文章の先生

文章の先生

 二十数年前の春、頬ひげを生やした大柄な男が森の奥に居つくようになった。たった一人で小屋を建てているらしいという噂が村に広がった。

 やがて五月になると小屋の形が整い、六月にはその「誰か」が若い医者だとわかった。彼の住まいはその小屋で、診察室でもあった。

 村には長い間、病院らしい病院がなく、医者らしい医者もいなかった。村の大人たちは若い先生を歓迎した。

 村の人口は多くなかったので、診察から次の診察までにがある。ばかりという日もあった。

 そこで、若い医者は村の子供たちを集めて、文章の指導をするようになった。

 算術でも語学でも自然科学でもなく、文章の指導を行う理由は二つあった。

 一つ目は、物事を筋道立てて考える訓練をするには、文章を書かせるのが一番よいということ。二つ目は、年齢が揃わない大勢の子供たちを効率よく指導するためには、作文が最適だということだった。

 村人に倣って子供たち、つまり僕たちも彼のことを「先生」と呼んだ。先生はいつも最初に課題を出すのだった。「夏の訪れ」とか「有意義な嘘」とか「汽車が揺れたせいで、よろけて倒れそうになった時のお婆さんの気持ち」とか、子供にはかなり難しい。

 それも一つや二つではなくて、十も二十も出した。

「精魂をこめて書け! 真剣に書け!」

 先生はよく通る声を小屋いっぱいに響かせて、そう言った。窓ガラスと一緒に僕たちも震えて、震えながら頭がボロボロになるくらい懸命に考えて、そして書いた。

「こんな文章があるか! まだまだ!」

 叫びながら、作文を破り捨てることも珍しくなかった。

 中には泣きだす子もいた。泣きながら書いては消し、消しては書いて、やっと提出する。

 その後で、先生は僕たちひとりひとりの腕をまくって、子供用の細い注射器で血を抜いてくれるのだった。

 大きな子からは沢山、小さな子からは少しだけ。

 そして顕微鏡を覗いて、血液の成分を調べてくれた。

 褒めてくれる時はこんな感じだった。

「今日はだいぶ薄くなってるな……」

 下を向いたまま、小さい声でぶつぶつと、思わせぶりに言う。僕たちは息もできないほど緊張して、待っていた。

 やがて、血が薄くなっている様子を確認すると顔を上げて、

「これは真剣に書いた証拠だぞ!」

 先生は大声をますます大きくして、皆の前で褒めてくれるのだった。先生の声に気圧されて、僕たちは手のひらが真っ赤になるほど拍手をした。自分の作文が褒められた時など、跳ね上がった心臓が小屋の天井を突き破って、山の向こうまで飛んでいくほど嬉しかった。

 逆に、書き終えてもずっと血が濃いままだと怒られてしまう。血が薄くなるほど「精魂をこめて」書かなければ、良い文章は書けないのだ、気持ちがまだまだ足りない。僕たちは先生の言葉を信じていた。


 二年目の夏の盛りの頃、警察の人が先生の小屋に何回か通ってくるようになった。何度目かの話し合いの後で、先生は車に乗せられてどこかへ連れて行かれて、それきり戻ってこなかった。

 後から聞いた話では、村の子供たちから抜いた血を、どこかに売ってはお金にしていたのだという。

 そもそも血液なんて碌に調べてはいなかったのだ。それどころか医者ですらない、ただの嘘つきだった。

 でも、おかげで僕は随分と文章が上手になったし、実は大人になった今でも感謝している。

 子供にも親にも嘘をついて、騙して採った血を売っていたなんて、みみっちい犯罪としか言いようがない。しかし、彼が与えたプラスとマイナスを差し引きすると、さほど大きなマイナスにはなっていないようにすら思える。ある種の政治家のように、功罪が入り混じっていて、時が経つと許されるタイプの情熱家だったのだろうか。あれ以前の彼は、どのような人物で、どこで何をしていたのだろう。どうやって育てられ、何をきっかけにしてあの妙な考えを精神の内部で育てたのだろうか。

 単なる詐欺師にしては、声も表情も真に迫っていた。子供だからコロッと引っかかったともいえる。しかし、当時の村の大人たちだって頭から「先生」を信じきっていたのだ。それほどの説得力、あるいは演技力を確かに持っていた。本音を言うなら、並の教師に十年教えてもらうよりも、ずっと得るものがあった。

 精魂をこめて書け、真剣に書け、血が薄くなるほど……。

「私はただ血で書かれたもののみを愛する」という有名な哲学者の言葉だってある。あれほど大切なことを、心に叩き込むように教えてくれた文章の先生は、後にも先にもあの人だけだった。

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