dolente9 ~黄昏に~
春月の左手を握っていた弥生の手が離れていった。
荒くなっていた呼吸が止まって、突然眠りに落ちたかのように弥生がうなだれる。息を呑んで、咄嗟に身を乗り出して弥生の両肩を強く掴んでいた。
「早見? 早見!?」
無意識に大きくなる声で何度呼びかけても肩を揺らしても、いきなり魂が抜け落ちてしまった人形のように弥生は動こうとしなかった。
その不気味な様子に、息が止まりそうになった。
だが、しっかりしろ、と言いかけた所で肩を揺らしていた手首を突然掴まれた。
あまりに強い力に思わず小さな悲鳴が漏れる。
「離して」
うなだれていた弥生の頭がゆっくりと持ち上げられると、目付きや顔付きが普段の弥生とは違っている事にすぐに気が付く。
それがいつか見た時の強い意志を感じさせるものである事は、少し思い出せばすぐに分かった。
「浅田くんってさ、無責任な事を言うよね」
普段よりも二周りは高い声のトーンで投げかけられた言葉に、春月は言葉を失った。表情と目や声に、隠そうとしても滲み出てくる程の強い怒りが篭っているのが分かって、その気迫に全身の力が抜けていくのを感じた。
「無理して感情を捻りだすのがそんなに正しい事なの? 無理して変わるのって、そんなに必要なの?」
「何も、無理してまでなんて」
普段とは違って、彼女の言葉を聞き取るのに耳を傾ける必要はない。力強くはっきりと耳に残る程の声量に、気付けばこちらの声が小さくなっていた。
そんな春月の様子を見て、わざとらしくため息を吐いてから弥生が悲しげな表情を浮かべた。
「無理させてるよ。十分」
「……させてる?」
「私はね、感情を抑えて、必要なら自分から切り離さないと生きてこれなかった。そんな環境にいた」
強調された、私、という単語や言葉の端々にささくれ立つような違和感に、思考が追いつかずにフリーズしていく。
感情を抑えて、必要なら切り離す。彼女の言っている言葉の意味が理解できなかった。
「どういう意味?」
「深い意味なんてない。言葉通りだよ。抑えてきた。高校に来てやっと平穏な環境に身を置けたのに、どうして君はそれを乱すの?」
乱していた。俺が、早見弥生の生活環境を滅茶苦茶に掻き回していた。
春月が答える間もなく、彼女は言葉を紡ぎ続けた。
「私は満足してた。悩みなんてなくて友達だってできてた。なのに、あなたが私を変えようとするから」
感情的になって胸に手を当てた弥生の仕草や表情からは、いつもの柔らかさを微塵も感じ取る事が出来ない。
目の前の彼女は一体何者なのだ、とすら思う。
「私は悩んでるんだよ」
乗り出した体を座席に収めて、彼女がまた小さく溜息を漏らした。一息時間があったが、どんな言葉を返せば良いのか春月には分からなかった。
「私にとってね、浅田くん」
不意に、彼女がふっと微笑んで見せた。それが敵意に満ち溢れているものだというのは考えなくても分かる。
落ち着いた目は真剣なままで静かに、確実に怒りを浮かべていた。
「私にとってあなたは敵なの」
敵という言葉に全身の気力が抜け落ちていくのが分かった。表情を変える事も声を出す事もできないままに頬を涙が伝っていく。
そんな様子を見ても、彼女は慰めようともしなかった。
ここでいいから、と助手席のドアを開けると、ひどく自然な動作で車から降りてしまう。
ここからの最寄り駅は、どこだろう。せめてそこまでは送っていかないと。
だが、雨に濡れながら車の間を抜けて遠ざかっていく背中を追いかけるだけの気力は、もう残っていなかった。
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