文学少女崩壊
エスプライサー
崩壊前夜。
私は、文学少女である。
性欲は、まだない。
子どもの頃からプライドが高く、両親どちらも公務員ということで厳しく育てられ、勉学に励み、身体を鍛え、志高く純潔を守り抜いて早十七年。
自分に対しても、他人に対しても、厳しくあり続けてきたことを、私自身も、周囲の人間も疑わない。
もう一度、確認する。
私にはまだ、性欲はない。
と、思っていたのだが。
「ああっ!!」
いかん。今日の私は朝からヘンだ。
思い当たる理由が、あるにはある。というか、それ以外に考えられないのだが。
一本分早い電車は、座席には座れないが割とスッキリとしていて、立っている分でも窮屈な思いはしない。
しないのだが。
あぁ、ダメだ。来る来る来る!! あぁ~~
ダメぇ~!! 好きになっちゃうっ!!
……わずか15cm。
半径15cmの範囲に人が近付いてくると、今朝の私は激しい動悸に襲われ、身体が火照ってしまう。
全身のあらゆる汗腺から汗が噴き出してきて、でもそれが不快ではないところが余計心を落ち着かなくさせる。
そしてそんな身体の変化以上に厄介なのが。
あっ、まただ。
やめろ! それ以上私に近寄るな!
実際に口に出せる訳もなく、心の中で声にならない叫びを上げるも、それが視線の先のサラリーマンに伝わる訳もなく。
あっっ、ダメぇ~!! 好きになっちゃうっ!!
意思とは無関係に、熱い吐息が口から漏れ出てしまう。
今日の私は、自分から半径15cm以内の領域に男性が近付いてくると、その相手を自動的に好きになってしまうみたいだ。
***
1日前、木曜日。
いつもの帰り道。
夕暮れの河川敷を、智明と二人で並んで歩く。
街一面を覆う1日が終わる雰囲気を感じながら、愛読書である夏目漱石の「こころ」を片手に家路につくこの時間を、私はそれとなく気に入っている。
今日も1日、やり遂げた。私は私らしく、目標とする姿に少し近付いたことを感じながら、その日の終息を感じていた。
隣を歩く智明は、今日も今日とて授業中に読んだ漫画の影響を早速受けているようで、「俺、小説家になる!」なんて馬鹿なことを懸命に宣言していた。
「あー、はいはい。明明後日にもう一回同じこと言っていたら、そのときは改めて話を聞いてやろう」
「志寿嘉ちゃんはどうしていつもそう、投げやりなのさ? 俺はいつも真剣なんだよ?」
「だから。3日後まで真剣だったら話を聞くと言っているだろう」
智明とは小学校4年からの付き合いで、いわゆる幼馴染みというやつだ。
運動が苦手で、級友たちが校庭でサッカーをして遊んでいる時も、図書室で一人家から持ってきた漫画を読んでいたような男児だった。
ちょうどその頃、私は図書室にある文学全集を制覇することに心血を注いでいて、級友たちが洋服や同年齢の男児について到底中身があるとは思えない会話に華を咲かせている間、図書室に篭っていたことが、智明との馴れ初め……ではなく、縁の始まりだった。
「いやいや、そう言ってられるのも今回が最後だよ? 俺、本気だから」
「ほう。それは楽しみだな」
級友たちの会話の内容について、批判的な感想を持っている私だが、智明との会話に中身がないことも十分熟知しているつもりだ。
では何故、私は智明と会話するのだろう?
「男に二言はない! まぁ多くは語らないよ。行動で示すさ」
ムッとした表情から一転、カラッとした晴れやかな顔で格好つけたことを言う。
表情がよく変わるところは、見ていて飽きない。幼少期から、世間の流行を追うように漫画やテレビゲーム等の一人遊びに勤しんできた智明は、使用する言葉もそういった作品の影響を多分に受けていて、代わり映えしない級友たちの言葉遣いと比べて一層惹き付けられるものがある。そんな智明のことが私は――
「――っ。んん。行動で示すのは良いが、高畠先生が怒っていたぞ。また仕事を怠ったのか?」
「あー、いや。サボったんじゃないよ。別の用事が入ったんだ」
左の目尻を指で掻きながら喋る癖は、智明が何かを誤魔化そうとする時の癖だ。
大方、放課後になってからも教室で漫画を読み耽っていたのだろう。図書委員である智明は、度々その執務を放棄して司書である高畠女史の怒髪に触れている。
その度に私がお小言を頂戴するのは、一体どういう了見だろうか。
「小説家になるのは構わないが、やるべき事はこなすように。だいたい智明は――」
「あー。分かった、分かったから。ちゃんと仕事はやるから! はい、この話おしまいね」
お小言の分、説教してやろうと思ったが遮られる。
仕事を放棄して、教室で漫画を読み耽ることを用事とは言わない、という言葉は飲み込んだ。
智明の素行に対して何か言おうとすると、嫌味な表現になってしまうことを、私は気にしている。そういうことを言わない人間に、私はなりたい。
ふと、智明が立ち止まる。
「どうした?」
「なんかヘンな匂いしない?」
***
その夜。
私は風呂上がりに、先程まで自分が来ていた服の匂いを確認していた。
あの後、智明はどうしてもその匂いの正体が気になるようで、しきりに頭を実際に捻りながら、「この匂いなんだろう?」と私に尋ねてきた。
余談だが、私は文武両道を志しているため、放課後は剣道部にて肉体の鍛錬に励んでいる。
つまり練習後は汗まみれな訳である。
一応身だしなみにも気を使ってはいるが、たまに抜かりがある時もあるにはあるだろう。
それを執拗に話題にし続けるとは、どういうことか。
思い出したら何故だか、涙が出てきそうになった。慌てて目を閉じて抑え込む。
こんなことで心が乱れるようでは、私もまだまだだな、と自分を叱咤する。
自分で確認してみたところでは、特段ヘンな匂いと糾弾されるような部分はないと感じる。が、自分の匂いは自分では分からないと言われていることなので、明日から一層気を使えば良いと前向きに取り組むことにする。
夕食を終え自室に戻る際、姉の部屋の前を通りかかる。
「あー、志寿嘉ぁ。ちょっとちょっと!」
呼び止められたので、ドアの隙間から顔だけを入れる。
「何だ?」
「ちょっと、アンタまだそんなしゃべり方してんのぉ? ねぇーもうやめてぇー。笑かすわーほんとぉー」
黙ってドアを閉めて、自室に戻る。
「あー、ちょっとちょっと! ごめんごめん、謝るからこっち来てよ」
慌てた様子でドアから身体を乗り出して、片手で拝みながらもう片手で手招きする。
私は不服ながらも謝罪に免じて話だけは聞こうと来た道を戻る。
姉はそんな私を見て不敵に口元を歪ませる。嫌な予感しかしない。しないが、如何なる試練にも立ち向かってみせるのが、私の信条とするところである。
「まぁまぁ、そこ、座ってよ」
姉は自室に私を招き入れると、クッションのあるところを指し示す。私は素直にそこへ腰を下ろす。
姉は後ろ手にドアを閉めると、私の隣にそそくさと奇妙な動き方ですり寄り、女座りをする。
「……」
「……」
しばしの沈黙。どうやら姉は楽しそうに何やら思案している様子だった。嫌な予感しかしない。
「……アンタさぁ、ともクンとはどうなってんの?」
即座に立ち上がり、部屋を退却しようとしたが、極彩色の長い爪が生えた手が肩をガッシリと掴み、抑え付けられる。
無意識のうちに、姉を睨み付ける。姉はそんな私を余裕のあるような目つきで見返す。
姉は事ある毎に、というより何はなくとも、智明と私の関係性について、冷やかすような発言を繰り返してきていた。それこそ小学生の頃から。
最近は、私が高校生になってからは、そうした傾向もなりを潜めていた筈なのだが。
「……別に。普通だけど」
思わず言い方がぶっきらぼうになってしまう。姉の前でそんな風になってしまうことが私は嫌なのだが、なかなか克服できずにいる。
姉は都内の有名私立大学に通う2年生で、夜な夜なダンスサークルの練習と称して、同大学の隣県に所在を置くキャンパスに出かけていき、朝帰りをするといった日々を送っていて、そんな素行を両親から逐一咎められていたりする。
姉は両親の心配を他所に、自由奔放な振る舞いを改めず、両親もそんな姉のことを、「まぁ、やるべきことはきちんとやっているし」と黙認している。
高校生になったぐらいの頃から姉は、渋谷や原宿でよく見かける色情めいた格好をしたいわゆるギャルなるものへと変貌を遂げ、今日に至る。
対して私は生まれてこの方、肌を無闇に露出するようなことはなく、文学作品の中でよく読みかける清廉潔白な黒髪の乙女とあるべく、その方針を貫き続けて今日に至る。
要するに、私と姉は外見においても内面においても、正反対なのだ。
「……ふぅ~ん。そっかぁ」
どこか思わせぶりな意味のない反応に、情動をくすぐられる。
姉のこういった駆け引きめいたものに乗っかってはいけないことを、中学生ぐらいから私は把握している。しているのだが、どうしても直情的な性質がそれを邪魔している。
私が何も言わず、眉間に皺を寄せたままでいると、
「まぁいいや。それはそうと、はいコレ」
そう言って姉は、中に微量の液体が入った小さい遮光瓶を私に差し出す。
「……何だこれは?」
私は訝しんでいることを隠さず、率直に問う。ラベルもなく、怪しいことこの上ない。嫌な予感以外しない。
「ソレ、整腸作用がある漢方薬なんだって。なんでも体臭とかがなくなるらしいのよね。アンタ、剣道部とか汗臭そうなことやってるくせに、何にも気にしてないでしょ? 高校生にもなって、それはどうなのってことで、甲斐甲斐しい姉からのプレゼント」
ホレ、と小瓶を振って受け取るように催促してくる。
……怪しい。怪しすぎるが。
ちょうどその匂いを気にしていた私にとってはまたとない話のような気もして。
努力の方向性が見えていなかった私にとっては思わぬ朗報で。でもうまい話には裏があるわけで。
「これ、副作用があるのだろう?」
姉は毒味役を押しつけようとしているのだろうと推測する。
「いやいや、そんなんないって。確かに飲み過ぎはダメだけど。えっとなんだっけ? たしか、女性ホルモンの分泌を促進するとかなんとか。まぁ用法用量を守れば良いことずくめだって。生理不順とか良くなるらしいし、昔は媚薬として使われてたんだって」
「要らん」
私はその小瓶をテーブルの上に置いて部屋を出ようと立ち上がる。
「あっそ」
姉の素っ気ない感じが逆に気がかりになる。が、触らぬ神に祟りなし。その場を後にする。
部屋を出る際、姉が言う。
「気が向いたらいつでも言ってよ。いっぱいもらったからさ」
振り返ってみると、姉はテーブルの上の小瓶を同じ小瓶が並ぶ箱の中に仕舞っていた。
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