コントロール・ルーム

 無慈悲な熱が急に少年の体を襲った。深海の黒が徐々に消えていき、ルージュに染まった水滴が体の中に沈殿した。

 何だ、これは。少年は当惑した。だがそのあと、戸惑いはすぐに悲鳴へと変わった。

「熱い!」

 少年は激しく声を荒げた。叫喚と呼ぶべき自分の声。何だ、何が起きているんだ。少年はすぐに、今起きている事態を把握しようとした。脳味噌は、飢えたハイエナのように暴れていた。

 視界よりも先に聴覚がもとの状態を取り戻しつつあった。水の音。水が流れ、弾ける音が聞こえてきた。少年は感覚を研ぎ澄ませた。刹那の内に、現実世界での自分が戻ってくるのが感じられた。

 命の危険を感じ、ついに少年は咆哮を上げた。その咆哮を踏み台にして、彼は立ち上がろうとした。しかしすぐに身体は倒れ、まだ逆戻りとなった。どうやら床が滑りやすい構造になっているらしい。彼は見えない焦燥感と戦った。この熱から早く逃れる方法を…… だが、逃げても逃げても、熱は彼の体に取りついてくる。少年は自らの細胞に訴えかけた。いい加減に視覚を復活させてくれ、と。

 主人の命令に応えるのに、さほど時間はかからなかった。光芒が重い目蓋をこじ開け、ようやく外界と脳を繋げることに成功した。やるべきことはやった。後は少年の判断が全てを導いてくれるだろう。視覚と神経は、息を殺して、次の命令を待った。


 霧が彼の視界を塞いでいる。

 卓也は少年に向けて、シャワーを向けていた。湯気が発生するほどの熱湯。卓也は、湧いてくる無限の湯を、少年に浴びせていた。泰然と構えられず、少年は陸に打ち上げられた魚のようにのたうち回っていた。罹災した身体に、拍動する心臓の鐘が響きわたる。どうして、彼がこんなことを……。少年は、猜疑心が生まれ出るのを何とか抑え、ひたすらに逃げ惑っていた。

「ほらよ。世間から見捨てられた、憐れな逃亡者め」

 卓也の声が霧の向こうから聞こえた。彼特有の軽快な声は、この時にはすでに無くなっていた。少年は最初、自分の耳がやられたのかと思った。あまりに高い熱によって、耳が溶けてしまったのかと思慮したのだ。そして、確かに聞こえたあるワードが、少年を絶望へと導いていったのだった。

 憐れな逃亡者。

 少年は眼前の出来事を受け入れまいとした。しかし、卓也の放った言葉は、水蒸気の中でも鮮明に聞き取ることができ、少年は否応なくこの現実を受け入れることとなった。結局、少年は裏切られたのだ。先ほど少年が水中にいるときに思った予想は見事に打ち砕かれ、果てしない荒野だけが残ることとなったのだ。少年はついに涙をこぼした。こんな時でも涙が出るというのは不思議な感じがしたが、もうそんなことはどうでも良かった。この奈落に堕ちたような衝撃の中で、涙を流せることだけが唯一の感情表現であり、救いでもあった。少年はこの部屋から逃げ出そうとし、四つん這いのまま進もうとした。出口の場所は見えなかったが、何とか探すつもりでいた。だが、すぐ卓也に捕まり、少年は床に思い切り叩きつけられた。卓也の投げた力は、もうアザが出来るほどの勢いであったが、痛みを感じている暇などなかった。身体は火傷ですでに感覚を失っていたのだ。

「さっさと白状しろよ。この弱虫が。逃亡中にどこで何をしていたか、一から十まで、全部吐いてもらおうか」

 野卑にも思えるその低い声に、少年の涙は流れを止めた。かろうじて口から出てきた抵抗の言葉を歯切れ悪く発音する。

「どうして…… こんなことを……」

「そんなこと、俺の知ったことか!」

 卓也はそう叫ぶと、洗面器に予め溜めておいた熱湯を、少年の身体に浴びせかけた。鋭い爪で引っ掻かれたようなショックに、彼は思わず身体をのけ反らせた。後頭部をタイルの床に打ち付け、二重の苦しみが彼を襲う。

「お前は、この世にいらなくなったんだよ。お前の存在価値はあの時にふっと消えちまったんだ、線香花火のようにな」

「あの時って…… 何のことですか……」

 卓也は少年の胸ぐらを掴んだ。

「てめぇ、惚けてんのか。俺の婆ちゃんを馬鹿にした、『あの時』のことだよ。忘れたとは言わせねぇぞ」

「覚えてるよ。もちろん…… 覚えてる。でも、どうして? どうして、そんなことで僕はこんな目に遭わなくちゃならないの?」

「そんなこと、だと?」卓也の目が凄んだ。

 少年は頷いた。この言葉が、卓也をさらに怒らせることは分かっていたが、それでも少年は自分の訴えを彼に伝えたかった。決して彼の祖母を馬鹿にした訳ではないということを彼に分かってもらいたかった。

「僕は…… 救いたかったんだ。たっくんを」

「俺を…… その名で呼ぶな」

 卓也は目をぎらつかせて言った。地面に落としたタバコの吸い殻を、踏み潰した時のような目をしていた。

 どうして? と、少年は理由を訊きたかったが、すぐに考え直して口を閉じてしまった。そんなことは愚問であるような気がしたのだ。

(自分が今どんな立場にいるのか、いい加減自覚した方がいい)

 尚も見据える卓也の目は、こう言っているような気がした。しかし、当然の如く卓也の眼球は、教えを諭すような表情はしていない。少年はそこで初めて、自分が置かれている状況を知った。自分が想像しているよりも、遥かに大きな非難が眼前に迫ってきていることを。

「僕は、君に悪いことをしたのかい?」

 少年は恐る恐る訊いた。まるで洞窟の中を、懐中電灯一本で探検するかのように。

「ああそうだ。やっと分かったようだな」

 卓也は立ち上がると、蛇口のところまで行き、シャワーの湯を止めた。霧は虫のように引き、大気中へと消えていった。

「言い訳なんかせずに、最初からそう言えば良かったんだ」卓也はそう口に出すと、風呂場の扉を開けた。

「そうすれば俺たちにも、情けの心が生まれたかもしんねぇのに」

 部屋にまだ残っていた霧が完全に外に出されていき、残ったのは少年と卓也の二人だけになった。

「ねぇ、『俺たち』ってクラスのみんなのこと?」

「ああ、当然だろ」

「卓也…… 君は、みんなの代表として、ここに来たの?」

 卓也はタオルをどこからか取り出し、身体を拭いていた。

「そうだ。代表っていうか、俺が一番の被害者だからな」

 被害者。少年はその言葉を心の中で唱えてみた。何回も唱えるつもりだったが、結局一回で止めてしまった。被害者がいるということは当然加害者もいるということだ。それが自分であることを、少年はわざと意識しないようにした。「わざとしないようにしている」ということは、「している」ことと同義なのだが、少年の心は避けられたつもりでいた。

 卓也には謝ったが、実際どうして、自分がこんなにも非難されているのか、よく分からないでいた。何度も言っているように、自分はただ卓也を励ましただけなのだ。それが彼の逆鱗に触れたのなら、確かに謝るべきなのかもしれない。だが、普通はそこで終わりだろう。二人で争ったのだから、二人で解決すればいい話だ。それなのに、どうしてクラスの人間が出てくるのだろう。どうして乱入してくるのだろう。少年は自分の頭を疑った。もしかしたら間違っているのは自分で、他の人の方が正しいことをしているのかもしれない。僕は蔑まれて当然なのかもしれない。少年は自分を卑下することで、この疑問を解決しようとしていた。

 身体を拭き終わり、卓也は少年の方にタオルを投げた。卓也は少年がタオルをキャッチしたのを確認すると、コントロール・ルームの方へ行ってしまった。おそらく、そこで新しい服に着替えるのだろうと彼は思った。ほんの数分前まで、罵詈雑言を吐いていた人間には思えない。

 少年も身体をある程度拭き、自分の着替えがあることを願いながら、風呂場を出た。コントロール・ルームに入ると、卓也はもう着替え終わっていて、なにやら出かけるような雰囲気を漂わせていた。

「ごめん。僕の着替えってある?」か細い声で少年は彼に尋ねた。

「ないよ」

「ないの?」

「ああ。お前はどうせ、次も濡れる予定だからな」

「次…… って?」

「気にするな。いずれ分かることだ」卓也は右手を左右に振って制すと、コントロール・ルームにあるドア(風呂場の扉とは別のドア)に向かった。まぁいい、だって? 何がいいものか。また僕は、ひどい目に遭わなければならないのか。そんなに僕は世間から見放されるべき人間なのか。少年は涙を落としそうになった。確かに、僕は嫌われものだ。そんなの最初から分かっていた。だから僕は逃げ出したんだ。でも、奴らはこんなところまで追いかけてきて、僕のことを執拗に追い詰めようとする。本当に、正しいのはどちらなのか分からなくなってしまった。

 考えることもいやになって、少年は結局、再び思考を停止させてしまった。

 これでは奴らの思う壺だ。でも今の彼には、心の田園に、抵抗の芽など植えられてはいなかった。

 服に住み着いていた熱湯が冷え、少年の身体に移住した。もう、怖いものなんて何もないと、少年は最後に思った。

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