「先生」

 心の隙間を埋めるような雨が、彼の脳天に噛みついた。途端にそこから痒みが生まれた。頭を掻こうかと咄嗟に思ったが、止めた。出かけにセットした髪が乱れてしまうからだ。突然の雨で、すでに髪は濡れているというのに、これ以上形を崩したくはない。

 駅前の信号機。苛立ちを軽減するための赤い線が徐々に消えていく。三つ、二つ、一つ。全ての線が消える前から、向かい側の人は歩き始めていた。彼はどうしようかと迷ったが、結局、周りの行動に合わせることにした。信号が完全に青になるまでは横断したくないという質だった。

 妙に活気づいたアーケードを歩き、その後は足を休めるために神社へと入った。神社と言っても、高木が敷地の周りに植えられて、後はそれらしい木造の神殿が建っているだけで、後はごく扁平な広場がそこにあるだけである。彼は、その場所に独りぼっちで置かれている青いベンチに腰掛けた。背中を合わせる部分にも、体を乗せる部分にも、所々にペンキのはげが見られた。頼りなく塗られた炭酸飲料のロゴがこのベンチの頭部であるかのようだった。

 彼はそこに座って、雨が止むのを待っていた。上に木があるからといって、別に濡れないわけではないのだが、彼はしばらくそこにいた。

 物事は何から何まで真剣に追求する必要はない。大学時代の先輩が彼に告げた言葉だ。彼はその言辞について、聴いた当初は疑問に思っていた。しかし、最近になってようやくその言葉の意味が分かってきた。今の、この時間がまさにそうだ。雨には濡れたくはないが、完全な雨宿りは望まない。意味がない行為、無駄な行為でも場合によっては必要な時がある。

 ずっとそこに座って、神殿から神が出てくるのを待っていると、急に眠気が彼を襲った。何も言えないが、何かを言いたいようなその声に彼は耳をすませた。しかし生憎、奴の喋っている言葉が分からない。彼は耳を塞いだ。奴は自分を眠りに落とすために誘いをかけているのだ。無視をしたほうが賢明だろう。彼は思った。

 ベンチのせいではないが、彼はふいに炭酸飲料が飲みたくなった。彼は立ち上がった。同時に、雨が止んでいることにも気が付いた。石段を下りて神社を出た。道路の隅を歩いているときには、すでに炭酸飲料のことなど忘れてしまっていた。

 暑苦しくなった空気が、彼の汗腺を刺激した。彼は汗が大嫌いだった。学生時代は全く臭わなかった脇の部分が、成人になってから臭うようになってきた。高校生の頃は、体育の後に制汗スプレーで刺激的な香りを撒き散らそうとする同級生を見て、辟易したものだった。確かにあの時も汗が完全に出ないわけではなかったが、気になるというほどでもなかった。それが少し年月を重ねただけでこんな身体になってしまうとは。彼は皮肉混じりに軽く笑った。

 大きな通りを抜けて狭い小道に入った。子どもたちが追いかけっこをしながら、彼の横を次々に走り去っていく。小道も抜けたら今度は住宅街が視界に広がる。家庭の匂いが住みつくこの場所には騒々しさというものがない。彼は歩行を続けた。涼しい風が彼に染みついていた汗を乾かす。まるで納涼船に乗っているかのようだ、と彼は想った。

 目的地は、そんな住宅街の一郭にあった。彼は立ち止まると、久方ぶりに目にするその家屋を見上げた。このコミュニティーには似つかわしくない、和風の旅館のような建物だった。整えられた庭は、優美さの条件を過不足なく満たしているように思えた。どこかで、鹿威しの音も鳴っている。その響きも変わることなく、心地よく、揺るぎがない。彼は飛び石の上を歩き、玄関を目指した。歩いている途中、ねばりけのある汗が再び身体から噴出してくるのが感じ取れた。

 表札には「相模さがみ」と書かれていた。彼は表札の下のボタンを押した。

 音が鳴って、扉の奥から声が聞こえてきた。まるで眠りから覚めた相思鳥が、浅緑の若葉に囲まれて唄うような声だった。格子戸が開き、和服を着た女性の姿が彼の目の前に現れた。彼は破顔した。

「萩原です。すいません、突然電話なんかしてしまって」

「いいのよ。相談ならいつでも受けるから。独り身っていうのは常に暇なものなのよ」

 彼女はそういうと、手を口のほうに持っていき、上品に笑った。萩原も顔を綻ばせた。

「先生がそうおっしゃるなら、こちらも安心できます」

「何言ってるの」彼女は再びにこやかになった。「まあ、とにかく上がって。お茶出してあげるから」

「ありがとうございます」萩原は礼をすると、中へと足を踏み入れた。緊張の汗は、この時にはすでに止まっていた。


 鹿威しが独特の音を立てる。萩原は無理にかしこまった表情になって「先生」の顔を見た。彼は足元に置かれたお茶を手に取ると、縮退しながらも一口すすった。仄かな甘みが口の中に停滞した。前置きなどいらない。そう思った彼はすぐさま本題へと入った。

「相談というのは、僕が診察した患者さんのことなんです」彼は足を胡坐から正座に変えた。「突発性難聴を患った、十二歳の小学生なんですが、彼の病状が異常な進行をしておりまして、原因が分からないんです」萩原は一音一音を歯切れよく話した。

「異常な進行?」相模は緩やかな口調で問いかけた。

「はい。最初は右耳の異常だけだったのですが、日が経つにつれて喋ることも出来なくなり、ついには視覚にも障害が出まして…… 現在は寝たきりの状態です」

「そんな……かわいそうに」彼女は嘆息をもらした。

「少し前までは、サッカーをするほど、元気があったのですが」

「本当に、原因は分からないの?」相模は嗄れた声で尋ねた。綺麗な目は悲しみと同情を訴えていた。一見演技のようにも見えるが、それが彼女の感情表現だということを萩原は知っていた。

 萩原は鼻で少しばかりの酸素を吸うと、先ほどと同じく歯切れの良い口調で一つの考えを示した。

「医学的なことで言えば、彼の病因は全く持って不明です。ですが、僕の経験で言うならば、彼の病状は僕が昔患ったあの症状と似ています」

 相模の口が動いた。「あの症状って…… まさか萩原君が小学生のときに患ったあれのこと?」

「はい」萩原は頷いた。

 その時、先ほど止んだはずの雨が再び豪雨となって降り始めた。繰り返す鹿威しの鳴き声は雨音にかき消され、大きな叫喚に変わった。萩原は突然の轟音に会話の流れを遮断され、続けることが出来なくなった。

 雨は地上に生えた街を叩き潰すかのように、無慈悲になっていた。萩原はその雨を横目で見ながら、これは亮太の心の涙かもしれないと思った。自分が小学生の時、僅かに見えた一筋の光芒。消えない水滴に己の無力を恥じた日々。亮太も同じ苦しみを味わっているのだろうか。萩原は目を閉じて、周囲の音を一時的に遮断した。彼は今、どこにいるのだろう。何を思い、何を感じているのだろう。終わりが見えない哀しみは同時に孤独を浮き彫りにする。亮太の視界を奪ったのは一体誰なのだろう。亮太の身に何があったのだろう。

「私に相談をしにきた理由は……」相模は一瞬、間を置いた。茶をすする余裕はもうないようだった。「問題を解決するための手段を知りたいから? 萩原君が小学生の時、私が萩原君をどのようにして救ったのか、それを教えて欲しいから?」

 萩原は膝に置いた拳を強く握りしめ、ゆっくりと頷いた。別に悔しかったわけではない。彼が言わなくても彼女が彼の考えを察してくれたことが、萩原には嬉しかったのだ。涙こそは出なかったが、胸の中に暖かいものが入り込むのを感じた。

「大丈夫。私が教えなくても萩原君ならちゃんと分かっているはずよ。自分の過去を細かく探ってみて。必ず心当たりがあるはずよ」

「そうおっしゃるということは…… やはり、彼女のことですか?」萩原は恐る恐る確認した。それは、頭の中には一つの可能性としてあったものの、本当にそれが正解かどうか確信を持てないものだった。

「彼女のことについても、萩原君のことについても私は謝らなければいけないと思うの」相模は躊躇いがちに話した。「いくら患者を救うためだとはいえ、あれは卑怯なやり口だったと思う。デリケートなことだものね」

「そんなこと言わないでください。僕は先生に感謝の思いがあるんですから」萩原は嘆願するような頼りない表情で言った。雨音のせいか、声が自然と大きくなっていた。

「でも……」今にも俯きそうな相模の表情にも曇りがあった。しかしすぐに霧を払って、萩原の方を見た。「そうね。萩原君が幸せなら、あの判断も間違ってはいなかったってことね」

「そういうことです」萩原は笑顔を見せた。

 自分という存在を信じられなくなったとき、人は初めて誰かを頼るようになるのかもしれない。例えそれが、自分を不幸に導く者だとしても。付いていってしまうのかもしれない。信用してしまうのかもしれない。萩原は考えた。これは自分自身との戦いなのだ、と。

 水の針の矛先は萩原に向けられていた。彼はその煽りに耳を傾けず、相模の家をあとにした。強い雨の怒号に押された鹿威しの囁きが、彼の耳にねじ込むようにして遠く、遠く……鳴っていた。

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