第一節
子供の頃は道を歩く途中、時おり足を止めて空を見上げるのが癖だった。
雲一つない晴天の時、どこまでも続く空の先に何があるのだろうと思いを馳せた。
どんよりとして鈍色に埋め尽くされた曇天であっても、その上では何かが起こっているのだと思っていた。
それが子供の妄想だと気づいたのは、いつ頃だっただろうか。小学生から中学生になった時だったか。順々として忙しくなり、受験を終えて高校生になった頃だっただろうか。
真実は常に世間が教えてくれる。
学校の授業で、他愛もない会話の中で、垂れ流されるテレビ番組で、身近なコミュニティアプリや、インターネットの中で。現代日本には情報というものが溢れかえっていたのだから、夢を見られたのは、本当に何もわからないような幼少時代だけだったかもしれない。
空は延々と続いてはいた。だが、だから特別な何かがあったわけではなかった。
雲の上には何もなかった。いや、正しくはあるにはあるのだろうが……それは人知を超えるようなものではないという話だった。
あの世界には魔法もなければ奇跡も存在しない。全ては何かと枠にはめ込まれ、超常だったものは何事も定理の中に埋もれていく。
と、いうのに……人知を超えた存在は確かに存在した。
俺はどこにでもいる学生の一人として生活していた。
そんな俺がいま生きている場所は、日本と言うには荒唐無稽に過ぎるだろう。
コンクリートジャングルどころか、地平線を望むことができる土地も珍しくない。その中に整備された街道を見つけたとしても、車やバイク、自転車の変わりに乗り心地悪そうによく揺れる馬車が走り去る。電線や線路などあるはずもなく、一度だって目にしたことがない。
手付かずの森林が生い茂る土地もあれば、広大な湖は汚れを知らず澄み切っている。
極めつけにはエルフやドワーフといった存在まで居て、この世界で人間の種族のひとつとしてカウントされているのである。
他にも魔法や魔力を利用した技術や職業も、特筆すべき要項だと言えるだろう。
この大陸の名は、『エル・ゴリア』。地球的な感覚で言えば、まさにファンタジー世界と呼ぶに相応しいだろう場所だ。技術力的には産業革命以前……ギリギリ近代に届くか届かないくらいだろうか。
なんにせよ、俺が生きている場所は地球じゃない。それは確かなことだ。
さて、そんな俺だが転生というものを体験した人間であることを言っておこう。
事故で死んだのか、それとも病気で死んだのか、原因はもはや定かではない。
ただ漠然と死んだこと、そして『ウリエル』を名乗る女神と契約を結んだということだけは、魂に刻まれている。
なんで契約を交わしたかは覚えていない。その時の俺は血迷っていたのだろうか。まあ、恩恵が無いわけではないので、今更文句は言えないわけだが。
兎も角、契約の副産物として前世の記憶を引き継ぐことになった俺は、この世界に生まれなおした。
それからは文字通り、第二の人生を送っている。
捨てられた赤子から始まり、教会に併設された孤児院で育った。
身体が出来上がるような歳になってからは、色々な土地を旅しては地元に戻ってくるという生活をしている。
その旅をするのだって、女神との契約に関係するものがほとんどだ。
日中だろうが深夜がろうが時間など問わず、女神様は俺に託宣という名の仕事を与えてくる。
ようは使いパシリである。遺跡にある自分を祀っていた祭壇を魔物から守れだとか、盗掘者が持ち去った遺物を取り戻して欲しいとか、そんな使命を与えられる。
達成すれば報酬や恩恵なんかも貰えた。生活や戦闘に役立つ知識を授けられたこともあったので、物理的なものに限定されているわけではないらしい。
失敗しても旅費など金銭的に俺が損をするだけで、別にペナルティを受けたりしていない。
……あれ、意外と良心的な契約なのではなかろうか?
そんなこんなでこちらでの生活は順風満帆とは言えないものだが、なんとかなっている。
人間、慣れればなんのそのというわけだ。住めば都という言葉もある。
そうして生まれてから二十年もの時間をこの世界で過ごせば、そんな生き方も定着して当たり前となっていった。
まあ、本当に根付いているところ以外は、だが。
◇
昨日起きた出来事が嘘のように思えるほど、平穏な昼下がり。
教会の敷地にある大きな木の下でくつろぐ俺は、暇を持て余していた。
何せ、呼び出しをくらったのになぜか中へと入れてもらえていないのだ。
呼び出してきた相手が相手だけに、借りている
用件の予想はつく。俺が昨日連れ帰ってきた、『あの子』についてのことだろう。
俺を瀕死から救ってくれた『あの子』は、俺が目覚めた時、気を失っていた。
だから、俺にその時の状況を聞きたかったのだろう。
それなのに何で呼び出されてから待ちぼうけをくらっているんだと、小さく嘆息を吐く。
そんな風にしていると、見知った顔が教会に併設された小さな建物――孤児院から出てくるのが見えた。
それは俺に最も馴染みのある少女で、ゆっくりと近付いてくる。
「ねえ、マンディ。キミはなにか問題を起こさなければ気がすまないのかい?」
「んなわけねーだろ。そればかりは、神様にだって誓ってやるさ」
座っている俺を見下ろしてきている少女の皮肉に、淡々と答える。
見た目が小柄なこいつとの絡みを
「くっくっ、信仰もへったくれもないキミらしからぬ言葉だね」
実際のところ、からかわれるのは俺の方なのだが。
「心外だな、テルミエ。俺にだって少しの信仰心くらいはある」
一応は教会の土地で保護され、育ってきたのだ。まったく関心がないわけでもない。
そう口に出して言ったところで、くつくつと喉を鳴らして笑っているこのドワーフ娘には効果がないだろう。
『テルミエ』という名前を持つ年齢が二つ下の我が幼馴染は、皮肉と人をからかうのがとても大好きなのだ。
ドワーフという種族は豪快にして豪胆、人情に篤く職人気質という性格な者が多い。
男性は子供の頃から生え出す髭を蓄えていて、女性は母性の塊とも言える豊満な胸を持つのがドワーフの身体的特徴だ。
そんなドワーフの中でも特級に変わり種な性格をしているのが、テルミエである。
体格こそドワーフの標準らしいが、彼女は普段からほとんど表情を崩したりはしない。そのくせ、こういう時ばかり笑みを漏らすのだ。なんとも趣味がよろしくないと思う。
「それにしても、神父様からキミが“女神の泉”で死にかけたと聞かされるとはねー。やっぱり、信仰が足りないんじゃないのかな?」
「そうだとすれば、俺はまた“女神の泉”に行かなくちゃいけなくなるな」
例えば、どうして俺がこんな目に合わなくちゃいけないのか、とか。そういうテンプレートな文句を言いに。
そんなことを
「まあ、マンディが生きていて何よりだ。もしも死んだりしたら、さすがのボクも泣くからね」
「……さいですか」
この孤児院で子供の頃から過ごしていたが、一度たりとも彼女の泣いた姿など見たことがない。
この女は幼い頃から本当に無愛想で、皮肉を言うか、ヒトをからかう時くらいにしか表情を崩さないのだ。
その性格を知っている身としては、それはそれで見てみたい――などと不謹慎な気持ちがこみ上げて来たので、短い言葉で区切ることにした。
俺も人のことを言えないな、などと思って自己嫌悪。というか、もしも彼女が泣いたとしても、その時に俺は死んでいるわけだから見れるわけがない。
「はぁ……」
「おいおい、ボクと話してる最中に溜め息を吐くなんて、キミというやつは失礼だな」
「皮肉屋がよくいう」
「相手くらいは選んでいるさ」
それ以前の問題ではなかろうかと、俺は
「そんで。お前が出てきたってことは、何か伝言でもあるんじゃないのか?」
「ああ、それね。『あの人』がもう良いよってさ」
たったそれだけか、と深く溜め息を吐きたくなった。謝罪のひとつくらいは欲しいと思うが、それは望めない行動だろう。
まあ、文句こそ心に浮かぶが口に出すようなことではない。俺を待ちぼうけさせた理由については、直接聞けば良い。
そんなことを思いながら立ち上がろうとしていると、
「……竜翼章」
唐突に、テルミエが小さくそう言った。
彼女は自分の顎に手を当てながら言葉を続ける。
「『メレク』って名前は、キミだとて聞いたことがあるだろう?」
「あれか、首都マルクトに居るっていう、『魔王』様の家名だろ」
「そう。そして『竜翼章』はこの『セフィロト』の王族だということを示す、紋章のことだよ」
「……紋章のことだよって、お前な」
急にどうした、と疑問に思いながら呟く。
マルクト――それは俺達のいる村から東の方角に遠く離れた、『セフィロト連合王国』の首都の名である。
テルミエの口にした『メレク』というのは、この大陸『エル・ゴリア』の統治者の家名だ。
なんでも、この世界に生きる全ての種族の血が流れている、セフィロトの象徴的存在でもあると聞いたことがある。
あらゆる種族にして、あらゆる種族とも言い表せない存在。それ故にこの国の象徴である国王は代々、『魔王』と呼ばれるようになったのだとか。
この世界には大陸がひとつしか存在しない……らしい。
らしいと言うのも、実際に確かめる術を持っていないからだ。
地球儀のような道具はこれまで見たこともないし、そもそも異国という単語すら聞いたこともない。
地球と遜色ないものと言えば、夜空に星が輝いているとか、月が見えるとか、そういう類のものだろう。
まぁ、俺にとって当たり前になってしまったが、ファンタジーなこの世界なのだから、そっくりそのまま元の世界と同じということはないとは思うけど。
――閑話休題。
「なんだ、テルミエ。まさかその紋章をあの子が持っていたとでも?」
「さすがはマンディ、察しが良いね」
「……いつそれを確認したんだ」
「今さっきだね。キミのことを『あの人』から聞いた時、一緒に話されたよ」
冗談半分で軽くてきとうに投げ掛けた質問は、強烈な返答でもって返された。
おい、マジかよ。
ちゃんと目が覚めて元気になったのか、と安堵するべきところのはずが、どうしてそんなことになっている。
「というわけで、キミが助け、連れて来た少女はまさにこの国のお姫様だったわけだ。だからさっき言っただろう? キミは何か、問題を起こさないと気がすまないのかって」
「……聞いてないぞ、そんなこと」
「そりゃあ、『あの人』の『健康診断』で確定した話だからね」
言葉にならないとは、まさにこのことか。
思わず額に手を当てて、どうしたものかと頭を悩ませる。
「ま、ボクにも話が降りてきたということは、知られても問題ないって判断があったからだろうさ。狼狽える気持ちはわかるけど、少し落ち着こう」
「……あのな」
「悩んでどうにかなるのかい?」
そう言われると、返答に困る。
実際問題、俺がああだこうだとしたとしても何の意味もないのはわかっている。
それでも俺に起きたことを考えると、どうすりゃ良いのかと思わずにはいられないのだ。
幼い少女……それも魔王の娘と唇を重ねてしまった記憶があるのだから、嫌な汗が全身の汗腺から湧き水のように溢れる錯覚を覚える。
「……マンディ、まさかだけどキミってヤツは」
「良し、会いに行こう」
テルミエから向けられるジト目の視線が、段々と冷ややかなモノへと変わっていくのを感じた俺は誤魔化すようにそう言って立ち上がる。
目ざとく俺をからかう要素を彼女が見つけてしまうその前に、どうにかあの子の口から真実を聞かなければならない。
他にも色々と、疑問に思っていることもある。
元より、呼び出されてから待ちぼうけを食らわされていた身なのだ。
「まあ、良いさ」
そんな俺の考えていることを見透かしたような口調で、テルミエが言う。
「ボクはマンディのことを信じているからね」
ひとをからかっている時だけに見せる、いい笑顔だった。
いつか、心の底からギャフンと言わせてやりたいと思った。
◇
『ヨッド』という名のこの村には、田舎という表現がよく似合う。
山と山の間にある平地に作られたこの村には、特別な名産物もない。
ギリギリ特徴として挙げられるのは、孤児院が併設されている教会と、テルミエの職場である工房くらいか。
旅人がよく来るというわけでもないので、宿屋もない。食事処を兼ねた酒場はあるが、利用客なんてのはこの村の住民くらいだ。よく寄合の会場にされている。
とまあ、そんな村にも立派な領主様、というのもいるわけだ。
ここが王国の土地なら、中央で任命された者が治めているのも当然である。
「マンディか。そろそろ来る頃と思っていたぞ」
そんな領主様が、テルミエが案内してくれたあの子の部屋の前に立っている。
そして血液のような赤い瞳をこちらに向け、威厳を感じさせる低い声で俺の名を呼んだ。
黄金を思わせるような金色の髪。それと同色の髭が蓄えられた、彫りの深い顔立ち。
フォーマルな服装に身を包み、平民と隔絶した『貴族』の風格を身に纏っている。
アーカルド・バイルシュミット。
それが、目の前に居る『伯爵』の位を持つ男の名前だ。
そして、俺を呼び出して待ちぼうけさせていたのもこの人である。
「……色々と言いたいことはありますが」
「奇遇だな、マンディ。ちょうど私も貴様に色々と言いたいことと、聞きたいことがあったのだ」
やめてください、と言いたくなる衝動を押さえつける。
目の前の伯爵は微笑を称えていた。
つまりは、全て把握しているのだ。この人によって『健康診断』が行われたのだから、当たり前と言えばそうなのだが。
「なんだい、マンディ。やっぱり何かやらかしていたのかい?」
長い付き合いだけに思考を読まれるのは仕方ないと許容はするが、わざとらしく聞いてくるのはやめろ。
「悩ましいことだ。よもやこのような事になろうとは」
テルミエの言葉に対し、伯爵が言外の肯定と深い溜め息を行う。
そして俺の方へと向きなおして口を開き、
「“女神の泉”にはカノンの結界を置いていた。
そう言って、眉をひそめながら事の発端を説明し始めた。
伯爵が言うには、“女神の泉”を害獣に荒らされたり汚されたりするのを防ぐ為に、部下のエルフ――カノンさんに結界を置かせていたらしい。
それが破られたとなれば、それこそ強力なモンスターが村の近隣まで近付いているという証左にもなる。
故に、
「貴様に原因を探って貰おうと思ってここへと足を運んで来たわけだが……」
それが、伯爵がこの孤児院を訪れた本来の理由なのだろう。
おそらくだが、その結界を破ったのはあの大蜘蛛型のモンスターだ。
このあたりには生息していないはずのモンスターだったし、戦ってみて妙に強いなと感じたのも頷ける。
ちなみに、俺が拠点にしているのはこの孤児院ではなく郊外の小屋なのだが、旅から戻った後の数日はこっちに泊まって行くこともある。
神父様やもう数もだいぶ少なくなった孤児達に旅の話を土産代わりに聞かせる、という目的があるからだ。
そんなことを頭の隅で考えていれば、説明を終えた伯爵が重圧を掛けるような鋭い視線を送ってきていることに気付いた。
「よく彼女を連れて来てくれたな。今後の行い次第では、貴様を処刑台に送らなければならなくなる」
「マンディ……ボクはキミのことを信じてるよ」
「それに関しては本当に偶然の産物なんで勘弁してください」
伯爵とテルミエの言葉に一括で返してから、深く嘆息を吐く。
テルミエに関しては、状況的に面白いからそう言っているのだろう。伯爵は俺の反応を試しているようにも思える。
事が事なのでそれもさもありなん、か。俺が助けて連れて来てしまった相手は、この国の姫なのだ。
ぶっちゃけ、領主を任されている伯爵からしてみれば、失礼な話だが腫れものなのかもしれない。
そんな風に思考を巡らせていると、件の姫殿下がお休みになられている部屋のドアがゆっくりと開いた。
「おじさま、どうかされたのですか?」
「いや、すまないメルリリア。少々話し込んでしまっていてな」
開いたドアから出てきたのは、話題のあの子だった。
歩けるくらい元気になったのか、と安心するよりも先に――
「……おじさま?」
「……メルリリア?」
――親し気に言葉を交わす様子があまりにも自然過ぎて、俺とテルミエは目を丸くしながら呟いた。
何で伯爵がおじさまって呼ばれてて、姫のことを呼び捨てで呼んでるの?
テルミエも俺と同じような疑問を覚えたからこそ、反応が似通ったのだろう。
「これから私の屋敷に向かう。マンディ、共に来なさい。テルミエも、まあ良いだろう」
そんな俺達の声をスルーした伯爵に促されるまま、俺とテルミエはぎこちなくその言葉に頷いた。
何がなんだかと、混乱で思考が鈍る。
伯爵がどうしてこの国の姫様にあんな態度を取れているのか、とか。
どっちかと言えば姫様の方が伯爵に敬意を払っているように見える、とか。
事情がわからない。というか、俺の考えていた云々はそうなると杞憂だったと言うべきか。
そのせいで頭がこんがらがっているのは、確かだった。
魔王の婚印 紅夕陽 @kurenaiyuhi955
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