tranquillo3 ~雨の歌~



 春月が待合室に戻るなり、話す間もなく優華は診察室へ再び呼ばれていった。ドアの向こうに消えていく背中を見ながら、春月は彼女がこの現実とどう向き合っているのかを考えた。

 少なくとも、早見優華などという一個人の人間は、早見弥生の一部分としてしか存在しない。弥生から独立した感情や自我と記憶まで持ち合わせていながら、社会的に一人の人間として存在する事ができないというのがどういう事なのか、春月には想像する事すらできなかった。

 そしてそういった存在を、自身の他に五人も心の中に抱えている弥生の気持ちもまた、春月の理解から遠く及ばない存在になってしまった。


 そういった人間が身近にいるという現実と、どんな風に折り合いをつければ良いのか分からなかった。

 何の感情も浮かんでこないとはまさにこの事なのだろう。悲しいとさえ思わなかった。


 優華は五分ほどで診察室から出てきた。相変わらず表情は柔らかく微笑んだままで、両手を体の後ろに回したまま囁くように落ち着いて言った。

「お会計は向こうですから。先に車に戻ってても大丈夫です」

「いや……一緒にいます」

 そっと差し出してきた彼女の左手に掴まって、春月は立ち上がった。頭の中がぐらぐらと揺れていて、一人の時間を作ってしまえば気が狂ってしまいそうだった。

 あくまで出会ったばかりの他人の事のはずなのに、どうしてか彼女の背中を見ているとそんな風には思えなかった。


 どうしたいのかは、自分にも分からない。彼女にどうあって欲しいのかも、彼女に対して自分がどう行動したいのかも、全く考えられなかった。


 会計を済ませて車に戻って、バケットシートに体をすっぽり収めてから春月はようやく口を開いた。

「俺は……。俺、ずっと早見……弥生を、苦しめてたんだって」

 後悔ばかりが浮かんでくる。あの演奏会の日も、あるいはもっと前から彼女に無理をさせて、ピアノを弾く度に彼女を苦しめていたと思うと、もう彼女に合わせる顔が無かった。

 俯く春月の頭を撫でながら、優華は穏やかに口を開く。

「そんなに自分を責めないでください。弥生はあなたを好いています」

「でも、前に話した時に無理をさせてるって言われました。無理して変わるのがそんなに大事なのかって」


 少しだけ間があった。敵、という単語を自分の口から出すのが怖かった。

「あの時あなたが話したのは、あきらというまた別の人です。あの子も、本心では弥生が変わる事を望んでいるんです」

「それなら、どうして」

「あの人は過保護なんです。だから弥生が少しでも悩んだりするのが我慢できない。あの人もまだ二十歳だから、思春期の子の親なんて早すぎるんです」

「親?」


 ふふ、と優華が微笑んだ。

「ええ。服部先生から聞いたと思いますけど、両親は何かと問題のある人たちでしたから。ずっとあきらが親代わりになって、沢山のものを背負って弥生を守り抜いてきた」


 言葉が出なかった。

 他人の一部としてしか存在できない沢山の人達が、薄いガラスでできた繊細な弥生の心を壊れてしまわないようにと守り続けてきた事実。自身もまた壊れそうな心を持っているというのに、それでも自分を犠牲にして弥生の為に、持って生まれてきた自分の役割を果たし続けているのだ。

 目の前にいるこの人も、そうなのだろう。


「でもね」

 俯く春月を横目に優華が微笑んだ。

「私も、弥生は変わったほうがいいと思う。いつかは大人にならないといけないんです」

 その微笑みからは少しばかりの寂しさが滲み出していた。


「優華さんは、どうして俺に話そうと思ったんですか?」

「話さないといけなくなったから。あのままだと、あなたと弥生の関係はこれで終わっていた」

「それは……。まずい事なんですか?」

「関係が終わる事で、今後あなた達二人がどうなるのかは私にはわかりません。でもね、春月くん。いくら弥生ちゃんの親代わりをしている人だって、他人が介入して人の付き合い方を決めるなんてやってはいけない事です」


 確かに彼女の言う通りだった。暁も優華も、春月から見れば他人でしかない。そしてそれは弥生から見ても同じはずだった。

「だから、弥生の口からでなくともきちんと状況を話さないといけない。あなたは状況を知った上で選ぶ権利があるから」

 返す言葉が見つからなかった。


「弥生や私達と、全部知った上でこれからも付き合い続けるのか、赤の他人に戻るのか。あなたが決めてください」

 そういった優華の目はまっすぐに真剣で、微笑みは無くなっていた。

「そんなすぐには決められません」

「時間なら、いくら掛かっても構いません。その答えであなたを責める事もしません。どうか、後悔しない選択をしてください」


 きっと彼女は大人なのだろう。今しがた話した医師や真由美と同じで、少し離れた位置から春月や弥生を見守る。言葉は見つからなかったが、胸の内には感謝が溢れていた、




 降り出した雨が冷たかったせいで、その日の午後は七月にしては珍しく過ごしやすい。

 あの後別れ際に、そういえば暁と弥生では歳が違うことを不意に思い出して、優華にも歳を聞いて驚いたのだった。

<十七歳です>

<いや、嘘でしょ>

 ふふふ、と口元に手を当てて小さく笑って、人差し指を口の前で立てて彼女は言った。

<女性に秘密はつきものです>


 その柔らかい微笑みは、未だにしっかり春月の頭に残っている。

 彼女に対しては感謝してもしきれないと思う。


 珍しく仏壇の前に座っていた。飾られた兄の写真は十七歳、自殺する直前の子供の顔のままで、相変わらず気難しそうな表情を浮かべている。

「俺は、お前に何もしてやれなかったな」

 あの日、深夜二時前に兄がどこかへ出掛けていくのを不信に思いながらも声を掛けなかった事を未だに後悔している。その二日前に二人きりで外食へ行った事も、その二週間前に珍しく兄の部屋に布団を敷いて寝た事も。

 あの夏、自分が彼の悩みに気付いて話を聞いていれば違う結末もあったのではないか。二つ上の兄が生きていれば二十歳になる。まさか兄が十七歳のまま自分が十八、もうすぐ十九になる日が来るなどとは夢にも思わなかった。


「助けられなくて、ごめんな」

 この独り言が兄に届けばいいと思う。


「友達がさ、ちょっと大変なんだ。もう助けられないのは嫌で。でも俺が関わってもっとひどい事になるのも怖いんだ」

 少なくとも、兄は助けられなかった。自分が助けるべき立場にいながら何も気付かずみすみす死なせてしまった事は春月の心に大きな後悔を残していた。

 それがきっかけに欝になって学校へ行けなくなったのも、数少ない登校した日数であの居場所を乱して摘み出されたのも、あるいは自分への当然の報いなのかもしれない。


 もし弥生に関わってもう一度同じ結末になってしまったら。

 翔や医者の言っていた覚悟という言葉がいかに重いものなのか、ここにきてようやく理解する事ができた。

「どうすればいいのかな。俺」

 その答えは返ってこない。彼の口から答えが返ってくる事はこの先二度と無い。

「なんとかしてやりたいんだ。本当に、素直に。一緒にいたいだけなんだけど」


 答えは自分で導き出すしかない。もう、彼は助言してくれない。


 雨は静かに降り続けていた。そんな空模様から、答えを見つけることはできそうもなかった。




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三月の星 早見 暁 @akatsuki_hayami

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