あの日

 病院に運びだされた彼を診断したのは、相模医師だった。相模は、寝たきりになっている萩原少年を見て、戦慄を覚えるような感覚を味わった。この子はもしかしたら大変な闇を抱えているのではないか、根拠はないが、この子は何か大切なものを失ってしまったのではないか、と。しかし、それはあくまで彼女自身の憶測でしかなかったため、他の急病人がするように治療をするしかなかった。しかし、そもそもの原因が分からない。彼女の目の前にいる少年は、交通事故に遭った訳でも、熱中症で倒れた訳でもないのだ。脳や身体の異変を調べてみたものの、視覚や聴覚が無くなった原因を特定することは出来なかった。ある医者が萩原についてこんなことを言っていた。これではまるで仮病のようだと。相模は心の中でその医者を睨み付けた。心の中にも眼があることを、彼女はその時初めて知った。彼の病因は数日経っても特定できない状態だった。他の病院に任せよう。そんな声も徐々に出始めていた。しかし、相模はどうしても諦めることができなかった。彼を最初に見たときに感じた、大きな闇。もう単なる思い違いではないことを相模は確信していた。発想を転換しなければと彼女は自分を急き立てた。そんな時、病院にまた変わった症状のある子供がやってきた。変わったと言っても、症状は萩原のものとよく似ていた。名は成美といった。

 成美が病院に運ばれたとき、医師たちは受け入れを断りたいような態度を示していた。言葉でこそは発しなかったものの、萩原と同じような状態の人間をもう一人受け持つということに、反対するような空気があったのだ。その空気を察知した相模は、必死に仲間の医師に治療を嘆願し、何とか成美を受け入れることに成功した。とはいえ、期間は限られていた。一刻も早く治療法を見つける必要があった。

 相模はまず、彼らの過去を探ることから始めた。過去に何が起きたのかを知れば、治療のヒントに繋がると思ったのだ。医師としてあるまじき行為であることは当然分かっていた。しかし彼女はまるで運命の糸に導かれるように行動をしていた。二人に共通した原因を究明したかった。

 まずは萩原。両親に尋ねてみたが、合点のいきそうな答えは得られなかった。相模は両親に事情を説明し、萩原が学校で何があったのか、調べてもらうことにした。全てが異例な流れで進んでいたが相模は構わなかった。

 相模が通常の仕事をこなしている時、萩原の母親は学校に行き、病因となるような情報を掴もうとしていた。母親は相模を信頼していた。過度のストレスが引き起こしたのかもしれません。相模はそう言っていた。

 担任の先生に訊いてみたが、異変はなかったと答えた。いつもと変わらず静かに授業を受けていました。先生のそんな言動に、母親はこう思った。この人は何も知らないんだ、と。自分だって何も知らないのに、母親はこう思わざるをえなかった。

 結局一人で調査をすることになったが、同じクラスの児童のこともよく分からない彼女にとっては、ゴールの存在が不明なマラソンを走り続けているようなものだった。萩原は学校のことを親に話したがるような子どもではなかった。母親の方も夜のアルバイトに追われ、そもそも話をきける余裕はなかった。

 クラスの児童に一本ずつ電話をかけたり、無駄だと分かっていても学校へ赴いたりした。しかし偶然は、正解を導くように彼女を誘った。

 それは、ある放課後のことだった。クラスの方を少し覗き、それから帰ろうとしていた時、彼女は急に尿意を催してしまった。三階のトイレに駆け込み、何とか用を足してトイレから出ると、少年の哀求するような声がどこかから聞こえてきた。彼女は咄嗟に危険を感じ、すぐにその場から離れようとした。しかしすぐに、好奇心と正義感が心の中に芽生え、彼女はその声の正体を確かめることを決めた。声はどうやら、女子トイレの隣にある男子トイレから聞こえてくるようだった。

 トイレの中に潜む哀求の声。彼女は嫌な予感がし、すぐにトイレの中へと入った。男子トイレだということはこの時にはすでに忘れていた。数々の青いタイルが彼女の立ち入りを歓迎した。

 耳の奥で延々と鳴り響く悲鳴。その悲鳴の一つ一つが呪いの怨言のように聞こえる。個室のドアの前。下品な臭いを発生させるような事がそこでは行われていた。

「何してるの!」

 彼女は突然飛び出すと、リンチを受けている少年を庇うようにして間に入った。殴っていたのは三人。皆、同じ背丈くらいの子たちだった。

 彼女はしばらくは何も言わず、ひたすらに被害に逢っていた少年を抱きしめていた。思いがけない抱擁を受けた少年は、驚いたように弱々しい声をあげた。

 そのまま数十秒間が無言のままに過ぎていった。萩原の母親は、虐めている少年たちのことなど目には入らないというように、泣きじゃくっている少年をトイレの外に連れ出した。彼女に無言のお礼をすると、少年は逃げていった。階段を降りる靴音が壁の向こう側から聞こえた。

 停滞していた空気が、流れの早いものに変わった。彼女は女傑のような堂々たる足取りで、唖然としている三人に近づいていった。やるべきことはすでに頭の中で決まっていた。

「君たち、名前は」

 彼女は少年たちの前に立つと、威圧するように言葉を発した。

 少年たちは、最初彼女の発した言葉の意味がよくわからずにいた。それくらい今起きているこの一時一時が信じられなかったのだ。瞳を静止させたまま、石膏像のように硬直していた。

「名前は? って訊いてるの」

 彼女はさらに語調を強めて言った。

 ここで、一番最初に目覚めの早かった中央の子がようやく言葉を返した。

「さ、さかきばら……たくやです……」

「クラスは?」

「四年一組です……」

 彼女は驚愕した。息子と同じクラスだったのだ。

「ねぇ、同じクラスの萩原って子、知ってる?」念のために彼女は尋ねた。

「はい、知ってます……」

「おばさんね、その子の母親なの」

 彼女の言葉に、たくやと名乗った子は、まるで恐ろしいものでも見たかのような顔になった。目はカッと見開き、体は動かず静止している。まるで天敵を目の前にしたオポッサムのようだった。

 しかし数秒後、彼の体は小刻みに震え始めた。心臓部分で抑えていた恐怖の毒が、ついに流れ出て、身体中を一気に駆け巡ったのだ。両隣にいる二人の仲間と比較すれば、彼のせん動はより明確化した。

 そしてついに、彼はその毒を吐き出してしまった。前兆もなく涙をこぼし、膝は小鹿のように弱々しい。萩原の母が不審に思ったとき、彼は突然床の上にひざまずいた。深く頭を下げ、嗚咽を有らん限りに漏らした。むせび泣きとともに発した言葉は謝罪の辞だった。

「どういうこと?」

 彼女は尋ねた。どうしてか体は強ばっていた。

「いじめたことが…… あるんです…… 萩原君のことを……」

 彼女は唖然となった。開いた口が塞がらなかった。視界が急にぼやけてよく分からなくなった。気が動転し、世界がひっくり返った。

 彼女の動揺を尻目に彼は続けた。

「僕、萩原君をいじめたことがあって…… すごくどうでもいいことだったんだけど、あの時はイライラしてて…… つい怒鳴っちゃたんです。萩原君のことを…… でも、それでも僕は怒るのをやめなくて、やってるうちになんだか気持ちよくなっちゃって…… そのうち、友達とか、今まで喋ったこともない人とかも入ってきて…… みんなで萩原君をいじめました。僕がリーダーみたいになったんだけど、それがすごく楽しくて…… だって、今までそんなみんなから声かけられたり頼まれるようなことなんてなかったから…… ようやくみんなと話せたと思って、仲間もたくさん出来て…… だから…… 僕、調子に乗ってました。萩原君が学校に来なくなっても、また次の人を見つけてまたいじめてたし。毎日が楽しくて仕方がなかったんです。だから、萩原君のお母さん。僕のことを先生に言わないで下さい。ここにいる二人のこともそうです。僕たち何でもしますから、どうか先生に言うのだけはやめてください……」

 彼女は憐れみの表情で、土下座をしながら嘆願する小学四年生を見た。彼は心からの反省をしていない。彼女は思った。彼が言ったのはただの弁解なのだ。しかし、担任に告げるのだけは止めておこうかと思った。彼に言葉を述べ、このまま立ち去ろうと彼女は決めた。しかし、直後に彼女は思い直し―― 彼らのためにならないと思ったのだ。罪は罪として受け入れ、しっかりと償ってもらいたい―― 担任に話すことに決めた。諦めたような目をした残りの二人からも名前を訊き、彼女はここを立ち去った。たくやは彼女が去ったあとも、しばらく土下座を続けていた。

 先生に、クラスで起こっているいじめの実態を話した後、彼女はそのまま家へと戻った。時間としてみれば学校にいたのはほんの僅かな間だけだったが、体は随分と憔悴しきっていた。しかし相模医師の言っていた「大きな闇」の正体を掴めたことに、少し喜びを感じてもいた。これが本当に治療のためのヒントになるとは思えないが、今はやれることをやるしかないのだ。彼女はそう自分に言い聞かせると、固いフローリングで横になり、そのまま暮れ方の内に寝てしまった。夕陽の僅かな暖かさが、まるでクラシック音楽のように彼女の心を誘った。

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