dolente5 ~雨だれの前奏曲~






 目を開けたとき、辺りは薄暗かった。

 時計の針は三時を指している。寝ぼけた頭では一瞬状況が把握できなかったが、少し考えて、まだ夜が明けていない事に気付く。

 どうしてこんな時間に目が覚めてしまったんだろう。

 今見ていた夢の続きを思い出そうともう一度目を閉じて、やめた。懐かしい父親の、出来る事ならば思い出したくなかった顔がぼんやりと脳裏に焼きついている。ピアノがうるさいと手首を捻るよう強く掴まれたのだ。


 体がひどく気だるい。水が飲みたかった。

 重い体を起こそうと右手をベッドについて、弥生は呻き声を上げた。そこで今見ていた夢の理由と、目が覚めてしまった原因を理解する。


 昨日は遅くまでピアノを弾いていて、急に右の手首が痛み出したのだ。


 ズキズキとした痛みはまだ引いていなかった。寝る前に貼った湿布のせいで皮膚が真っ赤にかぶれていて、その湿布も既に剥がれ落ちてしまっている。

 反対の手で手首を押さえながら、小さく呟いた。

 ――ハルキくん。

 どうして彼の名前が出てくるのだろう。無意識に口を突いて出た単語に自分でも驚いた。


 そうだ。先週、彼があまりにもひどい顔色をしていたから、今週は彼の好きそうな曲を三つ練習していたのだ。きっと、そのせいだ。


 どうにか体を起こすと頭が酷く痛む。ここ最近、自分でも気付いてしまう位に感情のコントロールができなくなっていたせいで、どうしても頭痛や腹痛に悩まされる機会が増えていた。

 もう一度目を閉じて夢の続きを見てしまうのも怖くて、ドアを開けて台所へよろよろと歩き出した。



*



 結局、ピアノも弾けず、眠ることもできないまま朝を迎えてしまった。

 日の光が目の奥に沁みる気がする。まだ手首は少し痛んだが、横になって休めば頭痛は大分楽になった。大きなあくびを一つして、ピアノに日光が当たらないようにカーテンを閉めた。


 そういえば彼が来てからスクーリングの日は毎週晴れている。こういうのを何というのだったか。


 着替えて階段を降りると、もう祖母が起きて朝食を作っていた。いつもの花柄のエプロンを腰に巻き付けて、小さな体をまな板のトントンという音に合わせて揺らしている。

「おはよう、おばあちゃん」

 振り向いた祖母の顔に、少しの疲れが滲んでいた。

 無理もない。このところ感情のコントロールができないまま、突然祖母に泣きついたり甘えたりしていたのだから。


「おはよう。ずっと起きてたの?」

「うん。なんか、目が覚めちゃって」

「手ぇ、まだ痛む?」

 昨日、手を冷やして湿布を貼ってくれたのが祖母だった事を思い出した。

「ううん。もう大丈夫」

 それから、そうかいと笑って祖母はまな板に目を戻した。


「ねえおばあちゃん」

「ん?」

「おばあちゃんは、私の事、嫌いじゃない?」

 何故だか、素直に怖いと思う質問を投げかけていた。彼女の娘を殺した男の血が自分にも流れているのだから、憎まれていてもいつ殺されても仕方ないと、普段から思い続けていたのに。

 身寄りの無い自分を誰も引き取りたがらないせいで、身内で発言権のあまり無いこの人が仕方なく家に置いているだけなのかも。


 振り返った祖母は笑っていた。

「嫌いなわけないよ。あたしの可愛い孫だからね」



 朝食を摂って身支度を済ませる間も、さっき見た夢が頭から離れなかった。

 あの人達は私の事が嫌いだった。おばあちゃんは小さい頃から優しかったから、私の事を好いているのだろうか。

 彼は。浅田春月は、どう思っているのだろう。

 その気持ちを確かめるのは怖かった。




 家を出ても、今日はいつもの道で学校に行く気が起きなかった。目的がある訳でもないのに気付けば目が駅の方を向いている。

 目的がある訳ではなかったが、全く無いと言えばそれも嘘になる。もしかしたら偶然時間が被って学校まで一緒に行けるのではないか――。そんな偶然がある訳は無いと頭では分かっていても、淡い期待を抱かずにはいられない。


 大通りに出れば二階建ての大きな駅はすぐに見えた。

 増設された歩道橋デッキと、周辺に立ち並ぶビル街。そこからスーツを着た大人たちが吐き出されるように歩いてきている。

 その人混みを見て、小さな溜息が一つ出てきた。


 会えるわけ、無いか。


 どうせ学校に行けば顔を合わせる事になる。今朝の夢から来る憂鬱な気持ちを晴らしたかっただけで、特別二人きりで話したい話題がある訳でもなかった。

 多分、気の迷いというやつなのだろう。


 諦めて普段の道に戻ろうとしたとき、ふと一台の車が目に付いた。

 青い、背の低いスポーツカー。何と言う車なのかは分からなかったが、その運転手がよく見る顔だった気がして一瞬気を取られたのだった。

 すぐに気のせいかと目を離そうとした。だがその車が徐々にスピードを緩めながらこちらに近づいて来たときに、運転席に座っているのが水島翔である事に気付いた。

 呆気に取られて立ち尽くす弥生に、窓を開けた翔が手を上げる。

「よう、弥生ちゃん。おはよう」

「何、してるんですか……?」

「そんな顔すんなよ。乗れよ」

 学校に車で来るのは禁止されている。免許を取った生徒が適当な場所に駐車して学校に苦情が来るのは珍しい事ではなく、弥生たち音楽コースの面々にも入学した時から何度も注意喚起がされていた。

 転校してきた春月だってその事は知っているはずだし、一年の頃から通っている彼がそれを知らないはずが無い。

「ここで止まってたら邪魔になるからさ。ま、そう気構えないで」


 意外に常識がある人と思っていたが、この人ならやりかねなかった。このまま立っていても逃げられないし、彼もどこにも行かないと思って、ニヤリと笑って目で急かしてきた翔の車に乗り込む。

「どうして、私だって分かったんですか。あの人ごみの中で」

 律儀に弥生がシートベルトをするのを待ってからアクセルを吹かして走り出していく。頬杖を付きながら左手だけでハンドルとギアを操作しているのに、乗り心地が良い事に驚いた。

「ん? 自信無い感じが、弥生ちゃんだと思ったから」

「……それだけ?」

「うん。それだけ」

 その状態で、チラリとこちらに目を向けて意地悪な笑みを浮かべる。


「ちゃんと話すの、久しぶり。一年くらい」

「ああ。そんなに経つんだな。花火大会が最後か」

「私のこと、嫌いじゃ、ないんですか?」

 さっき祖母に投げかけた言葉を翔にも言ってしまう辺り、自分は余程あの夢を意識しているらしかった。

 緊張して舌がうまく回らなかった。胸の高鳴り方がさっきとは違う。

「どうして?」

 そんな弥生の思いに反して、翔の声は優しかった。

「ひどい事、言ったから」

「それ、弥生ちゃんが気にする事なの?」

 視線に困って、信号で減速しながら細かく動く翔の右足と左手に目をやった。

 車の運転には随分慣れているらしかった。


「確かに、お前には色々言われたよ。でもそれは弥生ちゃんが悪いわけじゃない。俺も、そこまで冷たい見方をするつもりはないんだ」

 そういえば、この車はどこへ向かっているのだろう。学校へ向かってはいなかったが、目的地があるようにも思えない。

「意外に、優しいんですね」

「だろ?」

 ふっ、と翔から穏やかな笑みが零れた。

「私、怖いです。春月くんに、また同じ事をしたら」


 また、嫌われてしまいそうで。 ……春月の時だけ、嫌い、という言葉を口にすることすら怖かった。


「私、何を言えばいいのか、わからない」

「何をって、何を?」

「病気の事とか」

 車が再び走り出した。こちらに気を使っているのか、それとも彼は元々こんなに優しい走り方をするのか。動き出した感触が、ひどく柔らかかった。

「病気、ね」

 彼と目を合わせるのは、怖かった。

「弥生ちゃんがあの馬鹿に何を話すのかは弥生ちゃん次第だ。言いたくないなら、無理に話す必要は無いんじゃないの」

「でも、言わないと。いつかは」

「そうしたいならそうすればいい」


 話さないで済むのであればそれに越した事は無い。話して自分から離れていってしまった前例がある以上、それを繰り返すのはもう嫌だった。

 一人になるのは、怖い。

 以前は一人で生きてきたし、慰めてくれたり話し相手になってくれる存在がいたお陰で友達がいなくても何とも思わなかった。その考えが変わったのは、祖母に引き取られ、高校に入って友達が出来たせいなのだと思う。


「春月くん、辛そうでした。先週」

「うん?」

「朝から、様子が変でした。ピアノの時、顔が青かった。私も辛かったです」

「ああ」

 翔が一瞬空を仰いだ。声が、少しだけ曇る。

「あいつにも色々あるんだろ。弥生ちゃんと同じで、他人には触れられたくないものが」

 翔の口ぶりは何か知ってそうに思えたが、考え込むような、優しさをあまり感じさせない表情に聞くのが怖くなった。

 でも、その色々を知りたい。痛みも、喜びも、彼と共有する事ができたら。何一つ話そうとしない固結びのような強がりをほどいてあげる事ができたら、どんなに嬉しいだろう。


「……私、あの人の役に立ちたい。元気付けたいんです」

「おお?」

「放っておけないから」

 翔がふっと笑うような溜息を一つ、小さく吐き出す。また声に優しさが戻っていた。

「それが弥生ちゃんのしたい事なら、そうすればいいんじゃないの」

「でも、怖くて」

「怖い?」

「あの人を傷つけたら」

 急に悲しい気持ちになって目を伏せた。

 失いたくない物は、今の自分には沢山ある。だから必要以上に人と関わるのが怖いし、何よりも浅田春月という存在は今の自分にとってピアノと同じくらい大切なものなのだ。

 だって、彼がいないとピアノが弾けないから――。


「気にする必要はないさ。周りの子が何て言っても、たまには自分の意思を大事にするべきじゃないの?」

「離れてほしくないんです」

 気付けば車は学校のほうに向かっていた。翔の話したい事はこれで終わりなのだろうか。

「心配すんな。その時はその時で、ちゃんと俺がフォローしてやる。あの馬鹿が、俺みたいにならないように」

「どうして、そこまでするんですか?」

 車の速度が上がっていく。一時限目の時間が迫ってきていた。

 目を道路の方に向けながら、呟くように、上の空で翔が呟いた。

「さあな」


 それ以上、何も言わなかった。何も聞こうとも思えなかった。

 彼が他人に優しくしてしまう感情は、自分が春月にそこまでしたいのか自分でも分からないのと似たようなものなのかもしれない。なんとなく直感が弥生にそう告げていた。





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