おとぎ話の世界
ナルミ。
部屋の、いや、この灰色の世界のどこかから、そんな言葉が聞こえてきたような気がした。一体その単語にはどんな意味があるのだろう。ナルミ。名前ということもあり得る。仮に名前だとしたら、いったい誰なのだろう。僕に向かって声をかけたのか、それとも卓也にも声をかけたのか。そう思った少年は、ミラーの向こう側にいる卓也の顔を覗いた。彼はこちらに体を向けて、机に置かれた機械を見ているようだった。集中したその目に、少年は学校で卓也を怒らせてしまったことを思い出した。そうだ、あの時も卓也はあんな目をしていた。軽蔑の目、侮蔑の目。その全てが僕だけに向けられていたのだ。
レコーディングスタジオ。少年は実物を見たことがなかったが、恐らくここがそうなのだと思った。三つの小部屋に分れていて、一つ目はヴォーカルを録るためのマイクが置かれた部屋。二つ目はコントロール・ルームで、多くの機材が置かれていた。(少年はその機材の名は知らなかった)三つ目は少しおかしな部屋で、なぜか浴槽が設置されていた。少年が建物の外から見えたのは、この三つめの部屋であった。
少年はマイクがある部屋に入れられ、ヘッドホンをしながら、卓也の指示を待っていた。彼はコントロール・ルームに居て、録音についての確認を一人でしているらしかった。黙々と作業をする卓也を見ながら、少年は驚きと戸惑いが入り混じった思いになった。卓也は一体何者なのだろう、と。
「よし、オッケー」
卓也の軽快な声が少年の両耳で鳴った。突然やってきた音の訪問者に彼の鼓膜はびくついた。落ち着け、落ち着けと、少年は自分の脳と鼓膜を冷静にさせた。心臓は早鐘のようになっていた。数秒の沈黙と、恐怖を肩にぶら下げた静寂。奴らが、少年の心の隙間を狙っていた。光に忍び込む影のように、ゆっくりと、ゆっくりと…… 寡黙の如く……
耳から入ってきた音楽を頭の中で認識する。受け入れる怖さと、音の内容を知りたいという好奇心。結局、彼は好奇心を受け入れ、静かに、音に聴き入った。
それは水の音だった。ぼこぼこと水の中に入っていく音。「海」の音かもしれないと少年は思った。特に理由があるわけではなく、何となくそう感じただけだったが、少年にはなぜか確信があった。こういうとき、一番頼りになるのは勘なのだ。常識の範囲内では説明できないことが今まさに起こっている。そんなことくらい馬鹿にだって分かる。ヘッドホンをしているだけなのに、いつの間にか身体は海の中にいるのだ。少年は、最初こそは困惑していたものの、徐々に、この事態を受け入れるようになっていった。卓也の意図は分からないものの、彼が自分に危害を与えるようなことはするはずがないと踏んだのだ。少年はより深い場所に行くため、潜水を開始した。
着水の段階はとっくに終わり、現在少年が居るところは表層と呼ばれるところだった。表層は水の色がまだ薄く、魚も小魚程度しか見られなかった。このくらいの海なら、驚くこともない。学校のプールのようなものだ。
少年は海を泳ぎながら、幾つかの疑問を抱いた。それは今さらといえば、今さらに浮かんだ疑問だった。
(どうして僕は溺れないのだろう)
そうなのだ。少年が海にいる数分間。彼は酸素を一切欲することなく、漂っていられたのだ。前に彼は学校の先生から、服を着たまま水泳をするのと、裸で泳ぐのとでは体の感覚が全然違うことを聞いていた。そして彼はいま、服を着たまま海の中にいた。どうして、自分は沈まないのだ。少年は、この二つの疑問を並び替えて考えた。しかし、並び替えただけでは答えは出てこないものだ。そうしているうちにどんどん疑問は増えていって――どうして、僕は水温を感じないのだろう。どうして、僕は目を開けていられるのだろう。どうして、口を開けてもしょっぱさを感じないのだろう――
魚の群れが、少年を深い場所へと導いた。多くの思いを抱えて魚たちもここにいる。それはきっとかわいそうなことだ。彼らは、同じ境遇を抱えてここにいるのだ。この光の当たらない場所で、春の訪れを待っているのだ。少年は彼らに導かれながら、ふとそんなことを思った。
おとぎ話の浦島太郎のように、少年は心を弾ませた。これがおとぎ話の世界だと思えば、前述の疑問は全て解決することが出来た。魔術、呪術、マジック、神通力、超能力…… 少年は海を漂い続けていた。
どのくらい時間が経ったのだろうか。少年は目を覚ました。どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。海のなかで目を覚ますというのは、何だか変な感じだ。恐らく誰もやったことがないだろう。それ以前に、水中で眠るということ自体も随分と不思議なことだ。
少年の孤独に続けられる問答はしばらく続いた。
(いや、これはもしかしたら夢の中なのかもしれない)
(夢だったら、海の中で眠るというのもあり得てしまう話だろう)
(それでは面白くない。僕が初めてではなくなってしまうではないか)
海の色が徐々に濃くなっていった。少年は自分との会話に夢中になりすぎてしまい、周囲の変化にしばらくは気付けなかった。何しろ少年は独りだったのである。少年の周りを衛星のように回っている、「孤独」という星は、海の中だろうと、日常の時間だろうと、そこにいることに変わりはなかったのである。少年はその星を探索するのには慣れていた。飽きるほどに何度も降り立ったのだ。地図が頭の中で描けるくらいに、そこにすむ住人の個人情報まで、暗唱できるくらいに……
魚がいなくなったことに気付いたのは、それからしばらくのことだった。少年はその時、仰向けの体勢でずっと光の方を向いていた。そして、急に腹を平手で叩かれたような感触を覚え、その衝撃でハッと我に返ったのだ。
少年は突然に、自分が迷子であることを知らされることとなった。自分を守ってくれていた、名前を持たない魚たち。彼らはどこに消えてしまったのだろう。しばらく考えを巡らせた末、少年はある重大なことに気が付いた。ここで彼は、自分が深海にいることを知ったのである。
深海。少年はその言葉を口に出して言ってみた。空気の泡は一切漏れてこなかったが、しっかりと一字一句発音することが出来た。 ……シンカイ。口に出したら、勇気が恐怖を引き連れてやってくるのが見えた。脳がシャットアウトし、一気に頭が真っ白になった。僕はとうとう、ここへ来てしまったのだ。自分が最も恐れていた、最も近寄りがたい場所。ここに来たらもう僕はおしまいだ…… 少年は自己嫌悪に陥りそうな自分を、克己心で抑えつけた。大丈夫だ。深海に来ただけなら、まだ希望は残っている。本当に怖いのは自己嫌悪に陥って自信を失くしてしまうことだ。森羅万象全てを暗闇だと思ってしまうことだ。少年は黒ずんだ海を見つめ、光が迎えに来てくれるのを待った。
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