dolente3 ~夜の訪れ~


*





 後悔などしない。

 絶対に後悔などするものか。


 そう誓ったはずなのに、弥生の事を考える度にあの時胃に圧し掛かった鉛がどんどん重くなっていく。


 隣に座る度に、彼女と話す度に、ピアノを聴かせ合う度に、あの真剣な翔の声を思い浮かべてしまうのが、たまらなく苦しかった。


 翔に話を聞きに行った事は絶対に後悔しない。


 ピアノに写った自分の顔がやつれている事に気付いたのは、六月も半ばに差し掛かった頃の事だった。

 翔の言葉を聞いてから二週間が経った。あの日を境にして、弥生のピアノは劇的な変化を見せている。

 彼女がこんなにも感情的なピアノを弾くようになるなんて。

 初めの一ヶ月の彼女の変化は穏やかで、少しずつ変わっていく演奏と表情のペースが自分に合っていた春月は安堵感を覚えていた。なのに、この二週間で見せた変化が、明らかにそれを上回っている。


 アマチュアの演奏と比べてもまだ弥生のピアノが完成しているとは言い難かったが、一番初めの演奏を知っている春月は今の弥生に驚きを隠せなかった。一体何が彼女をここまで変えたのか、変えようとしているのか。


 絵里香の助言で演奏家や曲調に拘らずに弾く事を決め、ベートーベンとラフマニノフが弾きたいと言い出したのは弥生だった。

 細かい音符が速いテンポで次々と生み出されていく。弥生の得意とする曲調でも以前とは違って、生み出された音は一つ一つが生きようとしている。


 一人のピアニストが才能を開花させようとしていた。


 どこか焦っている自分には気づきながらも、ほんの少しでも自分が彼女のピアノの役に立てたという現実。それは喜ぶべき事実だった。


「春月くん?」

 名前を呼ばれて我に返った。

 弥生の手が止まっていた。椅子に座ったままこちらを見つめる目はひどく心配そうで、大きく表情を変えた彼女の顔に思わず見とれてしまう。

 表情というものは、こんなにもヒトを綺麗に見せるものなのか。


「顔、青い。気分悪い?」

 立ち上がった弥生がそう言った時に、春月は初めて自分の異変に気がついた。

 胃の辺りがひどく痛い。下を向くと昼に食べたパンが今にも出てきそうで、口元に手を当てていた。


 その様子を見て、彼女がごめんね、と俯く。

「なんで謝るの」

「嫌な事思い出させたと思って。私のピアノで。こんな曲調だから。ごめんなさい」

 今にも泣き出しそうに顔を歪めた弥生に、どうしようもない罪悪感を感じた。

 それは彼女が謝る事ではない。

「少し休めば元に戻るよ。早見は悪くない。変な事思い出してたわけじゃないから」


 嫌な事を思い出していなかったと言えば嘘になる。弥生の言うそれと実際に思い出していた事は違ったが、春月にとって翔の言葉は紛れもなく『嫌な事』だった。

「ちょっと飲み物買ってくるよ。外で飲んでくる」

 俯いたまま弥生が首を横に振った。

「今日は終わり。落ち着いたら帰って」

「大丈夫だよ。少し休憩して――」

「休んで」

 言葉を遮られた事が意外だった。弥生にしては珍しく、言葉に強さがこもっている。


 返す言葉を失って春月は肩をすくめた。少し間を置いて、

「分かったよ」

 とだけ呟いた。

 体を支配する吐き気に負けないようにどうにか微笑んで見せてから、

「心配かけてごめん。ありがとう」

 弥生に背を向けて音楽室をのろのろと出て行く。

 ドアに手を掛けたところで、弥生が口を開いた。

「私、春月くんの役に立ちたい。春月くん、私のピアノを変えてくれるから」

 ピアノを変える、という言葉が胃に強く圧し掛かった鉛を重くした気がした。




*




 噛み合った歯車が一度加速してしまえば二度と元に戻る事はなく、誰にも止める事はできない。

 そうなった時、人はただ流れに乗る事しかできない。流れに逆らって同調する歯車を乱したところで、乱した人間の居場所が無くなって行くのだ。及ぼした影響が強ければ強いほど、同じように乱した人間が破壊されていく事を春月はよく知っている。


 一年前、春月は歯車を乱す側の人間だった。居場所を失ったのも無理はない。自分が特別だと思った事は無くても、あの場所においての自分の存在は、小さなものではなかったのだ。


 今、春月の目の前で回っている歯車は、決して大きなものではない。

 しかし弥生は変わり始めていた。強く繊細に、歩くような速さで急激に。


 口を空けた缶の小さな暗闇を見つめていた。

 テニスコート一面分しかない小さな通信高校の校庭は、狭い檻のように感じても、居心地は悪くなかった。その隅の段差に腰掛けて考えに耽る春月の横を、居残っていた生徒達が通り過ぎていく。

 人工芝の緑で埋められた校庭に小さなゴールを持ち出してフットサルをしている生徒の中でも、翔の姿はよく目立った。


 俺にはできなかった事。


 覚悟という言葉がプレッシャーとなって自分を苦しめているのは分かっていた。今すぐに放り出して逃げ出したくても、弥生という存在を中心にして次第に速く力強くなっていく回転に、春月は既に逆らう事ができなくなっていた。

 誰にならこの思いを打ち明けられるのだろう。

 翔ではない。絵里香でもない。弥生をよく知る人物――。


 真由美の顔が浮かんだ。

 担任の真由美ならば、翔の言葉の意味や彼が教えてくれなかった事を教えてくれるのではないか。話した回数や交わした言葉の数は多くなくとも、自分が担任を信頼しているという事は紛れもない事実だった。

 このまま一人で座って翔の存在を認識し続けると気がおかしくなってしまいそうで、春月は重い腰を持ち上げた。


 少し休めば良くなる、などという言葉が嘘だと弥生が見抜いてくれて本当に良かったと思う。のろのろとした足取りは重く、体全体が締め付けられているような気がした。

 十メートルもない玄関のホールから階段までの道のりが遠く感じて、春月は一度も使った事がないエレベーターの前に立っていた。節電のため止むを得ない時以外は使用しないで下さいという張り紙を無視してボタンを押すと、口を空けた小さな箱の中に吸い込まれるように入っていく。

 鏡に映った自分の顔が、今にも吐き出しそうな最悪の表情を浮かべていた。


 頬を強く叩いた。勢い良く息を吐き出す。

 二階に着くなり、崩れ落ちそうな背筋に無理矢理力を入れて職員室に繋がる窓口へ早足で歩き出した。

「すみません、音楽コースの浅田春月です。真由美先生はいますか?」

 窓口に着いて、手短に用件だけを伝える。名前も知らない窓口担当の職員の女は驚いた表情を浮かべていたが、

「真由美先生なら、さっき別の生徒さんから相談があると四階に行きましたけど」

 あえて何も聞くまいと、春月の聞きたい答えだけを返してきた。


 この学校の性質上もあって、そういう対応を取ってくれる職員がいるのは有難い。ありがとうございますと出てきた言葉の、何も聞かないでくれた事へのお礼も含めた二重の意味がうまく伝わって欲しいと思った。


 再びエレベーターへ乗り込む。


 最上階に着くまでの三十秒にも満たない時間が酷くゆっくり流れていく。それが、あの大きく回る歯車の中にいた時の感覚に似ていると思った。

 今の自分はどうするべきか。翔の言葉が錘となって圧し掛かっていても、出来る事ならば弥生の笑顔を否定したくない。


 だが、そんな思いは止まったエレベーターから音楽室へ歩いていく途中で無残にも崩れ落ちてしまった。


 開けたままにされたドアから、彼女の声が聞こえてきたのだ。

 普段聞いているはずの声の聞き慣れない口調に、思わず春月は身を隠していた。


「弥生ちゃん自身はどうしたいって思う?」

「変わりたいというのは自分にも分かります」

 こんなにも力強く丁寧な彼女の受け答えを聞くのは初めてだった。

「でも、浅田春月くんの存在は負担に感じます」

「どうして?」

「ピアノのせいで体が疲れています。感情のコントロールもできません」


 その言葉に、さっきの思いと一緒になって、力を入れていた膝と背筋が崩れ落ちてしまいそうになった。

 負担になっている。俺のピアノが、存在そのものが、早見弥生を苦しめている。

 絶対に倒れまいと踏みとどまった足がガクガクと震えだした。

 大きく変わる表情も、肩を揺らす仕草も、赤く染まる頬も、全て彼女が無理矢理作り出しているものだとしたら。自分がこの二週間感じていた鉛よりも遥かに大きな浅田春月という負担を、彼女は誰にも気付かれないように抱え込んでいたのだ。


「でもさ、感情を出す事にも慣れていないでしょう。うまくコントロールできるように、あなたが今の時期を耐えるのも大切だって私は思うよ」

「もう十分に耐えました。負担が強すぎます」

 頬に流れた熱いものが涙である事に、一瞬気が付かなかった。ダムが決壊したかのように、ぼろぼろと大粒の涙が溢れては流れていく。

 嗚咽すら出なかった。


「翔くんの時も同じ事言ってた気がするな」

「あの人も浅田くんと同じで負担だった。彼は敵です」


 ミズシマカケルハ テキ。

 アサダクント オナジ。


 息が苦しかった。


「そういう言い方はやめようよ。あの子も弥生ちゃんの事をちゃんと考えてるんだよ」

 弥生の事を考える。考えて、彼は距離を置く事を選んだ。

「それなら」

 これ以上、彼女の言葉を聞くのは辛かった。

 もうやめて欲しい。何も喋らないで欲しい。何も聞きたくない。何も聞こえないで欲しい。


 その願いは叶わなかった。彼女の言葉が、はっきりと鮮明に春月の鼓膜に焼き付いていく。


「浅田くんにも考えてもらいます」


 失礼しますとだけ言って音楽室から早見の背中が遠ざかっていく。こちらに振り向く事すらしなかった。

 一歩一歩はっきりと。まっすぐに伸びた背筋からは、いつもの弥生からは感じられない程の強い決意が溢れ出していた。


 声を出す事すらできずに、春月はその場に崩れ落ちていた。もう何も考える事ができなかった。 



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