時の訪れ
相模医師は深く頷いた後に言葉を返した。
「ということは、成美さんは幼い頃から、親の顔を知らないと?」
「そうなんです。彼女は長い間、私たちの児童養護施設で生活していますので」
エプロン姿の若い女性が、抑揚のつけた声で言う。彼女の首にぶら下がっている名札には「たかぎ(高木)」と書かれていた。
「長い間というと、どれくらいですか。いつから成美さんはそこに?」
「一歳の頃からです」
「そんな……」相模は言葉につまった。次に何を言ったらいいのか、途端に分からなくなった。
二〇四号室には相模と高木、そして一切の感覚を遮断してしまい、寝たきりとなった成美がいた。他の患者も、そこにあるはずの暖かな空気も、そこには存在していなかった。
高木はバッグから、ビニールに入れられた千羽鶴を取り出した。口を塞いでいるモールをほどくと、左手を使って千羽鶴を外に出した。そのまま千羽鶴を成美の頭上にある棒に吊るす。七色の願い。二人はしばらくその折り鶴たちを見ていた。
「私には専門的な知識がないので、偉そうなことは言えませんが……」高木が沈黙を破って言葉を述べた。「きっと彼女は、疲れていたんだと思います。産みの親に捨てられたという消したくても消えない記憶が、彼女の心を徐々に蝕んでいったのだと…… 児童養護施設にいる他の同年代の子と比べて、彼女はとてもませていましたから、きっと色々と考え過ぎてしまったんだと思います」
「成美さんの思いが、高木さんにも伝わって来るんですか?」
「もちろんです。といっても、少し分かる程度ですが」高木は微笑を浮かべると、成美の方に視線を移した。
「私も小さい頃に両親を亡くしているので…… 本当に少しだけなら成美ちゃんのような子達の気持ちが分かるんです」
高木の哀愁に満ちた横顔を、相模はただただ見つめることしか出来なかった。 少女の心に長く居座っている、もやもやした闇のような痛み。その痛みを取り除くために、果たしてどんなことをしてあげたらいいのだろう。自分のような恵まれた人間が、彼女のような人たちを本当に救うことが出来るのか。相模は自信が持てなかった。
タイムリミットは刻一刻と迫ってきていた。まるでそれは地面を這い進む水銀のようであった。
追憶の扉の中で、相模は悶々と悩み続けていた。いったい、二人を助けるにはどうしたらいいのだろう。萩原、成美。二人の記憶に沈殿した傷を照らし合わせて、最後には答えを出さなければならない。そんなことは果たして可能なのだろうか。相模は必死に自問自答を繰り返しながら『自分』と戦っていた。終わりなき旅。答えのない道。相模の孤独な闘争は家に帰ってからも続いていた。
萩原のいじめという記憶。
成美の孤児という記憶。
道なき道でも、相模は進んでいかなければならない。金色の星から射し込んだ光が相模に勇気を授ける。もう、固定された考えでは駄目なのだと相模は思った。
テレビの音も、外を流れる風の音も、彼女の耳には入らなかった。模索の中で見つけたある一つの結論。それは果たして効果的なことだろうか。しかし、相模が自分で思い付いた策の中ではこれが一番効果的である気がした。しかも、それは他の案に比べて差を大きく引き離すものだった。
これしかない。相模はそう自分に言い聞かせた。言い聞かせたということは自分でも自信がないということだ。彼女は正解の道を完全に見失っていた。そもそも、正解の道なんてあるのだろうか。もう、音のない森を一歩ずつ進むだけで精一杯だった。
彼女はとぼとぼと歩きながら、見慣れていたはずの光を探していた。その光は二人の笑顔そのものであり、相模の心のよりどころでもあった。一刻も早く森を脱出したくて、相模は疲れた足に働きかけようやく駆け出した。
白線が色を持ちはじめる頃、萩原と成美の心は時の訪れを待っていた。
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