dolente8 ~音のない部屋~





 どうにか開演前の時間をやり過ごして中に入ると、ロビーの冷たい空気に鳥肌が立っていく。ホールの中はここまで冷房が効いていないと嬉しいと思ったが、その期待は呆気無く裏切られてしまった。


 今日の演奏会は二部構成になっている。平日だからあまり客が入らないと予想していたのか、開演時間もあまり長くは取られていなかった。

 その演奏会のプログラムに物足りなさを感じるのは、多分少しでも長い時間一緒にいたいからと思うせいなのだろう。


 開演前の落ち着かない雰囲気の中を横切って、真ん中より少しだけ後ろの席に並んで座った。まだホールの照明は落とされていない。赤い垂れ幕の向こう側から小さく聞こえてくる物音が、これから本番を迎えるオーケストラの緊張感を観客に伝えてきていた。


「いいチケット、買ったね」

 小さく声を掛けると、不安そうに動いていた春月の指が止まった。

「うん。翔さんがさ、チケット譲ってくれたんだ。今回のピアニストは翔さんの小さい頃からの知り合いらしくて」

「そうなんだ。高い買い物、させたかと思った」

 これから出演する訳でも無いのに、春月の声からは緊張が伝わってくる。ピアノの演奏にも出ているように、きっと彼は感受性が高い人なのだ。繊細で、感情に溢れていて。

 きっと開演前の雰囲気に呑まれてしまっているのだろう。


「本当は翔さんと狩野で聴きに来る予定だったらしいんだけど。あの二人、今あんまりうまく行ってないらしくて」

「仲、よさそうなのに」

「色々あるんじゃないかな。付き合ってると」


 付き合ってると色々ある。その言葉に、弥生は翔との会話を思い出した。

 これからも春月と友達でいる為に、どれだけの事を話すべきか。どこまで話して、何を話すべきではないのか。全て話してしまって、また翔のように離れていってしまったらと考えると、どんな距離感で接していればいいのか分からなかった。


「早見、寒い?」

「少しだけ」

「上着貸すよ。俺から誘って風邪引かれても嫌だからさ」

 返事を待たずに、弥生の肩にチェックの長袖のシャツが掛けられる。少しだけ肩に触れた春月の大きな手は頼りがいのありそうな、優しい手をしていた。

 ぶかぶかのシャツを肩に羽織るようにして、両手でその匂いを少しだけ嗅いだ。

「……ありがと」


 開演のチャイムが鳴った。小奇麗な旋律がホールに響く。次第に照明が落とされて、ホールの落ち着かない雰囲気が緊張感へと変わっていった。

 照明が消えると、隣に座っている春月の顔も輪郭しか分からなくなる。少し痩せて骨ばった顎とすらりと通った鼻筋は、よく見ると表情を浮かべていなくても少し悲しげに見えた。


「ねえ、春月くん」

「うん?」

「これからも、友達でいてくれる?」


 開演前の静かな空気は、何もなくとも少ししんみりした気持ちにさせてくる。

 まだ、彼と自分との間には何も無い。出会ったばかりだから友達のままでいられても、これからもこの距離を保っていれば、いずれは翔や絵里香のように近くて遠い距離に身をおかなくてはいけなくなる。そう思うのが辛くて、衝動的に質問を投げかけていた。

「うん。ずっと友達でいる」


 垂れ幕が上がった。

 ステージの上で、若い人たちを中心に編成されたオーケストラが照明に照らされていた。その中心で、観客席に背を向けて立っている指揮者が、静かに、深く息を吸い込む。

 静かに、深く――。やがて幾つもの木管が、静かな曲の始まりで音を響かせあった。



*



 最後の音が止んだ時にようやく、自分が両手を固く結んでいる事に気がついた。ホールの中の空気は寒いと感じる程に冷え切っているのに、鼻筋や額に汗が滲んでいた。

 静かなリストのピアノ協奏曲は、弥生が聞き惚れて手に汗握っている間に、嵐のように過ぎ去っていってしまった。


 ホールに音楽を聴きに来たのが久しぶりだったせいで、ステージから聞こえてくる生の音の迫力に感嘆の息すら漏れてくる。

 演奏をしているオーケストラがアマチュアというのが信じられなかった。その音の厚みや響きは綺麗にまとまっていて、しかし小さくではなく、奏でられた音は曲が終わっても確かに弥生の胸の中に残っている。

 プロとして羽ばたいたばかりのピアニスト。まだ型にはまっていない自由な感情表現は、春月のピアノを聴いている時の気持ちを思い出させる。


 ホールに響き渡る拍手は垂れ幕が降りても止む事はない。気付けば弥生も、右手を痛めている事も忘れて夢中で拍手を送っていた。

 ピアノが弾きたい。ステージの上で照明に照らされて黒く光っているグランドピアノを見て、抑えているのも難しい程の強い衝動が沸き起こる。


「一部、どうだった?」

「なんていうか、すごかった。演奏会、久しぶりだからうまく言えない」

「そっか」

「プロの感情表現って、こんなに音楽を変えていくんだって」


 今ステージで繰り広げられた光景を思い出すと憧れを抱かずにはいられない。だがその一方で、憧れたところでそれが現実になる日は来ないのも確かに分かっている。


「早見もさ、もっと自分の感情を出していけばいいのにって、俺思う」

「私の、感情?」

 一瞬、息が止まった気がした。


「あの人もさ、早見と同じで色々あるんだって。自閉症があるとか」

「自閉症って、知ってたの。私が」

 手に力が入っていた。

「翔さんから聞いた。その、親とも色々あったって」


 今の今までピアノが弾きたくてうずうずしていたというのに、突然出てきた親という単語に、今朝の夢がフラッシュバックしていた。また右手が痛み出した気がして、気付けば手が震えていた。

 感情的になる。

 そんな風にピアノが弾けたら、どんなにいいだろう。今日のピアニストのようには無理でも、耳を傾けてくれる人に言葉では言い表せない感情や高揚感を与えられたら、ピアノを弾く人間としてそれ以上の喜びは無い。

 そう思うはずなのに、感情的になって手を飛ばしてくる人の事を思い出すと、例えピアノでも自分はそうはなりたくなかった。


 ふと、春月が肩に手を置いた。

「あ、ごめん……。びっくりした」

 春月の顔が唖然としている。

「どうしたの?」

「ごめん、何でもない。急に顔色悪くなった気がして」


 肩に置かれた手は自然に伸びているものらしかった。その事に自分で驚いているようで、するりと彼の手が肩から離れていく。

「大丈夫。なんでもない。ちょっと、外で休憩」

「俺も行くよ」

 一緒に席を立とうとした春月の肩に手を置いて、座っているように制していた。

「一人にしてほしい」


 ロビーの外の空気は相変わらず蒸し暑かった。これから夜にかけて雨でも降るのだろうか。湿った空気の匂いが、胸に抱いた雨雲のような思いをより一層重くしている。

 さっき座っていた石のベンチまで歩いて静かに腰を下ろした。不意に頭の中を駆け巡った景色を振り払うのに、十五分の休憩時間では短すぎる気になる。


 肩に羽織ったシャツを強く握り締めた。

 このまま、来週まで借りてしまおうか。


<やよちゃん、大丈夫?>

「大丈夫。なんでもない」

 胸の前で手を組むようにしてシャツの匂いを嗅いだ時に、自分の肩が震えている事に気付いた。

 こうなっては心配して声を掛けてきたあきらに動揺を隠す術は無かった。

<大丈夫そうに見えないけど>

「本当に大丈夫。ちょっと、嫌な事思い出しただけ」


 椅子の下に垂らした足を持ち上げて、膝を両腕で抱え込んだ。

 嫌な事なんか全部忘れられればいいのに、どうして人は記憶の取捨選択ができないのだろう。時々夢という逃れられない形になってまで自分を苦しめ続ける、思い出という言葉を使う事さえ吐き気がする記憶の断片達から自分はいつになったら解放されるのだろう。



 名前を呼ばれた気がした。

 重い首を持ち上げると、春月がこちらに走ってきている。どうやら眠ってしまっていたらしい。


「早見! 休憩が終わっても戻ってこないから心配した。どうしたの?」

 はっと息を呑んだ。目を凝らしてホール内の時計を見ると、休憩の十五分はとっくに終わってしまっている。慌てて立ち上がろうとして、自分の隣に置いてあったペットボトルの水を手で倒してしまった。

 鈍い音を立てて、ペットボトルが地面に落ちて転がっていく。


「ごめん……。寝ちゃってたみたい。この水、春月くん?」

 立ち止まった春月が目を丸くした。

「いや、俺は今来たところだけど。自分で買ったんじゃないの?」

 まだ蓋も開けられていない水を拾って、弥生の隣に置きながら春月もベンチに腰掛ける。

「でも、良かった。顔色悪かったから何かあったんじゃないかって」

「うん。心配させてごめん」


 うまく目を合わせられずにシャツを口元に当てたまま俯いた。

「続き、聴きに行く? 終わるまで車出せないからさ」

 続きを聞きに行くのが少しだけ怖かった。ステージの上の演奏は生の感情に満ち溢れていて、見ず知らずの人の内面を目にするとまた嫌な事を思い出してしまうような気がする。

 そんな事を気にしていたら、この先音楽を続けていく事などできない。その道に進まなくとも、音楽に関わっていけばこの先同じような機会は何度でも訪れるのだ。


「うん。聴きに行く」

 何よりも、音楽に関わらなくなってしまえば自分と彼の接点はそれで終わってしまう。その事が怖くて差し出された彼の手を握った。




*




 降り出した大粒の雨が、途切れることなく車のフロントガラスを強く叩いている。

 どうにかショスタコービッチのレニングラードを聞き終えた時から、心臓の高鳴りと体の震えが収まらなくなっていた。演奏を聴いた高揚感とは程遠い気持ちの悪い緊張感に、全身の毛穴から冷たい汗が噴出している。


 詰め込まれた車が一台ずつ道路へ走り去っていく。まだ、この車が出るのには時間がかかりそうだった。


 演奏会を聴きにきたのが久しぶりだったせいなのだと思う。きっと自分も、春月の事を感受性の高い人間とは言えないくらい本質ではそういったものに溢れているのだ。


「辛い?」

 エアコンを調整しながら春月がこちらを見つめていた。

 あまり心配を掛けたくなかったが、そう思ったところでそれを実践するだけの気力は弥生には残されていない。


「私ね。感情って、怖い」

 一体自分は何を言っているのだろう。どんどん早くなっていく呼吸の中で、何か話そうと思って出てきた言葉に自分で呆れてしまった。

 そんな事を話したところで相手を困らせてしまうだけだというのに。

「俺さ、早見のピアノが好きなんだ。大学だって普通に行けるんじゃないかって思うくらいうまいのに、自分を表現するのが下手で。でも、なんとかしようって頑張ってて」

 その言葉に少しだけ合わせた目を逸らした。

 この人が本当に好きなのは、ピアノと音楽。それが早見弥生という人間には向いていない事を思うと、どうしようもなく悲しかった。


 役に立ちたいと思う。音楽に向き合う事が怖いこの人がきちんと自分の道に戻れるように、手助けをしたい。

 そんな献身的な願いは、自分自身の事をどうにかしてからでないと持っていけないのは分かっている。


「俺さ、中学で吹奏楽を始めて、そこからピアノも習い始めて。変わってるって、回りには少し色々言われたけど」

 春月が自虐的に笑ってみせた。

「でも、音楽を始めてよかったって思うんだ。こうして早見と友達になれて。こいつはこれからも変わっていくんだって思うと、それを傍で見れるのが嬉しい」


 通っていた中学校の教室を思い出す。

 机の上に散らばった破かれた楽譜は一ヵ月後に控えたコンクールで弾く曲のものだった。席を取り囲んでいた女子の一人に、あの時も右手を強く捻られたのだ。


「自信、ない。変わりたいのに、変わるのが怖い」

「それでいいと思うんだ。早見は俺を変えてくれてる。だから俺も早見の音楽を変えたい。怖くても、一緒にいるからさ」


 シフトレバーに置かれた春月の手を強く握った。

 感情を出す事を恐れずに、音楽で自分の世界を作り出す手。一緒にいて欲しかった。ピアノだけではなく、自分という人間を見て欲しかった。


 気付けば両目を強く瞑っていた。

 怖かった。記憶の奥底に眠っていた景色が、さっき聴いた音楽と一緒に頭の中をぐるぐると駆け巡っている。


 背中がどんどん冷たくなって、頬を熱い涙が伝っている。

 呼吸がどんどん早くなっていった。止めたいと思うのに、もう自分一人ではどうする事もできなかった。




*




 一体、何があったのだろう。

 枕を濡らしているものが涙だと気付いて、左手でそっと拭う。体がひどくだるかった。

 電気が消えているせいで一瞬ここがどこだか分からなかったが、部屋の隅を占拠しているグランドピアノを見て自分の部屋にいる事に気付く。


 何故だか、ひどく悲しい事があった気がする。


 喉が渇ききっていた。昨日も同じことがあった気がすると思いながら立ち上がろうとして、その場に崩れ落ちてしまった。

 長い距離を歩いた後のように太ももの筋肉が疲労を訴えている。足が痛かった。


 時計を見ると午前二時を回っている。

 ここまでの事を必死に思い出そうとした。翔の車に乗って、学校に行って、その後で春月とオーケストラを聴きに行って――。

 無意識にピアノ、と呟いた。

 確か、春月がひどい顔をしていたからピアノを聴かせてあげないといけなかったんだ。


 立ち上がろうとして、涙がこぼれた。

<やよちゃん、大丈夫?>

「あきぇ? ……うん、大丈夫」

 手をベッドに付いてどうにか立ち上がろうと力を入れる。


<無理したら駄目。がんばりすぎだよ>

「がんばりすぎ?」

<普段から無理してピアノに向かい合って、私まで見てて辛くなった。少し休もうよ>

 我慢している何かが今にも決壊してしまうかのようにあきらの声は震えていた。

 休む。まだ、休めない。


「ピアノ、弾かなきゃ」

<無理して負担になって、また壊れたら意味ない>

「変わりたい。春月くんの役に立ちたい」

 だが、言葉とは裏腹に体が立ち上がるのを拒否していた。ピアノが弾きたいと思っているのに、体が言う事を聞こうとしない。


<どうして?>

 暁の言葉に、感情の糸が切れたかのように突然震えが収まった。

 どうして。そういえば、どうしてだろう。どうして、彼の役に立ちたいのだろう。


 止めようとも思うのを諦めてしまう程に、頬から大粒の涙が零れ落ちていった。



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