~4~

 自宅謹慎三日目の夕方。僕の家を由実が訪ねてきた。


「おはよう……悠馬」

「お、おはよう」


 久しぶりに由実の顔を見たからなのかもしれない。僕は何だかほっとしていた。


「どうして来たんだよ」

「学校で配られたプリントや、授業のノートを渡そうと思って。それに悠馬のことが心配だったから」


 由実の屈託のない表情に、僕は思わず視線をそらした。心配してくれたことが嬉しかったのに、素直になれない自分に腹が立つ。


「とりあえず上がって」

「お邪魔します」


 由実を家にあげた僕は六畳ある和室に通した。


「冷たいお茶しかないけど、飲む?」

「うん」


 ダイニングスペースにある冷蔵庫から緑茶を取り出し、コップに注ぐ。こうして来客がくることなんて滅多になかったので、どこか新鮮な感じがした。緑茶の入ったコップをトレーに置き、由実のいる和室へと運ぶ。


「ありがとう」


 由実は早速コップを手に取り、半分くらい緑茶を飲み干した。


「喉、乾いてたの?」

「うん。ここまで走ってきたから」

「走る必要あったの?」

「なかったかもしれない。だけど、走りたい気分だったから」


 由実はケラケラと笑うと、残り半分の緑茶を一気に飲み干した。


「それで、今日はどうして来たんだよ」


 僕は改めて由実に聞く。ノートやプリントを届けるなら、週末にすればよい。だけど由実は週の真ん中である今日を選んできた。だからこそ、由実はもっと別のことを僕に求めていると思った。


「……実は、悠馬に確かめたいことがあって」

「確かめたいこと?」


 由実は姿勢を正すと、改めて僕にしっかりとした視線を向けてきた。


「悠馬さ……何か悩んでいることあるよね?」

「……悩んでないよ」

「嘘。絶対に悩んでる」


 真っ直ぐ僕の目を見つめてくる由実から、たまらず視線を逸らした。そんな僕の態度にしびれを切らしたのか、由実は言った。


「それじゃ、私が悠馬の悩みを当ててあげる」

「当てるって……当たるわけが――」

「弘美さんと何かあったんでしょ?」


 由実の発言に、僕は言葉を失った。

 図星だった。僕は謹慎中の間、ずっと母さんについて考えていたから。


「やっぱり。弘美さんと何かあったんだ」

「何で……」

「悠馬は言ってたよね。石川君にお金を取られたんじゃない、あげてるんだって。悠馬の言い方に、どこかずっと引っかかりを覚えてた。でも、直ぐにその正体がわかったの。石川君とお金の関係になる前の悠馬を思い出したから」


 石川とお金の関係になる前に、僕がしていたこと。


「高校生になってから、悠馬は必要以上にお金をなくそうとしてたって」


 ゲームセンターに通ったり、映画館に通ったり。由実の言う通り、僕は石川にお金を渡す前までいろんな場所で散財した。


「悠馬はずっと何かに苦しんでるんじゃないかなって。もしそれがお金関連なら、弘美さんとの間に何かあったのかもって」


 無茶苦茶な推測だと僕は思った。でも、由実の推測は的を射ていた。僕がお金を使うのは、まぎれもなく母さんが関わっているのだから。


「ねえ、弘美さんと何があったの?」


 由実はいつも僕の心に入ってくる。深い所でずっと隠しておこうとしても、絶対に諦めずに見つけてしまう。そんな由実を知っている僕は、母さんとのことを全て話した。

 母さんと暫くまともに会話をしていないこと。

 毎朝千円札が机に置かれていること。

 その千円札を財布に入れるたびに、嫌な気分になること。

 僕と母さんは、石川と同じお金の関係だとしか思えないこと。

 由実は僕の話を黙って最後まで聞いてくれた。でも、その中で一つだけ由実ははっきりと否定した。


「弘美さんが悠馬にお金を渡すのと、悠馬が石川君にお金を渡すのを一緒に考えちゃいけないよ。弘美さんは悠馬の為にお金を渡してるんだよ。でも、悠馬は自分が楽をするためにお金を石川君に渡してる」


 由実の指摘に、僕は何も言えなかった。そんな僕に由実は改めてはっきりと告げる。


「だから弘美さんと悠馬の関係は、石川君とは全然違うよ」


 由実は僕に近づくと、僕の手に自分の手を置いた。


「ねえ、悠馬は変なところで考えすぎなんだよ。今からでも遅くないからさ、まずは弘美さんとちゃんと話そう」


 由実の提案に、僕は少しだけ考えた。そして首を横に振った。


「無理だよ」

「どうして?」

「……怖いんだ」

「怖い?」


 僕はそのまま黙り込もうとした。これ以上、言いたくなかった。

 でもそんな僕の態度を、由実は許してくれなかった。僕の手をしっかり握り、視線を僕から一切離さなかった。

 いつもそう。由実はその場に立ち止まりそうな僕を、こうして引っ張り出してくれる。だから僕は由実に本音を言った。


「母さんと話すと、母さんが思っている本当のことがわかっちゃうから」


 ずっと僕は母さんから逃げていた。会話をする機会は減ったけど、会話をしようと思えばいくらでも話すことはできた。

 だけど僕は母さんと話さなかった。本当の気持ちを知るのが怖くて、話すのを拒んだ。だからずっと母さんを避けている。

 身体の震えが止まらなかった。石川に殴られるよりも、僕は母さんの本当の気持ちを知るのが怖い。もし母さんが僕を嫌っていたら。僕にお金を上げれば何でも言うことを聞くと思っていたら。押しつぶされそうな恐怖に、僕はたまらず目をつぶった。

 そんな僕の耳に、快活な声が聞こえた。


「大丈夫。私がいるでしょ」


 声に導かれるように目を開けた僕の前で、由実は満面の笑みをみせた。


「私は悠馬の苦しみを全てわかってあげられないと思う。だって私は悠馬じゃないから。だけど、悠馬と一緒に悩んだり、苦しんだり、思いを共有することはできる」

「由実……」

「だから、一人で抱え込まないで私に相談してほしい。私はずっと悠馬の味方だから」


 由実の言葉に胸を打たれた僕の目から、一筋の涙がこぼれた。

 今までずっと近くで支えてきてくれたのは由実だった。

 僕が間違った方向に進もうとしていた時に、正しい道へと導いてくれたのも由実だった。

 こんな駄目な僕のことをいつも考えてくれて、力になってくれる人がいるのに。僕はずっと一人で抱え込もうとしていた。


「ごめん、由実」


 僕は由実に頭を下げた。頭を下げるだけでは本当は足りない。でも今の僕にはこうすることしかできなかった。


「大丈夫。弘美さんは悠馬のこと、絶対に嫌ってない。だって家族なんだから」


 まるで未来を知っているかのように、由実は自信満々に僕に言った。

 でも、由実の言う通りなのかもしれない。由実がそう言ってくれるだけで、何故だか僕は大丈夫な気がした。


「うん」


 僕がそう言うと、由実は今日一番の笑顔を僕に見せてくれた。


「それじゃ、私そろそろ帰るね」


 由実は和室を出ると、玄関に向かった。 


「あのさ」

「何?」


 靴を履いた由実がくるりと向きを変え、僕を見つめてくる。

 僕にはまだ由実に伝えていないことがある。


「あの時の答えなんだけど……」


 由実も僕が言おうとしたことに気づいたのか、頬を赤らめた。


「その……僕には由実が必要なんだと思う。だけど、今の僕には由実を受け止められる自信がない」


 ギュッと唇をかみしめた。本音だった。僕はまだ由実を守れる器を持っていない。だからこそ、そんな僕が今できること。


「だから……由実を守れる自分になれた時、今度は僕の方から言わせてほしい」


 僕がそう答えると、由実はほっとした表情を見せた。


「うん。わかった。私は……ずっと待ってるから」

「うん……ありがとう」


 ドアを開けた由実が僕に向かって手を振ってきた。だから僕も由実に手を振る。由実は最後まで笑顔を絶やさなかった。

 由実が家を出て、一人になった部屋を僕は見渡す。

 誰も居ない空間。いつもはその空間が苦手だった。だから早く寝て、少しでも平穏を保とうとしていた。

 でも、そんな日々を送る必要はなくなった。

 由実が僕の不安を支えてくれるから。どんなに怖くても、僕の隣には大切な人がいる。そう思える存在に気づけたから。

 僕は掛け時計に視線を移した。午後六時。窓の外は夜の帳が下りている。一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。

 今日は僕と母さんの距離を縮める日になる。

 だから僕は母さんに手料理をプレゼントしようと思った。

 僕は料理が上手いわけではない。簡単なものしか作ることができない。

 でも、たとえ美味しいものが作れなくても、母さんの為に作ることに意味があると思った。いつも疲れて帰ってくる母さんの為に。今まで伝えることができなかった、感謝の気持ちを伝えるために。


 僕は膨らんだ財布をしっかりと握りしめ、家を飛び出した。

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distance of mind 冬水涙 @fuyumi

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