エピローグ

 十月も終わりを迎え、三十一日になった。


 先週末に文化祭があったので今日はその代休だ。

 僕は二ヶ月ぶりに、午前中からフードコートに向かう。

「やっぱり朝一は快適だ!」

 この感覚は本当に久しぶりだ。

 ファストフード店でコーヒーを買って、いつもの特等席に腰かける。黄色く染まる街路樹が朝陽に輝く。街はすでに冬支度を始めていた。


 この場所に通い始めて、すでに三か月が経った。この特等席は、もう自分のもののように感じていた。

「本当にここの環境は自分向きだな」

 疲れた時は両手を広げて派手にノビができる。

 眠くなったらすぐにコーヒーが買える。

 問題を解く時だって、身振り手振りで考えても誰にも文句は言われ――ちゃったんだよな。あの時、あの女の子に。落書きという形で。


 僕は彼女の面影を思い出していた。

 あれから一度も彼女には会っていない。

 おそらくここには来ていないんじゃないかと思う。

「それなら、久しぶりにやってみるか……」

 僕は目を閉じ、掌に意識を集中させた。


 フードコードではしばらく封印していたサインカーブの儀式。

 四分の一波長が十五センチの巨大で美しいサインカーブを掌でなぞる。


「ふふふ、また落書きされちゃったりして……」

 そうなったらいいなと思う。

 しかし、トイレや買い物から戻って来ても、ノートは真っ白のままだった。


「ふわぁぁぁぁ……」

 秋の日はつるべ落とし。午後三時を過ぎると、たちまち空が重くなってくる。

 僕は特大のノビをすると、トイレで席を離れた。

 今日は久しぶりに勉強がはかどった。やはりサインカーブの儀式の力は絶大だ。

 そしてカウンターに戻って来た僕は目を丸くする。


「えっ!? 寸と三角形!?」


 ノートの真ん中に、あの時のような落書きが躍っていたのだ。それは、鉛筆で描かれたぎこちない三角形と丸っこい『寸』の文字。

 振り返ると、「久しぶりね」と温かそうなセーターに身を包んだ彼女が立っていた。



「今日はね、キミにお礼を言いたくてここに来たの」


 懐かしい笑顔に、今までこらえて来た感情が溢れ出そうになる。

 言いたいことも一杯。聞きたいことだって一杯。

 それを考えるだけで、ドキドキと胸の鼓動が高鳴り出してきた。

 そうだ、彼女に夏休みの宿題を渡さなくっちゃ!

 僕は、裏ワザ冊子が入ったバッグをチラリと見る。


「私ね、数学ってずっと難しいものだと思っていたけど、キミのおかげでかなり前向きになれたの。キミが使ってみたらって言うことにも、チャレンジしてみたんだけど……」


 良かったぁ。僕が教えた裏ワザが功を奏したんだ。

 だったらこの冊子があれば、もっと彼女の役に立つに違いない。

 やっと夏休みの宿題が完成したんだ。ぜひ君に受け取って欲しいと言おうとした時、彼女は満面の笑みで僕にこう告げた。


「そしたらね、受かったのよっ。無理だと思ってた法慶大学の日本文化学科の推薦入試に!」


 す、って!?

 そりゃ、を使えばって言ったかもしれないけどさ……。


「だからね、もう数学なんて勉強しなくていいのっ!!」


 ええっ!?

 それってどういうこと?

 即座に理解できなかった僕は、咀嚼するように脳内で彼女の言葉を繰り返す。

 モウ、スウガクハ、ヒツヨウ……ナイ?


 そ、そんな……。

 ということは、この裏ワザ冊子はいらないってこと?

 こんなに頑張って作ったのに!?

 ショックが大きすぎて、僕は彼女を直視できなくなりうつむいた。

 僕の今までの苦労は何だったんだろう……。


「何か食べたいものある? 今日は人並みに奢らせて。って、泣くほど喜んでくれなくてもいいのに……。うん……、ありがとう……。キミの涙を見てたら、私まで泣けてきちゃった……。ここでキミに遭えて良かった。このことは一生忘れない。だから……教えて? 名前とか……連絡先とか……」



 了

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十月は君の寸角形 つとむュー @tsutomyu

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