潮汐
倣家みん
潮汐
「悪いわね、よいちゃん」
名前を呼ばれて振り向くと、鏡台に腰掛ける姉の後ろ姿が見えた。銘仙に描かれた胡蝶蘭が白粉を塗る手の動きに合わせてたゆたうように揺れている。鏡越しに視線を合わせると、姉の真っ赤な唇が三日月に曲がった。
「お姉ちゃん、綺麗?」
「うん。とっても」
わたしと違って……という言葉を飲み込んで、抽斗の中から巾着の紐を引っ掴み、追い立てられるように部屋を出た。
玄関へと続く廊下は薄暗い。倹約のため居間と流し場以外の場所はふだんから常夜灯の明かりだけで過ごすようにという、母の言いつけだ。例外は、もてなしの必要なお客様と虫が来たときくらい。
外はすっかり夕暮れどきで、太陽が倒れ込むように山稜の影へ身を潜め、茜色の空に大きな雲がたなびいていた。
カラカラと乾いた音がしたかと思うと勝手口の方から心配顔の母が歩いてきて、
「よいちゃん、どこへ行くの? もうじき高瀬さんが迎えに来るわよ」
と尋ねる。
「お姉ちゃんの髪飾りを買いに行くだけだよ。どうしても使いたい簪があるんだって。ほら、最近湖の近くにお店ができたでしょう」
徒歩で行くには小一時間はかかるが、わたしは何でもないことのように肩を竦めた。
「そう……お姉ちゃんがどうしてもって言うなら仕方ないね。今日はあの子にとって特別な日だから。いつも面倒かけるわね」
姉の我が儘を仕方なしで済ませるのが母の癖で、その矛先が自分に向かっていようがわたしに向かっていようが構わず「仕方ない」の一言で片付けてしまうのだ。
むしろ、お互い大変ね、なんてため息を吐いて共犯者めいた視線を向けるから、わたしはいつも何も言えなくなってしまう。
「お姉ちゃんの気持ちはわかるよ。高瀬さんは素敵な方だから」
わざとらしく屈託のない言い方をすると、母はさみしそうに笑った。
高瀬さんは女学校で国語の教鞭をとっている先生だ。勉強嫌いな姉のどこに惹かれたのかは分からないが、姉が学校を卒業したあと偶然再会したことをきっかけに、気がつくと二人は親密な間柄になっていた。
「だからこそ失敗したくないの。協力してね、よいちゃん」
母の強いまなざしに射すくめられて、わたしは黙って頷くしかなかった。
買い物を終えて外へ出たときにはもう日も暮れはてて、晩の空に丸い月が浮かんでいた。金色の薄様紙を被せたみたいに、辺りはほのかな月の光に色づいている。
わたしは買ったばかりの簪を手にふらふらと湖のほとりを歩いていた。すぐ使うものだからと包まないで持たせてもらったのだ。簪の先から垂れた紅色のとんぼ玉が、夜風に吹かれて踊っている。月明かりにかざすと硝子の中に塗り込まれた銀箔がちらちら瞬いて、魅惑の音を鳴らす幻想的な楽器のようにも思えた。
「お姉ちゃんに似合うだろうな」
わたしは簪を挿した姉の姿を思い浮かべる。そして、揺れるとんぼ玉を追いかける高瀬さんの優しい瞳を。
いつの間にか湖畔をぐるりと半周していたらしく、入るべき道をとうにすぎていた。迂回するよりはもと来た道を戻った方が早いとひとり合点して体を翻したところで、湖の異変に気がついた。湖のふちが湧き立つようにトプトプと音を立てながら、シャボン玉の液でも流したかのような透明色の泡沫を無数に生み出している。まるで湖全体が陸地に卵を産みつけているかのような光景に、わたしは全身が粟立つのを感じた。
「なに……これ」
力の抜けた手から簪が滑り落ちる。あっと反射的に地面へ手を伸ばしたが、簪に触れるより早く、何者かに指先をさらわれた。
「こんな所にいたのですか。急がないとパーティに遅れてしまいますよ」
弾かれたように顔を上げると、浅黒い肌をした美しい女性がわたしの手を取っていた。思わず手を引っ込めると案外すんなり離してくれた。
「……どなたか分かりませんが、勘違いされています」
女性は不思議そうな目でわたしを見て、無造作に簪を拾い上げる。
「おかしいですね。紅い色をした装飾品は招待客の証なのですが」
「招待客?」
「そのために来たのでしょう? 乙姫のご成婚を祝したパーティへ出席するために……さあ、行きますよ」
そう言うやいなやわたしの胸に簪を押しつけ、颯爽と湖の方へ向かう。どうするべきか決めかねて様子を見守っていると、彼女は半身を翻して微笑んだ。
「あなたの意思は尊重しますが、あまり迷っていてはこの世界に置き去りになってしまいますよ」
この世界という言葉がどの世界を意味するのかは分からないが、この異様な場所にひとりで残されるのは嫌だった。彼女のあとに続いて湧き立つ湖へにじり寄ると、泡沫がうごめいてわたしの足元を包み、冷たい水がじわりと足袋に染み込んだ。
「ようこそ、竜宮城へ!」
一瞬、満面の笑みを浮かべた彼女を見たように思ったが、すぐに大量の水飛沫に視界を奪われた。
咄嗟に瞼を閉じ、再び目を開いたときには湖も空も月も消え去っていた。
代わりに広がっていたのは、繭から繰り出されたばかりの生糸のように汚れのない、どこもかしこも真っ白な大広間。
「お城……?」
子供の頃活動写真で見たような豪奢な大広間の真ん中に、わたしは立っていた。天井は見上げるほど高く、絨毯は驚くほどやわらかい。
「お城というほどのものではありません。乙姫の邸宅のひとつです。パーティの会場はこちらに」
打ち上げられた魚のように目をパチパチさせるだけのわたしの手を引き、彼女はいくつかの扉をくぐり抜けた。
「でも、わたし、はやく帰らないと……!」
めぐるましく変わる城内の景色に気を取られながらやっとのことでそれだけ言ったが、
「次の満潮まで待たないと戻ることはできません。あと半日といったところでしょう」
と、あっけらかんと言ってのける彼女に言葉を返す気力も抜けてしまった。
会場には邸内の装飾に負けないくらい華やかな衣装に身を包んだ人々で溢れ、なかには目のやり場に困ってしまうほど肌を露出させた人もいて、わたしは肝がつぶれるような思いだった。
ここがどこかは分からないが、少なくとも日本ではないだろう。
「海の向こうではこんな服が流行っているの?」
「海のこちら側では、どんな服を着なければならないか、産まれた時から決まっているです。あなた方のように気分や状況に合わせて服を変えることはできません。だから、自分の身分を表すため装飾品を用いるのです」
彼女は胸もとに垂れたペンダントを手のひらに乗せわたしに見せてくれた。ラピス・ラズリを貝殻風に細工したもので、彼女の肌の色によく似合うと思った。
「なぜ貝殻のかたちをしているの?」
わたしは子供のように質問を重ねた。分からないことだらけで、分かっているのは「何も分からない」という一点だけなのだからどうしようもない。
「この世界では、貝殻は忠誠を表します。さあ、もうパーティは始まっているのですから自由になさってください。また迎えに来ます」
頭を撫でられかと思うと、引き止める間も無く彼女は人の間に消えてしまった。
彼女の姿を追って人混みに視線をさまよわせていると給仕の男と目が合ってしまい、慌てて視線を逸らしたものの、気がつくと愛想のいい笑顔が目の前にあった。
「ヒビロードの炙り焼はいかがですかな? 里芋のソース添え」
香ばしい香りにつられて銀の盆を見ると、薄く切られたピンク色の食材が美しく盛り付けられていて、幼い頃に家族で食べた牛の舌を思わせた。その時の味を思い出しながらひとつ摘んで口に運ぶと、弾力のある食感とともに磯の香りが口の中に広がった。
「これ、海藻だ……」
思わず恨みがましく見上げてしまい、男は気分を損ねた様子で眉根を寄せて次のもてなし先を探しにいった。
うまくいったとは言えないが、ここに来て以来初めて彼女以外の人間と会話をしたことで勇気づけられ、いくらか冷静な思考を取り戻す。わたしは見知らぬ女性に連れられて、どこかのお姫様の婚礼式に来ているらしい。内装や会場の人々を見る限り日本ではないけれど、かと言ってどこそこの国と断定できそうな要素もなかった。天井には飴色のシャボン玉がゆらゆらと漂い、落ちてくることも壁にぶつかって消えてしまうこともなく、まるでそれ自体が意思を持っているかのように流動している。
今夜は不思議なことばかりで、わたしが培ってきたちっぽけな常識はまるで役に立たない。
ここは、わたしの知らない世界なんだ、そう思えばいくらか気持ちが楽だった。
だから鳳仙花のようなドレスを着た二人組に話しかけられたときも、先刻よりはたじろがずに応じることができた。
「あら! 可愛らしい飾り物だわ。どうやって使うのかしら」
「これは……簪といって、髪の毛に挿して使うんです」
「へえ、とってもめずらしいのね。どこに売っているの?」
少し逡巡した結果、「海の向こうで」と答えると、二人はしきりに頷き合った。
「ええ、ええ。知ってますのよ。海の向こうといえば、あなた、塩でできた礼拝堂へ行ったことがあって?」
塩でできた礼拝堂なんて聞いたことがない。でもわたしが知らないだけで、世界にはそのような場所があるのかもしれなかった。
「そこなら私行ったことがありますよ。あんなに美しいところはふたつとないわ。じゃ、あなた、虹の広場はいかが? いつでも空に虹が掛かっていて、まるで天国のような広場ですのよ」
そんな場所がほんとうにあるのだろうか。不意にさみしさを感じて、とんぼ玉に視線を落とした。二人はわたしの様子を気に留めず話し続けている。
「虹の広場は有名ね。次の朔に出掛けてみようかしら。あなたも行ったほうがいいわよ、人生は短いんだから」
そう言ってわたしの肩に手を触れた。
「わたしは行けないと思います」
暗澹とした気持ちで答えると、二人は顔を見合わせて心底不思議そうに尋ねた。
「どうして?」
「だって、わたしはこの世界の人間じゃないから……」
束の間の沈黙がおり、当惑しきった声で一人が言う。
「ごめんなさい、あなたの言っている意味が分からないわ」
わたしは会場の隅で小さくなってすすり泣いていた。
「お嬢さん。ダンスで足でも踏まれたのかい?」
気楽な調子で話しかけてきたのはフロックコートを着た若い男で、麦畑のような金色の髪がたいそう眩しく感じられた。流暢な日本語を話しているのが、なんだか珍妙に感じられた。
「わたし、踊れないもの……」
ダンスをしたことがないという意味のつもりだったけれど、男はわたしの足元を一瞥して頷いた。
「たしかにその格好じゃ転んでしまいそうだ。でも座って話す分には問題なさそうだね」
言いながらわたしの腰に手を回して長椅子の方へと促すので、仕方なしにとぼとぼ歩く。
「乙姫様のウェディングパーティに来るのは初めて?」
腰掛けると、顔を覗き込むようにして彼が尋ねた。
「初めてだよ。でも、結婚式なんてそう何度もしないでしょう」
わたしの答えに、彼は乾いた笑いを溢した。
「そうか、乙姫様のことを知らないんだね。彼女はもう数十回は同じようなパーティを開いてるよ」
「どういうこと?」
「式が終わると、毎回逃げだすのさ。相手の方がね」
眉を寄せて納得のいかない顔をするわたしに、彼はお茶目にウインクして見せた。
日本人だったら気障ったらしくなる行為があまりに自然で、知らない人、しかも外国の人と話しているのだと実感する。
心が宙に浮いているような感覚で、落ち着かない。
「よほど変わった人なのね、乙姫様って」
「彼らのような貴族様が何を考えてるかなんて、僕には分からないよ」
わたしはなんとも言えずただ黙って頷く。
「あなたはここに住んでるの?」
「僕はもっと西の方から来たんだ。君は見たところ、どこか辺境の海域のお姫様とお見受けする」
そう言って、わたしの反応をうかがうように目を細めた。
「わたしはただの……旅行客みたいなものだから」
先刻の失敗は繰り返すまいと曖昧な笑みを浮かべたが、彼は含みを持たせた目でわたしを見つめ、その視線が手元の簪へ移るのを感じ逃れるように身をよじった。
「ここから逃げだしたいなら協力するよ。とっておきの場所を知ってるんだ」
彼は自然な動作でわたしの隣にぴたりと体を寄せて、低い声でささやいた。
何故だかこのとき、ある夏の出来事が明瞭に頭に浮かびあがった。とても暑い日で、冷たい水の入ったグラスの表面には隈なく水滴がついていた。高瀬さんは流れ落ちる水滴を指で掬って、わたしに微笑みかける。
「バイオアッセイという言葉を知っているかい?」
「ううん……知らない」
高瀬さんはよく、いろいろなことを教えてくれる。
「僕たちがこうして飲んでいる水道水に有害な物質が含まれていないか、魚たちが監視してくれているんだよ。たとえば、金魚なんかが。それをバイオアッセイと言うんだ」
教えることを楽しんでいるというよりは、独白のように淡々とした口調で話す人だ。そんな風だから、こちらもわざとらしい相槌をうつ必要はなくて、思ったままの間延びした返答をするのが常だった。
「へぇ。なんだか、可哀想ね」
わたしがそう言うと、高瀬さんは優しく頭を撫でてくれた。
どうして今、あの時のことを思い出したのか。
「……わたし、大丈夫です」
小さい声ではあったがきっぱりとした口調で告げると、相手が動きだす前に背を向けて駆け出した。誰の視線も届かない場所に行くために、入って来た扉を抜けて、人の影が差さない場所を探した。
先刻までいた大ホールを中心に放射状に廊下が続いて、行き止まりまで歩けば左右に伸びる新たな廊下へたどり着く。そこは歩いても歩いても終わりがない。何周かしたところで、急に馬鹿らしく感じられて、わたしはふらりと窓辺にもたれかかった。晩の空には行灯のようにやわらかな光をともした星がいくつも輝いていて、西欧の画家が描いた『星月夜』という題の絵を思い起こさせた。
わたしをここへ連れてきた彼女は今どこにいるのだろう、よもや一生置き去りにされたままなのではあるまいかと考えて、恐怖に押し潰されそうになる胸に手を当てた。簪を買った帰り途中であったことは、頭の中からすっぽり抜け落ちている。
「パーティはもうよいのですか?」
気遣うような声に振り向くと、待ちわびていた彼女の姿があった。まだ半時間ほどしか経っていないはずなのに、とても懐かしく感じて涙ぐむわたしの肩を、彼女は優しく抱いてくれた。
「大丈夫ですよ。ちゃんともとの世界へ帰しますから」
「誰もわたしが他の世界から来たことを信じてくれないの」
「自分がどこからやって来たかなんて、自分自身が知っていれば十分じゃありませんか」
納得がいかずに顔をあげると、胸元に光る貝殻のペンダントが目にはいり、はたと心づいた。
「……あなたは、乙姫様だわ」
彼女は驚いたようにわたしを見つめ、「なぜ?」ときいた。
「あなたは装飾品が身分を表すと言ったけど、それは半分ホントで半分ウソよ。会場の誰も装飾品なんて着けていなかったし……みんなめずらしそうにわたしの簪を見ていたもの。それに若い男の人が、わたしのことをどこかのお姫様だと勘違いしてたもの」
「あなたが可愛らしいから言ったのですよ」
彼女の言葉に、自嘲めいた笑みを浮かべて首を振る。
「最初に会ったとき、あなたは"乙姫のパーティ"だと言ったの。その貝殻が本当に忠誠心を表すのなら、乙姫様を呼び捨てにしたりしないでしょ?」
わたしの意に反して、彼女はくくくと喉を鳴らして笑い、ここへ連れてきた時と同じように優しく手を引いて廊下を進んだ。
「隠すつもりはなかったんだ。悪かったよ。どちらにせよ、あたしが乙姫であることになんの意味もない」
あけすけな喋り方をするのが本来の彼女らしく、乙姫であることをなおざりにする様子はかえってたくましかった。
「そうかもしれないけど……今度はどこへ行くの?」
「君をもとの世界に返す。時間切れのようだからね」
前を歩く彼女の表情は見えなかったけれど、その声は相変わらず楽しそうに弾んでいて、わたしは困惑した。
「わたしが秘密を暴いたから? まだ半日も過ごしていないのに」
いくつかのドアを抜け、入ってきた時とは違う扉から外へ出た。寒々とした夜の外気が肌をかすめる。彼女は質問には答えずに、腰を屈めてわたし眼を見つめた。深い海の底のような群青色の瞳だ。
「帰りたかったのだろう。向こうではきっちり半日経ってるから、安心しな」
そう言って、簪を持つわたしの手を優しく握った。
「どうしていつも婚約者が逃げ出してしまうの」
不思議に思ってぽつりと呟くと、彼女は手を離して「さあね」と答えた。怒りを抑えているのか悲しみを隠しているのか判然とせず言葉につまっていると、こう続けた。
「小さい頃は見ての通りのじゃじゃ馬でね。乙姫の役割を担うことになったのは大人になって、見たくもない世界にどっぷり浸かった後のことだ。
泥沼からあたしを引き上げてくれた先代の乙姫は、官位を明け渡すとすぐに蒸発……泡となって消えてしまったよ。ひとりでやっていくしかなかった。見合いの相手には困らないが、ここの連中は皆ロマンチストだから、あたしのような汚れものは手に余るらしい」
滔々と語る声に彼女の寂しさが感じられて、胸が痛んだ。
「秘密にしておけないの?」
「隠しごとをするのは苦手なんだ。それに、うまく隠して一緒になったとしても、いつか知られてしまうかもしれない。そう思いながら過ごす日々に、いったいなんの意味がある」
群青色をした瞳の奥に深く暗い洞穴を見て、息をのむ。彼女はわたしの頬にそっと指を触れると、やわらかく微笑んだ。それが別れの挨拶だと気がついたときには、弾けるような水飛沫とともに、目の前から彼女の姿は消えていた。
朝の太陽が湖のほとりに降り注ぐ。白昼の下に晒し出された幻影は、夢となってわたしの記憶の奥底へと姿を消した。
彼女がいた証拠はなにもない。ただ、最後に彼女の指がたどった頬には、一筋の乾いた水の跡が残されている。
わたしは両手で簪を握りしめ、半日遅れの帰路についた。
潮汐 倣家みん @tonoyu121
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