第三節 tranquillo
柔らかい雨が降る度に、外の世界は次第に暑さを増していく。部屋の窓から見える公園に立ち並んだ杉の葉はすっかり下を向いて、代わりに名前も分からない木の緑がその息吹を輝かせていた。幾度となく降り続ける雨に花弁を濡らして大きく咲く色とりどりの花が、夏がすぐそこまで来ている事を象徴している。
あれから、春月は学校に一度も顔を出していない。
家にあるカレンダーを一枚めくった時も、毎日過ぎていった一日にばつ印をつける時も、頭の中にはスクーリングの文字が浮かんでいるのに、いざ木曜日の朝が来るとあの日の弥生の顔やそこから出た敵という言葉が頭の中に鮮明に蘇ってしまう。
それが弥生の本心ではないという翔の言葉を忘れてはいなかったが、直接に弥生本人の口からその言葉を聞いてしまうと、顔を合わせるのがどうしても怖くなってしまっていた。
結局また、ピアノにも向かい合えなくなってしまった。早見弥生が自分にとって初恋の相手だからとか彼女のピアノに自分も元気付けられていたからとか、弾けなくなった理由は幾らでも思い付いたが、だからと言ってそれらの理由とどう向き合っていくかという答えは思い浮かばなかった。
学校を二週間サボったところで、翔からの不在着信は二十件を超えていた。少なくとも一日一回、多い日は一日に三回は着信音が春月の狭い部屋に鳴り響く。どうして翔の事まで避けるようになったのかは自分でもよく分からなかった。
ふと、イヤホンから流れてくるピアノの音から注意を外して携帯を見ると翔からの着信の他に留守電の通知が入っていた。今まで彼が留守電にメッセージを残した事はない。いつも時間上限まで着信音を鳴らした後にそのまま履歴だけを残していくだけで、そのいつもと変わったアプローチが気になってメッセージを再生していた。
耳元に、少しだけ懐かしい聞き慣れた彼の声が響く。
「なあハルキ、いい加減電話ぐらい出ろよ。弥生ちゃんからの電話ならともかく、俺を避ける理由無いだろ。皆も心配してたぞ。話なら聞いてやるから、掛け直して来いよ」
メッセージに残されていた彼の声は相当苛立っているようだった。二十回も着信を無視されたのだから無理は無い。だが、話は聞いてやるという言葉と普段からの翔のおせっかいな言動や行動を思い出したせいもあって、気付けばそのまま翔に電話を掛け直していた。
特に考えがあっての行動ではない。話せばまたいつものように助言を貰えるのではないか、という期待だけが行動の原動力になっていた。
「もしもし。春月か?」
たった今聞いた声の生の返事に、少しだけ尻込みしそうになった。電話に出た声からは苛立ちが感じられず、むしろ春月が素直に電話を掛け直してきた事に対する驚きが含まれている。
「おはようございます。すみません、いきなり電話して」
「謝るなら最初から電話出ろよ。つかお前、二時だぞ。いつまで寝てんだよ」
「すみません、ずっと寝てばっかりで」
電話口からいつもの溜息が聞こえてくる。
「何があったか知らねえけど、お前もよっぽどきてるみたいだな」
「……そうですね」
演奏会の事を思い出すと、自虐的な笑いが自然に出てきてしまう。
「笑ってんじゃねえよ。まあいいや、今から会えるか? お前どうせ暇だろ」
「今から、ですか?」
「今からだよ。一時間後に駅のスタバな。絶対来いよ」
一方的に約束だけ押し付けて、それきり電話からは通話が終わった事を知らせる通知音が鳴り出してしまった。
やはり苛立っているようだった。どうせ暇と言われて漠然とした不満こそ覚えたが、絶対来いという言葉に胃の辺りに落ちた錘がまた重くなった気がして、のろのろと布団から這い出る。
シャワーを浴びて着替えを探してと、身支度の事を考えると、ここ数日布団とパソコンの前だけを往復していた春月に、一時間という猶予は短すぎるようにも感じた。
急いで体を動かしすぎたせいなのか、約束の五分前に待ち合わせ場所に着いた時に春月の体はひどい倦怠感を覚えていた。この二週間、考えてみれば一度も家の外に出ていない。
店内に入ると、翔が気だるそうに右手を上げる。その見慣れた挨拶にあの日から一度も感じることの無かった安心感を覚えて、少しだけ目の中に涙が滲み出した。
「ちゃんと来たな。偉いぞ、春月」
窓際の彼の向かいに座るなり、いきなり頭を撫でられた。わしゃわしゃと髪を乱されるうちに、滲み出した涙が一粒だけ零れた。
「その様子じゃ、かなりダメージ喰らってるみたいだな。何があったのか、話してみろよ」
二週間前のほんの数時間の出来事を話すだけなのに、その二十分は春月にとってやたら長く感じられた。まだ、神妙な面持ちで友達でいてくれるかと聞いてきた弥生の言葉も、ホールで奏でられた音楽も、その後に小さく震えながら何かに怯えていた彼女の横顔も、つい昨日の出来事のように思い出せる。
そして、突然何かが入れ替わったように変わってしまった弥生の顔も――。
春月が話している間、翔は相槌を打つだけで一言も喋らなかった。話を全て聞き終えたときにようやく口を開いて、
「じゃあ、順調って事だな」とだけ言った。
「順調?」
出てきた意味の分からない言葉に、春月の動作が止まってしまう。
「大体予想通りだよ。お前が弥生ちゃんを追い詰めたのも含めて」
「やっぱり俺、まずい事言ってましたか」
「ああ、かなりな」
彼の人柄から分かっていた事ではあるが、慰めてはくれないのだな、と思った。あの日の自分の発言が、弥生の奥底に眠る思い出したくない記憶を蘇らせるきっかけを作っていたのだという事は春月自身も何となく分かっていたし、その事で自分を責めてもいた。
「翔さん、前に俺に掛けてみる事にしたって言ってたじゃないですか。あれ、駄目だったみたいです」
だから、直接翔からその現実を言葉にされて突きつけられると、春月は白旗を揚げる事しかできなかった。
「馬鹿」
そんな春月の渋面を見てそう言って、翔が一口コーヒーを飲んだ。
「まだ掛けは始まってすらいねえよ。まだあの子の事は何一つ聞いてないだろ、お前」
「結局、早見の事って何なんですか。どうしてあいつがあんなに変わるのか、俺には分かりません」
「それは俺から話す事じゃないって言っただろ。そろそろ早見ちゃんの口から直接聞ける」
そういえば、時々翔は彼女の事を早見ちゃんと呼んだ。弥生ちゃんと早見ちゃん、まるで二つの名前を使い分けているかのような口ぶりに今まで違和感を感じた事はなかったが、まるで別人のように豹変した弥生を見た後だと、その呼び方の違いに簡単には拭えない疑問を抱いてしまう。
それを口にしたところで、翔は答えを教えてはくれないのだろう。彼女自身の口から聞かなければ意味が無い、と。
「とりあえず、そろそろ学校にも顔出せよ。次のスクーリングは午前で終わりなんだ。来やすいだろ?」
俯いて自分のアイスコーヒーに視線を落とした。黒い水面に浮かんだ自分の顔はげっそりとやつれている。ここ最近、ろくに食事も喉を通らなかった。
そんな春月に、翔がいつもの溜息を漏らした。
「真由美先生も心配してたぞ。お前が三回目の二年生をやる事になったら、ってな」
「……笑い話ですね」
「笑えねえよ、馬鹿。お前だってそろそろ自分の将来も考えないといけない時期なんだぜ」
自分の将来。その言葉に、春月は翔から目を逸らしていた。
最近大規模な改装が行われたにも関わらず、相変わらず駅は閑散としている。出番を待ち続けるタクシーの運転手は気だるそうに、車の中で暇を持て余していた。シャッターの増えてきたこの市の時間はいつからか止まってしまって、後は廃れるだけに思える。
だが、駅の前に植えられた背の高い木は雨に濡れながらでもその緑の葉を大きく広げている。また今年も夏が来るのだと、傘を差して傍を通り過ぎる人に語りかけるかのように時々葉が小さく上下に揺れていた。
自分の時間が止まってしまったのはいつからなのだろう。時々、春月はそう思いながら記憶の中一枚ずつめくる。そんな事をして何か意味があるわけではない。時間が動き始めるわけでもない。
そんな春月を待つことなく、季節は淡々と動き続けた。春が終わって夏が来る。どこかでそれにしがみつかなければ、この先も置いていかれ続ける事になるのだろう。
そんな事は誰も望んでいないし、春月自身もこのままでいたいとは思わなかった。例え過去を振り切れず背負ったままで過去に生きていたとしても、今流れている時間の中で大人になっていかなければならない。
――大人になる、か。せめてその前に一度くらい、贖罪の機会が欲しいものだ。
手にしたアイスコーヒーを一口啜った。
「分かりました。次は学校、行きます」
翔が肩を落としてから微笑んでみせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます