真相

 夜の病棟は、月の破片だけで強く光り、静かに泰然としていた。

 揺れる大樹の頂のようなその凛々しい場所に、希望はいつも手を置いていた。

 室内に患者は一人だけだった。名は内海亮太。夏の始めに彼はここを訪れ、病気を乗り越えて、夏休みに入る前にはここを発つ予定だった。しかし、数奇な運命はそれを許してはくれなかった。八月のある夜。日付を見て、萩原は心が痛んだ。

 彼の左隣には成美が看護師の格好で立っていた。彼女は、これから始まる「長い永い戦い」に臨もうとしていた。安定しない呼吸の音が、萩原の耳にも届いた。右隣にはベッドがあり、亮太がすやすやと寝息をたてていた。まるでそれは戦禍の中に入り混じった笑顔のように、幸せの象徴のような顔をしていた。

「いい笑顔ですね」

 亮太の母がそっけなく言った。自分の息子のはずなのに、まるで他人の子どものことを差しているような言い種だった。誰に言ったのでもない、哀しき呼びかけが白い壁に住み着いた。

「そうですね」と、成美は応えた。それから亮太の両親にバレないように、そっと深呼吸をした。

 亮太が横たわるベッドの隣には、椅子が四脚ほど設置されていた。二脚とも背もたれのない、いわゆるスツールと呼ばれる椅子だった。そこに二人は腰かけ、産まれたばかりの赤子を見るように、穏やかな目で見つめていた。萩原や成実のことなど、まるで視界に入っていないようだった。

 いたずらに沈黙だけが過ぎていく。萩原は何とか、話を始めるタイミングを見計らっていた。夕方に飛び出したはずの勇気が、今になって引っ込んでしまったのだ。

 時計の針は、彼が睨みつけても止まることはなかった。萩原は自分を必死に奮い立たせた。この運命が設けてくれた最初で最後のチャンスを無駄にするわけにはいかない。

 萩原は、そろって息子の顔をのぞきこむ二人に声をかけた。亮太君について話を始めたいのですが。二人はようやく顔を上げた。夢から覚めたばかりのような、意識のはっきりしないような表情を彼に向けた。

「話っていうのは、病院を移す件についてのことですか?」

 母親が強い口調で彼に言った。

 萩原はすぐさま否定した。

「違います。今日は、亮太君の病状について詳しい話をしたいと」

「病院を移す件については、いつ話をするんですか?」

「それは……」萩原は続けた。「病院は移しません。萩原君の治療はこちらで行うことになりました」

 彼の言葉に、二人は顔を見合わせた。代表して父親が萩原に尋ねた。「いったい、どういうことだ」

「治療法が分かったんです」萩原はゆっくり丁寧に言葉を発音した。「亮太君の病気は非常に複雑なものであり、他の病院が請け負えるものだとはこちらとしては考えておりません。そして、その治療は私にしか出来ないものです」

「勝手に決めてもらっては困る」父親は語調を強めた。「だいたい、亮太の病状についても、こちらからほとんど話はもらっていない。最初、私たちは亮太が突発性難聴を患ったと聞かされた。それが、日に日に状態が悪くなっていき、ついには寝たきりになってしまっている。これは医療ミスじゃないのか。病院を移さないというのも、その医療ミスが外に漏れないようにするための善後策なんじゃないのか」

「あなた!」母親が思わず叫んだ。父親はすでに椅子から腰を上げていた。

「お前は黙ってろ! 息子の命がかかってんだ。あれこれ考えを変えるような医者に、息子の未来を託せるか!」

 父親は凄み、眼前の若い医師を睨みつけた。沈黙が続く。しかしその沈黙は、先ほどのものとは違っていた。

 萩原は半分放心状態に陥っていた。以前、ちらと思ったことが走馬灯のように頭の中を駆け巡った。

(この愚かな医師に、罰を与えてくれ)

 亮太を救うことが出来ないと、諦めかけていた夜のことだ。あの時は、彼が自分と同じ境遇であるとは夢にも思わなかった。今のような考えが浮かんだのは、本当に幸運が生んだひらめきのおかげである。それがなかった頃は、確かに自分の無力さを呪った。

 だが、今は違うのだ。今は…… 亮太君を救う方法を見つけているのだ。前の自分とは違うのだ。それが、ぶれていると指摘されてもどうだっていい。彼を救えるのなら、彼の笑顔を取り戻せるのなら、自分は最善を尽くすだけだ。

「まずは、話を聴いて下さい。お伝えしたいことがどうしてもあるんです」

 叫びにも似た訴えで、萩原は言葉を述べた。

「あなた」

 母親が、起立した夫をまた座らせようとする。

「お医者様の言うことをとりあえず聞きましょう。抗議するのはその後でも悪くないじゃない」

「お前が、そういうのなら……」父親はしぶしぶ椅子に座った。本当に、「しぶしぶ」椅子に座ったのだった。

 成実が空いている二脚のスツールを、自分と萩原のところに寄せた。二人はスツールに腰掛けた。気持ちが徐々に落ち着いていく感覚を萩原は味わった。深呼吸をしたい衝動に駆られたが我慢した。カルテなどを見ずに病因を話すのは変な心地がした。

「まずは、亮太君がなぜ、視力を失い、聴力までもなくなってしまったのか、それについて説明したいと思います」萩原は亮太が元気だった頃の顔を思い出しながら言葉を並べた。

「単刀直入に言えば……」彼は酸素を吸った。「亮太君の身体には、どこも異常はありません」

「異常が、ない?」父親がすぐに問う。

「はい、ありません。ウイルスなどの病原体や、目や耳をはじめとした各器官。その他諸々を調べましたが、病気の原因とはっきり断定できるような異常は確認できませんでした」

「じゃあ、亮太はどんなことになってるっていうんだ?」

「精神病です」抑揚なく萩原は言った。

「何だって?」

 萩原は再度言った。

「精神病です。亮太君は心の病を患っているんです」萩原は一字一句、歯切れよく発音した。そんなことをするのは無論、大切なことだからだ。

「どういうことですか。どこから、そんなことが分かったんですか」今度は母親の方が彼に尋ねた。

「説明します」萩原は台本が用意されているかのように、淡々とした口調で話した。「亮太君の精神病がなぜ、発覚したのか。それは私たちが以前に同じような病を患ったことがあるからです」

「経験がものを言うと?」

「そうです」

 萩原の考えに、二人はあからさまに不満そうな顔をした。

「そんな診断方法は初めて聞いたぞ。第一、精神病は人を寝たきりにさせるほどの力を持っているのか」

「そこなんです」萩原は冷静に続けた。「私が今申し上げた精神病というのは特別なもので、非常に発生が稀なものです。具体的な確率は分かりませんが、相当に少ないのではないかと。ともかく、その特別な精神病というのは人の視力や聴力を極端に低下させ、かつ生きる意志を奪う力を持っています」

 萩原は横にいる亮太の方に目をやった。「亮太君はいま、自分が作り出した大きな苦しみと戦っているのです。こちらから見れば、彼は意識が全くないように思えますが、彼自身の頭の中では、現在も意識は明瞭なまま精神世界をさまよっているのです。外からの干渉を絶ち、視覚や聴覚などの機能を停止させ、自らの殻に閉じこもっているのです」

 萩原は改めて両親の方を見た。「そしてこれは私や、横の成実さんが過去に経験したこととよく似ています」

 突如、窓の隙間から薫風が侵入し、部屋にいる四人の肌を撫ぜた。萩原はその薫風に包まれた記憶のほころびを感じていた。あの時と同じだ。萩原はそう思った。脳裏に残っていた過去の強烈な出来事が、噴き出されるように甦ってきたのだ。


【あれは確か、算数の授業が終わった後の休み時間のことだった。俺は悲しい気持ちになっている同級生を元気付けようと死後の世界の話をした。彼の名前は、確か卓也と言った。あだ名は「たっくん」。彼は数日前に祖母を亡くしており、それがもとで落ち込んでいたのだった。俺は彼に自らの持論を述べた。もともと友達が少ない俺は、これをきっかけに新たな友人を作れると思い込んでいた。

 しかし、それは大きな間違いだった。そして、それは悪夢の始まりでもあった。卓也は俺に憤慨したのだ。いま思えば、彼は数日前のショックが抜けきれないということもあり、少し精神状態が乱れていたのかもしれない。いずれにせよ、卓也は俺を変人扱いし、周りの人たちもそれに同調した。悪夢が起こるきっかけは結構単純なものだ。単純すぎて馬鹿馬鹿しささえ覚える。だが、そんな馬鹿馬鹿しいことでも、一人の人間の少年時代を丸々埋めてしまうことはあるものなのだ。

 そして、二学期の初めからいじめが始まった。執拗に繰り返される暴言と、惨たらしいほどの暴力。虐げられる日々の数々に、俺は耐えるしかなかった。彼らはまるでゲーム感覚でやっているかのように、いじめ行為を楽しんでいるようだった。目に見える虐待も、目に見えない恐怖感も、すべてが拳や言葉となって自分に襲いかかってきていた。まるで、黒い大きな卵のような物体が、自分の目の前で砕け散ったような思いだった。肉体的な苦痛はやがて精神的苦痛へと変わった。砕けた卵のような物体が、床の上で汚いヘドロとなって、俺の体の中に入りこんだのだ。物事を客観的な立場で見られなくなってしまった。いじめは一時的なもので、クラスが変わればいじめはなくなるなんて、その時は考えもしなかった。思考能力が衰えたのだ。自分の住んでる世界が少しずつ狭くなっていった。

 徐々に、いじめられている生活こそが日常なのだと錯覚するようになった。自由な日々を目指してもがくことなんて、もう遠い昔の話となっていた。

 そして…… 沈黙。俺は、深い海の底へと、純白の世界の中へと入り込んでいった。外部からの一切の接触を絶ち、自分だけで造り上げた隠れ家の中に居住した。もう、全てがどうでもよかった。ただ自分を守ってくれる囲いさえあれば、それで良かった】

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