ぬくもり
黒に染まっていく世界は、時と神経をねじ曲げる力を持っていた。
灰の地面にぽっかり空いた丸い穴。そこには群青色の水が溜まっていた。なんて綺麗な色をしているんだろうと亮太は思った。近づけば、そのまま吸い込まれていきそうだ。
世界が徐々に暗くなっていく。ようやく夜がきたのかな。亮太は拳を握りしめると潜水をするための心の準備を始めた。怖いものなんて何もなかった。
目の前にある水が、海への入り口を示している。ここに入れば、自分は自由の身となる。泳ぎは得意な方だ。三年の時のプール開きで先生に褒められたこともある。溺れる心配はない。だから、誰にも迷惑をかけずに、そこでずっと暮らすことができる。
周りのことなど何も目には入ってこなかった。視界にあるのは、彼を誘う冷ややかな水。それだけだった。
【振りかえれば長い旅だった。最初、僕はここにいることに気がつかなかった。その時はまだ外の世界の僕はちゃんと動いていて、当たり前のように毎日を楽しく過ごしていたのだ。萩原先生といっぱいお喋りをして、サッカーだってした。こんな病気なんかすぐに直るもんだと思っていた。
でも、その頃にはもう、僕の心に巣くっていた醜い闇の塊が徐々に力を蓄え、だんだんと膨らみ続けていたのだ。僕はそれに気づくことが出来なかった。いや、もしかしたら気づいていたのかもしれない。自分のことなのに、記憶が曖昧だ。いろんなことがありすぎたせいかな。もう、頭が混乱して、深くは考えられないや。
僕は必要とされていない。そう思い始めたのは、去年の夏ごろからだった。友人が僕のことをやたらとからかうようになったのだ。毎日のように嫌なあだ名で呼ばれたり、急に頭を叩かれたり…… いわゆる、いじられ役という奴だった。でも、ちょっかいを出されるくらいなら、たまに起きる「嬉しいこと」を補給していけば、なんとか乗り越えられることだった。だから僕は形だけの笑顔を振り撒いて何でもない風を装った。
それが、裏目に出たのかもしれない。いじりがエスカレートし始めたのだ。いじりがさらにいくと「いじめ」になるというけれど、僕の場合は違った。学園ドラマでやっているようなことにはならなかったのだ。だから、僕は最後まで、これがいじりなのか、いじめなのか判断がつかなかった。そのせいもあって、奴らに文句を言うこともなかったし、先生に相談することも無かった。両親は仕事や家事で忙しそうだったし、それを止めてしまうのも悪いような気がしていた。本当に辛かったなら、涙を流して大人に訴えていたかもしれないけれど、僕はそこまで潰れていた訳じゃなかったし、深呼吸をして緊張を押さえ込めば、虐げにも何とか耐えることが出来ていたから、時が解決してくれるのを待つしかなかった。
しかし、クラス替えの月になっても状況は変わることがなかった。僕をいじっていたメンバーと、また同じになってしまったのだ。四月のある日、僕は糸の切れた人形のように、魂を失ってしまった。
状況なんてそう簡単に良くなるものではない。ショックと共に自暴自棄も襲ってきたのだ。僕は心の中で耳を塞ぐような生活を送ることになった。僕を蔑む不協和音が、体の芯の部分から延々と鳴り響くのだ。僕は平気なふりをして、音が鳴り止むのを待った。それでも、生活はいつも通りに、僕の前にやってきた。
思えば、自分を殺したのは結局自分自身だった。分かりやすい悲しみじゃなかったから、それこそ涙も出なかったし、辛さの度合いも測れなかった。嫌なんだけど嫌じゃない。怖いんだけど、怖くない。心を誰かに操作されているみたいに靄がかかった曖昧が続いた。
もう、いいや】
亮太は右手で胸を掴むと、息を殺し、水の入り口へと近づいていった。解放へのカウントを心の中で数える。
三、二、一……
その刹那、彼の体に、突き刺さるような薫風が入り込んできた。不意にやってきた来客の登場に、彼の体が意志とは関係なく硬直した。
そして…… 背後からぬくもり。
亮太は驚き、硬直を解いて、後ろを振り返った。
涙声と共に、母親はそこにいた。
亮太の背中に顔を伏せ、彼にも見せたことのない嗚咽を漏らしていた。
亮太は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。電灯がなくても誰か分かる。彼は無言のまま、母を見つめていた。口は動かなくとも、頭は必死に動いていた。どうして、お母さんがここに?
表情が確認できないから、母がどういう理由でここにきたのか亮太には分からない。もしかしたら、怒っているのかもしれないと彼は思った。泣き終えた後に、思い切りひっぱたかれるのかも。
しかし、母のした行動は、彼の予想とは違っていた。
母は自ら立ち上がると、亮太を、目の前にいる息子を、再会した自分の息子を力強く抱き締めた。
亮太はまたも面食らい、疑問のままに立ちすくんでいた。
母は泣きながらある一つの言葉を繰り返していた。でも、その声に力はなく、亮太には聞き取れなかった。それなのに、どうしてか、彼の目にも涙がこぼれ落ちていた。
「ごめんなさい、お母さん…… ごめんなさい……」
言葉につまり、むせびながらも、彼は同じ言葉を繰り返す。涙を止める必要などなかった。今の彼にとっては、泣くことこそが精一杯の謝罪表現だったのだ。
自分は愛されている。その刹那に起こる実感を、亮太は心の中で感じていた。
「……ごめんね。もう、こんな哀しい思いはさせないから。あなたは私にとって、一番大切な存在だから。あなたのおかげで、私は生きていくことが出来るの。だから、もう…… どこへもいかないで……」
聞き取れなかった母の言葉が、ようやくこの時になって、彼の耳に流れてきた。
亮太は力が抜けたように、その場に座り込んだ。そして、言葉にならない叫びの声を有らん限りにあげた。
哀しみを溜めた闇の世界が、一瞬にして純白となった。二人が流す一粒一粒が地面に落ちる度に、彼を閉じ込めていた空間は徐々に砕けていった。
彼の皮膚に触れている温かな愛情。それをもっと感じたくて、亮太は母を強く抱き締めた。
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