dolente6 ~小さな願い~


*



 学校に着いて教室に入る頃にはもう一時限目が始まってしまっていた。

 思えば、高校に入ってから遅刻したのはこれが初めてだった。音楽室のドアに手をかけた時に心臓が緊張している事に気付く。

 特にその事で何か言われるような学校でもないし、と胸に手を当てながら静かに息を吐きだした。


「あれ? 弥生ちゃんきた。遅刻なんて珍しいね」

 重いドアを押し開けると、真由美が驚いたように目を丸くしている。ホワイトボードを見るとまだ授業には入っていないらしく、何か用紙を配って説明をしているらしかった。

「ごめんなさい。寝坊しました」


 今朝の事を正直に話す事は出来ない。翔と一緒にいたと言えば周りが驚くだろうし、何よりも彼が車で来たと言えば学校で問題になってしまう。


 あの後、翔は車を置いてくると言って弥生を学校に降ろした後にまたどこかへ行ってしまった。授業にはすぐに参加するだろうから、あまり気に掛ける事ではない。だがもう一人、教室に浅田春月の姿も無かった。


「珍しいねえ。今日は連絡無しで二人欠席だし、何かあったのかと思った」

 真由美が教室を見渡す。

「来葉ちゃんいるし、電車が遅れたっていう事じゃないよね」

 それから、大きな溜息をついて手を頭に当てた。

「やばい、嫌な予感してきた。弥生ちゃん、とりあえず出席簿に名前書いておいてね」

 なんて勘の良い先生だろう。ごめんなさい、と心の中で呟きながら、何も言わずに出席簿に名前を書いた。


 最初の授業が終わっても、翔と春月は顔を出さなかった。一体どこで何をしているのだろう。車を置きに行くのにそんな時間が掛かるとは思えないし、春月も一緒になって何か悪い事をしているのだろうか。

 それが彼にとって良い影響になるといいけど――。


「ねえ、弥生ちゃん」

 二時限目が始まるまでの間、譜読みをしようと楽譜を取り出したところで絵里香に話しかけられた。

 ふんわりとした灰色の、薄い長袖のカーディガンを邪魔そうに手で整えながら隣の席に座ると、

「今日どうしたの?」

 長い髪を揺らしながら顔を覗き込んでくる。

「昨日、遅くまでピアノ弾きすぎちゃって」

「ふーん」


 そういえば、絵里香は嘘を見抜くのがやたら上手い。あまり人に嘘をつく機会など無いが、翔の事でも先生やピアノの事でも、嘘をつくと決まって不満そうに唇を尖らせるのだ。

「手、どうしたの?」

「え?」

 反射的に右手を抑えていた。

「名前書くときから思ってたけど、何だか痛そうにしてない? 大丈夫?」

「大丈夫。昨日、ちょっとピアノ弾きすぎちゃって」

「それは本当なんだ」

 嘘を見抜いたことを隠そうともせず、やたら鋭い観察眼を披露してみせた。絵里香が翔と釣り合っていられるのは、多分この勘の良さがあるからなのだろう。


「春月くんどうしたんだろうね?」

「翔先輩じゃ、ないんだ」

「どうせ一緒にいるでしょ」


 手を隠したまま俯いた。今朝あった事は絵里香に話すべきだろうか。勝手に話して、翔は怒らないだろうか。

「ねえ、絵里香ちゃん」

「ん?」

「どうして、翔先輩、人に優しいのかな。あんなに」

「急にどうしたの?」

 急に、ではない。事あるごとにクラスメイトの為に体を張っている姿は遠くから見ていたし、今朝も、一年という間が空いたにも関わらず柔らかく接してくれた。そういった行動に出るとき人がどんな感情を抱いているのか興味があった。


「さあ」

 絵里香が寂しそうに微笑んだ。

「それが、あいつだからじゃないのかな」

「どうして、寂しそうなの?」


 少しだけ、間があった。

 聞いてはいけない事を聞いてしまった事に気付いてすぐに息を呑んだ。


「ねえ、弥生ちゃん。学校が終わった後、空いてる?」

 謝ろうとしたが咄嗟に言葉が出ないまま、絵里香が次の言葉を言ってしまう。

「……春月くんと、ピアノ。夜は何もない」

「手、痛いのに?」

「うん。あの人、元気なさそうだったから」

 謝るタイミングを逃して気まずい気持ちを引きずったまま話が進んでいく。今日の放課後の事も、あまりよく考えられなかった。


「それなら心配ないよ。翔がなんとかするでしょ」

 絵里香は微笑んでいた。

「夜、空いてるならさ。たまには弥生ちゃんもゆっくりしたら?」




 結局、翔と春月の二人が学校に顔を出したのは昼休みが半分程終わってからの事だった。

 翔が電話に出ない、と唇を尖らせる絵里香を見て弥生は羨ましさを感じていたが、春月の顔を見た時にはそんな感情はどこかへ行ってしまっていた。

 先週浮かべていた辛そうな表情の面影は、今の春月には全く無い。清々しさすら感じさせる笑顔に一抹の不安はあったが、その話題を口に出す勇気は弥生には無かった。

 彼がまたあの顔に戻ってしまったらと思うと、固結びのようなその強がりに弥生も乗るしかない。


 何よりも心配が募っていたせいで一週間が異様に長く感じて、それを乗り切った喜びをそんな話題で消し去ってしまうのも嫌だった。


 自由に話せる二十分ほどの休み時間では、一週間の事を話すには時間が足りなさ過ぎる。


「なあ、早見」

 そんな休み時間の、次の授業までの残りが十分を切った時に唐突に春月が楽譜を机に置いた。

「うん?」

「手、さ。翔さんから聞いたんだけど」

「え?」


 思わず春月の目を凝視していた。今朝そんな話題は出ていない。

 驚いて目を見るしかなかった弥生に春月は一瞬はっとした表情を浮かべて、すぐにしどろもどろになりながら言葉を続けた。

「あ、ごめん。そうじゃなくて。又聞きなんだ。狩野から、か」

「翔先輩と、一緒にいたの?」

「うん。まあ」

「連絡取ってたの。翔先輩と、絵里香ちゃん」

「うん、まあ」

「……なに、してたの?」


 春月が目を逸らした。

 学校で起こっていた事を絵里香から聞きながら、一体、二人は何をしていたというのだろう。

 流石に、二人で楽しくドライブという仲には見えない。


「ごめん」

「こっち、見て。言えないの?」

 気まずそうに頭の後ろに手を回している春月の目を、一方的に見つめ続ける。

 彼は一向に目を合わせようとしなかったが、やがて鞄に手を入れたかと思うと、おもむろに細長い茶封筒を二つ取り出した。

「ちょっとさ、相談乗ってもらったりしてて。これ買ってたんだ」

 そのうち片方を手渡されて促されるままに中を見ると、入っていたのは演奏会のチケットだった。

「うん?」


 いまいち状況が飲み込めなかった。

「なに、これ」

「今日公演のチケット。良かったらと思って」

「どうして?」

「最初は別の所に行く予定だったんだけどさ。翔さんから、早見が手を痛めてるって聞いて。どうかなって」


 何と言えば良いか分からないまま予鈴が鳴ってしまった。じっと顔を見ようとするが、春月は気まずそうな笑みを浮かべたまま目を逸らしている。


「ごめん。次さ、教室移動だから。返事は後で聞くよ」

 楽譜をしまって鞄を持ち上げた春月の袖を反射的に掴む。

「うん?」

「……行く」

 春月が微笑む息遣いを感じたが、今度はこちらが目を逸らしていた。

 話したい事なら山ほどある。授業が終わったら問い詰めてやろう。


 だが、春月が教室にいたのは午後一番の一時間だけだった。チャイムが鳴るなり春月は真由美に呼び出され、ついでに翔も何か知ってそうだから、と連れて行かれたのだ。

 その次の授業に顔を出した真由美は頭を抱えて深刻そうな表情を浮かべていた。


「はい、皆さん。今日は残念な報告があります」

 手にした十枚ほどのプリントを配り終えてから、いつもより二周り低いトーンで切り出した。

「この学校の某音楽コースの生徒が、車を隣の病院の駐車場に停めて苦情の電話が来ました」

 雰囲気に耐えられず数人が笑い声を漏らす。絵里香もその一人だった。

「笑い事じゃありません。一人は病院で、もう一人は有料駐車場に停めてたそうです」


「病院に停めたの、春月くんだよね」

 隣に座った絵里香が小声で囁いた。その様子を見て真由美が大きく溜息を吐いた後に、

「いいですか」と強調する。


「学校には車で来ないでください。あんまり何回もやると退学処分もあります」

 その言葉に耐え切れなくなって、ついに絵里香が噴き出した。

「やめてよもう。あのねえ。まだ七月にもなってないんだよ。絵里香ちゃんは旦那さんによく言っておいてね?」

 何人かの生徒がクスクスと笑うのと一緒に、気付けば弥生もクスリ、笑い声を漏らしてしまう。

「弥生ちゃんも。旦那さんによく言っておいてね」


 小さな笑いが消えて、気付けば顔が赤くなっていた。

 流石に、春月とはまだそこまでの仲ではない。

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