tranquillo2 ~悲しみのオルフェーオ~


*



 流れていく景色を横目で見ながら、春月はアクセルを踏み込んだ。黄色に変わった信号をそのままの速度で通り越して、次の信号で減速する通勤車両の列に追いついていく。

 今日がスクーリングの日でなくて良かった、と思う。また学校に車で行って、呼び出されて大目玉を食らう羽目になるのは御免だった。


 あれから翔とは連絡を取っていなかったが、週が明けて、スクーリングを目前にして弥生から車で一度会いに来て欲しいという事を電話で翔が伝えてきたのだった。


 そこにどんな意味があるのか、春月には分からない。この前の演奏会のお礼をされるような立場でもないし、二人きりで話があるというのなら登校日のピアノの前でだって問題はない。むしろ、わざわざ前橋住まいの春月を高崎まで車で呼び寄せるくらいなのだから、大事な話よりも行きたい場所があるのかもしれないと思った。


 ラジオから流れてくる天気予報によると、今日も午後から雨が降るらしい。せめて今日は、何かあっても彼女に雨の中を歩かせるような事はさせないようにしよう。


 大通りを抜けて市内へと入っていくと、道は途端に狭くなった。通勤の車はいなくなって、歩道を歩く高校生の列が次第にその数を増やしていく。

 一年前は自分もあの中の一員だったという事を考えると、つくづく人は奇妙なものだと思った。高校生のうちからこうも人とは違う生き方をして、自分は将来どうなるのだろう。もうそろそろ自分の将来の事も考える時期という翔の言葉が胸に引っかかっていた。

 自分の将来は。翔の将来は。弥生の将来は。


 少しずつ大学の話もクラスで話題に出るようになっていた。翔と絵里香はそれぞれピアノとヴァイオリンで大学に行くらしい。音楽コースと言っても普通科だから、ほとんどのクラスメイトは音楽の道へは進まない。

 ピアノが弾けない自分も、そろそろ身の振り方を考えるべきか。

 いつまでも甘い夢を見ている訳にもいかないと思う。実際、職業リサーチや進路調査にはバイクや車の整備関係の事を書いていた。機械弄りは嫌いではないから、このまま音楽を捨てて違う道を選んでしまうというのも立派な選択肢だった。


 勿論その選択肢を選んでしまえば一生後悔し続ける事になるのは春月自身よく分かっている。


 そういえば弥生はどうなのだろう。彼女が大学の事を調べているようには見えなかった。最後に会ったあの日までを見る限りでは、彼女は音楽に興味こそあってもそれで何かがしたいようにも思えない。その手の話が彼女との間で出た事も無かった。


 駅のロータリーで車を停めて腕時計に目をやると、針が八時四十五分を指している。まだ約束の時間には十五分あった。

 辺りを見回しても、まだ弥生の姿は無かった。駅の近くに住んでいる事は本人から聞いていたから、もしかすると約束の時間丁度に現れるのかもしれない。


 シートに深く座って演奏会の事を思い出す。あの日、弥生は春月を敵だと言った。突然何かに憑依されたかのように何もかもが変わって、弥生という人間を他人のように扱っていた口ぶり。

 思い当たるものが無いわけではない。だが、現実にそんな事――。


 コンコン、と窓ガラスをノックされて我に返った。視線を左にやると、ふんわりとした白いブラウスを着た女性が小さく笑みを浮かべながら腰をかがめてこちらを見つめていた。目が合うなり、彼女は一度姿勢を直してから淡いブラウンのロングスカートを両手でつまんで持ち上げると、その場で小さく腰を落として頭を下げる。

 一瞬、誰だか分からなかった。それが早見弥生である事に気付いたのは、すらりとした高い鼻筋やショートヘアから伸びる顎の輪郭に見覚えがあったせいだった。


 助手席の窓を開けると、再び弥生がそこから覗くように腰を屈めた。

「お久しぶりです。浅田春月くん」

 ひどく落ち着いたその低い声は、この前とは違って優しそうな響きを持っている。目元はずっと小さく微笑んだままで、弥生がこんな顔をしているのもまた見た事が無かった。

「何で敬語なのさ」

「さあ?」

 ふふっ、と口元に手を当てて彼女が小さく笑う。

「隣、いいですか?」

「ああ、うん」


 助手席のドアを開けて乗り込む動作はゆっくりで、丁寧な動きは大人の女性を見ているような気分になった。

 彼女の新しい面を始めて見るはずなのに、嬉しいとは思わなかった。普段はジーンズにシャツのような地味な服装しかしない弥生が、きちんと女性らしい格好に身を包んだ上で化粧までして、こんなにも柔らかい表情を浮かべて自分の隣に座っている。

 まるで別人を見ている気分になった。


「今日呼び出したのは、春月くんと二人で行って欲しい場所があるからです」

「行って欲しい場所?」

「ええ。私について……早見弥生について、話さないといけない事があるので」

 それからまた、彼女は座ったままスカートの両端を小さく持ち上げて頭を下げた。それはまるでどこか違う世界へ春月を誘うかのような動作に見える。


「ここで話したのじゃ、駄目なの?」

「駄目です。私の口から言っても、嘘に聞こえてしまうから」

 手にした白い小さなバッグから、おもむろに彼女がメモ帳を取り出す。彼女が開いて差し出してきたページには住所が一行だけ書かれていた。


「ここに行って欲しいんです。でも」

「でも?」

 メモを渡すと、彼女の顔から笑みが消える。気難しい顔をしながらぱたぱたと何回か両手の指を合わせたかと思うと、ナビを指差した。

「これの使い方が、よくわからなくて」

 不意に見せた彼女の子供のような表情に、思わず春月の笑みが零れた。

「わかった。やるよ」

 彼女の顔に笑みが戻るのを横目に、ナビに住所を打ち込んでいく。一体どこへ行くのだと思いながら手を動かしていたが、地図に出てきた名称を見て、案内開始のボタンの前で指が止まってしまった。


「精神病院?」

「今日二人で行くことは、話してありますから。そんなに気構えなくても大丈夫です」

 弥生がにっこりと笑う。春月が驚いて目を丸くした理由も、特に彼女には伝わっていないようだった。


 目的地に着くまで、春月はあまり口を開かなかった。走りながら何度か話しかけようとしたが、頭の中に浮かんでくるのは演奏会の事や目的地の事、会う度に様子が変わる彼女自身の事ばかりだった。

 その事で話しかけても、彼女の答えは決まって行けば分かる、だけだった。


 平日の午前中というのもあって、病院の駐車場は驚くほどに空いている。病院は三階てで、着飾っていない白の壁のせいで驚くほど瀟洒な建物だった。

 両手を後ろに回して楽しそうにゆっくり歩く弥生の後ろを歩くうちに、彼女はもしかしたら弥生の双子の姉なのではないかという考えすら浮かんでくる。もしかしたら、演奏会に一緒に行ったのも――。

 それが馬鹿げた考えでしかないのは分かっている。人形のように突然動かなくなった後で彼女が豹変してしまったのを、自分はこの目で見たのだ。


 待合室の椅子に座ると、彼女だけが先に診察室の中へ入っていってしまった。一人取り残された春月は、前のめりになって両手の指を組ませて、俯くようにして待つことしか出来ない。

 嫌な予感だけが胸の中で渦巻いている。性格から声、仕草、顔まで別人に変わってしまう様子を見せ付けられては、何度も頭の中に浮かんでくる一つの答えをいくら否定したところで振りほどく事などできなかった。


 ――そんな事が現実に起こり得るのか。一つの体に、複数の魂が宿るなど。


 気付けば目に涙が浮かびそうになっていた。それが何の涙なのかは分からない。実りそうもない初恋をしてしまった事への後悔なのか、彼女への同情なのか、あるいは……。

 分かるのは、ただ悲しいという事だけだった。


 どのくらいそうしていたのか。ゆっくりとした動作で弥生が診察室の外に出てくる。時計を見るとまだ十五分しか経っていなかった。

「どうぞ、入って」

 診察室のドアを開けたまま、彼女が手のひらを上に向けて春月に入るように促している。ここまで来てしまったからには覚悟を決めなければ、と思う。椅子に張り付いてしまった腰をどうにか持ち上げると、彼女に促されるまま重い足取りで診察室へ入っていった。


 ドアが閉まる。外から弥生が閉めたらしい。彼女は部屋の中へは入ってこなかった。


 狭い診察室の中では、若い男の医者が一人、背筋をピンと伸ばして椅子に座ってこちらを見ていた。

 

「どうぞ」

 髪の長い彼に促されるまま、春月も椅子に座った。だが、目を合わせても何を言えばいいのか分からなかった。

「私は、精神科医の服部と申します。弥生さんの主治医を担当しています。とりあえずの話は、優華さんから聞きました」

「優華?」

 初めて聞く名前に、雷に打たれたように心臓が高鳴った。

「あの、俺。早見……弥生に、とりあえずここに連れて来られて」


 それ以上はうまく言葉が出てこなかった。探しても出てこない言葉の変わりに、肺に吸い込んだ空気を吐き出して俯く。

「あなたをここに連れてきたのは、あなたの知る弥生さんでしたか?」

「……違うと、思います」

 そう、違う。恐らくはあの演奏会の日に春月を敵だと言ったあの人も、翔を通して会う約束をしてきた人も、自分の知る早見弥生とは別の人間なのだ。


「はい、あなたの言う通りです。今日あなたをここに連れてきたのは早見優華さんという、普段は弥生さんの中に眠っている別人格です」

 目の前に座る医者に目を合わせることが出来なかった。そんな到底受け入れがたい事実を淡々と説明する姿がひどく残酷に思える。四角い眼鏡の奥の瞳に彼女や自分がどう映っているのかを考えると怖かった。


「多重人格って事ですか」

 はい、としっかりした口調で言いながら、医者が一冊のパンフレットを取り出した。

「心理学では解離性同一性障害といいます」

 彼がパンフレットのページを一枚めくる。

「優華さんから病気について説明だけして欲しいと言われたのですが、まだ分かっていない事も多い難しい病気なので、私もどこまで説明すればいいのかわからないのですが」


 それから、彼は淡々と病気について説明を始めた。

 多重人格という名称は今では使われていない事。複数の人格が存在しているようで、本来一つしか存在しない人格をシャッターで分けて複数作っている、という事。それらは主人格である弥生の一部分でありながらも、紛れも無く一人の個人として成立している、という事。


「今、弥生さんの中には、主人格である弥生さんを含めて六つの人格が存在します」

「六人も……ですか?」

 六人。元々一つだった弥生の心を六つに分けて、それら一つ一つが成長して弥生と共存しているという事実。

 たった一人の体を六人で分け合っているという現実が、悲しかった。


「たったの六人です」

 彼の淡々とした説明は、そんな春月の感情に意味が無いとでも言わんばかりに悲しみの傷を広げていってしまう。

「中学生の時、初めてここに連れてこられた弥生さんの中には二十人近い人格が共存している状態でした」

「どうして、そんなに」

「原因は、幼少期の虐待や育児放棄。それに学校でのいじめもありました」


 気付けば奥歯を噛み締めていた。嬉しそうに小さく笑ったり、心配しながら悲しそうに眉をひそめたり。そんな表情の裏で、弥生はこれほどまでに大きなものを一人で抱え込んでいる。

 生半可な気持ちで彼女と関わってはいけないのだ。どんな面を見ても、知っても、逃げないだけの覚悟。まだ出会ってほんの数ヶ月しか経っていない自分に、それだけの覚悟があるのか。


「俺は、どうすれば」

 どうすればいい。その言葉は半ば独り言に近いものだった。

「優華さんからは解離性障害についての説明だけして欲しいと言われているので、具体的なアドバイスをする事はできません。しかし、病気について知った上で彼女と関わるのであればそれなりの覚悟は必要になります。あなたの将来を大きく左右する事です。それに、あなたの言動や行動が、弥生さんの今後の生き死ににも関わっていきます」


 何か背中に重いものが圧し掛かってきた気がした。ただ突きつけ続けられる現実に言葉が出ない。確かに翔が言っていた事は正しかった。


 もっと弥生と一緒にいたい、と思う。少しずつ変わる彼女を見ているのは楽しかった。だが、楽しいとか好きだとかそんな感情で、他人の人生を自分という弱い人間が左右する事はできない。彼女は自分が思っていたよりもずっと重いものを背負わされていて、残酷な現実に翻弄されるように生きているのだ。


 どんなに引き出しを探したところで、この重い現実に釣り合っている言葉を見つける事が出来なかった。






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