灰色の世界であなたとお茶を

神田 るふ

灰色の世界であなたとお茶を

 看脚下。


 自らの足元を看よ、大切なことは自分のすぐそこにある。


 何時かは知らぬが昔から語り継がれてきた禅の尊い教えの一つらしい。

 その有難い言葉に従い、私は足元を眺める。

 何時ものごとく、そこには水たまりがあるばかり。

 灰色の空。

 灰色の屋上の床。

 灰色の雨と水たまり。

 そして、灰色の制服を着た私。


 灰色の世界。


 まるで水墨画のような墨の濃淡のみで創られた世界。

 白だか黒だかわからないぼんやりとした色の世界。

 雨と靄で境界が薄れ形も色彩も曖昧模糊となった世界。

 その灰色の大気を大きくひとつ深呼吸してから。

 私は自らの手の中に一点の紅を注ぎいれた。

 手にした白亜のカップから煙雨の如き湯気が沸き立ち、やがて紅い色と香りが灰色の世界に広がっていく。

 紅色の香気を静かに深く味わいながら、私はゆっくりと目を閉じて手にした紅茶を一口ふくむ。

 紅茶の一滴が灰色の私に染み込み、じんわりと私を紅く染め上げていく。

 手の中の紅茶を通して、この薄ぼんやりとした世界の中で私だけが色に染まっている。

 そんな不思議な空想がたまらなく愉しくて、私は今日も雨の屋上で紅茶を淹れていた。

 足元を、看る。

 屋上の床に溜まった水溜りが、雨粒でせわしなく水面を揺らしながら灰色の空をぼんやりと映している。

 お茶を一口含みながら、私はスマホを開けてメモに記された一文に目を落とす。


 二月の初日に雨と寒さの中

 窓はことごとく目張りし、戸も閉じて

 暖炉を前にし、私の小さな部屋で私は茶を淹れて温まる

 中庭の水たまりはそのままにしておいてくれ

 私はそこに雨粒が丸い輪を描くのが好きだから


 南宋の詩人、楊萬里という人の作品で、私のお気に入りの詩だ。私がよく足を運ぶ古本屋のバイトの女性が勧めてくれた本の中に書いてあった。

 最初この詩を読んだ時、ずいぶん変な詩だと思った。

 寒さと雨を防ぐために窓を覆い、暖炉を前にして茶を啜っている人が、何故、庭の水たまりを見ているのか。気にかけているのか。

 枯淡な趣きをもったこのパラドックスな詩がずっと私にとっては謎だった。

 だが、ある雨の日、家の窓から路上のアスファルトに溜まった水溜りをぼんやり眺めながら冷めた紅茶を飲んでいた時、私は悟ったのだ。

 あの詩こそ、宇宙の本質を詠った詩なのだと。

 

 屋上とは時として密室になる。

 この禅問答的な言葉に何を馬鹿なと笑う諸兄も多かろうが、学校の運動場とて人があふれるのは体育の授業か体育祭の時ぐらいのもので、それ以外の時間に一人たたずめば、空き部屋に一人立っていることに等しき孤独な世界となるのである。

 屋上もまたしかり。

 現に、私はこうして屋上に一人座し、静かに紅茶を啜っている。

 晴れていれば眼下の景色、遠くの山々、近傍のビル群も眺め渡せそうな学校の屋上も、この雨天時では雨、雲、霞、等々、あらゆる水的な要因が人の目を覆いつくす。

 雨の日は、まさに水によって覆いがかけられるのだ。

 その覆いの陰は水という現実的な覆いだけではなく、人間の心理にも及ぶ。

 雨の日に屋上に上がるという酔狂なことを、普通、人間は思いつかない。

 水どころか大気まで凍てついてしまうかのような如月の次節なら猶更だろう。

 だから、屋上は密室に……敢えて言えば、私だけの茶室になるのである。

 茶室は宇宙そのものである、とはよく言ったものだ。

 宇宙の真理とは数字と数式というとてつもなくシンプルな概念に還元される。

 同じように、茶道とはあらゆる無駄なものをそぎ落とすことで人間の本質の極限にまで達しようとするストイックな芸事でありシステムである。

 すなわち、物理学の方程式も茶道の所作も実は同じことを教えているのだ。

 宇宙とはシンプルなものである、と。

 茶道に通じる臨済宗、つまり、禅のお坊さんはこれまた非常にいいことを言っている。

 人間にとって必要なのは座るための半畳、寝るための一畳。

 畳一畳あるか無いかの世界。

 そのとてつもなく小さな世界が、宇宙全体と繋がっているのだ。

 なぜなら、宇宙とはシンプルなものだからだ。

 シンプルという概念を通じて、極小と極大は統合されるのである。


 で、あるからして。

 この雨の日の屋上という私だけの茶室は、すなわち、宇宙そのものなのだ。

 私が座っているのは屋上入口の足場。ドアからせり出したひさしが覆えるのはまさに一畳ほどでしかない。

 周りを覆うのは漆喰の壁でも黒い梁でも香ばしい畳でもない。

 固いコンクリートの床、鉛色の空、降り注ぐ雨。

 この灰色の世界、何物も色という色すら持たない世界の中で、私だけが紅く色づいているのだ。

 私が淹れた紅茶の色と香りが、私自身をこの乳白色の世界の中で紅く彩らせる。

 魍魎とした、境界がぼやけた世界の中で私だけを美しく際立たせる。

 宇宙の中にいるのは、宇宙の中で個という概念をもっているのは、私だけ。

 そんな陶酔にも似た夢想を働かせながら、私は今日も紅茶を味わう。

 

 一杯目の最後の一滴で唇を濡らすと、私は次なる一杯を注ぐべく水筒の蓋を回した。

 そのタイミングを待っていたかのように、私の背後にあった屋上のドアノブがゆっくりと回り、ドアが開く音がした。

「あ……。どうもっす」

 ドアが閉まっていく音とともに、広大無辺な私の茶室へ無思慮に入ってきた男子が軽い言葉を若干、否、かなり硬めな表情でかけてくる。

 誰だっけ。

 いきなりやってきたその男子に対して私が抱いた感情は、驚きでもなく怒りでもなく、純粋なる疑問だった。

 そういえば、隣のクラスにこんな顔の男子がいたような……あくまで気がする。まあ、見かけた時よりも随分顔が固いけど。

「あの……。何時も雨の日になると屋上に上がっていくのが見えて、何してるのかちょっと気になってて、さ。あ、悪かった?邪魔だった?」

「いや。別に」

 そう、別に悪いという感情はない。邪魔されたとも思っていない。

屋上はこの学び舎で生活する全ての者の共有物である。

 私だけが独占していいはずもないし、するつもりもない。

 私はただ、雨の日の屋上で一人紅茶を喫するという特異な状況を愉しんでいただけだ。

 その状況も所詮流れ行く雲のごとく変わっていく。雨足は弱まり、水溜りの波紋も穏やかになってきた。そして、屋上に別の誰かがやってきた。

 私の愉悦の時は過ぎ去った。後は私も去るのみ。

 私は手を蓋にかけたままだった水筒をバックにしまうと、足場に置いていたカップを拭こうと布巾を取り出した。

「あ。あのさ!……よければ、一緒に紅茶飲まない?」

 未だに結構な硬さの表情のまま、男子があわてた風で声をかけてきた。

「なんで?」

「え」

 完全に男子の顔が固まった。

美術室にある少々できそこないの胸像か、ちょっとマシなレベルの二宮金次郎像みたいだ。

 この言葉も嫌悪とか拒絶とかの意味ではない。

 至極純粋に、男子の問いかけが謎だった。それに対する素直な回答だったわけだが、それまでぎこちない動きをする故障しかけの自動人形みたいだった男子が私の言葉で物言わぬ石像と化していく瞬間を俯瞰することで私はようやく自分の言葉の至らなさに気が付いた。

「そ、そっすよね。お、おお、お邪魔しまし……」

 重々しく悲しみと悔恨を背負った石像が、自らの重さにつぶされそうなくらいゆっくりとした動きで屋上入口の方へ体を反転させていく。

「待って。今の無し」

「え!?」

 男子が高速で半身をこちら側に戻した。石像が人間に戻った。

「いいよ。座って。淹れてあげる。コップか何か、持ってる?」

 再び足場に腰を下ろしバックから水筒を取り出しながら発した私の言葉に、男子がカクカクと首を上下に振る。また壊れかけの自動人形に逆戻りだ。男子は若干間をおいて私の隣に座り、手提げ袋から小さな水筒を取り出して蓋を外すと、それをおずおずと差し出した。雨の方はぽつりぽつりと雫を垂らすだけになっている。男子の体は足場ぎりぎりのところにあるが、これならそれほど濡れずに済みそうだ。

 考えてみれば、ここが私の茶室なら客がいて御持て成しの茶を差し出すのも当然の話である。いつの間にか、茶は一人で飲むものだと勘違いしていた自分に気が付いた。

 もちろん、先刻の夢想と感慨を否定するつもりはない。

 だが、お茶には様々な場面もあってしかるべきだ。

 独りで飲むお茶もあれば、二人で飲むお茶もあるだろう。

 そんなことを思いつつ、私は水筒を取り出し彼のコップに注ぎいれた。

 男子の顔がふと和らいだ。

 紅茶の香りと湯気が男子の硬い表情と体をゆっくりと解きほぐしていくのがわかる。

 何故だかちょっとうれしい。

 私もこんな顔でカップに向かっているのだろうか。

 男子の顔が紅茶に近づくのをまじまじと見つめる私がいる。

 男子がどんな顔でお茶を飲むのかが気になったからだ。私もきっと彼のように幸せな表情でお茶を飲んでいるはず……。


「むぅぷぇっ!?」


 む……?い、今、なんて言った?

 まるでモグラが土中で岩に頭をぶつけたような声と表情で男子がのけぞった。

 彼の予想外の反応に呆気にとられ、今度は私が物言わぬ氷像へと変わる。

 固まった私を見た男子が苦い顔を真っ赤にしてぶんぶんと顔を横に振った。

「あ、いや。違う。その何というか、あの、なんだ。うん」

 左右に振られる頭から送られる風が男子の顔の熱さによって熱風に変わったのか、その熱波に表面をほんの少し溶かされた私はようやく口を動かすことができた。

「……ひょっとして、熱かった?猫舌?」

「いや、そういうのじゃなくて」

「なくて?」

「あの……これ、紅茶?なんか、すごい味と香りが喉と鼻を抜けていったけど」

「アールグレイ。飲んだことなかった?」

「名前だけなら聞いたことがあるかも。でも、飲んだのは初めてだ」

「フレーバーティーって言うの。ベルガモットとレモンピールで風味をつけてる。独特な味と香りでしょ?私は好き」

 くすり、と思わず顔がほころんだ。

 自分の大好きなお茶を噴出されそうになったのだから普通は機嫌を悪くするところなのに。彼もその辺を察したのだろう。ぺこりと頭を下げた。

「さっきの反応、マジでごめん。俺、紅茶ってこんなのだと思ってたから」

 そう言いつつ、彼はバックからペットボトルのミルクティーを取り出した。テレビのCMとかでよく見るやつだ。そういえば、久しく飲んだことはなかった。少なくとも、紅茶にはまりだしてここ十年くらい、飲んでいない。

「飲んでみたい。入れてくれる?」

「こんなのでよかったら」

 彼はそう言いつつ私の差し出したカップにミルクティーを注ぎいれた。

 鼻孔を広げながら私はカップにゆっくりと唇を近づける。


「ぷぇむぅっ!?」


 穴から頭を出したモグラがハンマーでたたかれたような声が出た。

 甘い。

 甘い。

 甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘いっ!!!

 なんだこの甘さは!

 砂糖の白は骨の白だと私がよく行く古本屋のバイトのお姉さんは笑いながら言っていたが、まさか実体験で思い知ることになるとは!

 つぶされたモグラみたいな顔と体形のまま固まった私の横で、彼が再び銅像になってしまっているのがわかる。

 二人とも固まること、暫し。


「あははは。ははははははは!」


 舌に残った強烈な甘さが流れ去っていくともに、私の喉の奥から笑いが込み上げてきた。

 曇天に向かって、私の笑い声がぽんぽんと登っていく。

 彼と同じ反応をしたことがたまらなくおかしい。

 そして、何故だか、すごくうれしい。

 私の突飛な笑いに気おされながら、彼もやや硬めの笑顔を浮かべている。

 私も彼も、笑ってる。

 そういえば、こうやって男子と二人きりで笑いあうのってはじめての体験だ。

 そんなことを考えながら、私はカップの中のミルクティーを飲み終えた。一口飲むたびに激烈な甘さで顔が歪んだが、それを見ていた彼の笑顔は私の一口ごとに穏やかにほころんでいった。

「ごめん。口に合わなかったみたいで」

「それはお互い様でしょ?あ、そうだ。こうやったら飲めるようになるんじゃないの?」

 そう言って、私は彼からペットボトルを受け取るとまだアールグレイが半分ほど残っていた彼の水筒の蓋のカップにミルクティーを注ぎいれた。

「これでどう?飲んでみて?」

 私が差し出したカップを戸惑いつつ手にして彼が一口、紅茶を口に含む。

「微妙」

 言葉通り微妙な笑顔の彼から紅茶を受け取り、私も唇を紅茶で濡らす。

「うん、確かに微妙」

 同じような奇妙な笑顔でカップを返そうとすると、彼は赤い顔で固まっていた。

 本当によく固まるやつだと思わず感心したが、ほんのり湿ったコップの縁を見て、ああつまりそういうことかと思い至った私の頬が、同じようにじんわりと紅くなっていく。

 一方、カップを受け取った彼はアールグレイとミルクティーのブレンドをどうしたものかと思いあぐねているらしく、頭と目が高速で反復横跳びをしていた。

 その様子があまりに面白くて、そして、カップの中の紅茶に入ったままの私の気持ちが恥ずかしくて、私はうつむきながら横眼で彼を見つつ、ぽそりと呟いた。

「飲んで、いいよ?」

「あ、うん」

 顔を極限に真っ赤にしながら彼が紅茶を一気に飲み干した。


「お、俺、今日日直だから早めに教室に戻る」

 紅茶を飲み終えた彼が、顔に灯った紅い火をまだくすぶらせながら、いそいそとペットボトルと水筒をしまう。

「ねえ。次の雨の日、また屋上で紅茶を飲まない?」

 私の問いかけに再び油が切れたぜんまい仕掛けの自動人形みたいになった彼がガクガクと顔を縦に振った。

「ありがとう。じゃ、とっておきのお茶を淹れてくるね」

「だったらアールグレイがいいな。俺も飲めるようになりたいから。今度また淹れてきてくれないか?」

「う~ん。却下」

「な、何で!?」

「もっとドギツイやつ、淹れてきてあげる。鼻と口がカタストロフしそうなやつ」

「勘弁してください」

 うなだれながら階段を下りていく彼を、笑いをかみ殺しながら手を振って見送った。

 

 彼の足音が完全に消え去るのを待って、再び屋上に向かい合った私は深く深呼吸する。


 看脚下。


 何時の間にか雨足が力を取り戻していた。

足元の水たまりは再び大きく波紋を作っている。

 私は波紋で溢れそうになった水溜りから、ゆっくりと視線を私の隣に移した。

 大切なことは、近くにある。

 そう、私のすぐ隣に。

 彼が座っていた場所をしばらく眺めてから、私は薄っすらと瞼を閉じた。

 目を閉じたまま、次に彼と会う雨の日のことを想う。

 次はどんなお茶を淹れてこよう。彼にはああ言ったけど、ここは無難にダージリンやウパにしようか。彼はどんな顔でお茶を飲むのだろう。どんな笑顔を見せてくれるのだろう。

 そう想うだけで、私の頬と心がほんのり紅く染まっていく。

 静かに両目を開けて、私は水筒からカップにアールグレイを注ぎいれた。

 穏やかに色づいた私の身体と心を、アールグレイの紅い色がさらに深く彩っていく。

 カップに残った、甘いミルクの香り共に。


 灰色の屋上。


 灰色の世界。


 紅茶と恋が、私を紅く染めていく。


 ほんわりと、鮮やかに、私の世界を染めていく。

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