彼女の居場所

黒楠孝

彼女の居場所

 当然のことだけれど、今年も夏はやってくる。

 そして夏がやってくると、困ったことに、僕は無性にプールへ行きたくなってしまうのだ。


 屋内プールでは駄目だ。

 太陽の光が反射して、水面がキラキラと輝くのが見たいから。


 泳ぐのが好きなわけではなかった。むしろ苦手だ。

 クロールの息継ぎは上手くできないし、平泳ぎでは足が言うことを聞かない。背泳ぎをしようとすると腹が沈むし、バタフライなんてどうやって動いたものかわからない。


 だから僕はプールへやってくると、準備運動もしないでまずはプールサイドに座る。座って、塩素くさい水の眩しさに目を細めながら、彼女のことを思い出す。

 彼女は泳ぎが上手かった。

 水の中にいる彼女は、いつも嬉しそうな顔をしていた。彼女はよく、「自分の居場所」という言い方をした。


「水の中にいると、生きてるって感じがするんだよね」

 今となっては、悪い冗談としか思えないような台詞だ。


  *


 しばらく座っていると暑くなってきたので、僕は立ち上がって、軽くストレッチをする。普段動かしていない身体に、心地よい刺激が走る。

 最後に大きく伸びをして、水に足を入れた。ひやりとした感触がとても気持ちいい。そのままゆっくりと、全身をプールに埋めていく。


 真夏の昼に限っては、僕も水の中を自分の居場所にしてもいい。適当に手足を動かしながら、僕はそんなことを考える。たっぷりと息を吸い込んで、少し深く潜ってみる。


 水の中。彼女の居場所。ここへは、外部の音が届かない。

 冷たいはずの水が、どこか温かく感じられた。

 だらり、力を抜いてみる。彼女も、水の中をこんな風に感じていたんだろうか?


 少しずつ、息を吐き出す。だんだん苦しくなってくる。

 僕は、水の中では息ができないから。

 ここは、僕の居場所じゃないから。


  *


 立って呼吸をする僕は、泣いていなかった。

 去年の夏にこうして泣いていた僕は、もう泣いていなかった。


 僕は少しだけ笑ってみたけれど、息が上がってしまっていて、あんまり上手くいかなかった。

 一昨年の僕は、彼女が居なくなったことが悲しくて泣いていた。ほとんどいつでもどこでも、泣きっぱなしだった。


 では去年の僕は、どうして泣いていたんだろうか。水の中に自分の居場所がないことがわかって、悲しかったからだろうか。

 僕にはわからない。

 確かなのは、自分が今、泣かずに笑おうとしているってことだけだ。


 プールからの帰り道、僕はいつも後悔する。電車に揺られながら暗い気分に襲われて、何をやっているんだと自分を責める。

 けれど今日、僕は何故だか、自分を許してやれそうな気分だった。


 こんなことをしたって彼女が戻ってくるわけじゃない。その通り。だけど僕だって、彼女に戻ってきてほしくて、プールへ行っているわけじゃない。

 水の中に僕の居場所がなかったように、彼女の居場所も水の中にはなかった。

 暗い水の底で、彼女はそれを知ったはずだ。プールの底で、僕がそうしたのと同じように。

 だから僕は、彼女に居場所を作ってやらなきゃいけない。キラキラと光る水面を眺めながら、彼女のことを考えてやらなきゃいけない。


 僕が彼女のためにできることなんて、それくらいのものだろう。

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