河川敷から二時間後…。
夕飯後、私は自室に戻り、ベッドの上で壁に背を預け、「こころ」を読んでいた。
余韻を振り払って、気持ちを落ち着けようと、何度も同じ行を見る作業を繰り返していた時だった。
ドアがノックされる音を耳にして、そちらの方を見ると、だらしなく口元を歪ませた姉の不気味な顔がこちらを窺っていた。
「……」
普段通り、姉がそんな顔をする時にいつもそうするように、私は「何だ?」と真っ向から問おうとした。が、出来なかった。
「だーい成功~」
何も言わずに視線を逸らした私を見て、姉が不気味な笑みを深める気配を感じる。
そそくさと部屋に侵入してきた姉に対してろくな抗議の声を上げることさえ適わず、私は一方的に陵辱されるように、ベッドの傍らのスペースを奪われる。
圧倒的に優位な立場で睥睨しながら私に無言の圧力を加えてくる姉に、言うに事欠いて私は口を動かす。
「あの薬は何だったんだ?」
藪蛇であることは重々承知だが、聞かずにはおれなかった。
「んふ。ただの水よ」
意味深な吐息をわざとらしく漏らしてから、姉は言う。
「馬鹿な。じゃああの症状は何だというのだ?」
口調だけは普段通りを装うことに成功していると思うが、いかんせん視線をあわせる事が出来ないため、この姉に私の心情は筒抜けだと自覚する。
「ふふっ。アンタ、プラシーボ効果って知ってる?」
「……知らん」
聞いた事はある。が、よくは知らない。
「病は気からって言うでしょ? 要は気の持ちようで、身体に症状が起きたり起きなかったりってこと」
「……つまり私は姉に、騙されたということか?」
「違うわよ。騙したのはアンタ自身よ」
その指摘は予想外のもので、思わず姉の方を見る。
姉は、呆れたような、哀れむような顔をしていた。
「アンタが、埋められない距離を、薬のせいにした」
姉はその顔のまま、普段の口調から装飾を剥ぎ取った、剥き出しの言葉を私に突き刺してきた。
そして私は、捨てられなかったその鋭さを、自分を傷つけないように柔らかく仕舞っていた場所に見つける。
誤魔化すための被いを、その言葉は容易く溶かす。蒸発したその被いが、肯定を示す無言となる。
震える吐息に気付いて俯いていた顔を上げると、止めどなく涙を流す姉がいた。
理由が分からず、戸惑う私に姉は告げる。
「ずっと……気にしてた。あの時、助けてあげられなくて……ごめんね」
その言葉が私を崩壊させる。地面が割れて、湯水が湧き出るように、涙が出てきた。
当然の帰結で、私は姉と抱き合い、久しく嗅いでいなかった姉の匂いに、懐かしさがこみ上げる。
***
小学生の頃、智明はいじめられていた。
ままあることだが、小学三年生から四年生に上がるタイミングで私の学校に転校してきた智明は、当初級友たちの興味の対象として高々と持ち上げられ、そしてひと月もしないうちに、いじめられるようになった。
マイペースな智明の性格は、小さくまとまった閉塞的な社会の中では受け入れられず、「
善悪の区別もままならないまま、知識だけを蓄えた賢しい級友の一人が考え出した方略だった。曰く、智明が呼吸をするだけで、その半径15cm以内には「智明菌」が滞留するのだという。
馬鹿馬鹿しいこと限りなく、誰もそのような風説を信じているわけではなかったが、その小さい世界の中では、真実として取り扱われた。
そうしなくてはいけない「空気」が、教室の中には蔓延していた。
サッカーと漫画の二択から、漫画を選択することに意味がある。最初からサッカーの仲間に入れてもらえないという現実を、智明はどのように受け止めていたのか、私は聞けないでいる。
私は私で、正しさと不寛容を履き違えていたために、その世界の中で浮いていた。なまじ秀才であったため、級友たちは勿論、輪に溶け込めない私のことを教師たちも持て余していた。
休み時間。本来学業を外れて各々が自由に過ごせるはずの時間は、私にとっては窮屈な時間だった。しかし、智明が来てからは窮屈ではあっても、苦痛ではなくなっていた。
独りではない。その感覚をひとたび味わうだけで、それまで感じていた世界の「空気」は、別物のように優しくなった。
図書室で時折交わす会話が、縮んでいくばかりだった私の世界を、救ってくれていた。それなのに私は、遠巻きに交わされる悪意のある会話を糾弾することを、躊躇っていた。正しさの行使と不寛容の顕現の境界が、私には判然とせず、その領域を侵すことを気にして、目の前で盛られていく穏やかな毒を、見ないようにしていた。
そんなある日のことだった。
智明は給食に出ていた梅干しを、嫌いだったが無理して食したためにその場でもどしてしまった。
遠ざかる級友たち。
私は咄嗟に智明に近付く。
その時の私が吐瀉物を処理しようとしていたのか、智明の介抱をしようとしていたのか、今となっては定かではない。
私の意図を知ってか知らずか担任は、
「寄るな。離れろ」
と、言った。
智明の梅干し嫌いを知らなかった担任が、その嘔吐の理由をウイルス性のものだと疑い、そう指示を出したのだと、今なら分かる。
しかし当時の私は教師の指示を守らなくてはならないと思う気持ちと、えずき続ける智明の背中を擦るという行為の正しさを天秤にかけ、そして。
あと少し。
ほんの少しだけ伸ばせば届く距離で止ってしまった手を。
そのまま引いてしまった。
涙を目尻に滲ませ、智明がこちらを見る。
私はその視線から逃げた。智明から逃げた。
それから小学校を卒業するまで、私は級友たちから陰で冷たい人間だと言われ続けた。
***
当時の姉は、小学校六年生で、度々友人との遊びに私を誘っていた。
当時から今日に至るまで、人気者で常に人に囲まれて過ごしていた姉のことを、私は少なからず妬んでいたのかもしれない。
「アンタのこと、羨ましかったのかもしれない」
姉は込み上げる嗚咽の狭間に、そんなことを言った。
人に嫌われることを何よりも恐れていた姉は、人と異なる事、違うことを避けていた。そんな中、自分を曲げない生き方を実践する私と智明のことを、羨ましく思っていたらしい。
「だからって訳でもないんだけどね。姉として、とかは別にして、アンタたちにはそのままでいて欲しかったんだ」
最初の子どもとして、姉は私より厳しく躾けられたのかもしれない。
姉は私のことを心配して、何か自分にも出来ることではないか、と思い続けて、しかし自分が嫌われるのではないか、という恐れとの葛藤の中で、一歩踏み込むこと、自分が声を上げることを出来ずにいたことを、後悔した。
「ともクン、ずっと気にしてたんだよ。
アンタのこと、傷つけたって。だから距離を縮めたいって思っても、後ろめたさから何も出来なかったんだって」
「それは……聞いた」
暗くなった河川敷。
私は智明の気持ちを聞いた。
***
「……なんだ?」
私は警戒心を隠さず、端的に尋ねた。
「今日の志寿嘉がおかしかったのは、真理嘉ねえが何かしたからなの?」
「やはりお前が真理嘉に何か対策を講じるよう頼んだのか?」
「……うん」
「……それならそうと、面と向かって言えばいいだろう。いくら気を遣っているとはいえ、陰でコソコソ動かれて、挙げ句妙な薬まで仕込まれてはさすがに腹も立つ」
予想していたこととはいえ、智明が私の体臭を気にしていたという事実を知って、思ったよりも大きく精神的に傷つく。
泣きそうなのを我慢して、奮い立たせるように大きい声でそう言うと、険のある言い方になってしまった。
「言えるわけないじゃないか。僕は志寿嘉のことを傷つけて、今の今まで逃げてきたんだ。今更、何をきっかけに謝れば良いのか、わからないよ」
「? 何か話が違う気がするのだが。私の体臭について、それとなく指摘して対策するよう真理嘉に言ったのではないのか?」
「? 体臭? 昨日も言ったけど、練習後の志寿嘉の匂いは格別だよ。理性が保てなくなりそうになるくらいに」
「馬鹿な。散々「ヘンな匂い」だと侮蔑しておきながら何を今更取り繕う必要があるのだ」
「いや、良い匂いがするね、なんて言える訳ないでしょ」
口元を緩ませながら恥ずかしそうに笑う智明は、少し気持ち悪い。
「まぁいい! 体臭が関係ないなら、何のためにあんなもの飲ませようとしたんだ?」
「真理嘉ねえが実際に何をしたかまで僕は知らないよ。ただ、僕は志寿嘉に謝るにはどうきっかけを作ったらいいのか、相談しただけだよ」
「……さっきからわからないのだが、智明は何について謝っているんだ?」
「小学生の時、志寿嘉が僕を助けようとしてくれてたことに、ちゃんと気付いてるって言えなかったこと」
息が、できない。
「僕は自分のことで精一杯で、志寿嘉が僕のことをどれだけ気にかけて、心配して、でも実際には何も出来ないことを人の何倍も悔やんで苦しんでたってことに気付けなかった。いや、気付かないふりをしてたんだ。浮いてたけど、何でも出来る志寿嘉に、嫉妬してたんだ。
僕が吐いた時、手を伸ばして助けようとしてくれてたこと、知ってた。真面目だから、先生の言うことを聞かなきゃって迷ってたことも。だって昔から変わらないけど、志寿嘉全部顔に出るんだもん。
それからずっと、そのことを気にしながら、僕に接してることにも。
電車で隣に座らなかったり、図書室で並んで座る時も微妙に椅子の位置ずらしたりさ。
あの時からずっと、僕の側にいてくれたのに、人のこと顧みない僕を、そのまま受け入れてくれたのに――」
そこまで言うと、智明は袖で自分の目元を強く拭った。
私は肺がなくなったように息が出来なくなって、ただ目だけは瞬きを忘れてずっと智明のことを見ていた。
「――志寿嘉が埋められなかった距離を、僕が手を伸ばして埋めるべきだったのに、ずっと言い訳して逃げて、何も出来なくて……ごめんね」
目が渇いたためか、涙が出てきた。断じて悲しいからではない。
その距離は、私が勝手に作って壊さないままにしておいただけだから。
泣いていい理由なんてないのだ。
だが。
「ごめぇぇぇなさぁぁぁぁい」
気付くと私は大声を上げて泣き叫んでいた。
日頃の鍛錬のおかげか、人目を気にする必要がないからか、とんでもない声量の泣き声が、どこか他人のもののように感じる。
「わたじ……ねっ、わたじがねっ……、ほん……とっ、ごめっ……ねっ……」
「うん、大丈夫。大丈夫。ちゃんと分かってるから」
自分でも何を喋っているか分からないまま、私の口から止めどなく言葉が、目からは涙が溢れてくる。
抱き締められ、智明の熱を感じて、川の音と智明の言葉に包まれる。
「志寿嘉、好きだ……」
***
翌朝。
私はいつものように日課の素振り、それに加えて長距離走、筋トレに励む。
普段土曜日は練習があるのだが、今日は休んだ。智明の両親は昨晩から2泊3日で温泉旅行に行っている。
私は汗だくのまま、智明の家に行った。
寝ぼけ眼のままの智明が玄関に出てくる。
私の張り切りようとはえらい違いに、思わず溜息が出る。
その溜息に気付いて、智明は慌てて、「違う違う! 昨日、全然眠れなくてさ……」と、恥ずかしそうに笑った。
なんだか私まで恥ずかしくなって、一世一代の決心が揺らぎそうになる。それを振り払うように智明を家の中に押し込みながら言う。
「まったく。そんな事では先が思いやられるぞ。一泊二日のセックス合宿はまだ始まったばかりなんだ」
それから。
それから我々は、宣言通りメチャクチャセックスした。
文学少女崩壊 エスプライサー @Ultraighter
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