸に、凶悪な光を放ちつつ、劉のナイフが襲い掛かる。
「あかん!」
悟が絶望的な声をあげるのと、カレンの身体が沈み込むのが同時だった。
ナイフが、カレンの頭上すれすれを掠めていった。
幾筋かのブロンドが、宙に舞う。
渾身の力を出した一瞬の隙を突いて、カレンの両足が、劉の脛を強襲した。
劉がバランスを崩し、前へとつんのめる。
劉のナイフが、コンクリートの壁に深々と食い込んだ。
劉が態勢を立て直す間も与えず、カレンが立ち上がりざま、肘を劉の脾腹に打ち込んだ。
劉の身体が、クの字に折れる。
間髪を入れずに、劉の後頭部に、踵を叩き込んだ。
俗に言う、踵落としだ。
劉が、膝を突く。
止めを刺そうと、劉の側頭部めがけて、カレンが強烈な回し蹴りを放った。
刹那、空中に鈍い光が走った。
カレンは咄嗟に軌道を変えて、劉が引き抜きざま払った二本目のナイフを、すんでのところで躱した。
足を下したカレンの右脛が斜めに切り裂かれ、うっすらと血が滲んでいる。
獣並みの反射神経を持つカレンでなかったら、脛を断ち割られていただろう。
カレンと並び称されるだけあって、劉も凄い。
あれだけ、カレンの攻撃が急所に決まっているというのに、勢いも衰えずに反撃してくる。
常人ならば、とっくに戦闘不能になっているはずだ。
悟は、カレンがここまで苦戦するのを見たことがない。
カレンを信じてはいるが、心配だった。
しかし、固唾を飲んで二人の闘いを見守ることしかできない。
カレンに助太刀したくても、二人の常人離れした戦闘には、とても手が出せない。
却って、カレンの邪魔をするだけだ。
悟は、歯がゆい思いを堪えて、手に汗を握っていた。
頭を振って立ち上がった劉の顔に、もう笑みはない。
今は、あらん限りの憎しみを込めた眼で、カレンを睨んでいる。
劉とは対照的に、カレンの顔には笑みが浮かんでいた。
その笑みは、お前の腕はこんなものかと、挑発しているように見えた。
劉が低い唸りを発して、カレンにむかって跳躍した。
素早く、ナイフを突き出す。
それよりも早く、カレンが右手を振り、巻いていたムチを半分ほど解くと、劉の顔に叩きつけた。
劉の頬が、鋭利な刃物で切られたように、ぱっくりと割れた。
劉の前進が止まった。
裂けた傷口を左手の甲で拭い、甲に付いた血を見て、またもや劉の眼が憎悪に燃えた。
もはや劉の顔は、人間のものではなかった。
「あんたは、サディストだと聞いてるわ。私を、そんなふうにしたかったんじゃない。どうしたの、私の顔は綺麗なものよ」
今度は、言葉で劉を挑発する。
劉の顔が、一層歪んだ。
左手にナイフを持ちかえ、右手で素早く拳銃を抜いた。
しかし、銃口をカレンに向ける前にカレンの右腕がしなり、カレンの意思を受けたムチの先端が、劉の手から銃を奪い取った。
「手段は問わないって聞いていたけど、本当ね。あんたは、強いんじゃない。ただ、卑怯なだけよ」
今度の言葉は挑発ではない。
カレンは、心の底から嫌悪感を抱いたようだ。
吐き捨てるように言ってから、容赦なく劉に向かい、ムチを振るった。
劉が、両腕で顔を庇う。
そんな劉を嘲笑うように、カレンのムチは稲妻のように、劉を襲い続けた。
劉の腕が、みるみる朱に染まっていく。
それでも、ムチの雨は止まない。
いまや劉は、、頭といわず、腕といわず、足といわず、全身が朱に染まっている。
さすがの劉も、この攻撃には耐えかねたとみえ、窓ガラスを突き破って外へと踊り出た。
「おい、ここは五階やで」
悟が、劉が突き破った窓から下を覗いた。
「生きてるやんか」
「まったく、タフだこと」
悟の驚いた声を受けて、横に来て下を見たカレンが、呆れた声を出した。
劉は平然と立って、窓から顔を出している二人上を見上げていた。
心なしか、口元が歪んでいる。
笑っているのだ。
「サトル、脱出するわよ」
劉の右手を見たカレンは、切迫した声で言うや、悟の腕を掴んで駆け出した。
階段まで来たとき、下から凄まじい爆発音が聞こえ、建物が揺れた。
「しまった。遅かった」
「どうしたんや」
悟は状況が掴めず、戸惑っている。
「劉の右手に、リモコンが握られていた。起爆装置よ」
答えながら、カレンが階下の様子を窺った。
爆発は一階で起こったみたいだが、既に、煙がそこまで昇ってきている。
「ビルと一緒に、俺らを吹っ飛ばすつもりか」
状況が呑み込めた悟の顔が、緊張に包まれた。
「そういうこと」
カレンが再び悟の手を取って、屋上へと駆け上がった。
屋上へ出る扉は、ロックされていた。
「また、ピンを使うんか」
「そんな悠長なことをしてる暇はないわ」
カレンが、ポケットから粘土のようなものを取り出して、扉の上下の蝶つがいに貼り付けた。
「隠れて」
二人が、階段の陰に隠れる。
カレンが拳銃の狙いを定めて、二つの粘土状のものを狙い撃った。
ボンッボンッと電球が弾けるような音がして、蝶つがいが吹っ飛ぶ。
「行くわよ」
カレンが駆け出し、扉を足で蹴破った。
「ニトロまで持っとったんや」
屋上へ出た悟が、呆れたように言う。
カレンの足が止まり、悟に顔を向ける。
何かを言おうとして口を開きかけたとき、またビルが揺れた。
「すべての階に、爆弾を仕掛けていたのね」
忌々しそうな顔で吹き上がる煙を睨んでいるものの、カレンの口調は穏やかだ。
「なんで、一気に爆発させんのやろう?」
この状況で、そんなことを気にしている悟も凄い。
「私たちに、恐怖を味あわせたいんでしょ。そんなことより、ぐずぐずしてる暇はないわ」
カレンがそう言った時、三階と四階も爆発した。
「いい、サトル。ここから、思い切り飛ぶわよ。わたしを信じて、わたしの手を離さないで」
どうするんやとも聞かず、悟が「よっしゃ」と元気よく答える。
こんなときの悟は、とても頼もしい。
カレンの顔から、思わず笑みがこぼれた。
二人は手を繋いで、思い切り屋上から飛んだ。
二人の身体が宙に浮いたとき、五階も爆発した。
爆風に煽られた二人は一瞬浮き上がり、勢いをつけて前方へと飛ばされた。
「しっかり、私の身体にしがみついて。絶対、離しちゃ駄目よ」
落下しながら、カレンが叫んだ。
言われた通り、悟がカレンの腰にしっかりと腕を回した。
地面に激突するかと思われた時、いつの間に手にしたのか、カレンが街灯めがけてムチを振った。
ムチは意思を持った生き物のように街灯に絡まり、二人の身体は、遊園地の絶叫マシンのように激しく揺れた。
「ひゃっほう!!」
風を切る音と共に、悟の叫ぶ声が、カレンの耳に飛び込んでくる。
暫くの振り子運動のあと、二人は無事、地面へと足を着けた。
「いや~ バンジージャンプより迫力があったな」
悟がにこやかな顔で、カレンを見る。
そんな悟を、カレンは異星人を見るような目付きで見返した。
世界最凶と謳われているカレンでも、あの状況で歓喜の声を上げる悟を、薄気味悪く思っていたのだ。
「どうしたん?」
カレンの視線に、悟が不審を覚えたようだ。
「あなた、怖くはなかったの?」
「カレンを信じとったからな。それに、言ったやろ、カレンと死ねるんやったら本望やって」
この言葉で、カレンは理解した。
悟は、本当にわたしのことを信じきっている。
そして、自分がサトルのいない生活が考えられないのと一緒で、サトルも自分のいない生活が考えられないのだ。
だから、ああいった状況でも、生死を超えていられるのだと。
また、そうすることが、自分に負担を掛けないだろうということもわかっている。
「結局、志保さんはおらんかったな」
感慨に耽かけたカレンの心を、悟の言葉が呼び戻した。
「そうね。どうやら、嵌められたようね」
いつものカレンの口調で、返事をする。
「天下のCIAともあろうものが、とんだ失態やな」
「それは、どうかしら?」
「どういうことや?」
「そのうち、わかるわよ」
「また、秘密か」
うんざりした顔で、悟がぼやいた。
「美女には、秘密がつきものなのよ」
「それをいうなら、謎やろ」
そろそろ、裏切り者を炙り出す時が来たようだ。
悟に笑みを返しながら、カレンは、胸の内でそう思っていた。
その頃、志保は邪悪な笑みを浮かべながら、しなやかな指を、キーボードの上で滑るように走らせていた。
背中では、売れっ子のお笑い芸人が司会を務めるバラエティが、液晶画面に映し出されている。
人々を恐怖のどん底に落し入れた無差別殺人も、ここ十日ほどは起こっていない。
無差別殺人が鳴りを潜めてから二、三日の間、人々は戦々恐々としていたが、今では、けろりと忘れたように、日常生活を取り戻していた。
無差別殺人が起こっていた時に、数十年ぶりのグランドクロスがあった。
グランドクロスによる電磁波の乱れで、人間の脳に何らかの影響を与えたものだろうと、大勢の識者が意見を述べ、世間はその意見に同調した。
志保はそうなることを狙って、わざとその時期に仕掛けたのだ。
志保の狙い通り、無差別殺人はグランドクロスの影響だということで決着を見、その前に起こった飛び込み事件も、グランドクロスの前兆による仕業ということで落ち着いた。
不安を抱いた時、人間は何かに縋りたくなる。
今回も、そうだ。
安心した人々は、飛び込み事件も、無差別大量殺人も忘れたように、普段の生活に戻っていった。
一時は控えられていた歩きスマホも、以前のように横行している。
「バカじゃない」
低い呟きが、志保の口から突いて出た。
人間というものは、なんと愚かな生き物だろう。
いや、愚かというより、自惚れているのだ。
万物の霊長と、自ら名乗っているのが、いい例であろう。
万物の霊長というのは、この世のあらゆるものの中で、最も優れているものという意味だ。
最も優れているのならば、なぜ、自然を破壊するのだろう。
なぜ、限りある資源を、先のことも考えず、使い尽くすのだろう。
なぜ、生きるため以外に、罪もない動物の命を、平気で奪うのだろう。
なぜ、人々は殺し合うのだろう。
空を飛べる? 海を渡れる? 宇宙へ行ける?
それが、どうしたというのだ。
自らが寄って立つ大地、命を育んでくれる自然、恵を与えてくれる全てのものに感謝しない。
現代の人間ほど、共存共栄という言葉を忘れた動物はいない。
見の程知らぬ自惚れが故に、危機感もない。
なにかあった時だけ、泣き言を言うか、人のせいにして喚きたてるだけだ。
志保の、人間に対する憎悪は、最高潮に達していた。
もう、グランドクロスは終わった。
こんどは、何のせいにするのだろう?
明日になれば、人類滅亡のカウントダウンが始まる。
何もできず、ただ慌てふためく人類の姿を、志保は思い描き、唇の端を不気味に吊り上げた。
第12章 滅亡へのカウントダウン
隠れ家に戻った二人は、さすがに疲れきっていた。
「これから、どうする?」
物憂げな表情で、悟が尋ねた。
「まずは、裏切り者を炙り出すわ」
「そうやな、こんだけのことが続くと、誰かが裏切っているとしか思えんな」
悟も、CIAの誰かが、カレンを亡き者にしようとしているしか思えない。
「しかし、なんで?」
悟が、素直な疑問を口にする。
多分、今回の件は、赤い金貨が糸を引いていて、裏切者も赤い金貨の息がかかっているか、赤い金貨の一員なんでしょうね」
各国の政治家や役人、果ては諜報機関にも、赤い金貨に属している者がいる。
CIAにいても、なんらおかしくはない。
悟も、そのとこは知っているので、カレンの言葉に驚きはしなかった。
「赤い金貨は、本気でわたしとターニャを抹殺しようとしているようね」
「そうなん?」
「この件に、劉が出てきているのはおかしいでしょ。彼は、暗殺専門よ。それに、シホを手に入れるだけだったら、こんなに派手に襲ってはこないわ。今回の件を利用して、これまでの恨みを晴らそうってとこかしら。これからも、邪魔になるだろうし」
「ということは、志保さんも、赤い金貨の人間なんか?」
「さあ、どうでしょう? うまく利用されているだけかもしれないわよ」
「利用?」
「そう。多分、彼女のお姉さんを殺したのは赤い金で、復讐に燃える彼女を利用して、今の騒ぎを起こしてるんだと思うわ」
「なんのために?」
「デモンストレーションよ。彼女が完成させたプログラムを、どこかに高額で売りつけようってわけ」
カレンの読みは当たっていた。
金になるなら、どれだけ罪のない人々を犠牲にしても厭わないのが、赤い金貨という組織である。
だが、志保は赤い金貨の思惑を外れて、赤い金貨からも行方を眩ませて暴走を始めていることは、今のカレンに知る由もなかった。
「そうか、十分にありえるこっちゃな」
悟が頷いてから、話題を変えた。
「なあ、もしかしたら、裏切りもんはヒューストンかな?」
「どうして、そう思うの?」
「だって、カレンに恨みがあるやろ。それに、あいつが一番、カレンの動向を掴んでるし」
「さあ、どうかしら」
カレンの口調がこれまでとは違い、悲しみを帯びているのを、悟は敏感に感じ取った。
「どないしたんや?」
心配そうに尋ねる悟に、カレンが力のない笑みで応える。
「あのね、サトル」
いつもは、はっきりとものを言うカレンが、なぜか歯切れが悪い。
「なんや、カレンらしゅうない。言いたいことがあるんやったら、はっきりと言いや」
悟が、優しい笑みをカレンに向けた。
「ありがと」
しおらしく礼を言って、カレンが話を切り出した。
「わたしには、裏切者が誰か見当がついてるわ。それを教える前に、サトルに話しておきたいことがあるの」
「話?」
「実はね……」
カレンの話を聞いているうちに、悟の顔がみるみる緊張に包まれた。
「それは、ほんまなんか」
カレンの話を聞き終えたあと、悟が信じられないという顔をして念を押した。
「ええ、本当よ」
カレンが、悟の眼を見つめながら頷く。
憂いを湛えたその顔は、悟の胸を締め付けた。
「そうか」
カレンの話は、悟にとってあまりにも衝撃的過ぎた。
悟には、カレンにかける言葉がみつからなかった。
「それで、どうするつもりなんや?」
暫くの沈黙のあと、悟が沈痛な面持ちで言葉を絞り出した。
カレンが、自分の計画を悟に伝える。
「ほんまに、それでええんか?」
カレンが、こくりと頷く。
「わかった、カレンの言う通りにするわ」
カレンの胸中を思い、悟の胸は痛んだ。
これは、カレンの問題なのだ。
自分にできることは、ただカレンの手助けをすることだけだ。
そう思い定めて、悟はカレンの計画に異を唱えることなく、頷いてみせた。
カレンは、悟が素直に自分の計画を承諾してくれたことに感謝した。
カレンの計画は、悟を非常に危険な立場に置くことになる。
にもかかわらず、悟は嫌な顔ひとつせず、自分に従ってくれようとする。
いつもそうだ。
悟は自分のためだったら、平気で命を預けてくれる。
そこに、一切の迷いや躊躇いはない。
そんな悟を利用するようで嫌だったが、カレンにはその方法しか思いつかなかった。
悟を守ると言いながら、逆に窮地に追い込むような計画しか立てられない自分に腹が立って仕方がなかった。
そんなカレンの胸中を、悟は敏感に察した。、
「気にするなや、俺たちは夫婦やろ。妻が夫に頼みごとをするのに、なんの遠慮もせんでええ」
そう言って、にこりと笑ってみせた。
「ありがとう」
カレンにはそれ以上の言葉で、悟に感謝の気持ちを伝えることができなかった。
カレンの気持ちが凝縮された一言に、悟がなんともいえぬ笑顔で応える。
二人はどちらともなく近寄り、熱い抱擁を交わした。
二人にとって、無上の時間が過ぎてゆく。
暫くして、名残り惜しそうに身体を離したカレンが、ヒューストンに電話を掛けた。
それからもう一本、何処かへ電話を掛ける。
「さあ、手配は終わったわよ。これで今晩、裏切り者が誰なのかはっきりするわ」
電話を終えたカレンが、努めて明るい口調で言い、潤んだ瞳で悟を見つめた。
「そうやな。夜まで、まだ時間があるな」
カレンの視線を読み取って、悟もまた明るい口調で言ってから、そっとカレンを抱き寄せた。
家々の屋根が紅く染まった夕暮れ時。
悟とカレンは、地下室の寝室に設置してある、五台のモニターを見ていた。
モニターには、隠れ家の周囲が映し出されている。
カレンがリモコンを操作して、塀の外に視点を切り替える。
「いるいる」
さりげない風を装ってはいるが、隠れ家の四囲には、見張りが付いていた。
「お早いお出ましやな」
「出かけられちゃ困るからね」
「ご苦労なこって」
悟とカレンは、くつろいだ様子で肩を並べて、モニターを眺めていた。
人通りも少なくなる十二時頃、隠れ家から少し離れた処に、黒いワンボックスカーが三台停まった。
中から、黒装束に身を包んだ二〇人ほどの男たちが素早く飛び出してきて、隠れ家の周りを取り巻いた。
「まあ、沢山いるわね。ご苦労なこと」
カレンが、冷笑を浮かべる。
「まだ、あんなにぎょうさん残っとったんか」
「あれは、リュウの仲間じゃないわ。古巣の破壊工作員よ」
「え、そうなん。それやったら、やめにせえへんか?」
「だめよ」
悟の驚きを流すように、カレンがきっぱりと首を振る。
「そやかて、元の仲間やろ」
「奴らは、私たちを殺しにきたのよ」
「ターゲットが誰か、知らされてないかもしれんやんか」
悟は何とかカレンを思い止まらそうと、必死で説得を試みた。
「だから、どうだっていうの? 奴らは、ターゲットが誰かなんてことは関心ないわ。ただ、命令されたことを実行するだけ」
いつになく、カレンが熱くなっている。
「私には、古巣だろうがどこだろうが関係ない。私たちを殺しに来る奴は、すべて敵よ」
「わかった。カレンの思う通りにしいや」
カレンの剣幕に圧されて、悟はそれ以上何も言えなかった。
「ごめんね、サトル。でも、これだけは信じて。私は、決して殺戮を好んではいないのよ」
カレンが、縋るような目で、悟を見る。
「いや、そんなことは思ってへん。俺の方こそ、いらん口出して悪かった」
既に引退したとはいえ、一度スパイ家業に身を置いた者は、死ぬまで平穏には暮らせないのだと、つくづくと悟は思った。
「ありがと」
カレンが、安堵の笑みを悟に向ける。
「ところで、ここは大丈夫なんか?」
「シェルターとして作ってあるから大丈夫よ」
「そうか」
隠れ家の周りを取り囲んだ男たちは、闇に同化して動かない。
カレンが、リモコンで家の灯りを消した。
それでも、一時間ほどは、何の動きもなかった。
用心深く、完全に寝静まるのを待っているのだろう。
監視カメラは、夜になると赤外線機能に切り替わるので、闇に蹲る男たちの姿を、はっきりとモニターは捉えている。
ようやく、闇が動きだした。
男たちは、手にサブマシンガンを構えて、慎重に隠れ家へと忍び寄っていく。
かなりの訓練を積んだプロらしく、統率が取れており、動きに無駄がない。
リーダーらしき男がハンドサインを送ると、五人が裏口へと回った。
残りのうち五人が、表玄関の前にサブマシンガンを構えて待機し、後はそれぞれの窓に張り付いた。
襲撃の体制が整うと、一人の男が表玄関に耳を当て、暫く中の様子を窺ったのち、針金のようなものでロックを解いた。
ドアチェーンを掛けていたが、小さなスプレー缶を取り出すと、それをチェーンに噴射した。
チェーンは腐食したかのように、ぼろぼろに崩れていった。
ブルートゥースのヘッドセットを耳に当てていたリーダーが頷いた。
裏口も開けられたようだ。
再びハンドサインを送ると、表玄関と裏口から、男たちが次々に中へと侵入していった。
窓を固めている者たちは引金に指を掛け、悟とカレンが窓から逃げようとすれば、即座に射殺する態勢を取っている。
男たちが侵入してから十秒後。
「今度生まれてくるときは、ただの民間人として生まれてくるのよ」
静かな口調で言うと、カレンがリモコンの起爆装置を押した。
大音響と共に、火柱が舞い上がる。
窓の外で構えていた男たちが、砕け散るガラスと一緒に吹き飛ばされながら、紅蓮の炎に包まれた。
「俺みたいな、民間人もおるけどな」
モニター越しに紅蓮の炎を眺めながら、悟がぽつりと呟いた。
「サトル、そろそろ出かけるわよ」
襲撃者を吹っ飛ばした翌朝。
カレンが身支度を整えて、悟を急かしている。
「どこから出るんや?」
悟の疑問はもっともで、カレンの言葉通り、地下室には影響を及ぼさなかったものの、未だ隠れ家の周辺には警察車両が何台も停まっており、現場検証が続いている。
地下室への入り口は巧妙に隠されているので、警察に気付かれずに済んでいるが、大勢の警官が居るところへ、のこのこと顔を出すわけにはいかない。
「大丈夫よ。ここには地下道があってね、少し離れた家に通じてるの。そこも、わたしの隠れ家なの」
「用意周到やな」
苦笑を浮かべて、点けていたテレビを消そうとリモコンを手にした悟の動きが止まった。
悟の目が、テレビの画面にくぎ付けになる。
画面の中は、黒煙が充満していた。
その黒煙の中に、かすかに風景が見える。
かすかな風景は次々と変わっていくが、黒煙だけは変わらなかった。
皆が平穏に戻ったと錯覚していた、月曜の朝。
凄まじい衝撃が、日本全土を襲った。
通勤ラッシュで混雑する、秋葉原の総武緩行線。
三鷹から千葉を繋いでいるこの路線は、御茶ノ水から錦糸町までの間が、ひどく混雑する。
特に、秋葉原での乗降客が多く、まさに立錐の余地もないような状態になる。
名古屋の東山線の名古屋駅。
ここも、ホームが狭いのもあるが、伏見や栄といったビジネス街に通勤する人々で込み合っている。
そして、大阪は、地下鉄御堂筋線の梅田駅。
御堂筋線は、一番ピークの時間帯には、へたをすれば改札の手前まで列をなしている。
二~三分に一本、電車が来るというのにだ。
最も混雑する、午前八時過ぎ。
まずは、その三ヶ所で、同時に口火が切られた。
大音響と共に凄まじい衝撃が、車両を揺すった。
各車両のいたるところで、爆弾が破裂したのだ。
あまりの凄まじさに、車両の欠片と人々の肉片が混ざり合い、塵となって空中に舞い上がったほどだ。
三ヶ所とも、その電車に乗り合わせて、生きている者は皆無という凄まじさだった。
東山線と御堂筋線は地下のため、爆発は駅を出発して走行している最中だったが、紅蓮の炎は、前後の駅までもを襲った。
ホームの手前にいた人々は、瞬時にして黒焦げになったほど、炎の威力は凄まじかった。
そうでなくとも、ホームで電車を待つ人々の多くが、重度の火傷を負った。
阿鼻叫喚の余裕もなく、数千人の命が、瞬時にして奪われた。
その騒ぎも収まらぬ十分後、日本のいたるところで、爆発騒ぎが起こった。
新幹線は言うに及ばず、飛行機でさえも、いくつもの機体が空中で四散した。
わずか一時間足らずで、数万人の命が奪われた。
悟が見つめている映像からだけでも、酸鼻を極めた状況が伝わってくる。
「いよいよ、始まったわね」
カレンも悟の横に来て、映像を眺めていた。
「これも、志保さんの仕業やろうか?」
「でしょ。多分、脳に働きかけて、素人に爆弾を作らせているのよ」
「そんなことが出来るんか?」
「出来るわ。催眠術みたいなものだもの。それにね、爆弾なんて、わりと簡単に作れるものよ。起爆装置やら時限装置なんてものを考えなければね」
「そしたら、自爆テロみたいなもんか」
「みたいなじゃなく、そうなの。この様子じゃ、ひとつの車両で、何人もの人間がお手製の爆弾を破裂させたみたいね」
「やばいな」
カレンが頷き、テレビを消した。
「ぐずぐずしてられないわ。行くわよ」
「そうやな。早ようケリを着けんと、どえらいことになるな」
モニターを見ると、もう現場検証の警官はいなかった。
それどころではなくなったのだろう。
念のため、二人は地下道を通って、別の家から地上に出た。
「多分シホは、赤い金貨の手を離れて、暴走してるんだと思う。このままだと、一週間で半分くらいの人間は減るわね」
歩きながら、カレンが言う。
「とんでもない数やな」
「人間が滅びようと、わたしにはどうでもいいことだけど、一応、受けた依頼は果たさなくちゃね」
「まあ、そうやな」
悟は、カレンのような境地には達していないので、少しでも罪のない人々が死んでゆくのを止めたいと思っていた。
そのためには、カレンを動きやすくする必要がある。
昨日カレンに頼まれたことを、うまくやってのけることが、一人でも罪のない人を救うのだということを肝に銘じて、悟はカレンについて行った。
二人は、都内の、とある公園へと向かっていた。
どこを走っていても、車窓からは、ところどころに立ち上る黒煙が見える。
人々はパニックに陥って、道路は大渋滞していると思われたが、いつもより車が少ない。
爆弾騒ぎは全国各地で起こっているので、みんな鳴りを潜めているものと思われる。
広い公園を歩いてゆくと、目立たない一角にあるベンチに座り、遠い目をして空を見上げているスコットの姿があった。
彼が見つめる先には、とても世の中が騒然としているとは思われないほど、抜けるような青空が広がっている。
ただ、ところどころに見える黒煙と、普段はお年寄りや赤ちゃんを連れたママの散歩が多いこの公園に、まったく人影がないのが、現状を物語っていた。
二人が何気ない仕草で、スコットの隣に腰を下ろした。
「すまない。まさか、あんなことになるなんて」
空を見上げたまま、スコットが謝りの言葉を述べた。
「リュウのこと? それとも、隠れ家のこと?」
スコットを見ることもなく、カレンも空を見上げる。
「隠れ家? 何のことだ」
スコットが怪訝な顔をして、空からカレンに眼を移した。
「ゆうべ、私の隠れ家が襲われたの。武装した集団にね」
「なんだって」
スコットが驚いた顔をする。
「大丈夫だったか?」
「だから、ここに来てるんでしょ」
カレンが、青空を見つめたまま答える。
「そうだな。で、襲ったのは?」
「暗くて、よくわからなかった」
「そうか」
スコットが俯いて、暫く何かを考えるように沈黙した。
そんなスコットの態度を気にも留めずに、カレンは相変わらず空を見上げたままだ。
悟は、何やら思い耽った様子で、前方の木々を眺めていた。
「やはり、ヒューストンだな」
唐突に、スコットが言った。
「多分ね」
カレンが空を見つめるのをやめ、スコットに目を移す。
「二人共、何の話をしてるんや」
初めて、悟が口を開いた。
「裏切り者の話よ」
カレンの後を、スコットが引き取る。
「カレンの行動を知っているのは、私とヒューストンだけだ。だったら,ヒューストン以外にはいないだろう」
「ちょっと待てや、裏切り者はあんたかもしれんやんか。あんたが裏切ってないという保証もないねんで」
「それはないわ」
即座に、カレンが否定する。
「なんでや?」
「私が、カレンの兄だからだ」
穏やかな口調で、スコットが告げた。
「な~んや、そうか。それやったらないわな、って、今、なんて言った? あんたが、カレンのお兄ちゃんやって?」
驚きのあまり、悟の目が大きく見開かれた。
「そうだ。私とカレンは兄妹だ。このことは、誰にも知られていない。もちろん、ヒューストンにもな」
重々しく頷くスコットを、悟が呆然とした顔で見つめる。
「黙っていてごめんね。別に、隠していたわけじゃないのよ」
「いや…… 別に、怒ってへんけど。そやけど、びっくりしたで。ほんま、心臓が止まるかと思ったわ。でも、二人とも似てへんな。名前も違うし。あんた、確か、スコット・グレイっていう名前やったよな」
「それは、私たちが腹違いの兄妹だからだ」
「それとね、今の名前は二人共本名じゃないのよ。私たちは、この世界に入るときに過去を捨てたの」
スコットの言葉に、カレンが付け足す。
「そうか、色々あったんやな」
二人の言葉に頷いた悟は、それ以上追及しようとはしなかった。
「本当にカレンは、サトルのことが好きなんだな」
悟が怒っていないとわかり安堵した表情になったカレンを見て、スコットが悟に右手を差し出した。
「サトル、こんな妹だが、これからもよろしく頼むよ」
「あ、ああ、まかしとき」
悟が、差し出された手を弱々しく握った。
一瞬ながら、悟の顔に躊躇いと困惑の表情が浮かんだのを、スコットは見逃さなかった。
スコットの眼が、怪しく輝く。
再び、空に目を向けているカレンは、二人の微妙な表情に気付いていないようだ。
「これから、どうする?」
「決まってるわ。ヒューストンをとっちめるのよ」
「そう言うと思ったよ」
スコットが微笑を浮かべた。
「だがな、カレン。ヒューストンをとっちめるのいいが、そんな悠長なことをしている場合ではないぞ」
微笑から険しい目へ、それから苦悩の表情と、スコットの面相はめまぐるしく変化した。
「まだ、日本のマスコミには知られてはいないが、この爆弾騒ぎは、世界の主要都市でも起こっている」
それを聞いても、カレンは驚きもしないで、「そうでしょうね」と返しただけだ。
「知っていたのか?」
「知らないわよ。だけど、飛び込みも世界中で起こっていたわけだし、これも日本だけではないと思ってたわ」
「さすが、鋭いな」
悟は微妙な顔をして、二人の会話を黙って聞いている。
「このままいくと、各国が疑心暗鬼に陥り、戦争に発展しかねない」
「それはないわ」
即座に、カレンがスコットの疑念を否定する。
「世界の主要都市で起こっているわけでしょ。なら、敵対国がテロを仕掛けてるなんて馬鹿げた妄想は抱かないはずよ。それに、ロシアがこの件を掴んでいるくらいだから、よその国も、あなた達が開発していたものくらい掴んでいるはず」
「手厳しいな」
苦笑を浮かべたスコットだったが、カレンの言うことは否定しなかった。
事実、最初の爆弾が破裂した時、アメリカは中国やロシアや北朝鮮やISの仕業と思い、中国はアメリカ、ロシアもアメリカの仕業と思って、三国間に緊張が走った。
しかし、その三国に限らず、イギリスやフランスやドイツ、イタリアなど、世界の数十ヶ国で同時多発的に起こっているのを知ると、その疑念は消えた。
また、世界に名を届かせているどんなテロ組織も、そこまで同時多発的にテロを起こせるだけの力はない。
そういった訳で、優れた諜報機関を有している国なら、この原因が何に起因しているかは、おおよその察しがついていた。
そうでない国は、一体、何が起こっているのかわからず、ただ戸惑っているだけだ。
「戦争は起きないでしょうけど、そうね、このままだと、一週間もしないうちに、人口は半分くらいに減っちゃうかもね」
冗談めかしく言ったが、カレンもスコットも、それが冗談で済まないことはわかっている。
諜報機関に身を置いている者は、人間という生き物の弱さをよくわかっている。
そこを突く職業だからだ。
大抵の人間が、追い込まれればどうなるかということも見通せる。
戦争は相手あってのことだが、今の状況は相手が見えない。
目に見えないものを、人は恐れる。
この状態が三日も続けば、世界のいたるところで暴動が起きるだろう。
さらに極限状態を通り越すと、人々は疑心暗鬼に陥り、魔女狩りまで起こりかねない。
このまま、断続的に爆弾騒ぎが一週間続くだけで、人類は勝手に滅亡の道を歩んでゆくに違いない。
二人には、それがよく見えていた。
「なんとか、シホを見つけられるといいんだが」
「大丈夫よ。見つける手段はあるから」
スコットが、目を瞠った。
「我々が手を尽くしても、見つけられないんだぞ。それを、どうやって?」
「それは、どうだっていいわ。それより、今は邪魔者を排除するのが先よ。でないと、先に進めない」
「そうだな」
スコットが納得したように頷く。
「そうと決まったら、行くわよ」
カレンが、元気よく立ち上がった。
いつもなら、「よっしゃ」といって続く悟は、なぜか浮かない顔をして、ベンチに座ったままだ。
「どうしたの?」
顔を覗き込むようにして自分を見つめるカレンから、悟は目を逸らした。
「どうしたの?」
いつもと違う悟の様子に、カレンが心配そうな顔を寄せた。
「なあ、カレン」
悟の声は、暗い響きを帯びている。
「裏切者は、許さへんのやろ」
「そうよ」
戸惑の表情を浮かべながらも、カレンはきっぱりと答えた。
「なら、ヒューストンも、許さへんつもりやんな」
「何が言いたいの? 言いたいことがあるのだったら、はっきりと言ってくれない」
悟の回りくどい言い方に、カレンからは戸惑いが消え、苛立った顔つきになっている。
「なら、はっきり言うわ。どうせ、ヒューストンも殺すんやろ。俺、もう、人が死ぬのは見とうないねん。東京に来てから、何人、俺の目の前で死んでいったんや。俺、もうこんなことはうんざりや」
カレンを見る悟の顔は、これまでに見たことのない苦悩が浮かんでいる。
「わたしを、裏切る気?」
カレンの形相が変わった。
殺気を帯びた眼で、悟を睨む。
「何で、そんな話になるんや。俺は、ただこれ以上、人が死ぬのを見とうないと言うてるだけやないか」
「今更、何を言ってるのよ! あなたは、わたしの夫でしょ」
「まあ、待て、カレン」
カレンが尚も尚も言い募ろうとしたとき、スコットが割って入った。
「いいか、カレン。サトルは民間人なんだぞ。ここまで耐えてきたこと自体が、凄いことなんだ。よく、これまで正気を保ってこれたもんだと思うよ」
「私と一緒に居るのだったら、これくらい、慣れてもらわないとね」
宥めようとするスコットを、カレンはにべもなく撥ねつける。
悟は、カレンの顔を見ようともせず、俯いて唇を噛みしめている。
「そうは言うが、これ以上は酷というものだ。どうだろう、今回はサトルを置いていった方がいいと思うんだが?」
カレンが、宙を睨んだ。
暫くそうやっていたが、やがて、肩の力が抜けたように、ため息を漏らした。
スコットに向けた顔は、穏やかになっている。
「確かに、東京へ来てから、気の休まる暇もなかったし、サトルも精神的に参っているのかもね」
「参らないほうがおかしいんだよ」
「そうね」
カレンが、寂しげな笑みを浮かべる。
「でも、そうなると、誰がサトルを守るというの?」
いつもの悟なら、このようなカレンの言葉を聞けば、自分の心を殺してでもカレンに従うのだが、今回はいつもと違う。
何も言わず、俯いたままだ。
「私が、付いていよう」
俯く悟を見ながら、スコットが力強く言った。
「あなたが? わかった。今回は私一人で行くわ」
カレンが、寂しげな表情で悟を見る。
「ごめんな」
ぶっきらぼうに悟が謝る。
これまでカレンに対して、悟がここまで逆らったこともなければ、冷たい態度を取ったこともない。
多少の文句は言っても、いつもカレンの好きなようにさせてきた。
確かに、カレンと出会ったとき以上に、今回は多くの人が死んでいる。
だが、カレンと一緒にいればいつかはこうなることは、悟には十分わかっていたはずだ。
「いいわ、私も少し言い過ぎたし。サトルは、スコットと一緒に待ってて」
カレンが、無理に作った笑顔を悟に向けた。
悟は、それに応えることなく、静かに頷くのみだった。
そして、また俯く。
「ヒューストンの居場所はわかっているな」
「ええ」
俯く悟を見ながら、カレンが心ここにあらずといった様子で答える。
「ことが片付いたら、連絡をくれ。私は、悟と一緒に待っているよ」
「わかった」
カレンはもう一度悟を見ると、吹っ切るように背を向けた。
そんなカレンを見ようともせず、俯いたままの悟の肩に、スコットの手が置かれた。
「私たちも、行こうか」
優しく言うスコットの言葉が、悟には悪魔の囁きに聞こえたが、そんなことはおくびにも出さず、悟は黙って頷いた。
スコットが言った通り、世界は大変なことになっていた。
時差の違いはあるものの、ほぼ同時刻に爆弾騒ぎが起こっていたのだ。
夜中や明け方の時間帯の国では、主にホテルが爆破された。
それぞれの国が、敵対国とみなす国々の仕業と思い、各国政府に緊張が走った。
それを打ち消したのは、敵対国でも同じことが起こっているということがわかったのもあるが、赤い金貨から声明が出されたからだ。
赤い金貨は、爆弾テロを止める条件として、莫大な金額を各国に要求した。
赤い金貨としては、本当はここまでの騒ぎを起こすつもりではなかった。
もっと小規模なデモンストレーションを行い、洗脳ソフトを、一番高値をつけた国に売りつけるつもりだった。
洗脳を解くソフトもあるので、それを別の国々に売りつける。
かくして、多額な金が赤い金貨の懐に入り、洗脳ソフトは無効化される算段だった。
いくら人命は金脈と謳っていても、人類が滅んでしまったのでは、なにもならない。
だが、赤い金貨の思惑は、見事に外れた。
志保が組織を出し抜いてどこかへ雲隠れし、暴走を始めたからだ。
洗脳を解除するソフトも、志保が持ち出してしまった。
赤い金貨の手元には、なにもない。
組織は、志保の行方を追いながら、金儲けをすることも忘れなかった。
主要国の政府や諜報機関には、赤い金貨に忠誠を誓った人間が、何人も潜り込んでいる。
これらの人間は、概要だけを知らされており、志保が裏切っていることは知らない。
ボスは、それをいいことに、各国に大金を要求した。
赤い金貨の要求に、激怒したのが中国だった。
噂通り、赤い金貨は中国の思惑を受けて組織されたのだが、生みの親も知らぬ間に、組織は変貌していた。
今のボスは、中国の傀儡であった頃とは別人になっている。
というより、この思惑があって、国家の傀儡になっていた。
もともと共産党の幹部だったのが、一党独裁の末路を見据えて、どこの国も手が出せない犯罪組織を作ることを夢見た。
赤い金貨のような組織を作る提案をしたのも、今のボスである。
彼の野望は、望み通りにいきかけていた。
それも、志保の裏切りにより、この先どうなっていくかわからない窮地に立たされている。
それでも、各国に大金を要求するというあたり、したたかなものである。
当の志保は、テレビを見ながら、満足げに頷いていた。
ほぼ思い通りに、プログラムが機能している。
これを三日も続ければ、世の中は混沌とするだろう。
ある国では暴動が起こり、また、ある国では他人が信用できなくなり、隣人同士でも殺し合いが始まるだろう。
政府が介入に乗り出して、騒ぎが少しでも鎮静に向かえば、また騒ぎを起こしてやればいい。
今の志保には、素人に爆弾の製造法をインプットすることなど、簡単にできた。
人は、ある程度まで操ることが出来ると、後は勝手に暴走してしまうものだ。
今の志保が、そうであるように。
志保の完成させたプログラムは、人の良心を無くしてしまう催眠効果が含まれている。
良心なんてものを持つのは、人間だけだ。
他の動物にはない。
ただ、生きていくためだけの欲と知恵があるだけだ。
悲しいことに、人は、生きていくためだけ以外の欲も持ち合わせている。
だから、良心というものを持つ。
それがなければ、とっくに自滅しているだろう。
地球と、そこに生きる者すべてを犠牲にして。
良心を無くした人間は、狂気を帯びる。
そうなると、人殺しの道具の作り方など、簡単に覚えてしまう。
人間というものは、どこまでも救われない生き物だ。
だが、果たしてそうだろうか?
人類を滅亡に追いやろうとしている志保だが、心のどこかでは悲鳴を上げていた。
(誰か、私を止めて)
志保は、人類が滅亡する前に、自分を殺してくれる者が現れるのを、心の片隅で祈っていた。
どんなことがあろうが、人間の良心というものは、そんなに簡単になくなるものではないのかもしれない。
第13章 裏切りの報酬
「とんでもないことになったもんだ」
桜井は、高柳と向き合っていた。
全国の爆弾騒ぎのために、緊急に呼び出されたのだ。
桜井の顔を見るなり、高柳は仏頂面をしながら、わざとらしくため息をついてみせた。
恨みがましい眼差しは、おまえが早く解決しないからこうなったんだとでも言いたげだ。
この場に、緒方はいない。
高柳から一人で来いと命令を受けたので、言われた通り、緒方は置いてきた。
「で、どこまで掴めたんだ」
恨みがましい眼差しを崩さず、横柄な口調で、高柳が訪ねる。
「まだ、なにも」
桜井が平然と答える。
「なにもだって? 調査に入ってから、何日が経つ? いったい、今まで何をしていたんだ?」
高柳が、机を叩いて怒鳴った。
「緒方は、どういった経緯で発掘したんです?」
高柳の怒りを受け流して、逆に桜井が問い質した。
「なんだって?」
予期せぬ桜井の態度に、高柳の怒りは急速に萎み、怪訝な顔になる。
「だから、緒方がここへ来た経緯ですよ」
「それと今回の件と、どういった関係がある?」
高柳は、怪訝とうより、警戒するような目を、桜井に向けた。
世界の三凶が集結している理由は、調べるまでもなく明白だ。
だが、この騒ぎを起こしているのが何者か? その理由は? スマホを操っているとは思われるが、どうやって?
それがわからない。
桜井はカレンとターニャと接してから、この二人から、その情報を得るのは不可能だと悟った。
そこで目を付けたのが、緒方だ。
緒方は、桜井の勘に、びんびん響いてくるものがあった。
桜井は、独自に緒方のことを調べた。
高柳の言ったように、確かに、緒方建夫という男は、レンジャーにいた。
しかし、その男は、もう死んでいる。
PKOで派遣された先のアフガンで、流れ弾に当たったのだ。
レンジャーに、同姓同名の者は除隊した者を含め存在しないし、自衛隊入隊時の写真も、今の緒方とはまるで別人だった。
公安の審査は厳しい。
たとえ、警察や自衛隊からの派遣であっても、職務の特殊性から、身元がはっきりしていても、不適切な人物は受け入れない。
ましてや、桜井が調べてもわかるような、別の人物を語るような人間を使うはずがない。
なのに、高柳は、桜井と組ませた。
これがなにを意味するかは、素人でもわかることだ。
「あるから、聞いているんです」
「おまえが、知る必要のないことだ」
「人に押し付けておいて、それはないでしょう」
「きさま、わたしを疑っているのか」
「疑うもなにも、あんたは黒よ」
桜井が口を開くより早く、女の声がした。
桜井が振り向くと、開いた入り口のドアに、カレンが腕を組んで寄りかかっていた。
「お、おまえは……」
高柳が驚きのあまり、顔を引き攣らせている。
「どうして、ここまで?」
「入ってこれたかって?」
桜井の後を引き取りながら、カレンが二人に歩み寄っていった。
「言ったでしょ。わたし達は、どこへでも入れるって」
カレンの言葉に引っ掛かりを覚えた桜井が口を開きかけたとき、
「なにを、偉そうに言っている。ここの警備は、万全のはずだ」
驚きから立ち直った高柳がそう言うと、おまえが引き入れたんだろうと言わんばかりに、桜井を疑いの目付きで見た。
「この程度で万全と言ってるようじゃ、ここの情報はだだ漏れね」
ターニャが、ドアを閉めて近づいてきた。
「驚いたな。一体、どうなってるんだ」
言葉とは違い、桜井には、大して驚いた様子も見えない。
さきほどのカレンの言葉が、納得できただけである。
「ちょっと、確かめたいことがあって」
ターニャが、つかつかと高柳の許に歩み寄って、左手の薬指に嵌めている指輪を、半ば強引に外した。
「なにをする」
顔を赤らめて、拳を振り上げた高柳に、鋭い声が飛んだ。
「大人しくしてなさい」
いつの間にか、銃を抜いていたカレンが、高柳のこめかみに銃口を押し当てた。
「こんなことをして、ただで済むと思う……」
精一杯虚勢を張った高柳だったが、無言のカレンに、こめかみに当てられた銃口に力を加えられて、黙り込んでしまった。
「フン、やっぱりね」
指輪を調べていたターニャが、冷笑を浮かべる。
「なにが、やっぱりなんだ?」
「内側を見て」
ターニャが、桜井に指輪を渡した。
「内側?」
桜井が指輪を受け取って、言われた通り、指輪の内側を見た。
「これは?」
「赤い丸の刻印があるでしょ」
桜井が頷く。
確かに、高柳の嵌めていた指輪の内側には、綺麗な赤い丸があった。
「赤い金貨の連中はね、組織に忠誠を誓った証として、どこかに赤い丸を持ってるの。指輪であったり、ネックレスであったり、服であったり、刺青であったりね」
「それは、知らなかったな」
桜井が知らなかったのも、無理はない。
このことは、組織の者以外には、あまり知られていないことなのだ。
カレンやターニャは、幾度となく赤い金貨の連中と戦ってきている。
二人とも、戦闘を通じて、このことを知った。
「あなたも、彼のことを疑っていたようね」
さして驚きもしない桜井を見て、ターニャが言った。
「まあね」
素直に、桜井が答える。
「きさま、なにを言ってるんだ」
高柳が、凄まじい目で桜井を睨みつけたが、当の本人は涼しい顔で受け流した。
「君たちは、なんでわかった?」
「あなたと一緒よ」
カレンの答えに、桜井が頷く。
「緒方か」
桜井は平静を装って返しはしたが、内心では、自分が高柳を疑っていることを見抜かれていたことに舌を巻いていた。
世界の三凶と謳われているが、この二人は戦闘力だけではない。
洞察力、観察力、勘。すべてにおいて、秀でている。
だから、幾多の修羅場を生き抜いて、世界の三凶と謳われるまでになったのだろう。
今更ながら、凄い連中を相手にしているのだと、桜井は思い知らされた。
「あんたは、いつ、赤い金貨のメンバーになったんだ?」
桜井の質問に、高柳は答えない。
「最初からでしょ」
代わりに、カレンが答えた。
「最初から? 確か、前任者は、この執務室で、心臓発作で亡くなったんだったな」
桜井が、何やら腑に落ちた様子で頷く。
その頃は、桜井はすでに公安に入っていたものの、別の部署におり、海外を飛び回っていた。
「その後釜に、あんたがなった。普通、あんたの立場には、警視庁の中から選任を行うんだが、あんたは外務省の出身だ。俺は、どうにも解せなかったが、どうやら読めたよ」
「フン、心臓発作にみせかけた暗殺か。赤い金貨も陳腐な手を使うものね」
「それを見破れなかった組織も、どうかしてると思うがね」
ターニャの皮肉を受けて、自嘲気味に言ってから、桜井が苦笑を浮かべる。
「赤い金貨のメンバーは、どこにでもいるわ。特に、お偉方には、欲の皮が突っ張った連中が多いのよ。そういった連中は、お金のためなら、平気で他人を犠牲にするからね」
カレンの言う通り、お金で人格が変わる人は多い。
成功するまでは高潔な志を持ち、清廉な人であっても、一たび大金を手にするや、まったく違った人格になる。
命までは奪わなくても、平気で他人を蹴落としたりする。
そうでない人もいるが、そういった人のほうが、少ないのではないか。
元来、人間とは、欲深い生き物なのだろう。
「もう、いい加減、観念したら」
終始無言でいる高柳に、銃を突きつけたまま、カレンが言う。
「わかった」
高柳が、殊勝な顔になる。
「わたしの、負けだ」
高柳が、ゆっくりと懐に手を入れた。
「いい度胸してるじゃない」
カレンが、引き金にかけた指に、力をかけた。
「慌てるな」
高柳の口調は、落ち着いている。
「この状況で、君たちに勝てると思うほど、わたしは馬鹿じゃない。それに、どのみち、わたしの命は長くない。組織は、しくじった者や、裏切者を、決して許しはしないからな。わたしも、君たちと同じ立場の人間だ。こうなったからには、潔く、自分でけじめをつける。君たちに慈悲があるのなら、ここから出ていってくれないか」
「その前に、知っていることを、全部喋ってもらおうか」
言った桜井の目は、怒りに燃えていた。
国を守る意識の強い桜井には、高柳のような人間は許せないのだ。
「わたしは、なにも知らんよ」
「そんなことはないだろ」
一歩踏み出しかけた桜井の肩を、ターニャが掴んだ。
「無駄よ。こいつは、組織の中でも下っ端。私たちが掴んでいる以上のことは、何も知らされていない」
ターニャの言葉に、カレンが頷く。
この二人がそう思うのだったら、間違いはないだろうと思い、桜井は高柳に詰め寄りかけた足を止め、どうするというように二人を見た。
「行きましょ」
応えたのは、カレンである。
ターニャは、すでにドアを開けていた。
桜井も肩をすくめて、高柳を顧みることなく、ドアに向かった。
三人がエレベーターに向かいかけたとき、部屋の中から、乾いた銃声が聞こた。
「やったか」
桜井が、憐みを伴った声で呟く。
「どうでしょうね」
カレンとターニャが同時に、意味ありげな笑みを浮かべた。
三人が、建物を出て少し歩いたとき、ビルの上から、爆発音が轟いた。
路上に、砕け散った窓ガラスの破片が降り注ぐ。
「やっぱりね」
またもや、カレンとターニャの声が重なった。
「どういうことだ?」
桜井が、不思議そうな顔で、爆発した窓を見上げる。
「あんな奴が、潔く自決するなんて思ってたの?」
カレンは、うすら笑いを浮かべている。
「あの銃声は、自分に向けて撃ったのではなかったのか」
半ば独り言のように呟いた桜井に、ターニャが冷徹な目を向けた。
「あなた、少し甘いわね」
「仕方ないんじゃない。いくら傭兵上りだからといっても、この世界とは別でしょ。それに、こんな平和ボケした国にいたんじゃ、甘くなっても当然よ」
擁護にもなっていないカレンの言葉に、桜井が唇を噛み、もう一度ビルを見上げた。
カレンとターニャは、振り返りもしない。
「火薬の量が多過ぎよ」
「どうせやるなら、派手な方がいいでしょ」
二人の会話で、爆弾を仕掛けたのがカレンだとわかった。
「どこに、仕掛けた?」
「ドアに決まってじゃない。あそこは七階よ。窓から出れるわけはないし、他に隠し扉らしきものもなかったしね」
あの時、カレンはそこまで観察していたのだ。
多分、ターニャも同じだろう。
それにしても、桜井には、いつカレンがそんな仕掛けをしたのか、皆目見当がつかない。
「いつだ?」
「入ってくる時よ」
「その時に、こうなることを見越してたのか?」
「さあね」
カレンは、それ以上言う気はなさそうだ。
「常に、備えを怠らないのが、生き延びる秘訣よ。それは、あなたも身に沁みてわかってるでしょ」
ターニャには珍しく、諭すようなことを言った。
少しは、桜井を認めているということだろう。
この二人を見ていると、国を守るということが、どれほど困難なことかよくわかる。
少しの甘えや妥協があっては、いつ足下をを掬われるかわからない。
日本が甘いと認識していたが、そんなレベルではなかった。
桁が違い過ぎると、桜井は思った。
同時に、それがわかってよかったとも思った。
これから、そういった奴らを相手にしたときの心構えができる。
「俺たちが出ていってから、暫く時間が経っていたのは、俺たちが確かめに戻ってくるかもしれないと思って、待ち構えていたんだな」
「少しは、経験学習できたようね」
カレンの言葉に、桜井が苦笑を浮かべる。
「本人にしては、起死回生のつもりだったんだろうな」
「言ったでしょ。彼は下っ端だって」
「所詮、その程度の頭しか、持ち合わせてないのよ」
「ま、そういうことだろうな」
今なら、二人が尋問しようとしなかった訳もわかる。
世界の三凶と謳われている二人を、その程度の策略で倒せると思っていた高柳は、赤い金貨のような犯罪組織で、重要な役割を担っているはずがない。
であれば、大した情報も持っていないだろう。
それにしても、国民を守るべき組織のトップレベルの人間が、犯罪組織のメンバーというのも情けないが、その程度の腕と頭というのが、桜井にはもっと情けなかった。
「ところで」
安全圏内まで遠ざかったとき、カレンが足を止めて、ターニャと桜井を見た。
「そろそろ決着をつけようと思うんだけど、手伝う気ある?」
その頃、悟は窮地に陥っていた。
カレンと別れた後、悟は、CIAのセーフハウスに連れていかれた。
絶対に安全な場所だと言うスコットの言葉を、悟は疑いもしないでついていった。
そこは、古ぼけたアパートの一室で、外観を見た時、悟は大丈夫かいなと思ったほどである。
しかし、中へ入った悟は驚いた。
外観と違い、中は要塞みたいな造りになっていた。
木製とドアを開けると、直ぐに鋼鉄製のドアがあった。
そのドアを開けるには、8ケタの暗証番号と、スコットの瞳孔認証が必要だった。
部屋に入ると、更に悟は驚いた。
部屋の造りにではない。
そこに、緒方がいたからだ。
「驚いたかね」
「少しな」
緒方を見た時の驚きは一瞬で、悟は部屋の中を見回した。
二段式の簡易ベッドがふたつに、スコットが進めた味祖素っ気もないテーブルとイスが三脚置いてあるだけだ。
特筆すべきは、窓は鉄板で塞がれ、壁もすべて鉄板で覆われていた。
「知っていると思うが、紹介しておこう。わたしの部下の緒方君だ」
「あんたの部下?」
スコットが鷹揚に頷いてみせる。
「言っておくが、カンパニーではないぞ」
「赤い金貨か」
悟が仏頂面をして、スコットを見た。
「よく、わかったな」
「裏切りもんは、あんたやったんやな」
それには答えず、スコットが質問をする。
「君は、カレンのことをどう思っている?」
「どうって?」
「本当に、カレンを愛しているのかな」
悟が、答えに詰まった。
そんな悟を見て、スコットがにやりと笑う。
「その様子では、あまり愛しているとは言えないようだな」
「そ、そんなこと…」
「ここにカレンはいない。遠慮せずに言いたまえ」
スコットが、悟の肩に腕を回し、椅子に座るよう促した。
悟は、素直に従い、パイプ椅子に腰かけた。
スコットも椅子を引き寄せ、悟と向き合う。
「彼女と一緒だと、命が幾つあっても足りんだろう。どうだ、この辺で、君も自由になりたいとは思わないか」
小狡そうな目で、悟を正面から見据える。
「どういつことや?」
「カレンと別れてはどうかということだ」
「そんなこと言うたら、殺されるだけや」
悟が、怯えた表情を見せた。
「情けない奴だぜ。たかが、女一人にびびってるなんてな」
それまで黙っていた緒方が、初めて口を開いた。
完全に小馬鹿にした顔つきで、悟を見る。
「その、たかが女に、あっけなくやられたのは、どいつやったかな」
緒方に顔も向けず、悟が侮蔑を含んだ口調で返した。
「なんだと、この野郎。あれは、女だと思って油断したんだ。そうじゃなきゃ、あんな女に負けるわけがねえ」
緒方が歯を剥き出して、声を荒げた。
「負け犬の遠吠えか」
悟の言葉が終わるが早いか、いきなり緒方が悟を殴りつける。
「てめえ、自分の立場がわかってんのか。今すぐ、撃ち殺してやる」
逆上した緒方は、悟に銃を突きつけ、引き金に指をかけた。
「よせ」
スコットが、拳銃を握った緒方の手首を掴んだ。
「感情に溺れて、殺すんじゃない」
「こんな生意気な野郎は、殺してやらねえと気がすまねえ」
悟に馬鹿にされたのがよほど頭にきたものとみえ、緒方の目は血走っている。
今にも撃たれるかもしれないというのに、悟は落ち着いていた。
それどころか、憐みを浮かべた目で、緒方を見ている。
「わたしの言うことが、聞けんというのか」
緒方より随分小柄だというのに、スコットの声には迫力があった。
緒方が、渋々ながら、悟から銃を離す。
「カレンは、恐ろしい女だ。それは、おまえも、身を持って知っているだろう。くだらん見栄を張るんじゃない」
緒方をひと睨みしてから、スコットが悟に目を向ける。
「君も、無茶な男だな。自分の立場をわかっているのかね?」
「説明してくれんと、わからへん」
恐れ気もなく答える悟に、スコットが苦笑した。
「わかった、説明しよう」
苦笑を引っ込めたスコットの目に、鋭い光が宿った。
「君に、仲間になってほしい」
「仲間?」
悟が、キョトンとした顔をした。
「仲間って?」
「単刀直入に言うと、カレンを裏切ってもらいたい」
「カレンを裏切る?」
悟の声が、1オクターフ高くなる。
「カレンを殺せるとしたら、君しかいないからな」
「ひとつ、訊いていいか?」
スコットが、無言で頷く。
「あんた、カレンの兄ちゃんやろ」
「そうだ」
「やのに、なんでカレンを殺そうとするんや?」
「カレンは、危険人物だ。彼女を野放しにしておくと、我が祖国のためにならないからだ」
「立派な心がけやな。自分も、祖国を裏切っているくせに」
「今の言葉は聞かなかったことにしよう」
再び、緒方が悟に銃を向けるのを手で制して、スコットが落ち着き払った口調で言う。
「ただし、これからは、口の利き方に気を付けることだ。二度許すほど、わたしは甘くないぞ」
鋭い目で睨まれても、悟は恐れる様子もなく、黙って肩をすくめたのみだった。
「サトル、公園での態度でわかったが、君は、無理やりカレンに従わせられているんじゃないのか? 君のような民間人が、このような非日常に付き合わせられては、たまったものではないだろう」
確信を突かれたのか、悟は迷子になった子供のように不安げな目で、スコットを見た。
「いいか、サトル。いつまでもカレンと一緒にいると、どこでどんな目に遭うかわからんぞ」
「だからって、カレンを裏切ったりしたら、殺されるやん。俺なんか、カレンに敵うはずないし」
悟が、泣きそうな表情になった。
そんな悟を見て、彼がカレンと縁を切りたいのだと、スコットは確信した。
「そうとも限らんさ。さっきも言ったように、この世でカレンを殺せるのは、君だけなんだ」
「冗談やろ」
「冗談ではない。いいか、カレンが心を許しているのは、この世でただ一人、君だけだ。わたしが、カレンをここにおびき寄せる。君は隙を見て、引き金を引くだけだ。それで、君は自由になれる」
「そんなことをせんでも、二人きりの時でもええやん」
「それが出来るのだったら、君は、とっくにそうしていただろう。違うかね」
スコットが、あざ笑うかのように、笑みを浮かべる。
「君には、きっかけが必要なんだよ。それを、わたしが与えてやろうというんだ。それに、わたしも、カレンが唯一愛した男の手にかかって死んでゆく姿を見たいしな」
「悪趣味やな」
顔をしかめて、そう言ったものの、悟はどうしようか迷っている様子だ。
「君は、カレンに言われて勤めていた会社を辞めたんだったな。どうだ、カレンを殺ってくれたら、一億やろう。暫くは、遊んで暮らせるぞ」
悟の迷いに付け込むように、スコットが猫撫で声を出して、指を一本立ててみせた。
「そんなこと言うて、カレンを殺したあと、俺も始末する気なんやないやろな」
疑い深げな眼で、悟がスコットを睨みつけた。
スコットが苦笑する。
「君の懸念はもっともだ。今まで、そんな場面ばかりを見てきたんだろうからな。安心したまえ。君には、まだ遣い道がある。そんな君を、殺しはせんよ」
「遣い道?」
「そうだ。カレンを片付けたあと、ターニャも同じように片付けてもらいたい。どうやらターニャも、君をお気に入りのようだからな」
「ターニャを……」
悟の目が、驚きで大きく見開かれた。
「ちょっと待てや、へたしたら、ターニャはカレン以上に危険やで」
慌てた口調で、悟が両手を振った。
「直ぐにとは言わんよ。カレンを殺ったあと、少し羽を伸ばせばいい。ターニャとは、その後で接触すればいいんだ。そして、暫くターニャと一緒に暮らすんだ。そうすれば、カレンと同じく、ターニャはいつでも殺れる。もっとも、その間は私に情報を流してもらうがね」
顔を蒼ざめる悟を落ち着かせようとでもするように、スコットが宥める口調でゆっくりと言う。
「それで、一億は安いやろ」
動揺から立ち直った悟が、小狡そうな眼をしてスコットを見た。
「ターニャには、もう一億出そう」
「全部で二億か」
悟が腕を組んで俯いた。
どうやら、スコットの提案を真剣に考えている様子だ。
やがて顔を上げて、指を一本立てながら言った。
「そんだけの危険を冒すんやったら、あと一億は貰いたいな」
スコットがにやりと笑う。
「抜け目のない奴だな」
「大阪人やからな」
悟が、しれっとした顔で言う。
「よし、カレンに一億、ターニャに二億出そう。一億は情報代だ。これで、文句はなかろう」
「しめて三億か」
悟の喉が、ごくりと鳴った。
「商談成立だな」
「その前に、一つ聞いてもええか?」
「何だ?」
中々うんと言わない悟に、スコットが少し苛立った様子を見せた。
「なんで、CIAを裏切った?」
「金だよ」
あっさりと、スコットが答える。
「CIAで働いていても、貰う給料はたかが知れている。特に、わたしのように内勤ならばな。所詮、この世は金だ。金さえあれば、どんなことでも叶うんだ、違うかね」
スコットが不敵な笑みを浮かべながら、演説口調で語った。
その言葉に、悟が下卑た笑いを浮かべた。
「あんたの言葉気にいったで。あんたの言う通り、この世は全て金や。よっしゃ、商談成立や」
悟が、親指を立ててみせた。
「そうか、やってくれるか」
スコットが満足気に頷く。
「ちょっと待ってください」
それまで、不服そうながら、黙って二人のやり取りを聞いていた緒方が、たまりかねて声を出した。
「こんな奴を、そんなに簡単に信用していいんですか」
悟を睨みながら言う。
「所詮、人間なんてこんなものさ。欲の皮の突っ張った生き物なんだよ。お前は、よく知っているだろう。私はな、彼が素直に最初の提案を受け入れていれば信用できなかったろうが、上乗せを要求したことで信用したよ。こんな状況に置かれながらも、損得勘定をする彼をね」
自信たっぷりに言い切るスコットに、緒方はそれ以上なにも言えなかった。
代わりに、悟を睨みつける。
「フン、お前も所詮こんなもんか。随分、俺に偉そうなことを言ってくれたが、金で転ぶお前は、最低のクズ野郎だぜ」
「誰だって、命は惜しいし、金はほしいわ」
「命より、金だろうが。上乗せまでしやがって」
「大阪人やからな」
軽蔑しきった緒方の視線を受けても、悟は動じることなく、けろりと言ってのけた。
第14章 コンゲーム
「これから、どうするんだ?」
桜井が、カレンに尋ねる。
三人は、公安のビルから、かなり離れた場所まで来ていた。
見渡す限り、爆破の煙がたなびいている。
一斉の爆破騒ぎは収まっていたものの、単発的にあちこちで、手製の爆弾が破裂している。
「あのソフトには、まだまだ欠陥がありそうね」
カレンが微笑を浮かべたまま桜井の問いに答えずにいると、ターニャがたなびく煙を見ながら、誰にともなく呟いた。
「わざととも思えるけど、多分、そうね」
カレンが頷く。
「どういうことだ」
「脳に与える影響が、人によって時間差があるということよ。それに、影響を受けない人もいる」
今度は、カレンが即座に答えた。
「そういうこと。今でも十分恐怖に落し入れているけど、シホはが狙っていたのは、こんなものじゃなかったはずよ」
「そうね。もっと大勢を動かすつもりだったんでしょうね」
二人の見解を聞いて、桜井はただ唸るのみだった。
ここまで悲劇的なことが起こっているというのに、二人とも冷静に状況を分析している。
幾多の修羅場を潜ってきたからなのか、人の死に心を動かされないのかはわからないが、自分とはまったく次元の違う人間だということだけは、桜井には認識できた。
「それも、直ぐに修正してくるでしょうね。明日になれば、もっと死者が出る」
ターニャは、恐ろしいことをさらりと言う。
「このままだと、後二三日もすれば、魔女狩りが始まるでしょうね」
カレンの言うことは、桜井にも理解できた。
恐怖を通り越した人の取る対応は、大きく分けて二種類ある。
ひとつは、将来を絶望して無気力になり、なにもしないで、ただ死ぬのを待つ。
もうひとつは、自己防衛本能が活発に発動し、自分を守るために、周りの疑わしい人々を血祭りにあげてゆく。
そんな人間が大勢出てくると、無気力になっていた人間までもが、リンチに加わってくる。
まさに、中世の魔女狩りがそうであった。
そこに、理性は働かない。
無意味に、罪のない人々が殺されてゆくのみである。
まことに、群衆心理というものは恐ろしいものだ。
いつ、どこで、爆弾の巻き添えになるかもしれないという恐怖は、人々をそこまで狂わせるに、十分過ぎる。
「で、これから、どうするんだ?」
再びの問いに、今度はカレンが答えた。
「決まってるわ。シホと決着をつけるのよ」
「居場所はわかっているのか」
「任せといて」
カレンが快活に頷いてから、「でも、その前に片付けなくちゃいけないことがあるわ」と付け足す。
「片付けること?」
言ってから、桜井は先ほどから感じていた違和感がなんなのかわかった。
「そういえば、杉村がいないな」
「そうね、いつも一緒のあなた達が、珍しいと思っていたのよ」
ターニャも、なにかを感じていたようだ。
「それは、これからわかるわ。ミスター・サクライ、あなたにも関係のあることだから、よかったら、一緒に来る?」
言われて、桜井はピンときた。
「緒方か」
緒方には、最初から引っかかるものがあった。
自分を失脚させるために、高柳が付けたと思っていたのだが、高柳が赤い金貨のメンバーであった以上、彼が引っ張ってきた緒方もそうだと言わざるを得ない。
「ウフ」
それが答えだとでもいうように、カレンが短く笑うと、スマホを取り出した。
「ハイ」
電話に出た相手に、陽気に挨拶する。
「こっちは、片付いたわ。サトルは元気?」
「愛妻だ」
スコットが楽しそうな顔を悟に向けてから、スピーカーフォンに切り替えた。
「それはよかった。ああ、サトルは無事に保護しているよ」
兄としての優しさを込めた声で、スコットが答える。
「早くサトルに会いたいから、そっちに行くわ。場所を教えて」
スピーカーフォンから流れてくるカレンの声は、いつもより沈んでいた。
緒方は手を口で押えて、笑いをこらえている。
悟は、黙って俯いていた。
「そうだろうな」
スコットが優しく言ってから、場所を教えた。
「わかった。サトルに代わってくれない」
「ちょっと待ってろ」
電話を保留にしたスコットは、悟にスマホを渡しながら、険しい顔で念を押した。
「いいか、余計なことを喋るんじゃないぞ。少しでも変な素振りを見せたら、即座に撃ち殺す」
「わかっとるわ。俺は、お前らの仲間になったんや、少しは信用せんかい」
悟が心外だというように怒りながら、手渡されたスマホの保留を解除する。
「カレンか? 俺や」
金でカレンを裏切ったというのに、悟の口調は、これまでとなんら変わらなかった。
「よかった。いつものサトルで」
その声に安心したのか、沈んでいたカレンの声が弾む。
「ああ、もう大丈夫や。さっきはごめんな」
「いいのよ、気にしないで。いつものサトルに戻ってくれて、嬉しいわ」
スコットは唇の端を吊り上げながら、緒方は相変わらず笑いをこらえながら、二人の会話を聞いていた。
「もう直ぐそっちに行くから、いい子で待ってるのよ」
「ああ、待ってるで」
まるで、デートの約束を交わす恋人同士みたいだ。
「なあ、カレン」
スコットの眉がぴくりと動き、手を懐に入れようとした。
それを、悟が手で制した。
「こないだ、俺にくれた本な。あれを持ってきてくれへんか。出かけるとき慌ててたから、持ってくるのを忘れてしもうてな。あれは役に立つから、持っておきたいんや。ほんま、ええもんくれたもんやで。今度お返しに、カレンの好きな寿司でも奢るからな」
スコットが安心した顔で、手を元に戻す。
「たかが、本くらいで大げさね。でも、お寿司は大歓迎よ。楽しみにしているわ」
明るい声で、カレンが笑った。
「じゃあ、待っててね」
掛かってきた時とは別人のような、弾んだ声で言って、カレンが電話を切った。
悟は、暫く無言になったスマホを眺めていたが、やがて深いため息をつくと、スコットに返した。
「上出来だ」
満足げな顔で、スコットが悟の差し出したスマホを受け取る。
「なかなか役者じゃねえか」
下卑た口調でからかう緒方に、悟は一瞥をくれただけで、何も言わない。
「ところで、本というのは何だね。そんなに、大切なものなのか?」
スコットが、興味深そうに訊いてくる。
「転職情報誌や。カレンを殺してもたら、喫茶店は続けられへんからな。どこか、職を探さんとあかんやろ」
「お前、これが無事終わったら、一億貰えるんだぞ。それでも、まだ金がほしいのか」
「大阪人やからな」
呆れたような緒方の言葉を受けて、悟がぶっきらぼうに答えた。
スコットは笑みを浮かべて肩をすくめてみせたが、眼は笑っていなかった。
「いいか、カレンが来たら、手筈通りやるんだぞ。ぬかるんじゃないぞ」
悟が、無言で頷いた。
「カレンを油断させるために、オガタがお前の頭に銃口を突き付けるが、お前が我々を裏切るようなら、即座に引金を引く。それを忘れるな」
「わかっとるわ。ごちゃごちゃ言わんと、まかしとき」
それから、三人が沈黙したまま、暫くの時が流れた。
スコットと悟は落ち着いていたが、緒方が少し苛々し始めた頃、ブザーが鳴った。
「来たぞ」
モニターに映し出されたカレンを見て、スコットがほくそ笑んだ。
「カレンが、軽い足取りで歩いてくる」
カレンがドアの前に立つと、「空いてるぞ」とスピーカー越しに、スコットの声が聞こえた。
「中は、まるで要塞ね」
笑顔で入ってきたカレンの顔が、凍りついた。
目の前に、頭に銃を突きつけられている悟の姿があった。
銃を突きつけているのは、緒方だ。
「いったい、どういうこと」
戸惑いながら、スコットに目を向ける。
「見ての通りさ」
スコットが、笑顔で両手を拡げてみせた。
「まさか、あなたが……」
カレンは、茫然とした目でスコットを見ている。
「 裏切り者は、あなただったの?」
「驚いたか。まさか、わたしが、お前を裏切っていたなんて、思いもしなかっただろうからな」
スコットが勝ち誇ったように言って、乾いた笑い声を立てた。
「そうね、まんまと騙されたわ。てっきり、ヒューストンだと思っていたのに」
顔を歪ませながら、悔しさを滲ませた口調でカレンが言う。
「だから、おまえはヒューストンを始末した。お蔭で、こっちは大助かりだよ」
「どういうことか、説明してくれない」
カレンが、険しい声で迫った。
「その前に、銃を捨てて両手を上げろ。おまえの可愛い旦那が殺されたくなければな。わかっていると思うが、そっとだぞ。少しでもおかしな真似をしたら、おまえの愛しいサトルは、即座にあの世行きだ」
スコットの言葉とともに、緒方の銃が悟の頭に強く押し当てられた。
緒方は、悟を撃ちたくてうずうずしているようだ。
カレンはスコットから眼を離さずに、ゆっくりとした動作で腰から銃を引き抜き、そっとしゃがんで銃を床に置いた。
銃を置くと、静かに立ち上がり両手を上げた。
「いい子だ」
スコットが、満足気に頷く。
「どういうことか、説明してくれる」
カレンが静かな声で、もう一度促した。
「説明してやりたいのは山々だが、このままおまえと話していると、どういう反撃をしてくるかわからんからな。悪いが、直ぐにあの世へ行ってもらうことにするよ」
スコットが、手にしていた銃をカレンに向けた。
「その前に、もう一つだけ面白いものを見せてやろう」
そう言うと、悟に顎をしゃくった。
悟は頷くと、腰の後ろに差していた銃を抜き出した。
その銃口を、ゆっくりとカレンに向ける。
「サトル、あなた……」
カレンが絶句した。
カレンの眼は、驚きのあまり見開かれている。
「これは、どういうことなの」
たとえ、銃を突きつけられていたとしても、命惜しさに悟が自分を裏切るはずはない。
これは悟の意思だと、カレンが思っているのは、蒼白な顔を見れば一目瞭然だった。
カレンが、迷子になった子供のような顔をして、スコットを見る。
「見ての通りさ。サトルは、お前を裏切ったんだよ」
スコットが、さも楽しそうに笑った。
「うそ! サトルが私を裏切るなんて、そんなことあるわけないじゃない」
カレンが悲鳴に近い声を上げ、駄々っ子のように激しく首を振った。
「ねえ、冗談なんでしょ。サトル、悪い冗談はやめてよ」
縋るような眼で、悟を見る。
「ごめんな、カレン」
精一杯の誠意か、悟はカレンの視線を申し訳なさそうに受け止めている。
「どうして?」
カレンの声が震えている。
「もう、こんなことに巻き込まれるのは、ええ加減うんざりなんや。カレンと一緒にいる限り、ずっとこんなことが続くやろ。それに、スコットはカレンを裏切ったら、一億円くれるっていうし」
「そんな、本気で言ってるの? サトルがお金で私を裏切るなんて、そんなわけないわよね」
悟に微笑みかけたが、ショックのあまりうまく笑みを作ることができず、カレンの顔は引き攣り、声もうわずっていた。
悟は、それには答えなかった。
ただ、苦渋に満ちた顔をしているだけだ。
スコットはそんな二人の様子を、さも楽しそうに眺めている。
「信じたくない気持ちはわかるがな、所詮、人間とはこういうものなんだ。この世界で生きてきたおまえには、痛いほど、よくわかっているはずだろう」
スコットはうすら笑いを顔に張り付けたまま、哀れむような眼をカレンに向けている。
そして、小馬鹿にした口調で続ける。
「我々の世界ではな、人を信じるなんてことはしちゃいけないんだよ。信じられるのは、自分と金だけだ。人を信じるなんて馬鹿なことをした奴は、早死にする運命にある。おまえのようにな」
カレンは何も答えない。
ただじっと、自分に向けられた銃口に目を向けている。
「せめてもの慰めに、お前が唯一人愛した男の手で、あの世に送ってやろう。サトル」
スコットが左手を上げた。
その瞬間、悟の銃が火を吹いた。
悟は、しっかりと眼を開けてカレンを狙い撃った。
轟音と共に、カレンが腹を押さえて蹲る。
「あ~あ、素人はこれだからな。一番狙い易いとこなんだが、腹を撃たれると、すぐには死ねないんだよな」
撃たれた箇所を押さえた指の隙間から、血が滴り落ちている。
苦しそうに蹲るカレンを、スコットがさも楽しげな口調で言いながら、しゃがみ込んでカレンの髪を掴み、カレンの顔を自分に向けさせた。
「しかし、苦しみながら死んでゆくのが、お前にはお似合いだよ」
楽しげな声が、一転して憎しみの口調に変わった。
もう、スコットを睨むだけの気力が残っていないのか、カレンは虚ろな目をして喘いでいるだけだ。
「よくやった、サトル」
スコットが満足気に頷きながら立ち上がり、悟に銃を向けた。
「褒美に、おまえは苦しまないで済むよう、一発であの世に送ってやろう」
「ちょっ、ちょっと待てや。それやったら、約束が違うやん」
悟が慌てた。
緒方が、悟から銃を奪い取る。
「言ったろう。この世界では、誰も信用しちゃいけないと」
スコットが、氷のように冷たく言って、引金に指をかけた。
「ま、待って。そ、その前に、わ、訳を聞かせて」
カレンが息も絶え絶えに喘ぎながら、弱々しくスコットに哀願する。
「まだ、言葉が喋れるのか」
スコットが緒方に目配せをし、それを受けた緒方が、再び悟に銃口を押し当てる。
床に血溜まりができるほど出血しているカレンを、実験動物を観察する冷徹な科学者のような目で、スコットがじっと見つめる。
「フム、その様子じゃ、もう反撃する力も残っていまい。よかろう、冥途の土産に聞かせてやろう」
スコットの心に、残忍さが芽生えた。
瀕死のカレンを、とことんいたぶってやろうという気になった。
「お前も、哀れな奴だな。実の兄に裏切られ、その上、愛した男にも裏切られるとはな」
そう言ってから、カレンの耳に口を近づけて「馬鹿な女よ」と吐き捨てた。
カレンには、もう言い返す力も残っていないようだ。
ただ顔を歪めながら、弱々しい目でスコットを見つめている。
その目には、唯一愛した男に裏切られた衝撃と悲しみが宿っているように見てとって、スコットが残忍な笑みを受かべる。
「私はな、お前がカンパニーのトップシークレットなんておだてられて、いい気になっているのが気にくわなかったのさ。お前がいい気になっていたとき、私はヒューストンの下で、使いっぱしりみたいなことばかりをやらされてたんだぞ」
「ようするに、カレンに嫉妬してたわけか」
緒方に銃口を突きつけられているのをものともせず、悟が呆れたように口を挟む。
「嫉妬? 馬鹿言うんじゃない。頭は、私の方が数段上なんだ。カレンが長けているのは人殺しの技だけだ。この世界で生き残って上にあがれるのは、私みたいに頭を使える奴だけなんだよ。暴力だけの奴は、利用されるだけされて、いつかは消えていくんだ。こいつみたいにな」
カレンが何かを言おうと口を開いたが、咳き込んでしまい、言葉ではなく血を吐いた。
「もう、あまり長くはもたんようだな」
カレンの様子を見て、スコットが満足気に微笑む。
「私はな、お前がエージェントとして活躍していた頃に、それとなく兄ということがわかるようにして、出世の糸口を掴もうとしていたんだ。その矢先に、こいつみたいなくだらん男にほれ込んだ挙句、カンパニーを抜けたりしやがって。今、私がカレンの兄だとばれてみろ、永遠に出世なんて望めやしないんだぞ」
よほどカレンが憎かいのか、スコットの顔は醜く歪み、罵る口調に憎悪が詰め込まれている。
「そやから、バレる前にカレンを殺そうとしたのか」
「それもある。それよりも、いい加減ヒューストンに使われているのにも飽きたんでね、ここらで、私がヒューストンの代わりをしてもいいだろうと思ったのさ」
「それで、今回のことを企てたと」
「そうだ。シホの姉を殺し、シホを我々の側に取り込んだ。そうして、カレンとターニャをおびき寄せ、組織にとって邪魔な二人を消しさる」
「ついでに、ヒューストンも消えてくれれば、万々歳ってとこやな」
「その通り。わたしの思惑通り事が運んだよ」
「嫌なやっちゃな」
悟が、顔をしかめる。
「ヒューストンの後釜に座って、赤い金貨のためにアメリカを売り、組織の中で出世しようってか」
「金で、カレンを裏切ったおまえに、言われる筋合いはないぞ」
悟が、黙って肩をすくめる。
「そろそろいいだろう。地獄へ行って、二人で喧嘩でもするんだな」
再び、スコットが悟に銃を向けた。
「最後に、ひとつだけ聞いていいか」
悟の声は、落ち着いていた。
「志保さんは、今どこや」
「それを知ってどうする。まあ、いい。冥途の土産に教えてやろう。彼女は、我々の手から逃げた。見張りに付けていた奴は、処分したがな。今行方を追っている。確保するのも、時間の問題だ」
スコットが、カレンに目をやる。
カレンは、もう目を閉じて、ぴくりとも動かない。
かすかな胸の上下だけが、まだ生きているということを示していた。
「これ以上、おまえ達に話すことはない」
「あばよ」
緒方が、さも楽しそうに悟の耳元で囁く。
乾いた銃声が轟いた。
銃声がした刹那、悟は撃たれたかと思い、目を瞑った。
が、別段衝撃も受けず、痛むところもなかったので、目を開けた。
スコットと緒方が左手で右腕を押さえているのが、悟の目に飛び込んできた。
二人は何が起こったのかわからず、呆然とした顔をしている。
二人の前に、銃を構えたカレンが立っていた。
「お、おまえ……」
驚愕で見開かれた目でカレンを見つめるスコットは、震える声でそれだけ言うのがやっとで、それ以上言葉が出てこない。
「聞いた? これで、大体の筋が掴めたわね」
大きな声で、カレンが誰にともなく言う。
「ああ、聞いたぜ。まったく、とんでもない奴らだな」
苦々しげな顔をして、桜井が入ってくる。
後には、ターニャとヒューストンが続いている。
「ヒューストン。生きていたのか? それに、ターニャも。これは、一体、どうなっているんだ」
驚愕からは立ち直っていたが、スコットは事態が把握出来ずに戸惑っている。
「自分では頭がいいと言ってたけど、どうやら、それほどでもなかったようね」
小馬鹿にしたように言うカレンの腹部は、真っ赤に染まっており、唇の端にも赤いものが付いていた。
しかし、口調はさきほどの瀕死の状態とは思えないほど、いつもの元気なカレンの声だった。
「タイミングどんぴしゃやな。一瞬、俺が撃たれたかと思ってヒヤッとしたわ」
悟がにこやかな顔をして、カレンの横に立つ。
「私が、愛する人を死なすわけがないでしょ」
カレンが、微笑み返した。
「サトル。おまえは、カレンを裏切ったんじゃ?」
スコットが、絞り出すような声で、悟を指さす。
「俺が、愛する人を裏切るわけないやろ」
悟が、カレンの口調を真似る。
「し、しかし、おまえは、本気でカレンを撃ったじゃないか」
「そうせんと、あんたは信用せんやろ。おかげで、調子こいてぺらぺら喋ってくれたもんな」
悟の言い方が可笑しかったのか、カレンが喉を鳴らして笑った。
「おい、あいつは、本当にただの民間人なのか」
桜井が呆れた口調で、カレンに囁いた。
「そのはずなんだけど、わたしも、時々わからなくなるのよね」
冗談とも本気ともつかぬ口調で、カレンが答える。
「彼を、我が組織に向かえ入れたいところだな」
ヒューストンは真顔だ。
ターニャは無表情な顔で、成り行きを見守っている。
「だめよ、サトルはこのままでいいの」
カレンに睨まれて、ヒューストンが肩をすくめた。
「いい加減にしろ。一体、何がどうなっているんだ」
スコットが苛立ちを露にして、声を荒げた。
今は、怒りと屈辱で顔を真っ赤に染めたスコットに、さきほどまでの勝ち誇った様子は微塵もない。
「そうね。あなたも教えてくれたことだし、私も教えてあげるわ。スコット、裏切り者があなただということはわかっていたのよ」
「何だって、いつわかったんだ」
「ハイ、ハイ。教えてあげるから、そう慌てないの。最初はね、私もあなたを信じていたのよ。なんたって、実の兄だものね。だから、裏切り者はヒューストンじゃないかと思ったわけ。彼なら、私を抹殺したい理由もあることだしね」
「それがどうして?」
「シホの隠れ家がガセで、赤い金貨の連中に待ち伏せをくらったと連絡を入れた時、あなた、わたしの声を聞いた瞬間、息を呑んだわね。本当に、シホの隠れ家だと思っていたら、あんなリアクションはしないはずよ。あれだけの罠を仕掛けておいて、わたしが生きていた事に驚いたんでしょ」
スコットは何も言わない。
それが、カレンの言葉を肯定していた。
「それにね、あなたに教えた隠れ家とは別の場所を、ヒューストンに直接教えたの」
「別の場所?」
「そうよ。隠れ家が一つだと思い込んだのはあなたの勝手だけどね、私が、そんなに甘いわけないじゃない」
間の抜けたスコットの顔を見やりながら、カレンが続ける。
「そうしたら、あなたに教えた隠れ家だけをカンパニーの奴らが襲ってきたでしょ。これで、裏切り者があなただってことがはっきりしたわけ」
「そんなことで、私が裏切ったと判断したのか。私は、ヒューストンの部下だ。ヒューストンに報告するのは当たり前だろう。ヒューストンがやらせたとは思わなかったのか」
カレンが、憐れむような目でスコットを見た。
「あなたって、自分で頭がいいと言っときながら、本当はここが足りないんじゃない」
言いながら、スコットの頭を銃口で小突いた。
スコットは屈辱を露わにして全身を震るわせる。
「おまえは、自らの手で、殺しておくべきだった」
凄まじい目つきでカレンを睨みながら、低い声で絞り出すように言った。
そんなスコットを無視して、カレンは先を続けた。
「いい、頭がいいと自負しているあなたに教えてあげるけど、もしヒューストンが裏切り者だったら、ヒューストンに教えた隠れ家だけか、両方の隠れ家が襲撃されていたはずよ。それが、あなたに教えた隠れ家だけが襲われたんだもの。誰が裏切者なのか、馬鹿でもわかるわよね」
カレンの言葉は、辛辣で容赦がない。
だが、悔しそうに顔をしかめるスコットを見つめるカレンの表情には、満足気な様子は微塵も浮かんでいない。
それどころか、どこか悲しそうだった。
「そいうことか。それで、ヒューストンを殺したように見せかけて」
スコットが、顔をしかめて唸った。
「そう、あなたを安心させるためにね。まんまと引っ掛かってくれたわ」
「おまえが裏切り者だと聞かされたときは驚いたよ」
ヒューストンが渋い顔をして、カレンの後を引き取った。
無理もない。
これまでスコットは、ヒューストンの忠実な部下だった。
いや、スコットが忠実な部下を演じていた。
エージェントから叩き上げてきたヒューストンだが、どこか人の良いところもあった。
カレンもそれを認めていたので、ヒューストンの家に押し入ったとき、殺さずに済ましたのだ。
「しかし、サトルの裏切りが演技だと、どうしてわかった。サトルは、おまえとは打ち合わせをする暇などなかったはずだ。おまえは、私のやり方を見抜いていたのか」
「大体はね。あなたは、小さな頃から陰険だったからね。そんなあなただから、サトルと二人にしてあげれば、うまいことを言って、サトルに裏切りを持ちかけるんじゃないかと思ったのは確かね」
「あの公園での諍いは、演技だったってわけか」
カレンはそれには答えず、うっすらと笑みを浮かべただけだ。
「わたしは、サトルに一億円をくれてやると言ったんだぞ。本当にサトルが裏切っていたら、どうするつもりだったんだ」
「どんな条件を出しても、サトルは絶対に裏切らないわ」
自信を持って言い切るカレンに、
「金より、命の方が大事やからな」
悟の言葉が続く。
そんな悟に、カレンは微笑みを投げかけた。
「私は、あなたに殺されるのなら本望よ」
カレンの言葉に、居合わせた皆が驚いた。
悟だけは、照れて俯いている。
「凄えな。カレンにそこまで言わせるなんて。一体、おまえは何者なんだ」
桜井が、眼を丸くして悟を見る。
「ただの民間人や」
胸を張って、悟が答える。
「それにね、あなたに連絡したとき、サトルに代わったでしょ。そのときに、サトルはちゃんと教えてくれたの」
カレンが、話を本題に戻す。
「馬鹿な。サトルは、そんなことは一言も話していなかったはずだぞ」
「言うてたで。カレンが俺にくれた本を持ってきてって。それに、そのお返しにカレンの好きな寿司を奢るってな」
「本? スシ? 確かにそんなことを言っていたが、それで何が伝わるんだ? そうか、暗号を決めてたのか」
「いいえ、暗号なんて決めてないわよ」
「じゃ、どうして?」
納得がいかない様子のスコットに、悟が答える。
「カレンはな、寿司が大っ嫌いなんや。それを、よう知っとる俺が、お礼に寿司を奢るなんて言うわけないやろ。それで、俺が裏切るぞと教えたんや。それにな、俺はカレンから防弾になるからって、雑誌を二冊渡されたことがあってな。実際、それのおかげで死なずに済んだんやけどな。そやから、カレンから貰った本を持ってきてと言ったんは、俺がカレンを撃つという意味で言ったんや」
「そんなことで、カレンに通じると思ったのか?」
スコットは、驚きを通り越して呆れている。
「ああ、カレンなら、絶対わかってくれると信じとった」
悟が、自信を持って言い切った。
「実際、わかったもの。だから、防弾ベストを身に付けてきたのよ。ご丁寧に、血糊まで用意してね」
「防弾ベスト? 雑誌を入れてるんやなかったんか」
悟がカレンを振り返って、素っ頓狂な声を上げた。
「だって、サトルが撃つんじゃ、どこに当るかわからないもの」
カレンが、すました顔で返す。
「どこに当るかわからへんって、確かにそうやけど」
悟が、少し傷ついた顔をする。
「いい加減にしろ」
その場にいる者を置き去りにした緊張感のない二人の会話に、今まで黙っていた緒方の怒りが爆発した。
「おまえは、黙ってろ。後で、じっくりと話を聞いてやる」
桜井がドスの利いた声で言って、緒方を睨みつけた。
桜井は緒方に、ヒューストンはスコットに銃を突きつけている。
「愛国心なんて言葉を平気で口にする奴に限って、ろくな奴がいないって、私が言った通りでしょ」
カレンは緒方を見ながら冷然と言い放ち、再びスコットに顔を向けた。
「これでわかった? あなたを捕まえて尋問しても、本当のことは言わないと思ったから、こういう芝居を打ったってわけ。どう、私のお芝居。アカデミー賞ものだったでしょ。口に血糊の入ったカプセルまで仕込んだんだもの」
カレンがにこやかに言ったあと、直ぐに真顔になり、突き刺すような視線でスコットを睨んだ。
それから、嫌悪感を露わにした口調で言う。
「あなたが、修羅場を潜り抜けてきたプロだったら、私の流している血が本物かどうか、容易に見分けがついたはずよ。そんなこともわからないあなたが、わたしのようなエージェントを仕切るなんて、無謀にもほどがあるわね」
「……」
スコットは唇を噛みしめながら、凄い目付きでカレンを睨みつけている。
何か言いたそうだったが、唇がプルプルと震えるだけで、言葉は出てこない。
「おまえの演技も、大したもんだったぞ」
桜井が悟の肩を叩いてから、「さて緒方、おまえは、俺がとっくりと調べてやるから、覚悟しておけ」ドスの利いた声で、緒方の頭を小突いた。
「待ってくれ、桜井さん。俺は、こいつに脅されていただけなんです」
スコットを指差しながら、緒方が哀れな声を出す。
「何を、言ってやがる。おまえのことは、高柳から聞いたよ。奴は、逃れられないと観念したのか、潔く自分でけじめをつけた」
桜井のはったりに、緒方が乗った。
「嘘だ。俺は、あの人の子飼いだぞ。そんな俺を、あの人が売るなんて、ありえねえ。それに、 あの人は、潔くけじめをつける人じゃあねえ」
「おまえは、バカか」
桜井が、苦笑を漏らす。
悟は呆れた目で緒方を見、カレンとターニャは、冷ややかな眼差しで緒方を見ていた。
「スコット、お前は俺だ。覚悟しておけ」
ヒューストンが、スコットに向けた銃を、わずかに持ち上げてみせた。
その時、緒方が雄たけびをあげながら,、桜井の銃を奪おうと、手を突き出した。
桜井は慌てず、緒方の手を払いのけて、銃把で緒方の側頭部を殴打した。
緒方が、白目を剥いて昏倒する。
「バカは、どこまでいってもバカね。救われないわ」
カレンが軽蔑を込めた目で、倒れた緒方を見下ろした。
その時、緒方の頭が吹き飛んだ。
続いて、スコットの頭から脳漿が飛び散る。
傍らに立って、銃を突きつけていたヒューストンの顔に、スコットの脳漿と血しぶきが降り注ぐ。
カレンが悟を突き飛ばして、自信も横っ跳びに飛んで転がる。
ターニャと桜井も、カレンと同じ行動を取った。
スコットの血で目を塞がれたヒューストンも、咄嗟に身を伏せた。
ヒューストンを覗く三人が、入り口に向かって銃を向ける。
しかし、そこに人はいなかった。
それを見てとって、カレンが立ち上がる。
銃を下ろし、スコットに近づいた。
「赤い金貨もやるわね」
スコットの頭の破片を観察したカレンが、しかめた顔を上げた。
「なにが、起こったんや」
悟は、わけがわからない様子で、カレンに尋ねる。
「この二人は、頭に、小型の爆弾を埋め込まれてたのよ。裏切ったり、敵に捕まって拷問を受けたりした時、組織のことを喋らないようにね」
「えげつないことをするもんやな」
そう言ってから、はたとあることに気付いたように、怪訝な顔をする。
「それやったら、なんで、高柳はんは、頭を吹っ飛ばされへんかったんや?」
「脳波で感知しているわけじゃないからよ。そんな技術は、まだないし。多分、近くからリモコンで操作しているだけね」
「そうか。公安に入り込むのは難しかったというわけか」
「それもあるでしょうけど、まだ、彼の正体がばれたとは気づいてなかったんじゃない」
「じゃあ、なんで、この二人は…」
言いかけた悟の言葉が止まった。
部屋全体が、異様な雰囲気に包まれたからである。
その源は、ターニャだった。
ターニャの全身から、凄まじい殺気が放たれている。
それは、妖気といっていいものだった。
桜井が、反射的にターニャに銃口を向けた。
カレンが、その手を押さえて、桜井の銃口を下げさせた。
「心当たりがあるようね」
ターニャに向けた、カレンの目が笑っている。
「大ありよ。直ぐに本国に帰って、ニコルに償いをさせてやる」
いつも冷静なターニャにしては、珍しく怒気を含んでいた。
「まあ、そう慌てないの」
カレンは、全てを察していた。
ここに来る途中、ニコルからターニャに、途中経過を求める連絡があった。
ターニャは、よほどの事がない限り、ミッションが終わるまで連絡を入れない。
邪魔をされたり、指図されるのが嫌いなのだ。
そんなことをされれば、即座に任務を降りてしまう。
ニコルも、そのことはよく知っているはずなのに、今回に限って報告を求めてきた。
考えられることは、ただひとつ。
ターニャの上司のニコルも、赤い金貨の一員で、今回の件に絡んでいたのだ。
カレン達が部屋を出ていった後、高柳が連絡を取ったに違いない。
それで、ニコルが状況を知りたくて、ターニャに連絡した。
ロシアも爆弾騒ぎで大変な目に遭っており、大統領に報告を求められたからというニコルの言葉を信じて、ターニャは無愛想ながらも状況を報告した。
「あなたの言う通りよ」
カレンが自分の考えを述べると、ターニャが頷いた。
「それしか考えられない」
「酷い話だな。日本も、アメリカもロシアも、一体、どうなっちまったんだ」
桜井の顔に、憂いが満ちている。
「フン、人間なんて、そんなものよ。自分の欲望の前には、国家なんて関係ないの」
カレンが鼻で笑う。
「桜井さん、カレンの言う通りや。悲しいけど、それが現実や。今の世の中、政治家になろうちゅう人間は、そんな奴が多いと思うで。仮に、純粋に国家や国民のことを思っているお人には、風当たりがきついんちゃうかな」
悟が、桜井の肩を叩いて、慰めるように言った。
「サトルの言う通りね。今の世の中、そんな純粋な人間は、直ぐに叩き潰されるわ」
顔を拭い終えたヒューストンが何か言いかけたが、口を噤んだ。
ヒューストンは、本当に国家のことを思っている。
だから、悟やカレンの言うことは、心底理解できる。
彼もまた、欲の皮の突っ張った連中に、幾度も汚い罠に嵌められそうになってきたのだ。
彼が、エージェントからの叩き上げでなかったら、今頃とっくに潰されていただろう。
「とにかく、今は、そんなことを嘆いていても始まらないわ」
カレンが、桜井からターニャに顔を向けた。
「ターニャ、落とし前はいつでもつけられるわ。その前に、この馬鹿騒ぎを終わりにしない? ニコルに一泡吹かせてから、落とし前をつける方が楽しいでしょ」
「それはいいけど、シホの居場所は掴めるの?」
「任せといて」
カレンが、自信ありげに頷いた。
第15章 天使と悪魔
「こいつは凄え」
桜井が、カレンの隠れ家のコンピュータールームを見回して、目を丸くしている。
それ以上に驚いていたのが、ヒューストンだ。
「おまえに、こんな腕があったとはな」
驚きと同時に、少し恨めし気な響きも、その口調に混じっていた。
カレンに、こんな技術があると知っていたら、カンパニー時代に、もっとカレンに負わせる任務の幅が広がっていた。
ヒューストンの口調から、彼が思っていることを察知はしていたが、カレンは意にも介さない。
「美女には、謎が付きものなのよ」
さらりと言ってのけたのみだ。
ターニャは、桜井とヒューストンとは違う意味で驚いていた。
カレンがコンピューターに精通していても、別に驚きはしない。
ターニャも、ニコルには告げていないが、コンピューターの腕前については、それなりに自信がある。
戦国時代から、情報というものは大事だった。
かの有名な、織田信長の名を一躍知らしめた「桶狭間の戦い」、別名「田楽狭間の戦い」ともいうが、あれも、情報戦を制した結果の勝利だと、多くの歴史家が語っている。
ましてや、ITに始まり、ITに終わる今日においては、いかな戦闘のプロフェッショナルといえども、情報を疎かにし、機先を制せられては、実力の発揮をしようもない。
カレンとターニャが、これまで幾多の修羅場を潜って生き延びてこられたのは、そういった情報戦も大事にしてきたからだ。
特に、諜報機関となれば、力より情報が重きをなす。
ヒューストンやニコルも、そのことはよくわかっているはずだ。
しかし、一世代古い人間だ。
情報とITというものを、今一つ結び付けられていないのだろう。
カレンの設備を見て、ヒューストンが驚いているのが、いい例だ。
ITというものわかっていれば、カレンがこれくらいの設備を整えていて当然だと思うはずだ。
ターニャが驚いたのは、カレンにとっての機密事項といえるものを、皆にさらけ出したことだ。
ターニャもそうだが、帰属意識の薄い人間というものは、たとえ上司といえども、全てをさらけ出すことはしない。
ましてや、命に関わるとなれば、尚更だ。
(まだ、何かを隠し持っているというのか?)
ターニャは、じっとカレンを観察していたが、そうではないと思った。
今のカレンは、隠すことによって、身を守っているのではない。
カレンにとって、悟という存在そのものが、彼女の身を守る武器であり、彼女をより強くしている。
今のカレンだったら、悟を守るため、また、悟との生活を守るためだったら、地球をも滅ぼしかねない。
それが、ターニャには見えてきた。
さきほどの、スコット相手に打った芝居。
お互いを、心底信頼していなければ出来ないことだ。
(愛とは、そんなにも人を変えるものなのか)
これまで、異性に対して恋愛感情を抱いたことのないターニャは、不思議に思うと同時に、愛というもに畏怖を抱いた。
そんなターニャも、自分が変わってきていることには、気付いていなかった。
少し前までのターニャだったら、こんなことは考えもしなかっただろう。
愛情とは違うが、悟の天真爛漫な明るさに、ターニャ自身も気づかないうちに、影響を受けていたのだった。
カレンが志保の居所を掴もうといていた頃、志保はいよいよ最終段階に入っていた。
これまでのデータを活かして、プログラムに改良を重ね、スマホやパソコンだけではなく、テレビや、街のいたるところにある電光掲示板を通じて、人々をマインドコントロールしようとしていた。
そのプログラムが、もう数日で完成する。
これが完成すれば、スマホの奴隷ではない人達も、志保の思いのままに操ることができる。
最初の爆弾事件から三日。
世の中は、カレンの予言通りになっていた。
魔女狩りが始まっていたのだ。
いつ、どこで、爆弾が破裂するかわからない状況に、多くの人々はパニックを通り越して、一種の錯乱状態に陥っていた。
いわゆる、集団ヒステリーというやつだ。
そこまでいっていない人々は、家に閉じこもって戦々恐々としているだけだが、多くの人間は徒党を組み、裸や下着姿になって街を徘徊し、服を着ている者や荷物を抱えている者を、集団で襲っては、殺して回った。
裸や下着姿が、爆弾を持っていないという証になっていた。
この発端も、志保が仕掛けたものだ。
数人の人間を、そのように洗脳すれば、後は勝手に増殖してくれる。
良くも悪くも、人間いうものは、群れで動く動物なのだ。
こうして、文明国といわれる国々は、すべての機能が麻痺した。
スーパーやコンビニには食品が入らず、電気や水道も使えなくなる時間帯が多くなった。
そのため、人々は、飢えと渇きに苦しむようになった。
たまりかねた人々は、魔女狩りそっちのけで、倉庫や農家を襲うようになり、邪魔する者は、容赦なく殺した。
いたるところで、警官隊や軍隊と衝突が起き、どちらの側にも、多くの犠牲者が出た。
文明を誇っていても、食べていけなくなれば、こんなものである。
昔も今も、人々が拠って立つ基盤が脆いものだと思っている人は少ない。
特に、現代の人間は、それが顕著だ。
昔は、まだ自然というものを敬っていた。
今は、便利さを追求するあまり、自然どころか、地球そのものを破壊している。
なのに、地震や台風などの自然災害が起こると、政府のせいにする。
それが、実に馬鹿げたことだとは、誰も気付いていない。
自然を犠牲にして、便利さを享受しているという気持ちがないからだ。
今の生活を崩したくはないが、自然災害を受けても困る。
大いなる矛盾であろう。
何かを得るためには、何かを犠牲にする。
これが、節理というものだ。
へんに知恵がある分だけ、そういった自然の摂理というものがわからなくなっている。
もちろん、すべての人間がそうではないし、理屈が理解できれば、今の便利さを捨て去っても、自然を大切にしようとという人も多くいるはずだ。
自分勝手な反面、優しさを持ち合わせているのも、人間だ。
しかし、志保は、人間を憎むあまりに、すべての人間がそうだと思い込んでいる。
ここまできても、人々が悔い改めるなんてことは、これっぽちも思ってはいない。
だから、一度クリーンにしようと思っているのだ。
だが、そんな志保も、やはり人間である。
人間である以上、良心の呵責というものは付きまとう。
志保は、心のどこかで、自分を止めてくれる人間が現れるのを願っていた。
だから、無意識に、自分の居場所を特定できるための穴を開けていた。
ごく、わずかの穴だが。
「まだか?」
桜井の苛立った声が、カレンの背中に突き刺さった。
カレンが志保の居場所を探り始めてから、三日が経つ。
その間、前述したように、港では魔女狩りが始まり、暴動が起こっている。
この三日で、全世界で失われた命は、一億に達するとみられる。
魔女狩りや暴動が起こっていても、相変わらず、いたるところで爆弾が爆発していた。
公共施設だけではなく、マンションの一室が吹っ飛び、両隣や上下階の部屋に被害が出たり、古いアパートでは、建物全体が吹っ飛んだりしている。
爆発によって引き起こされる火事も続出していた。
カレンにターニャに桜井。
この三人が一堂に会して三日も一緒に過ごしているのは、考えてみればあり得ないことだ。
今は、自国の権益のみでいがみ合っている場合ではないというものあるが、三人とも、帰属意識が薄いというのが、共同戦線を張れている大きな理由だ。
桜井は、国民なくして国は成り立たないという信念の持ち主で、国と国民を守るという意識は強いが、権力闘争や縄張り争いには、まったく興味がない。
カレンとターニャに至っては、国や国民を守ろうなんて意識など、さらさらない。
ただただ、強敵と満足のいく戦いができれば、それでいいのだ。
そんな三人だからこそ、志保の所在を突き止めるべく、日夜、奮闘できていた。
といっても、コンピューターに向かいきりなのはカレンだけで、コンピューターに造詣の深くない桜井は、ただカレンの作業を見守るだけで、ターニャは手を貸すこともなく、のんびりとカレンが志保の居所を突き止めるのを待っていた。
「まだかって、まだ三日しか経ってないわよ」
「その三日の間に、多くの人命が失われているんだぞ。それに、今にも第三次世界大戦が起こりかねない。もう、一刻の猶予もない状況なんだ」
このまま、この状況が続けば、どこの国民も、批判は政府に向く。
というより、既に向いている。
政府としては、自分達の無能さを認めたくないがために、これらの事件を敵対国の仕業にしていた。
何も知らない国民は、政府の言葉を鵜呑みにして、敵対国をやっつけろと騒ぎ初めている。
日本ですら、放置しておけば、それこそ内乱が起こりかねない状況なのに、いわんや、他国の状況はもっと切迫していた。
政治家というものは、どこの国も自らの政権を維持するため、真実を国民に知らせないことが多い。
国が滅んでしまえば、政治家という肩書に、なんの効力もなくなるのに。
実に、不思議なものだ。
とまれ、桜井の危惧しているのは、そのことである。
カレンのコンピューターの腕前がどんなものか知らない桜井は、この騒ぎに胸を痛め、焦っていた。
「世界の優秀な技術者が束になっても、まだ突き止められないのよ。あの有名なアノニマス集団さえもね。彼らは、飛び込み騒ぎの時から犯人を追っているわ」
たしなめたのは、ターニャだ。
桜井と比べ物にならぬほどカレンを知っているターニャは、カレンが突き止めると言ったのなら、必ずそうするだろうと、疑いもしていない。
「一億くらいなによ。まだ、人口の七十二分の一しか減ってないじゃない」
カレンがキーボードを打つ手を休めて、振り返った。
「なんて、言い草だ。人口の七十二分の一しか減っていないなんて、そんな問題じゃない。いいか、一億といえば、この日本の人口の九割に当たるんだぞ。いわば、国が滅んだも同じなんだ」
桜井の怒りに、カレンが皮肉な笑みで応える。
「だから、どうだっていうの。人間は、多くの生き物を絶滅させてきたんでしょ。それなのに、自分たちが滅ぶのは許せないってわけ。そんなの勝手よ」
「人間と動物とは違う」
「ばっかじゃない。どう違うっていうの? 人間が、そんなに偉いわけ。あんたは、人間を神様だとでも思ってるの?」
「二人とも、くだらないことで喧嘩はよしなさい」
ターニャが割って入る。
「くだらないとはなんだ」
桜井が、ターニャに矛先を向けた。
「悪いけど、わたしもカレンと同じ意見なの」
ターニャが、冷たく言い放つ。
「あなたは、人として立派なんだろうけど、わたし達とは人種が違う」
「じゃあ、なんで、この任務を引き受けたんだ」
「カレンと劉と殺りあえるからよ」
「まあまあ、桜井さん」
尚も反論しようと口を開きかけた桜井の肩を、悟が叩いた。
「この二人に、そんなこと言うても無駄や。なんせこの二人は、異次元の住人なんやから」
相変わらず、悟の口調はのんびりとしている。
まなじりを吊り上げている桜井にに対しても、なんら乱れるところはなかった。
「失礼ね。誰が、異次元の住人よ」
カレンが、頬を膨らませる。
「自分でも、自覚あるやろ」
カレンの抗議を、悟は即座に却下した。
「まあね」
苦笑を浮かべて、カレンが肩をすくめる。
カレンが、悟の言葉に肩を竦めた頃、志保が最後のキーを押した。
深々と椅子に背をもたせ掛け、瞑目する。
人類が終焉を迎えるまで、あと48時間。
もう、後戻りはできない。
志保は、このウィルスに対するワクチンなど作っていない。
赤い金貨と違い、お金を儲けることなんて考えていないからだ。
これを止めるとするなら、志保の目の前にあるコンピューターを破壊するしかない。
電源を抜いても、内臓している特殊なバッテリーで、48時間後には自動的に再起動し、10分は稼働する。
それだけあれば、全世界にウィルスをばら撒くには十分だ。
トロイの木馬型といわれる、ある時期が来れば作動するウィルスを仕掛けることもできた。
そうすれば、今、ここにあるコンピューターを壊されても、防ぎようがない。
それをしなかったのは、天国に行ったであろう瑞穂が、志保の肩に手を置いていたからだ。
悪魔に変貌した志保の中に、瑞穂という天使が宿っていた。
志保は、自分はミュータントではないかと思っている。
人類を滅ぼすために、自然が、地球が生み出したミュータント。
どんな高度な知識を有しているハッカーでさえ、志保のコンピューターの技能の前では、子供同然だ。
ただ、そんな地球も、志保に一片の良心を与えていた。
それが、瑞穂だ。
瑞穂が生きている限り、志保の悪魔が目覚めることはなかった。
瑞穂が死んで、一時は良心を失い、悪魔に身をやつしたものの、今また瑞穂という良心が、志保の行く手を遮っている。
もう一人、自分の邪魔をするかもしれない人物がいた。
志保は、自分の邪魔をするであろう世界の三凶について、徹底的に調べていた。
劉については、記録は抹消されていたものの、掘り尽くせば出てきた。
劉は志保の護衛役だったが、瑞穂の復讐を誓う志保にとっては、最初から邪魔者だった。
ターニャも、過去の経歴を巧妙に組織が隠ぺいしてはいたが、志保の手に掛かっては、なんなく過去を知ることができた。
ただ一人、カレンだけがわからない。
徹底的に調べても、ごくありふれた経歴しか出てこなかった。
その経歴によれば、ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通の学生生活を送っている。
それを信じるならば、CIAに入った途端、変貌したということになる。
志保には、そんなことは、とても信じられなかった。
これまで普通の生活をしていた者が、突然、優秀な暗殺者になりうるはずがない。
組織が改竄していたのなら、劉やターニャと同様、志保は掘り当てていただろう。
それが、どんなに手を尽くしても掘り当てられないということは、カレンも志保と同等の技術を持っているということになる。
もし、カレンが、自分同様ミュータントだとすれば、これは手強い。
カレンは、殺しのテクニックにも秀でているのだ。
そういった意味では、カレンは自分以上だということになる。
もう一人、志保が気になる人物がいた。
それは、悟だ。
カレンが結婚した人間として、一応調べてみた。
二流の大学を卒業して、三流の商社に入社した。
志保が気になったのは、悟の記録に空白の期間があったからだ。
悟の父親も商社マンだった。
悟が中学一年の時、アメリカに転勤になり、家族共々移住している。
そこから、悟が帰国する高校三年までの記録が、どこを探してもみつからなかった。
悟には、二つ年下の妹がいた。
両親と、その妹の記録が、渡米後ふっつりと消えていた。
日本でもアメリカでも死亡届けは出ていないので、記録上は健在といえるが、渡米後間もなくから、医療記録も出入国記録もない。
なのに、現在は日本で働いていることになっている。
もし、志保を止める人間がいるとすれば、この二人だろう。
志保は、瑞穂の良心と、二人に対する好奇心から、自分の居場所を特定できる微かな穴を開けていた。
志保が、最後のキーを押してから24時間。
全世界に爆弾騒ぎは起きなった。
30時間も経った頃には、魔女狩りも鳴りを潜めた。
人間とは凄いもので、電気が直ぐに復旧し、物流も見る間に平常通りに戻っていった。
人は、食欲が満たされると大人しくなるらしい。
あれほど荒れ狂っていた暴徒の集団も、今はもういない。
そして、人は、直ぐに忘れる生き物でもあるようだ。
わずか30時間何も起こらないだけで、これまでのことはもう過去になり、悪夢でも見たような感覚に陥っている。
それが良いことなのかどうなのか?
それがため人類は発展を遂げたのだろうが、また、そのために同じ過ちを何度も繰り返している。
科学の発達と共に、人間が犯す過ちは、取り返しのつかないものになっていっている。
「どうしちまったんだろうな? まさか、あまりにも人が死に過ぎて怖くなったんじゃ」
「甘いわね」
首を傾げる桜井に、カレンとターニャの言葉が重なった。
「もう直ぐ、人類の歴史は終わる」
確信をもって言い切るカレンの言葉に、ターニャが頷く。
「どうして、そう言い切れる?」
桜井は納得がいかない口調で尋ねた。
CIAの上層部であるヒューストンですら、怪訝な顔をしている。
「シホの目的は、電気の復旧にあると思う」
桜井とヒューストンが、同時に首を捻った。
「わからない?」
二人にそう言って、カレンが、いつもと変わらぬ様子の悟に目を向けた。
「ハッキングできるのは、コンピューターやスマホだけやないからな」
「あなた、本当に馬鹿じゃないわね」
感嘆の声を上げるターニャに、「だから、俺をバカやと思っとったんか」と、悟が情けない声で応えた。
「思ってはないけど、まさか、ここまでだとはね」
「わたしの旦那様だもの」
カレンが、得意言な顔をターニャに向ける。
「どういうことだ?」
質問したのは、ヒューストンだ。
「まだ、わからない?」
ヒューストンが、悲しそうに首を振る。
「サトルに、あなたの立場を代わってもらったら」
「まあ、そんなことを言わずに、教えてくれないか」
辛辣なカレンの言葉にもヒューストンは怒ることなく、素直に教えを乞う。
「トゥルーフレンズもそうだし、通り魔や爆弾魔に仕立て上げるのに、シホは光彩を利用してるの。一種の催眠術ね。トゥルーフレンズや通り魔では、サブリミナルも併用してたけど、爆弾魔に仕立てているは、わたしの見るところ光だけ」
カレンがここまで言った時、桜井が「そうか」と大きな声を出した。
「今は、テレビもネットに繋がっている。広告塔もそうだ。多くのネオンは、コンピューターで制御されている」
「すると、なにか? シホは、それらのすべてを駆使して、なにかをやらかそうってのか」
ようやく、ヒューストンにもわかったようだ。
「多分ね。そして、その時が、人類の終焉ってわけ」
「催眠にかかった人が、みんな自殺すれば、何も破壊することなく人類は滅びる」
ターニャも、的確に志保の意図を読んでいた。
「残された時間は、後わずかだと思う」
カレンの推測に、ターニャが頷く。
「今は、時間との闘いね。わたしも手伝うから、さっさとシホの居場所を突き止めましょ」
{オーケー」
カレンとターニャがパソコンの前に座るのを、男二人は、自分の不甲斐なさを呪いながら見ていた。
「頑張りや」
悟だけは、いつものようににこやかな笑みを浮かべて、二人に励ましの声をかけた。
人類にとって、最大の危機を迎えるまで、あと5時間に迫った。
そんなことを何も知らない人々は、久しぶりに訪れた平和を、心の中ではびくびくしながらも喜んでいる。
人間の性というべきか、多くの人々は、起こってほしくないことを、起こらないと思い込む。
いわゆる、現実逃避という奴だ。
そういう人に限って、いざ事が起こると、パニックに陥り易い。
言っても仕方がない「タラレバ」を連発し、誰かのせいにしたがる。
どこまでも、現実と向き合おうとはしない。
もちろん、そうでない人もいる。
そういった人間が、現在、志保の起こした数々の事件を解決すべく、昼夜を分かたず取り組んでいる。
あと5時間で、人類が滅亡にまで追いやられようとは思ってないものの、このままでは済まないということはわかっていた。
多くのハッカーも、志保の影を追跡していた。
彼らは、人類の危機を救うという意識より、自分を超える者が許せないのと、パズルを解くような楽しみの方が強かった。
志保は、あれから、くつろいだ時を過ごしていた。
一時のように、憎悪に燃え盛る目はしていない。
今の志保は、どうしても人類を滅ぼしたいという気持ちは薄れている。
最後の最後に、人間の運に委ねようと思っていた。
カレンの調査をした時から、そんな気持ちになった。
カレンの過去はわからないものの、エージェント時代にカレンが行ってきた事については、ある程度掴んでいた。
トップシークレットだっということもあり、すべての記録を残しているとは思えないが、それでも、彼女がやってきたことは凄まじかった。
彼女が本気になれば、それこそ人類を滅ぼしかねないのではないか。
志保は、そう感じた。
志保における良心が瑞穂だったように、カレンにおける良心は悟だ。
大阪でのカレンを監視しているCIAと公安の記録をハッキングした結果、志保は確信していた。
悟に何かあれば、誰も手が付けられないだろう。
その場合、自然や他の動植物なんてどうなろうが、一切頓着しないと思える。
どちらも悪魔だ。
だが、志保が人類を滅ぼせば、志保は自然や動植物にとっての天使となり、志保の企みを阻止すれば、カレンは人間にとっての天使となる。
成功した方が、天使になれる。
「面白い」
志保が呟いた。
どちらが、悪魔か天使か。
あと5時間で、結論が出る。
志保は、それまでの時を楽しむことにしていた。
「わかったわ」
カレンがキーを打つ手を止めて、モニターを凝視する。
「どこだ?」
「ここよ」
声を揃える桜井とヒューストンに、モニターに映る赤い印を指さした。
そこは、池袋の西口にある繁華街から、少し外れたところだった。
「なんと、大胆な」
桜井が呆れる。
「木を隠すなら森の中って言うでしょ。シホは、あなたの教えを忠実に守ったのじゃない?」
皮肉な目でカレンに見つめられて、ヒューストンは肩をすくめてみせた。
「嫌な予感がする」
ターニャの言葉に、カレンが頷く。
「ぐずぐずしてはいられないわ。行くわよ」
カレンが、勢いよく立ち上がった。
志保の仕掛けたウィルスが流布するまで、あと90分と迫っていた。
終章 人類の未来
「とうとう、見つけられたか」
自分の居場所を突き止められた警告音に、志保が唇を歪めた。
志保の指が、踊るようにキーボードの上を滑っていく。
逆探知を行うと、この場所を特定したコンピューターは渋谷にあった。
残り時間は90分。
十分間に合う。
志保の居る建物は、古びた三階建てのビルだ。
その地下室に志保は陣取り、一階から三階までは無人である。
そのいたるところに、トラップを仕掛けていた。
建物内部はもちろん、建物の外の広範囲まで、志保は監視カメラを設置している。
地下室の壁面に、それらを映し出すモニターがびっしりと埋め込まれていた。
志保が微笑みを浮かべながら、スマホを取り出した。
コンピューターに接続し、あるボタンをクリックする。
「さあ、どうなるかしら」
うきうきとしながら、志保は沢山のモニターを眺めた。
「あのビルね」
カレンが見据える先には、古びた三階建てのビルがあった。
周りの建物は、爆弾騒ぎのお蔭で、ほとんどが破壊されている。
瓦礫にまみれた土地で、ただひとつぽつねんと佇むその姿は、奇跡でも起こったように見えるが、そうでないことは、その場にいた誰もが知っていた。
志保が、この建物だけは破壊されないように、人々をコントロールしていたことを。
「待てよ」
建物に向かって無造作に踏み出そうとするカレンを、桜井が止めた。
「どんな罠が待ち受けているかもわからんのに、あまりにも無鉄砲過ぎるだろ」
「そんなこといってる場合じゃないでしょ。わたし達に残された時間は、あとわずかかもしれないのよ」
驚異的なカレンの勘だ。
瓦礫や放置された車に埋まった道を走ってきたため、ここまで来るのに結構時間を費やしており、タイムリミットまで、あと20分しかなかった。
「待ち構えてるんだったら、慎重にいっても同じでしょ」
まだ何か反論しようとする桜井の肩に、ターニャが手を置いた。
前述したように、この辺りは瓦礫の山に埋もれ、まともな建物は皆無といってよいくらい無い。
これも、志保の策略だった。
お蔭で、武装した四人が、人目に立つことはなかった。
ヒューストンも、現役の頃は武闘派で鳴らしたエージェントだ。
当然のごとく参加している。
悟は、今回も護身用の拳銃一丁だけだ。
「わたしの後をついてきて」
悟にそう言って、カレンが歩き出した。
建物の数メートル手前まで来たとき、カレンが手を挙げて、皆を止めた。
手にしていたM16を右肩に掛け、代わりに、左肩に掛けていたRPG7を手に持つ。
ターニャも、AK47からRPG7に持ち替える。
「そんなもんぶち込んだら、結城を吹っ飛ばさないか」
「大丈夫よ」
カレンが、桜井の心配を一笑に付した。
「彼女は、そんな間抜けじゃない。これくらいのことは想定してるでしょ」
そう言って、建物に向かいPRG7を構える。
「さあ、カーニバルの幕開けよ」
陽気に言うと、RPG7をぶっ放した。
勢いよく発射された小型のミサイルは、あっという間に入口のドアをぶち破り、大音響と共に建物を揺すった。
続けて、ターニャが二階に向けて引金を引く。
桜井はやれやれというように首を振りながらも、右手にトンプソンを携えたまま、左手にはちゃっかりと手榴弾を握っていた。
それを、カレンがぶち開けた入口から放り込んだ。
「さっき、なんて言ってた?」
カレンが軽い皮肉を込めた目で、桜井を見る。
「あんたの言葉を信じたのさ。それに、ここまできたら一緒だろう。念には念をってね」
三人ともそれぞれ両手にマシンガンを持ち直し、建物に突入した。
ヒューストンは両手に拳銃を構えている。
どうも、マシンガンは性に合わないのだ。
悟はカレンの後から、拳銃も構えずに付いていった。
まるで、緊張感というものを漂わせていない。
建物の中は、右側に階段があり、部屋はひとつきりだった。
その部屋の扉が、カレンの打ち込んだRPGで破壊されていた。
部屋の中を見て、桜井が息を呑んだ。
中には、屈強な男共の無残な屍が七体転がっていた。
その全員が、黒く焼けただれている。
桜井が、顔をしかめた。
「フン、やるじゃない」
黒焦げの死体を見ても、カレンは驚く様子もなく、鼻を鳴らした。
「高圧電流ね」
ターニャも平然としている。
「えげつな」と言ったものの、悟も目を背けることはしなかった。
「二階へ行きましょ」
カレンが、四人を促して歩きだす。
二階も、一階と同じ造りだった。
廊下には、五人の切断された死体が転がっていた。
ある者は首と胴が泣き別れ、ある者は胴体の真ん中で切断され、またある者は、見事に縦に切断されていた。
いずれも、断面から焦げ臭い匂いが漂っている。
「レーザーね」
死体の切断面を一目見て、カレンが言った。
「どうやら、君らが派手に侵入しれくれたお蔭で、俺たちはこんな目に遭わなくて済ん
だようだな。しかし、我々より先に赤い金貨が来ていたとは、驚きだな」
「シホが呼び寄せたんでしょ。わたし達と争わせるためにね」
カレンの推測は当たっていた。
自分の居場所が探り当てられたとわかった時、劉に、自分の居所を知らせたのだ。
カレンとターニャに居場所を知られたから、助けてくれと言って。
「何事も、慎重なだけがいいことじゃないって、わかった?」
桜井に得意げな顔を見せるカレンに、「たまたまやろ」と悟が突っ込みを入れる。
「言ってるでしょ。男は、細かいことを気にしないって」
「痴話喧嘩している場合じゃないわよ」
ターニャが、慎重に開けたドアから中を覗いて言った。
ここも一階と同じように、高圧電流で黒焦げになった三人の男が、まだ燻る煙をあげてれていた。
「この状態だと、やられてから、そんなに時間は経っていないようだな」
「そうね。さっさと三階へ行きましょ」
カレンが促すと、四人は三階へと続く階段に足をかけた。
「手強いわね」
モニターを見ながら、志保は唇を噛んでいた。
劉たちとは違い、あんな方法で侵入してくるとは思わなかった。
お蔭で、志保の仕掛けたトラップは、すべて壊されてしまった。
体温感知センサーによるレーザー照射と、体重感知による高圧電流。
その悉くが、外から撃ち込まれたRPG7により破壊されてしまった。
だが、志保にはまだ奥の手があった。
劉は、先頭に立たせた手下を犠牲にした後、残った手下共を連れて、建物から出ていってしまった。
多分、建物の周りに散開して様子を見ているのだろう。
カレン達を襲わなかったのは、志保の仕掛けたトラップに引っ掛かるかもしれないと思ってのことだろうと、志保は推測していた。
世界の三凶と呼ばれてはいるが、志保が調べた限りでは、カレンとターニャ、それに劉とでは、随分開きがあるように思われた。
モニターを通じてわかったことだが、劉は勝つためには手段を選ばない。
自分の部下でも平気で犠牲にし、見殺しにする。
多分、劉の辞書には、卑怯という言葉はないのだろう。
勝つためには、手段は選ばない。
命はひとつきりで、恰好をつけても、死んでしまっては元も子もない。
ある意味、プロだといえる。
カレンとターニャは、その対極にいるようだ。
彼女らは、死ぬことを恐れてはいない。
どちかといえば、プライドを捨ててまで生きようとは思っていないように見受けられる。
志保が推測するに、劉は人を殺すのが趣味で、カレンとターニャは闘うのが好きなのだろうと思った。
五人が三階に着いたとき、志保は素早くキーボードを叩いた。
パソコンのモニター一杯に、大きなドクロマークと、黄色で『DANGER』という文字が映し出される。
志保は、大きなドクロをクリックした。
一瞬、ドクロが笑う。
笑いを収めると、ズンという鈍い音がして、建物が縦に揺れた。
「しまった」
カレンが舌打ちをした。
「やられたわね」
ターニャが冷静な口調で言うと、「やれやれ」桜井がため息をつく。
足許が揺れ、今にも床が崩れ落ちそうになる。
五人は示し合わすことなく、屋上へと向かって走り出した。
カレンが、駆け上がりながらリュックに手を入れる。
「出たでっ! なんでもリュック」
悟が、嬉しそうに叫んだ。
「なんでもリュック?」
三人は歩を緩めず、怪訝な目を悟に向けた。
「そうや。カレンのポケットやリュックからは、その場でほしいものが、なんでも出てくるんや。まるで、どこかの猫型ロボットの四次元なんとかみたいにな」
悟が目を輝かせて、無邪気な声で三人に説明する。
桜井とヒューストンはわけがわからないような顔をしたが、ターニャにはわかった。
カレンは、自分が赴く先に何が待ち受けているのか予測して、必要と思われる準備を万端に整えているのだ。
単に戦闘好きの荒っぽいだけの女ではないとは思っていたが、そこまで緻密で狡猾な部分を併せ持っているとは思わなかった。
ターニャは、いずれカレンと決着をつける日が、ますます楽しみになった。
悟が嬉しそうに説明している間に、カレンはリュックから、お目当てのもを取り出していた。
それを、ターニャと桜井とヒューストンに放った。
それは、鞭のようなものだった。
三人は、それをどうするとは訊かなかった。
「やっぱり、それか。しかも、ご丁寧に人数分あるやん」
こんな時でも、悟は緊張感がない。
カレンとターニャは微笑んだが、桜井とヒューストンは呆れていた。
五人が屋上に出たとき、建物が崩壊を始めた。
「サトル、わたしにしっかり捕まって。離しちゃだめよ」
カレンが言い終わらぬうちに、悟はすでにカレンの腰に腕を回していた。
なにせ、二回目である。慣れたものだ。
そのせいか、はしゃぎ過ぎてしまい、勢い余って、カレンの胸を、悟の両の手のひらが包んだ。
「バカ!」
カレンが顔を赤らめた。
「こんな時でも、仲がいいわね」
ターニャは、心底呆れた顔をしている。
そんな悠長なことをしているうちに、建物が断末魔の悲鳴をあげながら崩壊し始めた.
止めを刺すように、三階から凄まじい爆音が轟く。
四人と一人は、爆風を追い風にして、身を躍らせた。
落下しながら、奇跡的に破壊されずに残っている電線に、鞭を走らせる。
四人とも、うまく電線に鞭の先を絡ませた。
「ひゃっほう」
もう、悟の歓喜の雄叫びを聞いても、カレンは驚かなかった。
みなが見事に着地を決めたが、悟だけはカレンの邪魔にさらないように、着地の寸前で手を離したため、尻もちをついた。
「あイタタ…」
悟が、尻をさすりながら立ち上がる。
「揺られているとき、ひゃっほうって叫んでなかった?」
さすがのターニャも、呆れたように悟に問いかけた。
桜井とヒューストンは、薄気味の悪そうな目で、悟をしげしげと見ている。
「そんなことにいちいち驚いてちゃ、サトルと一緒に暮らせないわよ」
「カレンには、言われたないで」
すかさず、悟が突っ込みを入れる。
知れば知るほど、悟の得体の知れなさが増幅してゆく。
一筋縄どころではいかない連中が、悟という男を測りかねて、戸惑った顔をしている。
なにかを感じ取ったように、カレンが眉をぴくりと動かしとた。
と同時に、咄嗟に悟を突き飛ばして、自分も横に飛んだ。
刹那、二人の居た空間に、幾つもの銃弾が飛んできて、路上にめり込んだ。
その時には、あとの三人も、身を投げ出していた。
五人が居た場所に、次々と銃弾が降り注ぐ。
「東京のど真ん中で、市街戦かよ」
桜井が路地裏に身を隠しながら、忌々しそうに呟いた。
「なんで、建物に入る前に襲わなかったんやろう? その方が、不意を突けたはずやのに」
こんな時でも動じることなく、悟は首を捻っている。
隣接するビルの残骸に銃弾が集中し、五人の身体には、細かいコンクリート片が降り注いでくる。
「シホの仕掛けた罠にやられるのを、期待してたんでしょ。その方が、手間が省けるからね」
カレンが、髪についたコンクリート片を払いながら答えた。
「同感」
ターニャが頷く。
「それより、どうするよ。これじゃあ、身動きできないぜ」
間断なく降り注ぐ銃弾に、反撃の糸口を掴めず、桜井が歯ぎしりした。
「任せといて」
カレンが満面の笑顔を見せ、リュックから、またなにかを取り出した。
「こんどは、なんやろ?」
悟がわくわくした顔で、カレンの手元を除きこむ。
(この男の精神構造は、一体どうなっているの?)
プロでも、こういった極限状態に強いものは少ない。
カレンと自分は、世界の三凶と謳われるほどの人間だ。桜井も傭兵で鍛えている。ヒューストンも、相当の場数を踏んでいるだろう。
それが、ただの民間人が、まったく動じていないどころか、楽しんでいるようにすら見える。
民間人にこんな男がいるなんて、ターニャには信じられなかった。
これまで、悟の非凡な面を多々見てきたターニャだが、悟の底の知れなさに、初めて戦慄を覚えた。
カレンが取り出したのは、ミニ四駆だ。
「それも、スパイの常備品なんか?」
悟が、楽しそうに訊く。
どう使うのか、わくわくしているのだ。
「当然じゃない。そうでないものを、わたしが持つと思う?」
悟の心情がわかっているので、カレンは得意そうな顔をする。
路上に置かれたミニ四駆を、ターニャと桜井は怪訝な目で見つめている。
ヒューストンは、あまり驚きもしていない。
カレンの上司だったというのもあるが、それ以上に、悟に驚きを覚えていたからだ。
敵の銃撃は、二方向から行われている。
片方は、カレン達が潜んでいる路地裏の左手のビルの陰から。もう片方は、右手のビルの一階と二階からだ。
カレンは、もう一台リュックから取り出した。
二台のミニ四駆の上部を取り外す。
中には、白い布状のもので包まれた四角い塊が二個置かれてあった。
「C4ね」
ターニャの目が輝いている。
「元はね。それに、わたしが改良を加えているの」
「C4って?」
悟が訊いた。
「プラスチック爆薬よ」
二個の塊を外して、車の底部になにやら取り付けながら答えるカレンに、悟が納得のいかない顔をする。
「プラスチックが、爆発するんか?」
「バカね。プラスチックが、爆発するわけないじゃない。プラスチックっていうのはね、粘土のように簡単に変形できることから来ているの。可塑(かそ)性っていうんだけどね。ダイナマイトなんか比べ物にならないくらい、高性能なのよ」
「ふーん」
悟は、わかったようなわからないような顔で頷いた。
「そやけど、そんなん持ち歩いとって、なんかのはずみに、爆発せえへんか?」
「大丈夫よ。信管を付けないと、爆発しないわ」
「ふーん」
またもや悟は、わかったようなわからないような顔で頷いた。
「もっとも、これくらいの量で、あのビルを吹っ飛ばそうなんて無理だけどね。でも、これはわたしの取って置きだから大丈夫」
そう言って、カレンがにやりと笑った。
ポケットから小型のリモコンを二つ取り出すと、ひとつをターニャに渡した。
「右手を任すわ。目的地に着いたら、わたしの合図と共に、横のボタンを押してちょうだい」
ターニャは黙って受け取り、静かに頷いた。
「ゴー!」
カレンが、子供のような無邪気な声を出した。
二人の操縦の腕前は相当なものだ。
敵に気付かれぬようビルの下を縫って、敵の居る建物へと近づいてゆく。
「こんなシーンを、どこかで見た覚えがあるぞ」
桜井は記憶をまさぐるような遠い目で、走りゆくミニ四駆のテールを追っていた。
「そうだ。ダーティハリーっていう映画のシーンにあったんだ。確か、テロリストがラジコンカーを車の下に潜らせて、爆破するような場面があったな」
「五作目ね」
ターニャも知っていたようだ。
「そうなの?」
当のカレンだけが、知らないらしい。
「それからヒントを得たんじゃないのか?」
「別に、映画なんて見なくても、これくらい、誰でも思いつくわよ」
「いや、思いつかんやろ。たとえ思いついてもやな、それを作って持ち歩く奴は、そうはおらんで」
「だから、男は細かいことを、いちいち気にしちゃ駄目っていってるでしょ」
悟の突っ込みを、カレンがお決まりの台詞で片づけた。
「だいたい、あの手の映画なんて、非現実過ぎて、見ていられたものじゃないわ。あんな撃ち合いなんて、あるわけないじゃない」
「同感ね」
「それを、君らが言うか?」
呆れた顔で、桜井がカレンとターニャを見る。
「桜井さん。彼女らの言うのは、映画のような撃ち合いは、大人し過ぎるっちゅうことや。彼女らを見てたらわかるやろ」
「杉村の言う通りだな」
悟の言葉に頷いた桜井が、カレンとターニャに睨まれた。
「わかってるで。男が、細かいことをいちいち気にすんなって言いたいんやろ」
「わかってればいいのよ」
そんな緊張感のない会話を交わしているうちに、二台のミニ四駆は、敵に気付かれることなく、目的の建物に着いた。
「グッバイ」
カレンが朗らかに言って、リモコンの横のスイッチを押す。
同時に、ターニャも押した。
一瞬にして二つのビルは崩壊し、銃撃がぴたりと止んだ。
「すげえな」
桜井が、驚きの声をあげた。
長年傭兵をしてきた桜井も、あれだけ小型で、これだけの破壊力の爆薬は見たことがない。
「よく、あんな破壊力のあるもの作ったわね」
戦闘に関してはカレンに引けを取らないと思っているターニャだが、パソコンの腕前や、高性能爆薬を自ら作り出すカレンの頭脳に、少し敗北感を味わっていた。
(こんな危険な女が日本に居たんじゃ、日本も安泰ではおれんな)
桜井はこの件が片付いたら、一刻も早くカレンを日本から追い出したほうが良いと思った。
「さあ、シホとご対面といきましょ」
言って、瓦礫と化した建物に踏み出したカレンの足が止まった。
背後で、悟のうめき声が聞こえたのだ。
振り返ると、悟の喉に劉の左手が巻かれ、こめかみに拳銃を突き付けられていた。
「いつのまに?」
ターニャが悔しそうな顔する。
カレンにせよ、ターニャにせよ、桜井にせよ、決して気を抜いてはいなかった。
ヒューストンもだ。
戦闘の最中であっても背後に気を配っているし、無駄な話を交わしていても、油断はしていない。
それが、四人に気取られることなく、背後を取られたのだ。
劉は、怒りに燃えた目で、四人を睨んでいる。
「銃を捨てろ」
金属が擦れるようなかん高い声で、劉が命令する。
四人は、劉が背後から撃たなかった理由を理解した。
部下を全滅させられた復讐というより、あれだけ大勢の部下を持ってしても、いとも簡単に全滅させられたことに、屈辱を覚えているに違いない。
だから悟を人質に取り、四人に武装解除させた上で、なぶり殺しにしようと思っているのだろう。
「捨てたらあかんで」
締め付けられた喉から、悟がしわがれた声を振り絞った。
「どうせ、俺も殺されるんや。俺のことは気にせんと…」
そこまで言った時、劉の左腕に一層力が加わった。「グェ」と呻いた悟の顔は赤くなり、直ぐに青くなっていった。
「サトルから、手を離しなさい」
言ったカレンの声は、怒りに震えていた。
「おまえの弱点は、わかっている」
劉が、唇の端をわずかに吊り上げた。
「こいつを助けたければ、銃を捨てろ」
「卑怯な」
桜井が唸った。
ターニャも、眦を吊り上げている。
劉は悟の身体を完全に盾にしており、悟をはずして劉を撃つには、いかなターニャでも難しかった。
いつものターニャなら、悟を犠牲にしてでも、躊躇わずに撃っていただろう。
だが、ターニャは、悟にいくつか借りがある。
それに、なぜか悟を犠牲にする気にはなれなかった。
桜井もターニャも、カレンの出方を窺うしかなかった。
カレンの出方は、二人の想像を超えた。
劉に向かい、平然と銃を構えたのだ。
「もう一度言うわ。サトルから手を離すのよ。さもないと、撃つ」
「強がりはよすんだな」
劉が、小馬鹿にしたようにせせら笑う。
桜井とヒューストンは、カレンの言葉がはったりかどうか判断がつかなかった。
しかし、ターニャには、カレンが本気で言っているとわかった。
悟を犠牲にしてでも、劉を撃つつもりなのだ。
それが、次の言葉で証明された。
「強がりなんかじゃない。サトルが言ったとおり、あんたはわたし達が銃を捨てても、サトルを殺す。わたし達を殺した後でね。それに、自分のせいでわたしが死ぬのを、サトルは耐えられない。わたしは、サトルをそんな目に合わせたくない。だから、サトルを殺したければ殺しなさい。その代り、あんたは楽には死なせない。早く殺してくれと請い願うほど、時間をかけて切り刻んでやる」
桜井とヒューストンは、息を呑んだ。
並みの人間なら、言う通りにしたところで殺されるとわかっていても、人情が邪魔して抗えないものだ。
自分の命が惜しくて言っているのではないことは、カレンから噴出する気迫に現れている。
カレンは、悟が殺されたら、劉を倒した後に、自分も死ぬ気なのだろう。
(こんな愛の形もあるのか。いや、これこそが、本当の愛かもしれない)
桜井は、これまで恋愛というものには、甘ったるい印象しか持っていなかった。
こんな世界で生きていくには、愛なんて邪魔なだけだと。
しかし、今のカレンを見ていると、愛もまた戦いなのだということが、痛いほどよくわかった。
なぜ、カレンのような女が、男を好きになったのか。
これまでは理解できないでいたが、カレンは違うフィールドで戦っていたのだ。
決して勝敗のつかない、永遠の闘いを。
ターニャも、恋愛に関しては、桜井と同じように思っていた。
そのターニャの価値観を、カレンは根底から変えた。
(自分に、ここまでの勇気があるだろうか?)
胸に問いかけたが、答えはノーだった。
勝てるわけがない。
それを、思い知らされた。
ここまで命を懸けて愛を貫くカレンに、いくら頑張ってみたところで、自分には到底及ばない。
悔しいが、なぜか心には、爽やかな風が吹き抜けていた。
ヒューストンは、これまでの悟を見、今のカレンの言葉を聞いて、カンパニーを抜けた理由を、初めて理解できた。
劉も、カレンが本気だとわかったようだ。
カレンの迫力に気圧され、一瞬の隙が生じ、悟を締める腕の力が少し緩んだ。
その一瞬の隙を突いて、悟が動いた。
首が絞まるのも構わず、悟は顔を前に突き出した。
それを押えようと、劉が再び腕に力を入れた瞬間、その力を利用して、悟は後頭部を思い切り劉の顔面に叩きつけた。
同時に、両手で劉の右腕を持ち上げる。
それらの一連の動作を、一片の迷いもなく、迅速にやってのけた。
劉の銃が、空に向かって続けざまに吠える。
悟が、もう一度劉の顔に頭を叩きつけた。
だが、そこまでが限界だった。
再び劉に首を絞められ、劉の腕を押える力が弱まった。
劉の右腕が悟の手首に逆らい、銃口が徐々に悟の顔に向いてゆく。
もう少しで、悟の頭に向けられようとしたとき、カレンの肘が劉の頭頂部を襲った。
悟が、最初に劉の顔に後頭部を叩きつけた瞬間、カレンはダッシュしていた。
そして、人間離れした跳躍力で宙を舞い、劉の頭頂部目がけて、肘打ちを喰らわせたのだ。
劉より遥かに体重が落ちるとはいえ、カレンの全体重を乗せた肘打ちに、劉が呻き声をあげ、たたらを踏んだ。
そこへ、カレンの肘が、劉のこめかみを打つ。
劉の意識が、一瞬吹っ飛びかけた。
悟に巻き付いた腕から、力が抜ける。
悟は素早く、劉の腕から脱出した。
最後の気力を振り絞ったのだろう。
悟は、その場にくずおれかけた。
その悟を、ターニャが素早く抱え起こし、桜井に渡した。
ターニャは、悟の盾となるように、桜井と悟の前に立つ。
その手にはすでに銃が抜かれ、劉に向けられている。
「手出しは無用よ」
カレンが、切り裂くような声で言った。
「するつもりはないわ。存分にやってちょうだい」
ターニャが、クールな口調で返す。
「礼は言わないわ」
カレンが、劉の手首を蹴り上げた。
銃が劉の手を離れ、宙に舞う。
「だけど、サトルを守ってくれていることには礼を言う」
反撃してきた劉の拳を躱しながら、カレンが息も切らさず言った。
「サトルには借りがあるからね」
そう答えると、ターニャは手で桜井に合図をし、二人の戦闘の場から離れるように後退した。
「サトルに手を出した代償は、きっちりと払ってもらうわ」
カレンは、だらりと両腕を下げた姿勢で、劉を睨みつけている。
劉は無表情でカレンを見つめ返しているが、その眼は、怒りと屈辱に燃えていた。
暫らく、二人は睨み合っていた。
劉の瞼が、ぴくりと痙攣した刹那、カレンに向け拳を突き出した。
すんでのところで、カレンが躱す。
劉の拳の風圧で、カレンの髪が宙に舞う。
カレンはよけざま、劉の後頭部に回し蹴りを叩き込んだ。
が、劉も獣の勘を持っていた。
膝を折ってカレンの足に空を切らせると、立ち上がりざま、カレンの顎に拳を振り上げる。
カレンは、咄嗟に十字にした腕でその拳を受けた。
カレンの身体が吹っ飛んだ。
受けた瞬間に地を蹴って、衝撃を逃がしたのだ。
劉の拳をまともに受けては、カレンの腕は折れていただろう。
カレンは空中で一回転し、猫のようにしなやかに着地した。
劉が突く。
カレンが蹴る。
目にも止まらぬスピードで、二人の攻防は続いた。
やがて、その均衡が徐々に崩れていった。
力では劉に敵わないが、スピードはカレンのほうが勝っていた。
カレンは、劉の肘や膝に、的確に打撃を積み重ねていった。
その度に、劉の動きが鈍くなっていく。
劉が飛び退ってカレンから距離を置き、腰から大型のナイフを引き抜く。
「あらあら、やっぱり、あんたは卑怯者ね」
少し息を切らしているものの、まだ余裕の表情で、カレンが蔑むように笑った。
「なんとでも言え。この世界は、生き残った者が勝ちなんだ」
「あんたの言う通りね」
劉のナイフを見ても、カレンは平然と立っている。
劉がナイフを突き出した。
同時に、カレンの腕が動いた。
劉のナイフが宙に舞う。
いつの間に手にしたのか、カレンの手には、先ほどの鞭が握られていた。
カレンは容赦なく、劉に鞭の雨を降らせた。
劉が地面に転がった。
転がりながら、足首に隠していた小型の拳銃を抜いた。
カレンが鞭を振り上げたときを狙って、素早く立ち上がり、カレンに向かい引金を引こうとした。
劉の顔が、驚愕で引き攣った。
カレンも、いつの間にか銃を手にしていたのだ。
鞭は、空中を舞っていた。
劉の指よりも、カレンの指のほうが早かった。
乾いた音と同時に、劉の手から銃が落ちた。
同時に、カレンが放り投げた鞭も地上に落ちる。
もう一発、銃声が轟いた。
劉の両腕が、血にまみれて垂れ下がっている。
カレンは、劉の両膝も撃ち飛ばした。
劉は両腕をだらりと下げたまま、両膝を地に着けた。
「これで、あんたも終わりよ」
カレンが、銃口を劉の額に向ける。
劉が、不気味な笑みを浮かべた。
「根っからのサディストね」
カレンが躊躇いもなく、引金を引いた。
劉は、不気味な笑顔を顔に張り付かせたまま倒れた。
「最後は、あっけなかったわね」
ターニャが、つまらなさそうに言いいながら、二人の許に寄ってくる。
「最近の映画みたいに、ラスボスがくどいのは、嫌いなの」
「迷惑かけたな」
悟がはにかむような笑顔を、カレンに向けた。
カレンが、自分を見殺しにしようとしたことなんて、まるで気にも留めていない様子だ。
「本当よ。でも、よくやったわ」
カレンが、悟の肩を軽く叩いた。
この二人の絆には、余人の測りしれないものがある。
「さあ、シホとご対面といきましょ」
カレンが、朗らかに言った。
「あと、十分よ」
どこからともなく、女性の声が聞こえてきた。
「シホね」
カレンが、足を止める。
「一部始終、カメラで見ていたってわけね」
ターニャがカレンの横に並んで、周りを見回した。
「そうだろうな。だが、あと十分って、なんのことだ?」
桜井が首を捻る。
「決まってるじゃない。人類の終末よ」
こともなげに、カレンが言ってのける。
「それまでに、シホを見つけないといけないってことね」
言って、ターニャが歩き出した。
「おい、あの建物は崩れたんだぞ」
ターニャに続いて、再び足を踏み出そうとするカレンの肩を、ヒューストンが掴んだ。
カレンが振り返り、ヒューストンに鋭い一瞥(いちべつ)をくれた。
「あなた、よく、それで、責任者が務まるわね」
呆れたように言うと、背を向け歩き出す。
「建物は、地上だけとは限らんっちゅうこっちゃ」
ヒューストンを追い越しざま、悟が声を出す。
「やっぱり、悟に代わってもらったら」
振り向きもしないで、カレンが言う。
誰にともなく、ヒューストンが肩を竦めると、みなの後を追った。
「時間がないわ。手分けして探しましょ」
誰も、何をとは訊かない。
瓦礫の中を、それぞれに、地下室への入り口を探して回った。
そうしている間にも、時間は刻々と過ぎてゆく。
志保は、みんなの姿をモニターで眺めながら、時計を気にもしていた。
もう少しで、審判が下る。
勝者は誰か?
そもそも、このゲームに、勝者なんているのか?
人類が生き延びれば、近い将来、間違いなく地球は滅ぶ。
地球が滅んでしまえば、何者も生存の余地はない。
人間が、今のままでいる限り、それを回避することは不可能だ。
ただひとつ、地球にとっても人類にとっても未来があるとすれば、彼らが、ここを探し当て、自分のしている事を止めることだ。
モニター越しに、志保が見ている限り、カレンとターニャがいれば、なんとかなるかもしれないと思っていた。
監視カメラと同時に集音マイクも仕掛けていたので、彼女らの会話は、すべて志保には聞こえていた。
普通の人からみれば、彼女たちは常軌を逸しているだろう。
だが、普通といわれる人々の方が、常軌を逸していると、志保は思っている。
不便な生活を厭うが故に、自然を破壊していっている。
大多数の人は、毎日、どれだけアマゾンやブラジルの森林が焼かれているかなんてのは知らないし、知ったところで、興味も持たないだろう。
直接自分に関係がなければ、所詮他人事なのだ。
人というものは、自分に跳ね返ってくるまでは、事の重大さに気付かないものだ。
そして、気付いた時には、もう遅い。
そんな人類に、志保は絶望していた。はずだった。
彼女らを見るまでは。
志保の見るところ、彼女たちは、自分以上に悪魔の素質を持っている。
彼女たちなら、自分とは違うやり方で、地球を、自然を、動植物を守ってくれるかもしれない。
人類を絶滅せずに。
無論、彼女たちには、そんな気はないだろう。
だからこそ、いいのだ。
結果はどうあれ、志保はわくわくして、残り少ない時間を楽しんでいた。
「あったわよ」
地下室へのとびらを見つけたのは、カレンだった。
カレンが声をあげたのは、建物の中ではなく、外だった。
カレンの両手には、金属の棒が握られていた。
「それって、ダウジング?」
ターニャが指をさすのと同時に、「凄げえな」、「そんなもんまで、持ってたんや」桜井と悟の声が重なる。
「世の中、なにが起こるかわからないからね」
しれっとした顔をして答えるカレンに、「これは、細かいことちゃうで。よう、そんなもん、持っとったな」と、悟が被せた。
カレンは、黙って微笑むに留めた。
「君は、初めから、建物の外を探っていたな」
「こう、壊しちゃ、外に出られないでしょ。あなたもわかるでしょうけど、常に、逃げ道は用意しておくものよ」
ヒューストンの質問にも、カレンはしれっと答える。
カレンが見つけた入り口は、建物の周りを囲む、植込みの中にあった。
カレンは、美しく咲いていた花々を、無造作に抜き取り、薄く被せられていた土を取り除くと、金属の扉が現れた。
いつの間にか、手にはちゃっかりと、軍手をしている。
「そんなもんまで…」
「持っとんたんか。でしょ」
悟が言いかける言葉に、カレンは得意そうに被せた。
「ケチやな。最後まで言わせてくれてもええやんか」
(この状況で、なんて奴らだ)
桜井は、悟も危険人物と認め、もし無事に事が片付いたら、カレン共々、日本から追い出さねばと思った。
「あの二人は、どこに居ても一緒よ。たとえ日本から追い出したとしても、日本が安泰だと思わないことね」
桜井の思いを見透かしたように、ターニャが言った。
「君もな」
桜井が、苦笑交じりに返す。
ターニャの言う通りだろう。
ターニャも含めて、みんな危険人物なのだ。
どこに居ようと、地球規模で影響を及ぼすことは間違いない。
「さあ、いよいよご対面よ」
桜井の耳に、カレンの明るい声が飛び込んでくる。
志保が、居た。
志保は、笑みを浮かべて、みんなの顔をゆっくりと見回した。
「来たわね」
四つの銃口が自分に向けられているというのに、動じている様子は、まったくない。
「あと、三分よ」
勝ち誇った様子もなく、静かな口調で、志保が言う。
「何をした」
桜井が、一歩、志保に歩み寄る。
「お久しぶり」
そんな桜井を無視して、志保はヒューストンに微笑みかける。
「なあ、シホ。まずは話し合おうじゃないか」
ヒューストンが、無理に造った笑顔を志保に向ける。
「なにを、話し合うの?」
志保が、わざとらしく小首を傾げたとき、カレンの銃口が火を噴いた。
カレンが放った銃弾は、その部屋に置いてあったすべてのコンピューターを破壊した。
「あい、何をする」
桜井が、慌ててカレンの銃を掴む。
「人類の滅亡を、止めてあげたのよ」
カレンが桜井の手を払いのけ、そうでしょと言わんばかりの顔を、志保に向けた。
「ホッホホホ」
突然、志保の高笑いが、部屋中に響いた。
「さすが、カレンね」
やはり、自分を止めるのは、この女だった。
野望を挫かれたにも関わらず、志保は勝った気分になった。
「フン」
カレンが、鼻で笑う。
「止めてほしかったくせに、恰好つけないでよ」
「どうして、そう言えるの?」
志保が、笑みを湛えたまま尋ねる。
「本当に人類を滅亡させるつもりだったら、あんたは、とっくにやっている。こんなまどろっこしいことはしないはず。だから、ここにある機械を壊せば、あんたの野望を打ち砕くことになる」
自分の心情をずばりと言い当てられて、志保の顔から笑みが消えた。
「あんたがこんなことをしなくったって、どうせ近いうちに、人類は自滅するのよ。少し、早いか遅いかの違いじゃない。人間なんて、くらだない生き物よ。そんな奴らが滅亡したって、自業自得ってもんでしょ」
カレンの言葉に、志保が息を呑んだ。
カレンという女は、志保の想像を遥かに超えていた。
「おい、それは言い過ぎじゃないか」
反論したのは桜井だけで、悟とターニャは当然のごとく受け入れているように、顔色ひとつ変えていない。
ヒューストンは、無言で志保を見つめている。
「違うの?」
カレンに顔を向けられて、桜井が返答に詰まった。
「でしょ」
あまりの以外な展開に、志保は戸惑っている。
「あなたは、わたしを捕まえに来たんじゃ…」
志保は、それだけ言うのがやっとだった。
「そうだけどね」
カレンが、意味ありげに笑ってみせる。
「その前に、あなたに復讐させてやろうと思ってね」
そう言うや否や、ヒューストンの手から素早く銃を奪い取り、ヒューストンの右腕を背中に回して締め付けた。
「な、なにをする」
もがくヒューストンの腕を、カレンはさらに力を入れ、肩の関節を外した。
激痛にもがき苦しむヒューストンを横目に見ながら、カレンが志保に告げる。
「あなたのお姉さんを殺したのは、こいつよ。もっとも、自分で手を汚してはいないけどね」
「うそ!」
志保の目が、驚愕で見開かれた。
桜井も驚いた顔で、もがくヒューストンを見た。
ターニャと悟は、内心ではどうか知らないが、普段通りの顔付きだ。
「こいつもね、赤い金貨の手先なのよ」
カレンが蔑みの目でヒューストンを一瞥してから、話を続けた。
「あなたのお姉さんを殺させて、復讐に燃えたあなたをそそのかし、CIAが開発していたソフトを盗ませた。それをあなたに完成させ、ついでにワクチンも作らせる。世界中をパニックに陥れたあと、ワクチンを高値で売ろうって、そういう筋書だったのよ」
「な、なにを根拠に、そんなことを言う。赤い金貨の手先は、スコットだったんだぞ」
苦しみながらも、ヒューストンが顔を荒げた。
「フン」
またもや、カレンが鼻で笑った。
「スコット一人で、こんな大胆なことができるわけないでしょ。あんた達は、お金を儲けると同時に、組織の邪魔者になるわたし達も、ついでに始末しようと考えた」
「わたしがおまえに会いに行ったのは、スコットの提案があったからだ。嘘じゃない」
「見ていたわ」
「な、なんだと!」
苦しみながらも、ヒューストンが驚いた声を出す。
「あんた達の世界に、秘密というものはない。CIAの建物内では特にね。だから、あんたとスコットは、いつ、誰に監視されているかもわからない建物の中では、常に演技していた。現に、日本支部の責任者であるあんたの部屋も、監視カメラが設置されていた。それをハッキングして、わたしはあんた達の会話を聞いていたの。だから、あの日、あんた達が来るのはわかっていたのよ」
ヒューストンは、痛さも忘れたように茫然とした。
「あんた達の会話は、ぎこちなかったわよ」
「……」
ヒューストンは、まだ茫然とした顔でカレンを見たまま、何も言わない。
「スコットとオガタの口を塞いだのも、あんたでしょ」
「……」
「わたしが遠隔操作だと言ったとき、あんたはあからさまにほっとした顔をしていた。まったく、演技が下手なんだから。少しは、わたしを見習いなさい。そんなことじゃ、アカデミー賞は取れないわよ」
「いや、こんなとこで、アカデミー賞なんて言っとる場合やないやろ」
という突っ込みを悟は入れず、黙ってカレンの話すがままにさせていた。
「なんとなくおかしいとは思っていたけど、そうだったの」
代わりに、口を挟んだのはターニャだ。
「ここに居る者の上司が、すべて赤い金貨だなんて、まったく、世の中どうなっちまうのかね」
続いて、桜井が嘆きの声を上げる。
「言ったでしょ。人間なんて、くだらない生き物だって。国を守るべき者が、お金に振り回されて、欲にまみれているくらいだからね。本当に人類の未来を考えている奴なんて、ごくわずかよ。そして、そんな人たちは、大抵は受け入れられない」
「今を生きる人間にとって、何の得にもならないからね」
カレンの後を、ターニャが引き取った。
「まあ、そんなことはどうでもいいわ。これで、仇を討ちなさい」
カレンが、マレーシア警察にも配備されている、ベレッタ92コンパクトモデルを、志保に差し出した。
志保は素直に、カレンの手から拳銃を受け取った。
「女性に扱い易いとは言えないけど、訓練を受けているあなただったら大丈夫でしょ」
志保が頷いて、ベレッタから弾倉を抜き取った。
ベレッタ92コンパクトモデルの装弾数は八発だ。
弾がフルで装填されているのを確認すると、弾倉を押し込めスライドを引き、初弾を薬室に送り込んだ。
それから、安全装置を解除する。
「結構、手慣れてるわね」
志保が、カレンに向かって微笑んでから、銃口をヒューストンに向けた。
額に狙いをつけた銃口は、ピクリとも動かない。
「よ、よせ、やめろ!」
ヒューストンが、外れた肩に手を当てたまま、恐怖に顔を引き攣らせ、喘ぐように言った。
「悪かった。この通りだ。謝る。俺も、組織に逆らえなかったんだ。逆らうと殺されるからな。な、だから、俺を殺さないでくれ。この償いはきっとする。どんな償いでもするから」
「みっともないわね」
情けない口調で憐みを乞うヒューストンに、カレンが顔をしかめた。
「諜報組織の上に立とうなんて人間は、所詮こんなものよ。汚い役回りや危険なことは平気で人に押し付けておいて、自分は世界を動かしている気になっている。気の小さな、薄汚い人間なの」
ターニャが、冷ややかな目でヒューストンを見下ろしながら、吐き捨てるように言った。
「君の言う通りだな」
高柳のことを思い出したのか、桜井も、ヒューストンの往生際の悪さに、胸がむかついていた。
悟は、無言を貫いている。
自分のような民間人が口を挟むことではないと思っているからだが、この場で、そう思って成り行きを見守っていること自体、民間人ではあり得ない。
「姉さん。やっと、仇が討てる」
志保が暫しの間目を瞑り、下を向いた。
目を開けたとき、ヒューストンに向けた拳銃の引金を、素早く引いた。
銃声は、七発聞こえた。
以外なことに、弾はすべてヒュスートンの足許に撃ち込まれていた。
ヒューストンの股間が、べっとりと濡れている。
「どうして、殺さなかったの?」
「バカらしくなったの」
カレンの問い掛けに、志保はさばさばとした口調で答えた。
どうやら、志保に憑りついていた悪魔は退散したようだ。
志保が,蔑みの目でヒューストンを一瞥してから続けた。
「こいつを殺したって、姉さんは生き返りはしない。本当に罰すべきは、こんな奴に乗せられて、大量殺戮を犯したわたしよ。今頃になって気付いても遅いけど、わたしは、姉さんに顔向けができないことをしてしまった」
瑞穂のことを思い出しているのか、志保がちょっぴり悲しそうな顔をする。
「これまでの罪滅ぼしにはとてもならないけど、こいつは生かしておくわ。とことん尋問して、『赤い金貨』のことを少しでも聞き出して。それが、わたしにできる精一杯の罪滅ぼし」
そう言って志保は、疲れたように椅子に座った。
志保は改めて、カレン、ターニャ、桜井を見回した。
「誰でもいいから、わたしを殺して」
死を受け入れるように、志保が静かに目を閉じる。
「わたしは、降りる」
カレンが、悟に目を向けた。
「これで、わたしの任務は終了。サトル、行くわよ」
悟を促して、カレンが部屋から出ていった。
「こいつを、とことん絞ってやりましょ」
「そうだな」
桜井が頷いて、失禁してぐったりとしているヒューストンを肩に担いだ。
二人も、部屋を後にした。
みんなが退出した後、乾いた銃声が聞こえた。
「やったか」
「いい根性してるじゃない」
桜井もターニャも、志保が弾を一発残していたのを知っていた。
多分、こうするために取っておいたのだろうと、察してもいた。
だから、志保に花を持たせるために、大人しく退出したのだ。
「ちょっと忘れ物」
カレンが踵を返した。
当然の如く、悟も後に従う。
桜井が、ヒューストンに手錠を掛け、窓枠に固定し動けなくしてから、カレンの後を追った。
ターニャと桜井が部屋に戻ってみると、異様な光景が目に飛び込んできた。
自分のこめかみに向けたであろう銃口から、手品のステッキよろしく、赤と白の花が飛び出している。
志保は呆然として、その造花を見つめていた。
そんな志保を見て、カレンは笑いを噛み殺している。
悟はというと、やれやれという目で、笑うカレンを見ていた。
「これは… 一体、どうなっている?」
桜井は状況が呑み込めなくて唖然としているが、ターニャは、瞬時で察した。
「フン、やってくれるわね」
乾いた笑いを漏らした。
「こ、これは、どういうこと?」
一番驚いているのは、志保だ。
カレンに向かい、それだけ言うのがやっとだった。
「見ての通りよ」
まだ笑いを噛み殺しながら、カレンが答える。
答えた後、カレンの顔から笑みが消えた。
スッと細まった目に冷酷な光が宿り、志保をぞっとさせた。
「あなたが、その銃口をわたし達に向けていたら、即座に殺されていた。そして、ヒューストンに全弾撃ち尽くしていたら、それはそれで喜劇になった。あなたは、最善の選択をしたのよ」
確かに、カレンのいう通り、ヒューストンに最後に放った銃弾から花が飛び出してきたら、志保の復讐は喜劇であったろう。
憎しみに、我を忘れた人間に、喜劇という不幸が訪れたのだ。
意図的ではないにせよ、志保は自分で復讐を愚弄したことになる。
ヒューストンを殺さなかったにせよ、復讐を果たし終えた志保は、自ら命を絶つつもりだった。
その結果が、こうなった。
ただの悪戯なのか、こうなることを見越してのことなのか、カレンがなぜこのようなことをしたのか、カレン以外には誰にもわからない。
ただ一人、悟を除いては。
悟には、カレンの心情が手に取るようにわかっていた。
困ったもんだという顔はしているが、カレンを見つめる目は、暖かい。
「生きなさい。お姉さんのためにも」
志保が、息を呑んだ。
カレンと知り合ってから、どうも資料で知っていたカレンとは違うと思っていた桜井だったが、この言葉に、完全に今のカレンは別人だと思った。
カレンを見つめる桜井に、そんな感情が浮かんだのを、ターニャは見て取った。
桜井はどう思っているかは知らないが、ターニャの見るところ、カレンは以前より恐ろしい存在になっている。
ターニャは、幾度となくカレンと闘ってきた。
エンジェル・スマイルと呼ばれ、裏の世界で恐れられているターニャでさえ、カレンの冷酷さや非情さを知る度に、心底恐怖を抱いてきた。
生まれてこのかた、ターニャが恐怖を抱いたのは、カレンだけだった。
あの頃より明るくなってはいるが、今のカレンは、そんな恐怖さえ可愛いものと思わせるくらい、凄みを増している。
なせか?
愛というものを知ったからだ。
守るべき者、支えてくれる者がいれば、人は、より一層強くなれる。
今のターニャには、それが痛いほどわかっている。
ターニャも、自分の心境に変化が生まれてきていることを自覚していた。
非情な世界で生き抜くには、冷静に自己を判断することが必須となる。
自分の実力を過信してもいけないし、過少評価するのも駄目だ。
どちらも、即、死に繋がるからだ。
ターニャほどになると、認めたくないといった、マイナスにしか働かない感情は持たない。
どんなことでもすべて認め、受け入れた上で、どうするかを考える。
だから、自分とカレンを変えたのは、悟だということを、ターニャは理解していた。
そんな悟に、ターニャは、カレン以上に恐怖を感じている。
同時に、感謝もしている。
悟のお蔭で、いい勉強ができたと思うからだ。
カレンもターニャも、一流になるだけあって、転んでもただでは起きない。
「あなたはそう言うけど、わたしは大勢の人々を殺したのよ。大人も子供も老人も、罪のない人を大勢ね。そんなわたしが、のうのうと生きていられる?」
志保が、悲痛な叫び声をあげた。
「それに、姉さんにも顔向けできない」
志保の頬を、止めどなく涙が伝ってゆく。
「自分の欲求を満たすために、姉さんの顔に泥を塗った。復讐なんて、姉さんが望まないことを知りながら、大勢の人を殺したのよ」
「それが、どうしたっていうの」
志保の絶叫を、カレンはあっさりと退けた。
「罪もない大勢の人?」
カレンが、せせら笑うような目で、志保を見た。
「ハン、罪のない人間なんていないわよ。いくら正直に生きていると言ったって、いくらまっとうな人生を歩んでいると言ったって、人間である以上、地球の破壊や動物の絶滅に加担しているの。自然保護を訴えている奴らも、動物を絶滅から救う活動をしている奴らも、車に乗りもすれば電車や飛行機にも乗る。家にも住めば、テレビも見る。スマホやパソコンも使うし、料理だってする。すべて、資源と自然と生き物の犠牲に成り立っているのよ。そんな奴らが、声高に自然保護や動物絶滅を訴えたって、偽善にしか過ぎない。本当にそう思うのなら、無人島で自給自足の生活をすればいい。それか、人間の数を減らすとかね。そんな人間共を何人殺したところで、罪の意識を感じることなんて、微塵も必要ない」
言っていることは過激だが、誰も反論はしない。
カレンの言うことが、正論だからだ。
人類の歩みは、争いの歴史でもある。
科学のない時代は、たとえ戦争をしても、傷つくのは人間だけで、自然は傷つかなかった。
せいぜい、畑や田んぼ、それに人々の住処が荒らされるだけであった。
それに、戦争をしてきたとはいえ、昔の人々は自然を敬い、自然と共存して生きていた。
それが、今はどうだ。
核兵器を使おうものなら、自然の形態を悉く破壊してしまう。
そうでなくても、快適な生活を確保するために、オゾン層を破壊したり、石油を掘り尽くしたり、森林を伐採したりして、ありとあらゆる自然を破壊し尽くしている。
それがため、動物の居場所をなくし、人間にとって都合の悪い生き物は、害虫として駆除する。
人類自らが、行き場所をなくしておいてだ。
また、毛皮や象牙など、金になると思えば、絶滅も構わず乱獲する。
金や銀や銅や宝石類など、ところ構わず掘り尽くす。
わずかここ百年足らずの間に、人類は道を踏み外してしまった。
ごくわずかな天才が切り拓いた科学の進歩を、我が事のように謳歌し、平和のために作り出されたものを戦争に利用し、便利なように作り出されたものに振り回される。
暫くして、桜井が唸り声を漏らしながらも、カレンに一言ぶつけてみた。
「それは、テロを容認してるってことか」
「テロ?」
「自然保護や動物の絶滅を訴えるくらいなら、人間の数を減らせってのは、そういうことだろう」
「フン」
カレンが、鼻で笑った。
「テロなんて、所詮、欲望や利権が絡んだ中での活動よ。シーシェパードにしたってそう。あいつらは、本当にはクジラのことなんか考えていない。ただ、お金と名声がほしいだけ。わたしが言っているのは、そういうことじゃない」
わかるかという目で、カレンが桜井を見る。
カレンの言わんとすることは、桜井にもよくわかった。
世間からは狂信者と言われるだろうが、本当に自然や動物を守ろうとするなら、欲得なしで人間の数を減らせと、カレンは言っているのだ。
桜井は、それ以上、何も言うことはなく、口を噤んだ。
カレンが、再び、志保に目を転じる。
「あんたが殺さなくたって、近いうちに人間は滅ぶ。愚かさの故にね。それにね、ここまで人が死んだのは、あんたのせいじゃない。あんたはきっかけを作っただけ。最初の飛び込み騒ぎの時に、政府やマスコミやスマホ関連の会社なんかが毅然とした対応をしていれば、ここまでにはならなかった。あんたの言う罪もない人達が、自分の欲求を抑えつけ、スマホをいじるのをやめておけば、こんなことにはならなかった。すべては、人間の愚かさが招いた結果よ」
志保は真剣な眼差しでカレンを見つめながら、カレンの言葉を黙って聞いている。
「わたしの言いたいことは、それだけ。これからあんたがどうしようと勝手だけど、最後に、これだけは言っておくわ。生きていれば、必ず良いことがある。わたしのようにね。わたしは、どんなに人生に絶望しても、生きることを止めなかった。人を殺してでも、生きることを恥と思わなかった。そして、サトルに出会えた。生きていて良かったと、今、心底思っているわ」
言いたいことを言い終えると、カレンはもう志保に興味を無くしたように、悟の手を引いて、あっさりと去っていった。
カレンとってはすべてが終わったことで、これから志保がどうしようが、知ったことではないのだ。
「まいったな」
そう呟いて、桜井が志保に近づいた。
「本当は、俺の立場なら、あんたを捕まえなきゃいけないんだが、ま、知らなかったということにしておくよ。カレンの言葉を聞いて、あんたがどう思ったかしらないが、これから好きにすればいいさ」
そう言い置いて、桜井もカレンの後を追った。
「この世には、あなた以上の人殺しが大勢いる」
ターニャは、冷ややかに言葉を投げかけて去っていった。
外は、もう真っ暗になっていた。
珍しく、満天に星が瞬いている。
「これをきっかけに、各国は躍起になって、結城の造ったソフトの開発に掛かるだろうな」
桜井の言葉に、カレンが頷いた。
「そうでしょうね。馬鹿な人間共は、少しでも自分が優位に立とうと、自滅プログラムを次々に開発するでしょうね」
「これからどうなるにせよ、すべては自分達が選択したことよ」
ターニャが、無造作に言ってのける。
「さあ、明日は東京見物よ」
カレンが、明るい声で悟に言う。
「楽しみやな」
悟が、笑顔で応えた。
「せいぜい、楽しむことね。あなたとの決着は、今度会った時に着けてあげる」
「オッケー」
親友と明日の待ち合わせを約束したみたいな軽いノリで、カレンが返す。
「まずは、わたしは、ニコルとケリをつける。わたしを裏切った代償を、きっちりと払わせてやるわ」
ターニャが、エンジェル・スマイルを浮かべる。
「杉村、カレンが暴走しないように頼むぞ」
カレンを国外追放するのは無理だと悟った桜井が、悟の耳元で囁いた。
「まかしとき」
満天の星空に、悟の明るい声が響き渡った。
エピローグ
大阪ミナミの、とある場所にある、喫茶「可憐」。
「マイド、オオキニ」
今日も、カレンのたどたどしい大阪弁が、店内に響いていた。
悟とカレンが、大阪へ帰ってきてから、三日になる。
志保は、死に損ねた翌日に、匿名で犯行声明と犯行終結声明を出した。
同時に、人類への警告も忘れなかった。
そのせいで、今、テレビや新聞、ネットなどでは、大紛糾している。
あいも変わらず、ほとんどが無意味な論争ばかりだ。
二人は、三日間たっぷりと東京を満喫した。
一緒になってから、初めての旅行だった。
ディズニーランドにもいった。
つまらなさそうにするかという悟の思惑に相違して、カレンは大はしゃぎだった。
長く店を休んでいたというのに、開けた途端、大盛況だった。
連日、カレンのファンが訪れる。
思う存分暴れられて機嫌の良いカレンに、ますますファンは熱狂した。
「サトル、出かけるわよ」
もう寝ようかと思ったとき、カレンが意気揚々と言った。
「どこへ?」
「決まってるじゃない。狩りによ」
「おいおい、帰ってから、まだ三日しか経ってへんぞ。東京で、さんざん暴れてきたやないか」
悟が、呆れた声を出す。
「それはそれ、これはこれよ」
「まったく」
「男がいちいち細かいことを…」
「気にするなってやろ」
カレンにみなまで言わさず、悟が後を引き取った。
「ねえちゃん、可愛らしい顔して、なかなかやるやないけ」
ひと癖もふた癖もあろうかというヤクザが、顔を引き攣らせながら、カレンを睨め付けていた。
路上には、お仲間が、数人転がっている。
「わたしが、容姿端麗なのは知ってるわ。だけど、あんたなんかに言われると、美貌を冒とくされたみたいで、素直に喜べないわね」
カレンが、嘲笑を浮かべながら言った。
「やれやれ」
悟は、心の内で呟きながらも、暖かい目で、カレンを見つめていた。
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