茜色の太陽

 最近の天気予報は何かと外れることが多い。そのせいで、ここのところ空を今まで以上に気にするようになった。しかし、今日は好晴だった。突然の雨も、恐らくだが……来ないだろう。

 常識では考えられないことが起こっている。車が空を飛んだり、空中に文字を書くことが出来たり、それと似たようなことだ。いや、それとこれとは区別した方がいいのかもしれないな。車が空を飛ぶというのは技術的な話だ。精神的な、こちらとは違う。

「話って、何?」ショートヘアの女性が、隣に座る萩原に訊いた。公園のベンチに座っているのは、萩原と彼女の二人だけだった。

 さて、どこから切り出そうか。萩原は少し考えた。今まで積み上げてきたことをまた最初から始めていくような、そんな感じだった。

「話っていうのは、内海亮太君のことなんだ」萩原は真剣な面持ちで話し始めた。なるべく手短に済ます気でいた。

「あの子がどうかしたの?」焦るように彼女は尋ねた。亮太のことは彼女もよく知っていた。

 萩原は軽く咳払いをした。重要な言葉を言う前にすることとしては酷くありきたりな行為だったが、こうでもしないと自分の心が落ち着かなかった。

「助かるかもしれないんだ」彼は言った。

「本当に?」彼女が半信半疑で尋ねる。「確実なことなの?」

「ああ、恐らく」萩原はゆっくりと首肯した。

「私も手伝うわ。仕事だから当たり前のことだけど」彼女は背筋を伸ばした。表情は微笑んでいたが、本気の微笑みでないことは萩原にも感じとれた。

「治療はいつぐらいを予定しているの?」

 萩原は目線を合わせずに言った。「明日にする」

「明日?」彼女の語調が強くなった。「大丈夫なの?」

「ああ」彼は軽い調子で言った。「親御さんには今日説明することにしている。亮太君のお父さんは仕事を休んでまでこちらに来られるらしい」

「そりゃそうよ。自分の子どもの未来が懸かっているというのに、心配しない親なんているわけがないわ」

 彼女の言葉に、萩原は心に氷柱を落とした時のようになった。自分の身体の顫動音が近くで聞こえて、すぐにばらばらになった。

 萩原は鼻で一杯に息を吸い込んだ。身体に入れた空気を少しずつ吐き出す感じで彼は言った。

「亮太君の病状は医学的に解決できることじゃない」萩原は彼女の方に顔を向けた。「君も薄々気づいていると思う。もしかしたら、あのときのことが繰り返されるんじゃないかってね」

 萩原は息を全て身体から出すと、また次の息を吸い込んだ。萩原は彼女が惚けると踏んでいた。彼女はあのときのことを口に出すのは避けていたし、二人の間でもそれは禁句とされていることだったからだ。しかし彼女は、しばらくの間目を閉じ、何かを感じているようだった。口を閉じてしまった彼女の脳裏には、様々なことがフラッシュバックされているに違いない。萩原は思った。だが今回の件には、彼女の助けがどうしても必要だった。自分だけで亮太の両親を説得できる自信はない。医師として情けないことなのは自分が一番よく分かっている。だが亮太の両親と口論になって、治療が遅れるなんてことは絶対に避けたかった。

 灼熱のプレートが萩原の背中に乗っかった。待ったところで薫風は吹いてこない。夏は残酷だ、と彼は思った。

 彼女はようやく目を開けた。萩原がそのことに気付くと同時に、彼女はもう言葉を発していた。

「本当に、あのときと同じようなことが起こっているの?」

 萩原は小さな子どもを諭すように頷いた。まだ彼女は信じられないのだ。これから対峙することになる現実をまだ信じられずにいるのだ。萩原は彼女を責める気にはなれなかった。逆の立場だったら、きっと自分も、同じ態度をとっていただろう。その目で真実を確認するまで、何度も何度も訊き返すだろう。

 萩原は眼球に激しい渇きを覚えた。彼女は再び口を開いた。目線は少し下を向いていた。

「亮太君と待合室で初めて会ったとき、私、あの子に潜む闇のようなものを感じたの」

「闇?」

「そう。すごく恐ろしい、真っ黒な塊のようなものが、亮太君の目の奥に見えたの。もちろん、彼はそんなことをおくびにも出さず、元気に振る舞ってた。 ……それは、あの時の私と同じ。 ……あの時の私と同じだなってその時思ったの。誰にも相手にされない哀しみを自分の眼の中に入れて、どんどん溜め込んで…… 気が付いたときには、もう後戻りができない所まで流されていたの。二つの眼が哀しみの汚れで一杯になって、透き通るように真っ白だった部分も、やがては灰色になり、ついには真っ黒になって…… そしてとうとう、見えなくなってしまった。どうして、私はあの時、優しい言葉をかけてあげられなかったのか。そうしていれば、亮太君の容体は今よりもずっと軽くなっていたはずなのに」

 彼女はそこで言葉を止めた。突然取り乱したようになった彼女の姿に、萩原は動揺を隠すことが出来なかった。目を少し広げて、あからさまに驚きの仕草を見せた。顔から吹きだした汗が熱湯と化して、大気中に消えた。二人の男女児が、萩原と彼女が座るベンチの前を通りすぎた。萩原は横目で、二人の歩く姿を眺めていた。

「ねぇ」

 彼女がぼそりと言った。目は未だに地を見つめたままだった。

 戸惑いの中で、萩原は彼女の横顔を改めて注視した。彼女の呟きを、返す覚悟もなかった。

「あなたが医者を選んだきっかけって、やっぱり…… あのことが関係しているの?」

「ああ、そうだな」萩原は少し考えてから、小さく言葉を発した。身体中に染みこんでしまった困惑を落とすように、彼はわざと冷静な口ぶりで話した。

「相模先生がいなかったら、俺はもう、ずっとあのままでいただろうし、俺が医者になることも無かったと思う。医者と言う仕事は人の命を救うだけじゃなく、人の心も助ける仕事なんだってことに、あの時気付けたんだ」

「それなら……」彼女は何か言いかけて、口ごもった。俯いていた彼女の視線が、ゆっくりと浮上するように、岸まであがってきた。彼女の目は、もう深海を見ることはないのだと、萩原は確信した。

「それなら、今回のことはまさにあなたが、医者として一番やりたかったことじゃないの? 医者は人の命だけじゃなく、人の心を救う力もあると。相模先生が私たちに教えてくれたことを、今度はあなたが亮太君に教える番なんじゃないの?」

 彼女の言葉に、萩原は心の芯が伸びやかに揺れるのを感じた。自分が彼女を説得するつもりだったのに、いつの間にか、自分の方が彼女に説得されていた。どこで、急に逆転してしまったのだろう。萩原は疑問に思ったが、彼女の強く光る目を見て、彼女の心の内を悟った。

(彼女は、俺の中に潜む臆病な気持ちを見抜いていたのだ。彼女に協力を求めることで、少しばかりの安心を手に入れようとしている俺を。自分では確かに覚悟をしていたつもりだった。しかしそれは、所詮自分を納得させるだけの単なる甘えに過ぎなかったのだ。心はまだ、大いなる戦いを前に腰が引けてしまっているのだ。彼女は俺の姿を見て、頼りないと思ったに違いない。俺にちゃんと亮太君を救えるのか、心配になったに違いない)

 萩原はそう思うと拳を握りしめ、沈もうとしている太陽と対峙した。茜色はもう、彼の目の前にあった。

「そうなんだよな。今度は俺が救う番なんだよな。分かっていたつもりだったんだけど、本当は何も分かっていなかった。あの時の自分と亮太君が重なって、正常な気持ちで臨めなくなっていたのかもしれない。 ……怖いんだ。過去と正面から向き合うのが。勿論、彼だけを特別扱いしてはならないし、どの患者も平等に接しなきゃいけない。そんなことは分かってるはずなんだ。でも、自分の正直な気持ちはそれを許してはくれない。独りだった日々を、心が海に沈んでいく一秒一秒を、思い出してしまうんだ」

「怖いのは私も同じよ。でも、萩原君を救う方法を知っているのは、私たちしかいないの。だからこそ、彼の治療に正面から向き合わなければならないし、揺るぎない覚悟も持たなければならないの」

 彼女は言葉を述べた後に、唇を噛みしめた。まるで口の中に停滞している恐怖を外に出さないようにしているかのようだった。夕陽を見つめる萩原の瞳は、美しく、そしてたくましかった。

「ありがとう…… 成実」萩原は彼女の名前と感謝の言葉を発した後、ベンチに座ったまま、公園にいる人々を見ていた。課せられたものはとても重い。しかしこれは自分で選んだことだ。そんなことは医者を志した時から、分かっていたはずなのだ。

 成実は今日の夜に起こるであろう様々なことを想像しながら、ため息をついた。数時間後、亮太君の両親に全てを話さなくてはならない。彼らは果たして理解してくれるだろうか。もしかしたら、実際の治療よりも、そちらの方が時間を要するのかもしれない。激しく憤慨した、二人の顔が浮かんだ。

 萩原と成実の過去を覆い隠す薄い膜のようなベールが、残りあとわずかで取り払われる。それは一体どういう意味を示すのか。二人には分かっていた。亮太が救いを求めていたこと、実りある明日を願っていたこと。彼を救う唯一の方法。萩原はそれを彼に与えるつもりだった。

 一向に沈まない夕陽に、早すぎる蝉の声。精神の海に溺れた、一人の少年を救出するために、彼らは海に飛び込んだ。

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