エピローグ 浮上

 懐中電灯の光が行き先を照らす。

 卓也が案内したのは、黒い地面にぽっかり空いた穴の前だった。 

「これは、何?」少年は尋ねた。質問したと同時に、不気味な予感が身体に走った。

「海に行くための穴」卓也は返した。

「あな?」

「そう。さっきシュミレートしただろ。あの感じでやってくれればいい」

 あの感じ。少年は先程の潜水を思い出した。記憶が曖昧な部分もあったが、不安よりも、成功する自信の方が大きかった。彼は頷いた。

「よし。じゃあ、入ってもらおうか」

 卓也が少年の背中を叩いた。その表情は微笑んでいた。

 少年は右手で心臓がある部分を探した。拍動のうねりがまたとないチャンスを心待ちにしている。少年は自分を鼓舞した。

 海に入る前に、少年は空を見上げた。空といっても、漆黒のペンキが天井に塗られているだけだ。この世界にも夜はあるんだな、と少年はこの空を発見したときに思った。

「よし、行くぞ」

 手首と足首を軽く回し、彼は飛び込もうとした。だが、彼の代わりに飛び込んだのは、突き抜けるような高い声だった。

「やめて!」

 夜空に走ってくる黒い影。少年には聞き覚えがあった。

(あのときの女の子だ……)

 一瞬呼吸をすることができなくなり、頬に汗が流れた。少女はもう、二人のすぐ近くまで来ていた。

 息をぜいぜいと吐きながら、少女は二人の前で止まった。呼吸を整える間もなく、少女は言った。

「来る……のよ」

 声は少年に向けられていた。

「来るって、どういうこと?」

「いいから来て!」

 少女がいきなり声を張り上げたので、少年は思わず姿勢を正してしまった。

 卓也がいきり立って、少女に言った。

「どういうことだ。こいつを案内するのは、この俺だぞ」

 少女は反抗した。

「何言ってるの? あなた、我が物で萩原君を連れ去って、いったい何様のつもり? 萩原君はそんな悪い事をしたの? いくらなんでもやり過ぎだわ」

「うるせぇ。部外者は引っ込んでろ」

 少女は、ふん、と鼻を鳴らした。部外者はそっちの方だ、と言っているようだった。

 少年はその場に呆然と立ち尽くしていた。そして、彼女が言った『萩原』という言葉を何度も心の中で唱えていた。

「このまま言い合っても埒が開かない。萩原君を連れていくわ」少女は乱暴に頭を掻き、少年の腕を掴んだ。彼は抵抗しようとは思わなかった。卓也を完全に悪い人とは思っていなかったが、心が少女に惹かれていたことは事実だった。

 少年は歩き始めた。

 後ろから卓也が追いかけてくるかと思ったが、足音は聞こえてこなかった。行く先を照らす懐中電灯。少年は苦笑した。あの時みたいだな、と彼は思った。

 ノワールな世界が消え、再び純白が姿を現した。少年は幸せな気分になって彼女に尋ねた。

「夜が開けてきたよ」

「そうね」少女は頷いた。

「そろそろ、手を離してくれる? ……大丈夫だよ、僕はどこにも逃げないから」

 彼女は再び頷くと彼の手を離した。少年は彼女の隣を歩いた。

「さっきの『萩原』って僕のこと?」彼は尋ねた。

「そうよ」少女は進行方向を見ながら言った。「私もさっき知ったんだけどね」

「ありがとう。いろいろと、助けてくれて」

「いいのよ。私も、あなたの気持ちが分かるから」

 少女は急に暗い顔になった。話題を変えようと彼はまた質問した。

「卓也は…… いったいあいつは、どうなったんだろう」

「消えたわ」

「消えた?」

「そう。あれはあなたが作ったものなの。言うなら、ここの世界だってそうよ。全部あなたが作りだした世界なの」

「僕一人で?」

「そうよ」

 少年は息をのんだ。彼女の言うことが嘘だとは思えなかった。


 しばらく歩いた後に、少年はふと気になって、彼女に訊いた。質問はこれで最後にするつもりだった。

「君の名前は? 名前は何て言うの?」

 彼女はにっこり笑うと、優しく彼に言った。

「成美。萩原君とは、はじめまして…… だね」

 はじめまして? 少年は不思議に思ったが、少し考えて自分で納得した。

 純白の世界も崩れていき、ぼやけた光が向こうに見えた。歩けば歩くほど、光の強さが増した。きっとあれがゴールなのだろう。そう、彼は思った。

「夢の中で……」彼はつばを飲み込んだ。「夢の中で…… 君と会ったんだ。君と一生懸命登山をする夢を」

 彼の言葉に、彼女は返そうとした。しかし、すぐに口をつぐんでしまった。代わりに出したのは別の言葉だった。「すごく……楽しそうね」

「うん。だから、機会があったら、今度一緒にやらないかい? 次は夢の中の君とじゃなくて、本物の君とやりたいんだ」

 少女はゆっくりと頷いた。「ありがとう…… 私、線香花火を持っていくね」

 少年は感謝した。少女が涙を堪えていることには気づかなかった。

 光はもう、二人の目の前にまで迫ってきていた。二人は無言のままに手を繋いだ。しばらくして、光が二人の体を包んだ。

 少年は離すもんかと言うように、彼女の手を強く握った。彼女は不快な顔ひとつせず、まるで眠るように目を閉じた。


 彼は心から幸福だった。

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白線 半田龍之介 @ryuhog

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