dolente4 ~抱きしめる想い~


――


―――




「若いのに、そんな所で立ち止まるものじゃないよ」

 どのくらいそうしていただろう。教室から出てきた真由美に声を掛けられた時になって、春月は初めて嗚咽を漏らした。

 弥生。弥生。弥生。

 小さくて華奢で、不器用なくせに必死に生きていて、触れると音を立てて崩れ去ってしまいそうで――。


 声を出して泣いて、弥生という存在が自分の中から消え去って初めて、春月は彼女に感じていたもやもやとした感情の正体を認識する事ができた。


 押し殺しきれない声が一つ漏れるたびに、彼女の背中がどんどん遠くなっていく気がした。ぴしっと背筋を伸ばしたまま階段へ消えていった姿が脳裏に焼きついて離れない。

 視界を歪める涙が霧のように感じる。どんなに足掻いても視界は一メートル先すら見えなくて、この先に消えて行った彼女に会う日はもう二度と来ないような気がした。


「お兄さん、いったいいつからいたんだい」

「……今来たところです」

 差し伸べられた手を握って、春月は立ち上がった。

 どうしてそんな嘘をついたのか自分でも分からなかった。今の会話すら含めて弥生を忘れたくなかったのに、そうしなければいけないという強迫観念に駆られていたからかもしれない。

「嘘。エレベーターで来たんでしょう?」

 真由美は気付いていた。

 たった今ここで行われていた会話が、ひどく遠いものに感じる。自分がここに来たのは、何時間前だったのだろう。そんな錯覚すら脳裏に浮かび上がる。

 自分が早見弥生にとって敵であるという現実。春月くんの役に立ちたい、という彼女の言葉が嘘であると分かっても、怒りは沸いてこなかった。


「あの子はあんな風に言ってたけどさ」

 腕を持ち上げて、自分よりも背の高い春月の頭を優しく撫でながら、真由美が口を開いた。

「まだ諦めるには早すぎるよ」

「いえ。早見がああ言った以上、もう無理はさせられないです」

 自分で言った言葉に、また涙が溢れそうになった。顔を歪めてそれを抑え込もうとすると、息がどんどん荒くなっていく。


「あれは、弥生ちゃんの本当の思いじゃないよ」

 何も言わずに言葉の意味を考えた。それが、翔の言っていた言葉の続きに感じられた。

「春月くんはさ、変わろうとする弥生ちゃんを見てどう思った? 無理してそうだった?」

 首を横に振った。

「私もそんな風に見えなかった。そりゃあ、本人だって多少は我慢もしてるんだろうけどさ」

「きっと我慢させすぎたんです。俺が」

「そんな事ない。自分の事だってあるのに、春月くんはよく頑張ってると思う」

 肩をすくめた。


 もしかしたら俺は、自分の事を忘れるために弥生を利用していたのかもしれない。

 後ろめたさを今まで感じていなかったといえば嘘になる。今まで何度もそう考えた事はあった。

 その考えを思い出しても、違う事は分かっていた。変わっていこうとする弥生を見ていると嬉しくて、自分も頑張れる気がして、――愛おしかったのだ。

 ああ、どうして今まで気付かなかったんだろう。たった週に一回会ってピアノを弾くだけの仲でも、自分の中での弥生はこんなにも大きな存在になっていたのだ。


「そりゃあさ。あの子の言葉も尊重されるべきだよ。でも弥生ちゃんはこのまま変わっていったほうがいいって思う」

「翔さんが言ってました。それが本当に早見の為になるのかって」

 俯いた顔を上げる事ができなかった。弥生が変わる事を望んでいない以上、無理を強いる権利は自分には無いのだ。

「他人の言葉じゃなくてさ」

 春月が目を合わせなくても、真由美は言葉を紡ぎ続けた。

「春月くんはどう思って、どうしたいの? 弥生ちゃんは変わるべきかどうか。変わって欲しいって思う?」


 弥生のピアノを思い出す。変わっていく音楽と、次第に生きようとする音。このまま続ければ、彼女は間違い無くピアニストとして花を咲かせるだろう。

 始めは、それで良かった。自分の音楽が他人の人生の役に立てばと、そこに喜びを感じていた。だが今はその一つの思いも、幾つもの複雑な願いと交差して想いへ変わっている事に気付いている。


「変わってほしいです」

 言葉に迷いは無かった。

「それならさ」

 ここで話し始めてから、初めて真由美の顔を見た気がした。

「その気持ちを大事にするべきだよ。高校での時間は、この先の人生とっても大事なものになるから」

 真由美の浮かべた穏やかな笑顔に、少しだけ心を救われた気がした。




 外では、まだフットボールクラブが活動している。真っ赤に腫れ上がった目で翔に会うのは気が進まなかったが、どうせ帰る時間を遅らせたところで来週にも顔を合わせて何か言われるのだ。


 他人の言葉と一緒になって、自分で自分の気持ちを否定するのはもう止めよう。

 真由美の言葉に従っているだけである事は、春月自身よく分かっている。所詮自分がその程度の人間だという事を今更否定するつもりも無かった。自分は居場所を失って逃げ出した弱い人間なのだ。

 だからこそ、かもしれない。逃げ出した人間として、誰一人救う事ができなかった人間として、今度こそ自分の気持ちに正直でありたいと思った。

 もう一度弥生と話がしたかった。話して彼女の真意を確かめたかった。


「よう」

 階段を降りた先に翔がいた。こちらを見るなり小さく手を上げると、もたれ掛っていた壁から背中を離す。

「待ってたぜ、ハルキ」

「いいんですか? クラブ」

「ああ。俺はクラブメンバーじゃないしな」

 一瞬だけ外に目をやって、翔がニヤリと笑った。

「たまには一緒に帰ろうか」

 同じ前橋に住んでいて朝は後ろから声を掛けられる事も多いというのに、そういえば翔と二人で帰ったことは無かった。


 無言で翔の後ろを歩いていく。結局真由美と話して分かった事はなにもなかった。何を話せばいいのか分からず、少しだけ色を変え始めた空をぼんやりと見つめた。六月の後半に差し掛かって、日は大分伸びた。

 校門を抜けたところで、翔が振り向いた。

「で、早見ちゃんと話はできたか?」

 首をちらりと動かした合図に従って、翔の隣に並ぶ。

「直接話は出来ませんでした。真由美先生と話しただけです」

「お前が行ってからあの子が出てくるまで時間あったじゃねえか。何してたんだお前」


 驚いて目を丸くした翔から視線を逸らすと、思わず苦笑が漏れた。

「立ち聞きかよ。お前も趣味悪いな」

「どうも」

 あの時の彼女を思い出す。強くしっかりと背筋を伸ばして、翔と春月を敵だと言い張った声は鼓膜の裏にまではっきり焼きついていた。


「その様子じゃ、真由美先生からも何も聞けなかったわけか」

 翔が肩をすくめた。

 そういえば、あの時の弥生の言葉は言うべきなのだろうか。一瞬迷って、言葉を選んだ。

「早見は、俺の事を敵だって言ってました」

「どうせ俺の事も敵だって言ってたろ」

「何で分かるんですか」

「俺は直接あの子に言われたからな」


 翔が空を見上げる。伸びた雲がうっすらと空に残されていた。さっきまで強い形を持って空を埋めていた面影は既に無く、今の形もやがて風に掻き消されていくのだろう。

 一年前、翔と弥生の間に何があったのか。彼の口から聞くのは怖かった。


「さて、お前はどうするんだ?」

 目が合った。

「俺は……早見と直接話します。あいつの本当の気持ちを確かめたい」

「確かめて、それで?」

「あいつのしたいようにさせてやりたいんです。変わりたくても、変わりたくなくても」

 この素直な気持ちを、翔は分かってくれるだろうか。変わってほしいとは思っていても、それよりも、自分はただ弥生に自由でいてほしかった。自由な彼女の隣に立っていたい。

 例えそれが、もう叶わない願いだとしても。


「どうしてそう思う」

 理由が要りますか、と言おうとしてやめた。そんな下らない問答はどうでもよかった。


「俺は、早見が好きだからです」

 翔が目を丸くする。

「ずっと、早見のピアノが好きだと思ってました。笑ったり驚いたり、心配してくれたり……そういうのも全部音楽をやるためだって思ってた。でも違ったんです。二ヶ月、最初に比べれば色んな早見を見れるようになって、一緒にいると楽しくて、安心してて。だから、あいつにも自然体でいて欲しいんです」


 うまく言葉にできなかった。これでは翔に伝わらないのは分かっていても、これ以上どんな風に言えばいいのか分からない。

 思えば、きちんと人を見て、心の底から好きになった事など無かった。


 気持ちは穏やかだったが、胸の奥が苦しかった。悲しくも無いというのに、涙がこぼれそうになっている自分に気付く。


 翔が足を止めた。

「……く」

「え?」

 何か言いかけたような気がして聞き返そうとしたが、春月の言葉は止まってしまった。しばらく肩をひくひくと揺らしていたかと思うと、翔が大きな声を上げて笑い出す。

「お前、二ヶ月だぞ? なびき易いなんてモンじゃねえだろ」

 呆気に取られていた。何がおかしかったのか、腹を抱えてしばらく笑った後に苦しそうにしゃがみこむ。それでもまだ笑い続けている翔に通行人の視線が集まった。

「わ、分かってますよ。でも仕方ないでしょ!」

 翔につられて、春月の声も大きくなっていた。

 顔が熱かった。通行人の視線が集まっている事、翔に笑われた事、あんな事を恥ずかしげも無く人に言ってしまった事。その全部が今になって春月の胸に突き刺さっていく。


「あーあ、これが電車の中じゃなくて良かったわ。マジで人生終わるところだった」

 それからまた、く、と俯く。

「真剣なんです。笑わないで下さい」

「わりぃ、でもおかしくてよ」

 歯を噛み締めていた。恥ずかしさのあまり、次に大声で笑ったら、と自然に手が拳を握っている。

 それを見て、ようやく翔が深呼吸した。


「そりゃ確かに、俺にはできなかった事だ」

「は?」

 立ち上がった翔がふっ、と小さく笑う。どこか、嬉しそうに見えた。

「気が変わったよ」

「急にどうしたんです」

 彼の目は真剣だった。

「一回、やりたいようにやってみろよ。本当は弥生ちゃんの事、どうにかしたいんだろ」

「……やりたいように?」

「ああ。俺はお前に掛けてみる事にした。心配すんな。失敗したら俺がフォローしてやる」


 翔が空を見上げた。

 間延びしていた雲が更に形を変えて、空の青の中に消えようとしていた。遥か高みにある風は、穏やかに、強く、動き続ける。

「お前は、どうなるかな」

 嬉しそうに、穏やかに、目を見開いて静かに、春月も風の行方を追い続けた。




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