~3~
家を出た僕は、ゆっくりと通学路を歩いて学校に向かう。いつもは何も考えずに淡々と歩いている道も、今日だけは考えさせられることがあった。
――悠馬のことが……好きだから。
由実の声が脳内でリフレインする。その度に胸が締めつけられる感覚に襲われた。
由実とはずっと仲が良かった。
家がお隣というわけでもないのに、気づいた時にはいつも僕の近くにいた。そして小、中、高校とずっと同じ学び舎に通っている。
由実が近くにいるのは、何となく僕にとって当たり前だった。幼馴染って言葉がお似合いの関係だと思っていた。
だけどそんな当たり前の関係が、昨日初めて揺らいだ。まさか由実の方から告白をしてくるとは思ってもみなかった。もし告白をするなら、男である僕がすることだと思っていたから。
由実はどちらかと言ったら、可愛い部類に入る女の子。複数の男子に告白されるくらい人気があった。だから僕も少しは由実のことを意識していた。それに何より幼馴染という強力な関係があった。
だから僕はどこかで安心していた。
由実が僕の近くにいる限り、誰とも付き合わないと。告白をしてきたのだから、僕のことが好きなのだと。
由実は僕のことを好き。
そう過信しすぎていたのかもしれない。
学校の正門をくぐった僕の目に飛び込んできた光景に、開いた口が塞がらなかった。目の前には由実の姿があった。由実だけなら何とも思わなかったのかもしれない。問題は由実と一緒にいる人間だった。
由実の隣には石川がいた。
いつも一緒にいる取り巻きの二人は同行しておらず、由実と二人で何か会話を交わしている。どうして石川なんかと話しているのだろうか。僕には由実の行動が理解できなかった。そんなことを考えていると、さらなる衝撃が僕を襲った。
由実と石川は昇降口に向かうのではなく、体育館裏へと向かった。
明らかに不審な行動に僕は嫌な感じがした。どうして感じたのかはわからない。だけど僕の胸はどんどん締めつけられていく。
もしかしたら、石川も由実のことが好きなのかもしれない。
そう考えた僕は二人のことが気になり、急いで後を追った。
体育館裏近くの生け垣に身を隠した僕は、由実と石川の会話に耳を澄ませた。
「さっきも言ったけど、悠馬からお金を取るのは、もうやめて欲しい」
由実の声が聞こえた。話の雰囲気から告白ではないと思った僕は、ほっと息を吐く。
「取るって……人聞きの悪いことを言うなよ、五十嵐。上本が俺にくれるんだから。何も問題はないぜ」
石川の言う通りだ。僕は石川にあげたくてお金をあげている。
「それは違う。お金をもらうことが間違ってる。もし悠馬が渡しているのだとしても、断るべきだよね? 同じクラスメイトなんだから」
そんな由実の訴えに、石川は豪快に笑った。
「笑わせてくれるぜ。たしかに俺と上本はクラスメイトかもしれない。だけどあいつとは友達でも何でもない」
「それじゃ、石川君にとって悠馬は何なの?」
「そうだな……」
石川は腕組みをして、考え始めた。しかし明らかに顔がにやけているのがわかる。
僕と石川の関係。言わなくてもはっきりとしている。
石川はニヒルな笑みを見せ、由実に言った。
「あいつは俺に金をくれるATMだな」
石川は腹を抱えて笑った。
そう。僕と石川はお金の関係でしかない。僕はそれを望んだ。
だからこそ石川の言葉に異論はなかった。
それなのに。僕の視線の先で予想外のことが起こった。
パンッ!
皮膚と皮膚がぶつかる音。その高い音が体育館裏に響き渡る。
初めて見た。由実が人に手をあげる姿を。
「最低!」
平手打ちされた石川は鳩が豆鉄砲を食らったような顔を晒していたが、次第に眉間に皺を寄せると由実に一歩近づいた。
「五十嵐。今……殴ったな」
「そうよ。石川君がこんなに最低な人だとは思わなかった」
嫌な予感がした。もしかしたら、石川が女の子である由実にも手を出すのかもしれないと。
僕は生け垣から二人の元へ行こうと思った。
もし由実に何かあったら。その時のことを考えると、いてもたってもいられない。
だけど、僕の足は動かなかった。
理由はわからない。だけどその場から動くのを拒んでいるように、足が重かった。
「お願いだから、悠馬にもう関わらないで」
「うっせーな。五十嵐には関係ない。大体、俺と関わるのが嫌なら上本が言ってくればいいだけ。どうして五十嵐が突っかかってくるんだ」
「そ、それは……」
由実は黙り込んでしまった。それでも石川の前から離れようとはしなかった。それを見た石川は苛立ちを抑えられなかったのか、声を荒げた。
「いいから、どけ!」
「嫌だ。悠馬と関わらないって言わないと、絶対にどかない」
昔から頑固だった由実は、あの石川を前にしても一歩も引いていない。どうして由実は僕と石川の関係に口を出すのか。
「なあ、五十嵐。女だからって、俺は容赦しないぞ」
「な、何……」
石川が由実との間合いを詰めた。そして由実の肩に手を置いた石川は、由実を横に突き飛ばした。
「痛っ……」
由実の悲痛な声が聞こえた。
瞬間、僕の中で何かが弾けた。
気づいた時には僕は生け垣から一気に石川の元へと走っていた。先程まで言うことを聞かなかったのが嘘みたいに、足が軽やかに動いている。
「石川!」
僕は名前を叫びながら、石川の顔面を思いっきり殴った。不意を突かれた石川は、僕の拳を防ぐことはなかった。
石川の顔に僕の拳がもろに入る。
同時に手に痛みを感じた。
人を殴ったことがなかった僕は、殴る方も痛みを感じるなんて知らなかった。痺れる手を見て、ようやく僕は我に返った。
自分でも信じられなかった。
どうして石川を殴れたのか。何か見えない思いに動かされるように身体が軽くなってから、迷いなく行動した自分に驚きを隠せなかった。
僕は石川の横を通りすぎて、由実の元へと駆け寄った。
「由実」
「ゆ、悠馬……どうして」
「いいから。どこか痛い所は?」
「だ、大丈夫だけど……」
由実が僕の後方を見て、目を見開いたのがわかった。僕は直ぐに後ろを振り返る。
しかし、既に遅かった。
石川の腕が伸び、僕の胸ぐらをいとも容易く掴んできた。
「上本。お前、わかってるんだよな?」
石川の拳が喉にあたる。僕は首を絞めつけられる状態になり、息苦しさを覚えた。
「や、やめ……」
「あぁ? 何言ってるか聞こえないな」
あまりにも強い力に、僕は何もできなかった。石川に初めて殴られた時のことを思い出す。その恐怖が少しずつ僕の背中から這い上がってきて、息苦しさを加速させる。
「俺に反抗したってことは、次から千円札二枚持ってくるってことだよな? このATM野郎」
絞めつけが強くなり意識が薄れていきそうになった瞬間、僕は身体を地面に打ちつけていた。苦しさから解放された僕は、せき込んで息を整える。もはや身体の痛みなど感じなかった。
石川は地面に唾を吐き捨てると、倒れた僕の横を素通りしていく。石川の後姿が視界に入り、僕は悔しくて拳を地面に叩きつけた。
どうしてこんなに悔しいのだろうか。
そもそも石川とは関わりたくなかった。だからこそお金の関係を望んで、石川の言う通りにしてきた。そう思っていたはずなのに。
僕は初めて抱く気持ちに、戸惑いを隠せなかった。
「悠馬!」
聞き慣れた声が耳に入ってきた。うつ伏せになっていた僕の元へ由実がやってきて、抱え起こしてくれる。視界に由実の顔が入ってくる。
いつも笑っている由実。そんな由実が僕は好きだった。
それなのに、今の由実は笑っていない。
どうして由実は笑っていないのだろうか。
どうして由実は、僕の為にここまでしてくれるのだろうか。
僕の脳裏に夢で見た映像が繰り返される。
由実は言っていた。
お金の関係は絶対に交わることがないと。
僕と石川との関係だけなら、お金の関係で十分だったかもしれない。それだけで解決できたのかもしれない。
だけど、この世界は決して二人だけで作られていない。
第三者が現れ、様々な人が関係をもつことによって、世界は作られていく。僕は今まで二人だけの関係しか考えていなかった。
僕と石川。
僕と母さん。
そして、僕と由実。
この関係も周りの人がいてこそ成り立っている。だからこそ、僕の行動を由実は否定してくれた。僕と石川の関係は間違っていると。
石川に僕の言葉が届かない。
このままだと、ずっと由実を悲しませることになる。
それだけは僕は絶対に嫌だった。
言っても届かない、伝わらない今、僕が石川にできること。
「ごめん、由実」
僕はそう言うと、迷いなく石川の元へと走っていった。そして石川を思いっきり突き飛ばす。
不意打ちを食らった石川は、地面に倒れた。僕はたたみかけるように石川の上にまたがり、思いっきり拳を振り落とした。
僕はいつも間違った行動をしている。今も間違った行動をしているのかもしれない。
それでも、大切な由実に手をあげた石川が許せなかった。
言葉で言ってもわからない。
それなら、全身で僕の気持ちを石川にぶつけるしかない。そう僕は思った。
しかし力のない拳は、石川に簡単に受け止められる。
当然だ。運動が得意ではないし、ずっと帰宅部。石川との力の差は歴然だ。
それでも僕は、必死に拳に力を入れた。
「てめぇ、いい加減にしろ。本気で殴られたいのか」
「殴りたければ、殴ればいいだろ!」
僕の反攻に石川は目を大きく開いた。今まで抵抗なんて一切しなかった僕に驚いたのかもしれない。
「僕はATM野郎だ。石川とはその関係でいいと思ってたから。でも、違った。僕と石川だけの問題じゃない。必ず誰かを巻き込んでしまう。それがどんなに苦しい事実を生むか。僕は初めて知った」
由実の顔が脳裏に浮かんだ。もう由実の悲しむ表情は見たくない。
「僕達の関係が誰かを悲しませるなら、僕はもうお金の関係はやめたい」
僕は石川に届くよう、叫んだ。
初めて関わりたくない相手と向き合った。今まで逃げていた自分とお別れする。こうしないと、いつまでたっても前に進めない。由実を笑顔にできない。そう思ったから。
でも、僕の思いは届かなかった。
言い切った僕が力を緩めた瞬間、石川が僕を思いっきり突き飛ばす。
「何言ってるんだ? 上本。もうお前には選択の余地はこれっぽっちもないぜ。またあの時と同じ目にあいたいのか?」
石川の低い声に、忘れていた恐怖心が蘇ってくる。僕の身体は震えが止まらなくなっていた。石川に初めて殴られた時の記憶が僕の中でリフレインする。
石川が一歩ずつ近づいてくる。僕の足はまた重さを取り戻してしまった。
また殴られる。痛い目に遭う。
でも、それは仕方のないことだと僕は思った。
最初から僕の選択は間違っていた。ずっと間違ったまま進んでいた。自分の気持ちを楽にしようと思って選んだ道が、結局は辛さを倍増させるだけだった。
十五センチの距離。
最初はそんなものないと思っていた。
だけどあの日、駄菓子屋で由実が言っていた十五センチは実在した。
直ぐに埋められると思っていた十五センチを、僕は結局埋めることができなかったのだ。
石川が大きく振りかぶる。僕は殴られることを覚悟して、目をつぶった。
「先生。こっちです。早くしてください」
由実の声が聞こえ、ゆっくりと僕は目を開けた。目の前には拳を振り下ろさなかった石川が立っている。その石川から少し離れた場所に、由実と男の先生が駆け寄ってくる姿がみえた。
石川は僕の顔を見るなり、睥睨の視線を送るとその場からいなくなった。
その後、僕は駆けつけた先生から石川と何があったのかを聴かれた。
僕は石川と殴り合ったことを正直に話した。ただ、お金の関係があったということは言わなかった。その関係は僕だって望んでいたことだったから。それをこの場でいうのは、僕の中のプライドが許せなかった。
そんな僕の話を由実は口を出さずにいてくれた。由実が僕と石川の関係を言ってしまう可能性は十分にあった。だけど由実は僕の話は正しいとだけ言って、先生に告げ口をすることはなかった。
ただ派手に殴り合って喧嘩をしたのは、由実以外の生徒にも見られていた。僕や石川の知らないところで、由実以外の目撃者がいたのだ。それで僕と石川の喧嘩は学校中に広まってしまった。当然、その噂は校長先生の耳にも入った。
そして僕と石川はそのまま校長室に呼ばれ、お互いに謝罪した。だけどそんな謝罪は形だけで、僕と石川の距離は結局近づかなかったと思う。石川も明らかに憮然とした態度だったから。
そして僕と石川は、校長先生から一週間の自宅謹慎処分を言い渡された。
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