帰り道。
緑青 海雫
帰り道。
「渋谷~、帰ろうぜ~?」
夕陽が教室を照らす、午後6時半。
ヒトの匂いと教科書たちの紙の匂い。
お日様の香りと、少しスンッとした汗の匂い。
久しぶりの学校に、変わったところがなかったので、それが何だかホッとした。
渋谷花梨は、オレンジ色の空を眺めながら自分の席に座っていた。
帰ろうと声をかけてきた男の子は、小学校から一緒の幼馴染みだ。
「……由貴、わざわざ迎えに来てくれたんだ。ごめんね、待たせちゃって。」
由貴雅彦が、廊下でにっこりと笑った。
「いいんだ、俺が一緒に帰りたかったから、待てなくて迎えに来たんだよ。」
「……そっか、ありがとう。」
立ち上がろうと力を入れると、カタンと机と椅子が鳴った。
机の下から出て来た自分の脚を見て、花梨は苦しそうに顔を歪めた。
「だ、大丈夫か? 痛むの?」
花梨の表情に、雅彦は慌てて駆け寄った。
ふるふると頭を左右に振って、なんとか無理矢理笑おうとしたけれど、難なくそれは失敗してしまった。
「脚は痛く、ないよ……。」
花梨の利き脚の右側に、真っ白で大袈裟なほど頑丈で大きなギブスが嵌められていた。
何処からか、応援の声とトレーニングに励んで数を数える声が聞こえた。
グラウンドから、野球部の打つバットの金属音が響いてくる。
「……くやしかったな。」
雅彦が、ぽつりと呟いた。
「うん……だって……。
これが、最後の夏だったもんね。」
「……胸、貸してやろうか?」
「ふふっ、ありがとう。
でも、まだ泣けないんだ……。」
花梨は、溢れ出る感情の奔流に流されないよう涙を堪えて、代わりにスカートのプリーツを握り潰した。
まぶたの裏に何度も蘇る光景。
マットに落ちていく浮遊感。
遠退く軽快な音楽。
悲鳴が木霊する体育館。
なにかを叫ぶ部員たちの声。
そのあとに続く、声もあげられないほどの
――― 激痛。
花梨は、平均台から落ちたのだ。
新体操のインターハイは間近だった。
期待のエースを背負っていた。
毎日、過酷な基礎練習を行い、必死に体力を養った。
身体に、負荷をかけて筋力をあげるトレーニングは、逃げ出したいほど辛かった。
プロテインは不味くて喉に張り付くし、ここ最近は、パッサパサの鳥のササミばかりお弁当に入れていた。
全部が、全部。
インターハイ優勝を目指していたから。
仲間たちと一緒だったから。
金のトロフィーを掲げて、雅彦に自慢したかった。
優勝したら、自分に自信が持てて、雅彦を夏祭りに誘って、大学受験の前に告白したかった。
全治二ヶ月の骨折と、靭帯の損傷。
演技のラストスパート。
側転からの、前方宙返り一回転半捻り。
大技だ。けれど、殆ど失敗したことは無かったのに。
まさか汗で滑って、側転を踏み外してしまって。
花梨は、無様に落ちてしまった。
不運な事に、同じ体育館内で卓球部の外した玉が足下に来てしまった。
着地と同時に、踏んでしまったピンポン玉。
弾けて刺さって、痛みに飛び退いて更に足首を捻って。
一歩分横にあった平均台の鉄の脚に、その衝撃のまま右足を打ち据えた。
あまりの痛みに花梨は気絶し、気づけば病室で寝ていた。
2週間の入院生活は、学校の友人たちや日常から疎外されてるような気分になって、何となく恐くて寂しかった。
友人たちや部員、顧問の先生と、もちろん雅彦もお見舞いに来てくれたが、この得体の知れない疎外感と、悲しさと惨めさとどうしようもない不安は、中々拭えなかった。
あの事故は不幸に、不幸が重なったのだ。
不運も実力の内だと、花梨は自分を何度も何度も納得させるよう、言い聞かせた。
けれど、脚を見るたびに……。
ギブスを見るその度に、煮えたぎるような悔しさと憤りと悲しさと惨めさがない交ぜになって、激流のように襲い来るのだ。
こんなに醜い感情を、雅彦に知られたくなかったから、花梨は泣けないでいた。
「……はい、松葉杖。
鞄は俺が持つからな。」
さりげない、そんな気遣いが出来る雅彦が好きだった。
「由貴、ありがとう。」
「おう、気にすんな。」
かつん、かつんと、松葉杖で歩くのは惨めだった。
帰り道。
夕陽が落ちて、辺りはすっかり夜の気配が忍び寄ってきた。
蛙の合唱が、田んぼの中から聞こえてくる。
畦道からは、いろんな虫の声も鳴いていた。
少し寂しいような、田舎の帰り道。
「……なぁ。」
雅彦が、そっとため息をつくように声をかけてきた。
「うん? ……なぁに?」
お互い歩みは止めず、のんびりと歩く。
「俺たち付き合わないか?」
あまりの衝撃に、花梨は歩みを止めた。
「えっ!?」
一歩前に進んだ雅彦が、クルリと振り向いた。
がたいの良い体格。
男らしい顔つき。
静かな眼差し。
ツンツンと短く刈り上げた髪の毛が、ホントは柔らかいのを知っている。
花梨を見下ろす高い背。
バレーを打つからか、分厚い手のひら。
いつか手を繋いで欲しいと願っていた。
付き合わないか、と言われたのだろうか?
花梨は、自分の耳が信じられなくて呆然とした。
「渋谷……、お、俺……ずっとお前が好きだったんだ。
その……よ、弱ってるお前を、抱き締めたくてしょうがないって、ずっと我慢してた。
こんな時に、告白するなんて卑怯かもしれない。だけど、俺は彼氏としてお前を抱き締めて慰めたいんだ。
だから、俺と、付き合ってくれないか?」
何度も言葉を噛みながら真っ赤な顔をして、けれど視線を外さないで雅彦は言い切った。
花梨は、雅彦の言葉を噛み砕いて飲み込むと、意味が分かった途端に顔を真っ赤に染めた。
立っているのに座りが悪いような気分になって、走って逃げ出したくなった。
けれど、なにより嬉しくて、嬉しくて!
自然と視界がボヤけて、鼻の奥がツンとした。
「わた……私もっ、ずっと好きでした。
ホホ、ホントは由貴の胸をっ、借りて……大声で泣きたかった……。
けど、あの……わたしも好きって、言えなくて……我慢してたの。」
真っ赤な顔をして泣き出す、大好きな女の子を前に、雅彦はグッと顎を引いた。
「しぶ……か、かりん、だきっ、抱き締めてもいいかっ!?」
思ったより大きな声になって、雅彦は自分の声に驚いた。
花梨が、目をまん丸くして雅彦を見た。
声に驚いて、ビクリとした花梨のポニーテールが左右に揺れていた。
花梨が恥ずかしそうに俯いて、けれど潤んで真っ赤になった両目が見上げてきた。
「おっ、おね、お願い、しましゅ!」
真っ赤になった顔を両手で隠しながら、小さな声で花梨は言った。
驚きと嬉しさと恥ずかしさに、言葉を噛んでしまったことも、自分が何を言ってるのかも、何をやってるのかも良く分からなくなっていた。
雅彦は、そんないじらしい花梨の可愛さに打ちのめされていたが、なんとか両手を伸ばしてソッと花梨を抱き寄せた。
石鹸とシャンプーの女の子らしい香り。
柔らかくて、自分の無骨な両腕にすっぽりとはまってしまう小柄な身体に、頭がクラクラしていた。
ずっと好きだった女の子を、抱き締められた喜びに、雅彦は天にも昇る気持ちだった。
花梨は嬉しさと恥ずかしさと、抱き込まれる暖かさに、始めて安心を得られることを知った。
左手を雅彦の背中に添えて、胸元にソッと寄りかかる。
洋服の洗剤の匂いと、雅彦の汗ばんだ匂い。ふわふわとした気持ちで、花梨は抱き締められていた。
りぃーん……りぃーんと虫が鳴いている。
雅彦と花梨にとって、数分の抱擁は永遠にも程近いようなものであった。
「……帰ろうか。」
雅彦が、かすれた声で囁いた。
胸からソッと顔を上げると、花梨は嬉しそうに微笑んで頷いた。
「うん、帰ろうか。」
あんなにも、泣きたくて辛かった気持ちが、あっという間に萎んで吹っ飛んでしまった。
インターハイまで、あと数日。
きっとまた大声で泣き出したい気分になることも有るだろう。
けれど、そばに彼が居てくれれば、きっと大丈夫だ。なにより心強いと、花梨は確信していた。
三日月が帰り道を照らす中。
二人の影が手を繋いで歩いてた。
目標を失った帰り道。
けれど、両想いになれた帰り道。
二人は、ゆっくりと帰路についた。
帰り道。 緑青 海雫 @37KAINA
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