亡き王女のため
鼓動は危機感を失っていた。
何とかしようと彼は自分の心臓に呼びかけたが、一向に変化は現れない。少しは緊張してもいいはずだ。彼はひどく焦っていた。しかし心臓は焦ってくれなかった。そのもどかしさが彼をさらに焦らせた。
少年はただひたすらに卓也の後ろを歩いていた。灰色の世界を、二人だけで歩くと言うのは非常に恐ろしい感じがした。これまで何度、逃げ出したい衝動に駆られたか分からない。彼は脳に働きかけて、自分の歩行を止めさせようとした。だが、脳は首を横に振り、それに応じようとはしなかった。
衝動の加速を中断したら、人はどうなるだろうか。今の少年の状況がまさにその問いの答えを示している。意思を持たない砕けた抜け殻になってしまうのだ。歩くことだけを命じられた、ブリキ製のネジ巻きロボット。いつしか少年の目には曇りが宿り、足の疲れもそれに吸い取られるように消えていった。少年の心が辿る道は、終点がすでに決められているものだった。
何も考えず、一切の思考を停止させたまま、少年は灰色の床に足跡を付けていった。かろうじて作動していた危機感も、この時にはすでに無くなってしまっていた。歩き始めてから一体どのくらいの時が経ったのか、どうして白が灰に変化したのか、疑問に思う心すらも持ち合わせてはいなかった。
「そろそろだよ」
卓也が後ろを見ずに少年に言った。少年は目線を動かさずに頷くと、もうそれ以上の反応は示さなかった。
やがて、二人が行く方向に透明な建物のようなものが見えてきた。透明なので、外からでも中が確認できる。少年の視点では、ジュークボックスが一つと棚に入れられた複数のレコード。ホテルにあるような浴槽を見ることができた。
「ここが僕らの目的地だよ」
変声期を迎えていない、卓也の軽快な声が灰色の世界にこだました。
背の低い二つの体がアクリルケースの中に入っていく。吸収されていく人間の一人は忸怩の思いを背負った、頼りない背中を持っていた。
二人は建物の中に入った。ドアの類がないので、外と中との差があまり感じられなかった。
「着いたよ、お疲れ様」
卓也が再び軽快な口調で言った。まるで自分の家に帰ってきたかのような言い種だった。彼は天井にぶら下がっている紐を引いて部屋の電気をつけた。橙色の暖かな光が部屋を包んだ。光を直に感じたとき、少年の体は雨に濡れた子ウサギのように縮こまってしまっていた。
「さて、と」卓也は伸びをしながら、顔を少年の方に向けた。
「始めようか」
「えっ」
「だから、始めようかって」卓也は未だ伸びを続けていた。
「何を…… 始めるの?」少年は訊ねた。久々に出した声には恐怖心がありありと覗いていた。
「大丈夫。そんなに怖い事はしないから」卓也は少年を安心させるように、左肩に手を置いた。少年はその行為にまた、縮退した。
何か音楽でも聴くかい、と言って卓也はジュークボックスをいじり始めた。少年はこれの名称までは知っていたが、何の用途があるのかについては全く知らなかった。彼にとってジュークボックスというのは、リサイクルショップの隅に寂しく置かれている不可思議な機械であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
卓也はしばらく選曲を考えていた。意外にも優柔不断な性格なのだなと少年は思った。
「クラシックとかは好きかい?」
卓也がパネルを見ながら彼に尋ねた。少年は返答に迷ったが(クラシックに好きも嫌いもなかったのだ)それでいいよと答えることにした。
数秒だけ間をおいた後、卓也はパネルの上のスイッチを押した。中にしまわれている数十枚のレコードから、一枚の円盤が取り出される。機械の仕事ぶりを見ている途中で少年はふと思った。お金の投入口が存在するのに、卓也は貨幣を入れていない。
円形のレールがようやく仕事場にたどり着いた。すぐさまジュークボックスからオーケストラの音が流れてきた。耳で音を感じてから、それを脳に入れるまでに少し時間がかかったが、彼はなんとかそれを「音楽」として認識することができた。
少年はクラシックと言うと、音楽の授業で耳にしたものしか知らなかった。ベートーヴェンなら『交響曲第五番ハ短調』や『エリーゼのために』。作曲家の名は忘れたが、『魔王』や『新世界より』。これくらいしか少年にはクラシックの知識がなかった。そして少年の予想通り、卓也の選んだ曲は前述で挙げたものの中には入っていなかった。
穏やかな曲。その曲に対する少年の第一印象がそれだった。 ……穏やかな曲。交響曲第五番のように耳に残るような旋律はなく、淡々と時間の流れに沿って音符が動作しているようなメロディだった。
少年にとっては無聊な事この上なかったが、卓也はこの曲がお気に入りらしく、眼を閉じて、片足で音を立てながらリズムをとっていた。数分後には涙まで流し、ジュークボックスが奏でる音楽に聴き入っていた。少年は曲名を卓也に尋ねたかったが、現在の状況でそれをすることは出来なかった。何とかタイミングを見計らっていると、卓也の方からこちらに尋ねてきた。
「この曲の名前は知ってる?」
知らない、と彼が答えると、卓也は得意げな顔になってパネルの方を指差した。
「亡き王女のためのパヴァーヌ。ラヴェルの代表曲だよ」
「ラヴェルって誰?」
少年が問いかけると、卓也はまたも調子付いた顔になった。
「知らないの? あの『ボレロ』の作曲家だよ。フィギュアスケートの特番でよくかかるだろ」
卓也は呆れたように言い、それから目を閉じた。音楽の空間に再び侵入したのだった。一人にされた少年は、ひたすらに卓也が出てくるのを待つしかなかった。彼はボレロを知らなかったし、フィギュアスケートのことも詳しくはない。
亡き王女のためのパヴァーヌ。パヴァーヌとは一体どんな意味なのだろう。少年にはその言葉の意味が分からなかったが、この穏やかな調べが意味することなら、何となくだが、分かる気がした。これは王女のすすり泣きだ。城に囚われた、蚕のような手を持つ少女の細やかな抵抗だ。少年は、そのジュークボックスから湧き出るその眇眇たる歔欷きょきの訴えを感じていた。
灰色の世界には薫風も強風も存在していなかった。
少年も卓也と同様に、メロディの中枢へと飛んでいった。
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