dolente7 ~最後のロマンス~



*



「病院の駐車場に停める奴がいるかよ。このバカ」

 最後の授業が終わっても春月が顔を出さなかったから、仕方なく帰ろうとして階段を降りた先の一階のホールに二人がいた。

 春月に巻き添えを食らって自分も呼び出されたことを、翔は怒っているらしかった。丁度彼が春月の頭を叩いた瞬間を弥生は見てしまう。


「だって、翔さんが適当な駐車場でいいって」

「だからって学校の隣に停める奴はいねえよ」

 翔が大きな溜息を付く。

 そこでようやくこちらに気付いたらしく、いつもより少しだるそうに手を上げた。

「おう、弥生ちゃん。お疲れ」

「何、してるんですか」

「待ってたんだよ。このバカが一人で待つのは嫌だって言うから」

「翔さんだって、狩野と約束があるって言ってたじゃないですか」

 翔が肩をすくめた。


「さっさと行けよ。あんまり学校の前に停めてるとまた呼び出されるぞ」

 春月の方を見た。目を合わせるなり顔が赤くなってしまう。

「とりあえず、行こうか。ちょっと遠いホールなんだ」



 彼の車は、少し古かった。

 今朝乗った翔の車は新車の匂いがして、しっかりしたシートが体を包み込んでくれたお陰で乗るだけで安心感があったが、春月の車はその運転もあってどこか頼りない。

 変速するたびに車がカクカクと揺れるせいで、乗り心地が良いとは言えなかった。


「これ、春月くんの車なの?」

 走り始めて五分ほどしてから、信号待ちでようやく口を開いた。

 ピアノを弾かずに突然演奏会に行くというあまりに急な話に混乱して、ここまで何を聞けばいいのか分からなかったのだ。

「いや。親の車だよ」

「真由美先生、怒ってた。車で来るから」

「知ってる。怒られた」


 春月がわざとらしく笑う。

「真由美先生と言えばさ」

 それから、間を置いて妙に慎重に口を開いた。

「先週さ、早見、真由美先生と話してただろ」

「うん?」

 突然変わった話題に、一瞬頭がフリーズしてしまった。

 先週のスクーリングで真由美と会話をした記憶は無い。

「話して、ないと思う」

「え?」


 春月がこっちを見ていた。前を見る事すら忘れているかのように目をきょとんとさせて、口が半分開いていた。

「春月くん、前」

「前?」

「前、見て」

 慌ててブレーキが踏まれたせいで体が前に飛び出しそうになる。ロックされたシートベルトが鎖骨に食い込んだ。

 後ろからクラクションが聞こえた。


「ごめん」

「ううん。危ないから」

 後ろの車から逃げるように車線変更して、また車のスピードが上がっていった。エンジンの他に、きゅいい、と聞き慣れない高い音が僅かに聞こえてくる。

「これ、なんていう車?」

「シルビアっていうんだ。親父が車好きでさ」

「お父さん?」

「もう離婚してるけど。早見の親父さんは、車好き?」


 右手が少し強く痛んだ気がした。今まで忘れていた今朝の夢が脳裏に蘇って心臓の音が早くなっていく。

 その様子に気付いたのか、春月がごめん、と慌てて言った。

「話題、変えようか」



 それから、市内を出て次第に変わっていく景色を眺めながら、今日の演奏会について話し合った。

 平日の夜に行われる演奏会だけあって出演するオーケストラは弥生の聞いたことがないアマチュアの楽団だったが、その楽団は翔がおすすめする位にはレベルの高い演奏をするらしく、一部の人の間で有名になりつつあるらしい。

 ゲストとして呼ばれたピアニストは最近プロとして活動を始めたばかりの若い人で、出身地の群馬でピアノを弾くのはこれが初めてという事だった。


 窓の景色が、建物の立ち並ぶ大通りから田んぼや畑の間を走る狭い一車線へと変わっていく。

 こっちの方まで来たのは随分久しぶりだった。祖母に引き取られてからというものの、ステージに立つ機会もホールまで聴きに行く機会もあまりなかったから、演奏会にも随分行っていない。


 まさか、こうして他人と行く機会が訪れるとは。


 開演の一時間前に着いたにも関わらず、詰込みのホールの駐車場は大分混み合っていた。免許を取ったばかりで詰込みは始めてだと春月は不安がっていたが、意外に上手くに停めてみせる辺り、実は器用な人間のように思えた。

 お世辞にも上手いとは言えない運転のせいでお尻がじんわりと痛い。駐車場からホールの入り口まで随分のんびり歩いてしまったが、春月は歩くペースを弥生に合わせてくれていた。


 そういえば丁度一年前の夏祭りの前に、翔と同じ事をしていた気がする。


 まだ開演までは時間があるからと、ホールの外のベンチに座り込む。石造りのベンチは日があたって少し熱くなっていた。

 ロビーは少し肌寒いと感じる程冷房が効いていたのに、一歩外に出れば蒸し暑い空気が漂っているせいで汗が滲んでくる。日焼けは気にしないからとは言ったものの、三十分もここにいれば大分焼けてしまう気がして、春月が気を利かせて用意した日焼け止めを少し多めに肌に塗っていた。


 何か買ってくるからと言って戻ってきた春月が手にしていたアイスと飲み物は、弥生が祖母と出かける時に決まって祖母にねだる物と同じだった。


「ただいま。これで良かった?」

 無言のまま頷いて、差し出されたアイスの封を開ける。チーズケーキの甘い香りとひんやりとしたバニラ、細かく砕かれたピーナッツの食感は、小さい頃にたまに優しくしてくれた母の顔を思い出させてくれる。

「ちょっと時間余りすぎちゃったね。何かで時間潰せればいいんだけど」

 そう言って、春月が缶コーヒーのキャップを開けた。

「ううん。これでいい」

「そっか」

 冷たいものを食べているのに、気付けば顔が赤くなっていた。

 ――何だか、デートしてるみたいな気分。


 心臓の音が大きくなっていくのを感じた。人を好きになった事が無いから気付かなかっただけで、もしかしたら自分は彼の事が好きなのだろうか。

 心配だとか放っておけないとかそんな言葉で気持ちに整理をつけていたものの、それ以上の何か不思議な感情が胸の中で渦巻いていた。


「いつもさ、知らない曲があると公演の前に適当に聞いちゃうんだ。勉強みたいな感じで」

 クスリ、と笑いが漏れた。

「春月くん、熱心。そういう人知ってる」

「うん?」

「翔先輩」

 そうなんだ、と春月が少し笑う。その反応が一年前の翔と似ている気がして、口元に手を当てた。


「早見が良かったら、スマホで適当に流しちゃうけど」

「それ、つまらない。初めては生がいい」

 突然春月が飲んでいたコーヒーを噴き出した。弥生も驚いて思わず春月を凝視する。


 何か、変なことを言っただろうか――


 失言に気付いて途端に顔が火照った。咽る春月の横で慌てて首を横に振ると、

「そういう意味じゃ、ない。バカ」

 出てきた言葉を乱暴に並べた。

「ごめん、そういうつもりじゃなかった。本当にごめん」


 もぞもぞと座る位置を春月から離していく。

 それが、空気をより一層気まずくしていた。


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