あの日。
朝6時、目が覚める。
規則正しい生活を心がける私の1日は、朝日を浴びながら朝食前にこなす日課の素振りで始まる。
日課を終えてシャワーを浴び、清々しい気持ちで身支度のため、一旦自室に戻る道すがら、姉の部屋のドアがわずかに空いていた。
なんとなくその隙間から部屋の中の様子を窺うと、姉はいなかった。
恐らく昨晩もあの後、練習と称して外出したのだろう。ひょっとすると、今日はそのまま学校に行くのかもしれない。
そのまま通過しようとしたが、無意識に視界の端で小瓶の入った箱を捉える。
足を止めて、昨晩のことを思い出してみる。
姉は当初、割としつこく私を引き留めていた。にも関わらず、最終的にはあっさり引き下がった。それに、本題の前に智明との関係について久方ぶりに尋ねてきた。
あれは世間話めいたものではなく、そもそも本題だったのではないか。
毎日登下校を共にする智明は、もしかするとずっと下校途中、私の体臭を気にしていたのではないか。
耐えられなくなった智明は、本人に言うわけにもいかず、思い切って姉に相談したのではないか。
それで姉はお節介を焼いている、と。なかなかデリケートな問題でもあるし、さすがの姉も気が引けて、押し通す訳にもいかなかった、と。
考えてみると、昨日の昨日で、タイミングが良すぎる気もする。打ち合わせしていたとしか考えられない。
そうすると……?
二人はあくまでも私に気を遣っていたことになる。私はそんな二人の好意を知らなかったとはいえ、無下にしていたことになる。
そんな所業は、私の理想としているところだろうか?
否、断じてそのようなものが私の理想であるはずもない。
人の好意は受け取るものである。不心得者とは重々承知の上、私は本人不在の姉の部屋に入り、箱から小瓶を取りだして、躊躇うことなく一気に飲み干した。
瞬間、全身が熱くなる。うっすら発汗しているような気もする。
飲んでから、一応薬みたいなものだから、朝食の後にするべきだったと気付く。
直情的な性質を深く反省する。それと同時に、しっかりと効き目があるように感じる。
***
いつも通りの時間に、家を出る。
身体の変調は、あの後すぐに引いた。だから逆にその効果を疑ったりもしたが、考えたところでどうなる訳でもないと気にしないことにして、私は通常営業を再開した。
私の朝は、7時半に家を出て7時35分に智明の家のチャイムを鳴らすことを含んで構成されている。
返事はいつもおばさんがする。智明が起きている時はまれで、基本的には寝ている。おばさんは「悪いけど、志寿嘉ちゃん。起こしてくれる? 私が起こしても全然起きないから」と言う。
私は胸を張って、「任せて下さい!」と答える。人に何かを任せてもらえるのは素直に嬉しい。
おばさんは少し笑いながら、「ひょっとすると智明、志寿嘉ちゃんが起こしてくれるのを楽しみにしてるのかも」なんてことを言う。
私は弱冠の気恥ずかしさを覚えながら、「いやいや! 毎日夜更かししてるからですよ!」とだけ答えてそそくさと階段をのぼる。
「智明、入るぞ」
私はドアを開き、つかつかとベッドに歩み寄り、いつものように布団をはぎ取ろうとする。
が。
突然激しい動悸に襲われて、息が出来なくなった。
思わず伸ばした手を引っ込める。
途端、鼓動は普段通りの拍子に戻る。
私は荒くなった呼吸を落ち着かせるように、意識的に深く息を吐き出す。胸に手を当てて、拍動が落ち着いていくのを確認する。
落ち着いてから、考える。
なんだこれは?
おかしい。今までこんなことはなかった。
何か原因があるとすれば、当然あの薬のせいだとしか思えず。
そう考えて、昨晩の姉の言葉を思い出す。
「――昔は媚薬として使われてたんだって――」
これが……媚薬の効果だと言うのか。
侮っていた。いや、よく考えていなかったと言う方が正しいのか。
呼吸も落ち着いたので、恐る恐るもう一度、寝ている智明から布団を剥がそうと手を伸ばす。
じりじりと、そろそろと、手を伸ばす。
手と布団の距離が近付くほどに、鼓動を刻む速度が上がっていくのが分かる。
そうして、あと十数㎝、掌一つ分といった距離まで手を伸ばすと――
ドキッ!?
心臓が爆発したように跳ね上がる。
思わず全身で飛ぶように後退る。
なんだこれは!?
先程と同じ疑問が、先程よりも大きな情動の本流と共に、私の中で渦巻く。
私はすっかり混乱していた。予期せぬ事態に、どうすればいいのか分からず、考えようとすればするほど、脳内の浮かぶ概念が跡形もなくさっぱり削除されるような感覚だ。
私はドア付近まで後退し、へなへなと座り込んだ。
しばらく呆けたままだったが、ハッと覚醒し、机の上にあったスティックのりを智明の頭目掛けて投擲し、命中させた。布団の中で身動ぎする智明に向かって声を張り上げて「起きろ!」と言う。
智明はのっそりと上半身を起こして目をこすりつつ、「どうしたの? 今日はやけに元気そうだね」なんて安穏とした様子である。
それとは打って変わって、私は胸の高鳴りが治まらず、当惑していた。
このまま智明と一緒にいると、理性が崩壊をしてしまうような、得体の知れない予感が頭に去来し、私は無言で部屋を後にした。
***
そうして一人電車に飛び乗ると、この有様である。
周囲を見渡すと、車内の男性という男性全員が、私に視線を送っているような気がする。
今までこんなことはなかった。もしかすると、あの薬は体臭が消えると同時に、男性諸氏を誘惑するような揮発成分を、体内で生成する効果があるのではないか?
智明の家から走ってきたのも乗じて、心臓の活発な動きが落ち着く様子はなく、熱暴走によって機能停止寸前の頭をなんとか働かせて、男性諸氏と距離を取る。
つり革を持つ手が震える。
息をつこうとすると、喘いでしまう。
あと三駅。
車内の電光掲示板に必死で集中しようとする。
電車が停まり、人の動線を意識して予防線を張る。
人の入れ替えは少ない。なんとか凌ぐと、電車が発車する。
この状態を維持できれば、大丈夫だと思う。そう確信すると、強張った身体から少しだけ緊張が解ける。気持ちが和らぐ。
あと二駅。
ここが最大の難関である。この駅で降りる人間は多い。次の駅での乗り降りは少ない。
ここを凌ぎきれば、なんとか保つはずだ。
窮地に追い込まれてはいたが、私は冷静に状況を分析し、果敢に切り抜けようとする。
そう、これこそが私が追い求める理想の私なのだ。
如何なる逆境にも屈せず、平常心を保つ。剣道によって培われた精神がここに来て力を発揮する。日々の鍛錬は、嘘をつかないことを身にしみて感じる。
間一髪、ではなく、掌一つ分の間合いを正確に目測することで、絶望的にも思えた状況を切り抜けることに成功した。
相変わらず心臓は破裂しそうなままだが、それが何の要因によるものなのか、最早判然としない。
がしかし、目的は達せられた。
あと一駅。
頬に一筋の汗が伝っているのに気付き、慌ててハンカチでそれを拭う。
もう大丈夫だ。
電車は速度を緩め、停車する。
念のためドアから乗ってくる人間を集中して確認する。勝って兜の緒を締めよを実践する。
それが仇になる。
あっ! ダメっ!!
背後に人の気配を感じた時には時すでに遅く、間合いを詰められていた。
あぁ~~!! 好きになっちゃうっ!! ダメぇ~~エッ!!
膝から下に力が入らなくなり、ストンと膝立ちになり、思わず手をついてしまう。
……前の座席に座っていたサラリーマンの両腿に。
ああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!
好きィィィィィィィィィィィィィ!!!!!!!!!!!!!!!!
びっくらこいてひっくり返る。
思いっきり尻餅をついた私は、気付くと大股を開いて電車の床に倒れかけていた。
俗に言うM字開脚なる体勢である。
幸いにもスカートの中身は開陳せずに済んでいた。
が、一気に顔が熱くなる。もう、駄目だ私は。油断していた。
「あの……」
そう言って腰を浮かせて前の座席の男性が手を差し伸ばしてくる。
既に私はこの男性のことを好きになりかけている。差し出された指を、無意識にしゃぶろうとする自分に気付いてハッとする。
慌てて私は微かに残った理性を総動員して、恥も外聞もない及び腰のまま、電車から駆け下りた。
***
「どうした? 何かあったのか?」
結局その後電車に再乗車出来るわけもなく、一駅分歩いて登校することになった。
考えてみれば、それが最善策であることは自明だったが、やはり視野狭窄ならぬ思考狭窄状態に陥っていたのだろう。
曲がり角に差し掛かる度にビクついていたら、教室に辿り着く頃にはホームルームが始まっていた。
生まれて初めて遅刻してしまった。皆勤賞はこれで白紙である。
悔しくて、思わず涙が出そうになる。
「すみません。電車に乗っている途中で気分が悪くなってしまって……」
声が震えそうになるのを必死で堪える。
「そうか。もう大丈夫なのか?」
「はい」
先生の目は見れなかった。俯きながらそう答える。
「辛かったら気にせず保健室行けよ。ちゃんと理由がある場合は、皆勤賞取り消されないから、無理するな」
その言葉に少し安心する。
私は下を向いたまま、最後方の自分の席に座る。こういう時、最後方の席で良かったと思う。
こういう時は金輪際無いと思うが。
「ねぇ、ホント大丈夫?」
となりの席の智明が、こちらに顔を寄せながら小声で聞いてくる。
すっかり心細くなっていた私は、縋るような目で智明を見る。
落ち着いていたはずの胸が熱くなる。
視線を逸らして下を向く。
「大丈夫……」
小声でそれだけを返す。
左から届く智明の視線が、まるで陽射しのように私の頬を熱くした。
***
放課後。
部活の顧問の仁科先生に、「今日は体調が悪いので、部活をお休みしても構いませんか?」とお伺いを立てることにした。
我が剣道部の顧問である仁科先生は如何にも体育会系大学出身のスパルタ教師で、「おう、そうか。お前が休むなんて珍しいな。わかった。じゃあしばらく練習見てけ。そのうち、自分も練習したくなるだろうから」と、全然こちらの要望を承知していない様子で私を引き留めてきた。
本心では練習を休みたくないのもあったので、素直に従うことにする。
きぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!
ふぁぁぁぁっぁぁっっ!!
多種多様な掛け声が飛び交う中、武道場の片隅で一人体育座りで練習を見守る。
智明はもう帰っただろうか? 何か言いたそうな智明を無視して教室を後にしてしまったから分からない。
薬の効果はもう切れただろうか? だとすれば、私も練習したいのだが。
あらゆる想念が私の中を駆け巡り、脈絡無く浮かんでは消えて、又浮かんでは消えていった。こういう時こそ、練習に集中すれば精神統一を図ることが出来るのに。
練習が一段落すると、仁科先生は私のところに寄ってきた。
「どうだ? 練習したくなっただろう?」
なんだか癪に障る。今までそんなことはなかったので、自分で思っておいて自分で驚く。
「そうですね。防具つけてきます」
それ以上の感想を抱く前に、私は更衣室に向かった。
***
「よしっ! じゃあ村本! お前行けっ!」
ここに来て村本か……。
熟練の野球解説者のようなぼやきを、柄にもなく漏らしそうになる。
村本はクラスは違うけど私と同じ2年生で、どうやら私のことをライバル視しているらしい。
いつもふと私が村本を見ると、真っ直ぐにこちらを睨んでいる。でも目が合いそうになると逸らす。
そんなことが、これまでも何度となくあった。
お互いに切磋琢磨することは私的にも臨むところだが、そういつも睨み付けられていると多少堪えるというのが本音だ。
私としては、村本との勝負は本調子の時にやりたい限りなのだ。
でないと後々、戦績に要らぬ黒星をつけるかどうかで論争が起きること間違いないからだ。
そんな私の心情を知ってか知らずか、村本は防具越しでも届きそうなくらい鼻息を荒くして眼前に腰を据える。
どうやら防戦になりそうだった。
出来るだけ間合いを節約して、文字通り小手先の闘いに持ち込もうとする。
そんな意図を村本は汲み取ったのか、厭らしく私の懐に入ってこようとする。
いつも以上に苛烈な剣劇に私はついていけなくなって、追い込まれる。
やや強引に迫りすれ違う刹那、村本が私の胴に向かって一閃を放つ。
竹刀を握った両手が私の15cm距離に近付く瞬間、膝から下の力が抜ける。
倒れこみながら、私は竹刀の切っ先を村本の籠手目掛けて突き出す。
ドサリ!
倒れ込んだ私は気が抜けたのか、意識が朦朧とする。
薄れ行く意識の遠くの方で、部員たちの喧騒を感じた。
……。
目が覚めると、見慣れない天井があった。
「お。起きた」
端から聞こえる聞き慣れた声に、思わずそちらを見る。
「うぃっす-。じゃなかった、大丈夫?」
気遣わしげな目でこちらを見つめる智明が、そこにいた。
「と、智明!?」
「はい。智明さんです」
そう言って智明はずいっと顔を寄せてくる。近い近い!
そこでハッとする。
そう言えば私は練習中に倒れてしまったのではなかったか。
そうなると当然、身体は汗まみれな筈である。
「なんかヘンな匂いしない?」
昨日の智明の言葉が脳内に甦る。
瞬間、顔が烈火のごとく赤くなるのを感じる。
「ねぇ、本当に大丈夫? 無理しないでもう少し寝てたら?」
なんて相も変わらず私の心配をしているように装う智明は、実は私の体臭をひどく嫌悪しているのではないか。
我慢して、気を遣って、毎日私に接しているのではないか。
「えっ!? ちょっと! どうしたの? どこか痛い? あっそうだ、お水飲む?」
慌てふためく智明をまともに見ることが出来ない。
涙が次から次へと私の意思とは無関係に零れる。
これまでの研鑽が無くなってしまったみたいに、私は涙を堪えることが出来なかった。
***
河川敷。
黄昏時。
私と智明は、いつもと同じ帰り道を、2人で歩く。
今日は色々なことがあって、いつもより遅い時間帯にこの道を通る。
辺りはもうすっかり薄暗くなっていた。
河の向こう岸を、車の灯りが一定間隔で流れていく様を、私はぼんやりと眺めながら、通常に比べて半減してしまった速度で家路を進む。
歩きにくくなるほどではないが、少しだけ向かい風が吹いている。
少しだけ先を行く智明の後ろ姿を見つめる。
智明は今、何を考えているのだろう?
闇が、智明の黒い髪を、学生服を飲み込んでいくように感じる。
私は名前がつけられない感情で息苦しさを感じる。もどかしさ、いたたまれなさ、どれも含んでいるが、そのどれでもない。
ふいにすぐ近くに気配を感じる。いつの間にか下を向いていた私が顔を上げると、すぐ立ち止まった智明が振り返って私を見ていた。
無意識に身を引く。
「どうした?」
少し険のある口調になる。私はそれを、制御できない。
智明はじっと私を見つめる。それが普段では見られないほどのもので、私は狼狽える。視線を逸らす。
智明は何も言わず、少しだけ私に近付く。私は思わず、
「寄るなっ!」と声を荒げてしまう。
智明の動きが止まる。言ってしまってから、こめかみににじむ汗の存在を無性に意識していることに気付く。
智明は真剣な顔つきのまま、私に語りかける。
「志寿嘉、話があるんだ」――
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