「愛」とは
医師は聴診器を取ると、小さく息をついた。
白い部屋の中は、分厚い空気で満たされていた。短時間しかそこにいないと分かっているので何とか耐えられているが、そうでなかったら今頃限界を迎えてしまっていただろう。それはここにいる医師を含め全員が同じ気持ちだったに違いない。
目の前にいる十二歳の少年。そしてそれを見守る両親の姿。彼らの穏やかな表情には一片の苦しさも纏ってはいない。彼らはいま何を考えているのだろう。自分は彼らにどんな言葉をかけてあげるべきだろう。
いや、そんな良心は必要ないのだ。医師はそう思い、張りつめる神経を緩ませた。自分がこれからするべきことに感情的になってはいけない。医者という人間はそういうものなのだ。研修時代だって先輩からそう教わったじゃないか。彼は自分に強く言い聞かせた。しかし、心の中はそんな念仏にすら激しく怯えているように思えた。自分の心を押さえつけるのがこんなにも難しいことなのかと彼は思った。不思議なことに、先ほどまで窓から吹いていた風がぴたりと止んでいた。それが何を意味しているのか、彼にはどうしてか知ることができた。
「というわけで、相模先生は私たちの手を握らせ、病状の変化を見たのです」
萩原は両親にそっと語りかけるように言った。
「要するに『愛』なんです。人を愛する力こそが、私たちの記憶に潜む精神的な傷を塞いでくれる。そう、相模先生は考えたんです」
「全然、医学的でもなんでもないな」亮太の父親が言う。
「そうですね。確かに、先生がとった行動は常識外れのことかもしれません。でも、すでに常識では考えられないことが起こっているんです。見当外れのことをしているわけではないでしょう」
「それで、どうなったんだ」
「回復したんです。信じられないことに、私たちは」
「愛が、本当に傷を塞いだのか」
父の確認に、萩原は惚けるような口調で返した。
「何とも言えません。でも私と成美さんの病状は劇的に良くなりました。視覚や聴覚は正常になり、体も完全に元の状態へと戻りました」
「信じられん」
萩原はその言葉に頷いた。「はい。私も信じられません」
父親は腕を組んだ。左手にしていた時計は、もう九時を差していた。
「話は分かった」彼は睨むような目をした。「その信じられないことを亮太にもさせる、ということなんだな」
「そういうことです」萩原はあえて感情を込めずに言った。「前例はこれだけしかないんです」
父親は唸った。分岐点の前で座りこんでいるようだった。
「お願いします。一刻の猶予を争うんです」成美がいてもたってもいられず、口を開いた。「早くしなければ、亮太君はさらに深いところへと入ってしまう。海にどんどんと潜り込んでいくように、亮太君は深海の奥で眠りについてしまうんです。どうか、お願いします。私たちに任せてください」成美は頭を下げた。萩原も少し遅れて頭を下げた。
両親は顔を見合わせ、小声で談じ始めた。その行為に萩原は、亮太と最初に出会ったときの診察室での出来事を思い出していた。確かあの時も、父と母は小声だった。彼らの猜疑心に、結局自分は打ち勝っていなかったのだ。
未来の境界線を越える崇高なる時間。萩原は断頭台に立つ死刑囚のような思いでその瞬間を待っていた。
亮太の寝息が萩原の耳を撫でる。助けを呼んでいるのだろうか。萩原は小学生の時の自分を想像した。自分と同じなら、彼はまだ自分が置かれている状況に気づいていないのかもしれない。
刹那主義を持つ医者などいない。それは医者が持つべき心ではない。萩原はそんな私案を持っていた。相模先生が思案した、あの時と同じような気持ちは、果たして伝わっているのだろうか。医者である自分と、人間である自分の姿が、ようやく一つに繋がったようだと萩原は感じた。
心臓の拍動が萩原の緊張を表した。強く、弱く、強く…… 母親が最初に沈黙を破った。
「私は…… 亮太が戻ってくるなら、それこそ腹にナイフを突き刺すことだっていとわないんです。だから、協力できることなら何でもしたい。亮太が血を欲しがっているのならば、この血液をすべて亮太に…… それくらいの覚悟だってあるんです。だから、私は先生に前言いました。亮太をよろしくお願いしますと。私じゃ何も出来ないから、息子を治せるのは先生しかいないと信じているから…… 私はあの時言ったんです。でも、先生の本当の気持ちは分からない。私は先生の…… 医者としてではなく、人間としての気持ちを訊きたいんです」
萩原は目をつむり、少し考えてから再び目を開けた。母親が必死に涙を堪えているのが分かった。彼は言った。
「僕は…… 亮太君を救いたい。彼の心を、微笑みある明日を亮太君に迎えさせてあげたい。僕が昔感じた重荷が取れたときの喜びを、自分が孤独ではないということが分かったときのほころびを、彼にも伝えたいんです」
「ありがとうございます……」母親は崩れるように嗚咽を漏らした。
父親は唇を噛み締めながら、萩原の目をじっと見ていた。目の奥に潜む光の存在を覗き見ているかのようだった。
父は頭を下げた。体は痙攣するように震えていた。
「亮太を、頼みます……」
萩原は、深く頷いた。心に突き刺さっていた雨の針が、ばらばらになって消えた。
静寂の部屋で、母親は亮太の手をとる。こんなに大きくなっていたんだ。彼女はそう思い、息子の手を強く強く握りしめた。両手を使って、一つの願いを噛み締めるように唱えながら。
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